2013年11月8日金曜日

『思考のレッスン』⑮



 レッスン6の続きです。

235 日本語の特性
 『文章読本』後も考え続けています。
  一つは、なぜ日本語では長い文章が書けないかという問題。
     西洋の言葉では否定詞が文章の前の方に置かれるのにくらべて、日本語は否定詞が最後に来る。動詞が最後なので不安 → 長い文章はダメ。不安を募らせる。 接続詞(そして、しかし)でサインを出している。
237 それが日本文化の伝統にまでなっている。
    方向指示器の接続詞を何でもべたべたくっつけると、くだくだしいやな文章になってしまう。文章の名手になると、そこのところを実にさりげなく出して、しかし的確に方向を指示する文章を書くんです。  
238~240 <例文と解説> 谷崎潤一郎の『細雪』と『陰翳礼讃』の中から

     英語の関係代名詞、関係副詞といった関係詞をもたない点
241 その代わりに、関係詞節になってしまう。何がなんだか、わからない文章になる
241~3 <悪文の例文と解説>
   短い文章が基本で、たまに長い文章をアクセントとして入れ込んでいく。
   けれども、自分の都合だけで長くしてはいけない。読者のことを十分に考慮しながら書くべきです。なぜなら、文章とは筆者と読者との関係において成立するものであって、その関係が成り立たなければ文章は実は存在しないのと同じなんですから。

   ③ 文末の問題 ~ 単調になる
244 丸谷さんは、変幻自在に多彩な文体をつくってらっしゃる
245 和田誠の『似顔絵物語』がお薦め

   ④ 敬語の問題
246 近代日本の口語文というものは、小説家が小説を書くためにつくった文体です。そのせいで、敬語というものを捨ててしまった。これは西洋の19世紀小説の影響なんですね。18世紀の西洋文学を学んでいたら、もう少し何とかなってたかもしれない。
  敬語使いすぎの典型は、戦前の新聞の皇室関係の記事。あんまり敬語が多すぎて、何がなんだか意味不明になるくらいだった。まあもともと内容が貧弱なんだから、あれでよかったんだけどね。 ← その習慣が、いまも延々と続いている?!

247 政治家と官僚の言語的責任は大きい。
   日本語は、大和ことばと漢語と混ぜこぜで使うことによって成立している言葉です。
248 それを意識しないから、たとえば哲学者の文章とか官僚の文章は、漢語だらけになってしまう。
249 漢語と大和ことばを上手に混ぜて文章をつくる。片仮名ことばはできるだけ控える。そうすると文章が落ちつくんですね。
    文章というのは、われわれの文化の表現でもあるんですね。文章は文化の表現であり、文化は文章によって育てられる。そういう可逆的な関係を、もっと意識する必要があります。

0 件のコメント:

コメントを投稿