2022年10月29日土曜日

中高生以上にもお薦め 『中高生のための文章読本<読む力をつけるノンフィクション選>』

  少し前に刊行された『中高生のための文章読本<読む力をつけるノンフィクション選>』(編者は澤田英輔、仲島ひとみ、森大徳、筑摩書房より2022年に出版)を、ここしばらく読んでいました。「おわりに」によると「若いみなさんが、説明文や評論を含めて広くノンフィクションと仲良くなるための本」を作りたい、という編者たちの思いから生まれた本のようです(221ページ)。ノンフィクションがあまり得意でない私でも、パラパラ見ていると面白そうで、こっちを読み、あっちを読み、最初に飛ばしたところを読み、関連して紹介されている本の紹介文を読み。。。と、気づいたときには、ほとんど隅々まで読んでいました。

 読みながら、私自身の「読体」についても、いろいろと考えました。「読体」という表現は、石黒圭氏の『「読む」技術~速読・精読・味読の力をつける』(光文社新書、2010年)のKindle版を読んでいるときに、知りました。「書いたものに現れる個性は『文体』と呼ばれ、よく知られていますが、読むときにも『読体』というそれぞれの人の個性があります」(Kindle版14ページ)と説明されています。私の「読体」の特徴の一つに、意識的に読み方を変えない限り、物語を読むようにノンフィクションを読み始めてしまうことがあるように思います。(ノンフィクションがあまり得意でないのはそのためかもしれません。)『中高生のための文章読本』のセレクションは、読者を惹きつけるような語りがあるものが多かったためか、フィクション的な読み方でアプローチしてしまった私でも、そのまま読めてしまったのかもしれません。

 以下、自分の「読体」を振り返りつつ、個人的な反応を記します。

1)中高生以上の読者について

 この本の第一印象は、「この本が読める年代であれば、おそらく高齢者まで、幅広く楽しめる」でした。編者たちは、おそらく中高生が読めるレベルというターゲットを持ちながらも、何よりも、編者たち自身が、一読者として魅力を感じた本を選んでおられると思います。

 明らかに中高生を意識した語り口・立ち位置だと思うものもありましたが、あえて中高生を意識したトーンにしていないと思うものも、結構あるように感じました。

2)大人のお節介について

 「おわりに」に、「この本には、読む助けになる『手引き』やイラストもついていますが、大人のお節介は無視して、好きなところから、好きなように読んでもかまいません」(221ページ)と書かれています。

 私は、前述したように、「あらかじめ設定された目的があり、意識的に自分の読むモードを変えて読む」とき以外は、フィクションを読むように読み始めてしまうので、最初は「大人のお節介」の部分を全て飛ばして読みました。(フィクションの場合は、ストーリーが気になるので、ストーリー以外のもので止まりたくないからです。)

 でも、一度、読んでしまうと、安心して(?)、2回目は「お節介」の部分を読む余裕も出てきました。そうすると、「そうか、こういうところで立ち止まると理解の助けになるのか」とか「中高生であれば、こういう問いかけが役立つのか」と思ったりもして、それも面白かったです。

→ 大人の「お節介」は、特に1回目に読む際には、お節介があることでうまく読み続けられる人と、そうではない人がいるように思います。そういう選択肢が提供されているので、何通りかに読めそうです。

3)いろいろな読み方ができることの大切さ

 『顔ニモマケズ』の中からのタガッシュさんへのインタビュー(130ー140ページ)は、タガッシュさんのいくつかの言葉に立ち止まったり、考えたりしながら読み終わりました。短時間ですが、リーディング・ゾーンに入って読んでいたように思います。

 そして、読み終わってから、「こうやって、その世界に引き込まれてしまうと、試験問題として読むのは難しいだろうなあ、テストの時は、テストの読み方をしないと、時間配分などを間違うことになりそう」と感じました。「読み方を変える」ことができる必要性を意識し直したといえます。

4)詩も含めたセレクションの幅

 この本では、「世界は一冊の本」という長田弘氏の詩で始まり、「主人公」という文月悠光氏の詩で終了しています。詩を味わうのが下手は私は最初は???。でも、何度か読んでいるうちに、「主人公」から、書き手と読み手のつながり(書き手の読み手への思い)や書き手が可能にできることを感じたり、読み手を閉じていない世界へ押し出してくれるような詩だと思ったりしました。

 ノンフィクションにしろ、詩にしろ、「読めるようになるには、読む練習が大切」だと思います。でも、年齢を重ねても、これまで読んでこなかったジャンルやタイプのものをバランスよく?読んでいるとは限りません。この本では、気づかないうちに、いろいろなタイプやトピックのノンフィクション(そして詩も!)を、読み終わっているという経験ができたことも、私にはよかったように思います。

*****

 そんなこんなで、中高生が遥か昔の私も、しっかり読めた1冊でした。各章の最後にある、他の本の紹介も参考になりました。

 この本を知ったのは、編者の中の一人の方のブログやツイッターを定期的に読んでいたからです。おそらく、そうでなければ、『中高生のための文章読本<読む力をつけるノンフィクション選>』という題名だけでは手に取らなかった本だと思います。

 私にとっては、中高生の後に【以上】を入れて、「中高生【以上】のための文章読本」でした。

2022年10月22日土曜日

「狩猟者」としての読者

  少し大きめの帯が巻かれていて、その中央(ですから表紙のほぼ真ん中)に「本を読む、それは「狩り」だ―。」と記された本を今年のはじめに手に入れたままでした。進化生物学・生物統計学を専門とする三中信宏さんの『読書とは何か―知を捉える15の技術』(河出新書、2022)です。読書とは何か? その問いへの答えが帯に記された「狩り」というわけです。ずいぶん昔に、フランスの批評家ミシェル・ド・セルトーがその著『日常的実践のポイエティーク』(山田登世子訳、国文社、1987:ちくま学芸文庫、2021)のなかで読書について使った比喩を使えば、それは「密猟」に近い行為なのかもしれません。それが頭のどこかにあって、この本の帯の言葉に惹かれたのだと思います。

 三中さんによる読書は「狩り」であり、読者は「狩猟者」であるという魅力的な喩えのおおもとは、セルトーではなくて、ティム・インゴルド『ラインズ:線の文化史』(工藤晋訳、左右社、2014)の「経験に鍛えられた読者」は「原始の狩猟者のように読み進むことになる―地図を見るのではなく踏み跡を辿ることによって」という考え方でした(『読書とは何か』41ページ)。

 「狩猟者」としての「読者」はどういうことをおこなうのか。三中さんは次のように説明しています。

 「ある“文字空間”を旅する読者=狩猟者は、マップやチャートをもっていないので、著者がその本を書き記すときに残したさまざまな“踏み跡”―単語や文章など―を手がかりにして、いま自分がいる場所を進むべき方角を推論し続けなければならない。(中略―引用者)あるキーワードは本全体の中でどんな役割を果たすのだろうか。あるキーセンテンスが張る伏線とはどのようなストーリーにつながり、最終的に回収されるのか。本を読み始めるとともに読者が出会う数多くの“踏み跡”や“目印”や“痕跡”などなど、本の“文字空間”の構成する各「部分」で目に留まるあらゆる証拠の断片が、最終的には一つの「全体」像としてまとまって立ち上がってくる。そのときまで、読者は“狩猟者”であり続ける。」(『読書とは何か』4143ページ)

  三中さんによれば、このような読者の行為を特徴づけるのは「アブダクション(abduction)」(部分から全体への推論)です。書かれていることをわかろうとする読者の頭のなかでは「アブダクション」が営まれているというわけです。

 「読書という行為をこのアブダクションの観点から見れば多くの点で理解が深まるだろう。まず往路(「読者がある本を読み進むときの“道行き”」のこと―引用者注)で読者が拾い集めた痕跡は、読者個人にとって“既知”となる情報源である。読了後の復路(「読書中の本の内容に関して得られた知識を体系化する」段階―引用者注)で構築ようとする知見の体系はいわば“未知”の全体に相当する。読者ひとりひとりがつくりあげた全体はあくまでも暫定的な結論であり、その真偽を問うことに意味はない。むしろ読者が狩猟者として育つとともに、“既知”なる情報が増大し、技量が身に付くにつれて、推定される全体は限りなく改良されていくだろう。」(『読書とは何か』74ページ)

  「アブダクション」を繰り返しながら意味をつくり出そうとする、きわめて能動的な読者の姿が描かれています(ちなみに三中さんが依拠するインゴルドは、シャーロック・ホームズの推理を支える思考法も「アブダクション」だとしています)。確かに、三中さん言うところの「既知」と「未知」との境にあって「暫定的な結論」を更新し続けていくのが読書行為だということができます。読者の意味づけ行為を説明する原理として納得のいくものです。ただ、これだけなら、能動的に意味をつくり出す、個人としての読者の意味づけ行為の解明ということになるのですが、三中さんが「読書の技能訓練」として指摘している二つのことは、読書行為を個人の枠内にとどめないという点で重要です。その二つとは、

A「その同じ本を他の読者がどのように読んだのかを知ること」(『読書とは何か』67ページ)

B「同じ著者が書いた他の著書をひもとくこと」(『読書とは何か』68ページ)

です(「A」「B」は説明の便宜のために私が付けました)。この二つの行為によって「狩猟者としての技能はまちがいなく向上する」というのです。

 Bは、理解するという行為をいま読んでいる本や文章だけにとどめないで、同じ著者が書いた他の本や文章と関連づけながら、著者の文脈や執筆の背景のなかで、いま読んでいる本や文章の意味を広く深く捉えるという行為になります。いま読んでいる本や文章と同じテーマで書かれた他の著者の本や文章との比べ読みもここに位置づけることができるでしょう。

 Aについて、三中さんは、いま自分が読んでいる本について書かれた他の本や文章のことを取り上げていますが、共通の本や文章を複数の読者が読んで語り合ったり、書き合ったりすることも含まれると思います。

『理解するってどういうこと?』では、第5章に書かれている「深い認識方法」のなかの、「優れた読み手・書き手になる領域」がこのAにあたります。

 「毎月開かれる貴重な話し合いの場のひとつであるブッククラブを終えて、会場になったご近所の家から帰るときに、今日自分はみんなと同じ本を読んだのだったかしらと不思議に思うことがよくあります。年齢も、背景も、人生経験もさまざまに異なった女性たちは、一緒に読む本のページに極めて多彩な色彩を加え、私なら絶対に想像しなかったようなものの見方や、考えや、解釈を持ち込むのです。その本のなかで、もう自分がすっかり理解していると思っていた部分を意外な新しいレンズを通して読み直すことになります。そうすることによって、私がそれまでは少しも気付かなかった意味を発見するきっかけを、他のメンバーは私に与えてくれるのです。みんなで読んでいる本について彼女たちがしっかり考えて発見したことの質と深さ、思いがけない解釈に私が驚いていることを話すと、彼女たちはあなただってまったく同じことをしてくれるのよと教えてくれます。」(『理解するってどういうこと?』180ページ)

  「優れた読み手・書き手になる領域」とは、深い理解や認識を生み出すために、実際に他の読者はどのように読み・考えるのかを知って、自分の読みや解釈と照らし合わせて、それを修正していく営みです。「修正しながら意味を捉える」という理解するための方法を使うことになりますが、三中さんの言う「読書の技能訓練」も「修正しながら意味を捉える」を実行することになるからこそ、それが「狩猟者としての技能」を向上させることになると考えられます。

 なお、『読書とは何か』の第2章から第4章には、【完読】【速読】【猛読】【拾読】【熟読】【難読】【精読】【数読】【解読】【図読】【復読】【休読】【歩読】【積読】【未読】という15の読み方が提案されています。これが副題にもなっている「知を捕らえる15の技術」でもあります。それがどういうものかということ本書をひもといて確かめてください。これらはいずれも理解の仕方であり、理解の種類であると考えることができるでしょう。

 

2022年10月14日金曜日

『感情と社会性を育む学び(SEL)』を読んで

  私立桐朋学園小学校(東京都国立市)の有馬佑介先生が送ってくれたので、紹介します。

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 この本は、「SEL」について書かれた本です。「SEL」とは聞き慣れない言葉ですが、訳者まえがきによれば、「「Social Emotional LearningSEL)」を日本語に訳すと、「感情に向きあう力であるEQ(感情知性)と、社会性にかかわる力のSQ(社会的知性)をはぐくむ学びとなります。」とされるものです。

 実は、僕はこの本を少し敬遠していました。感情や社会性、いわゆる情緒のようなものは、形にならず言語化は難しいと感じていたからです。一方で、それは教育のなかでとても大切なものだとも感じていました。言葉に表しづらい情緒を、経験則や直感で扱えることが小学校教員としての専門性だと捉えていたと言えるかもしれません。言葉に表しづらいものを無理に言葉に直せば、大切なことが抜け落ちるのではないかと感じていたのです。そのような先入観を抱き、この本を敬遠していました。

 きっかけがあり、実際にこの本に向かい合ってみると、僕の先入観は、偏狭な思い込みであったと自覚しました。そして、すべての学校が、この本に書かれていることを土台にできればいいと思うほどの内容でした。

この本には、教員自身が目の前の子どもの感情を受けとめ、誠実に寄り添っていく方法がまず書かれています。(第1章・第2章)それは、僕が教員としてずっと大切にしていたことでした。その方法として挙げられていることも、例えば必ず朝教室に入ってくる子に名前を呼びながら挨拶をすることなど、自分自身が心がけてきたことがいくつも見当たりました。読み始めてすぐに、この本がとても丁寧に書かれていること、そして、自分自身が行ってきたことと親和性がとても高いことを感じました。

第3章・第4章は子どもが自分自身を知ること、第5章・第6章は子ども同士がお互いを受けとめ、理解・関係を深めていくことが書かれていました。子どもと教員、子ども自身、子ども同士という章立てと言えます。実際のエピソードを挟みながら書かれているので、自分自身の経験に重ねながら読むことができました。脳科学の側面からの説明は、やや難解でしたが、脳の働きとして起こり得ることなのだと意識できるようになったことは収穫です。なぜなら、どの子どもも人間としてそういう仕組みになっていると考えられるからです。

この本にはいくつもの手法が丁寧に書かれていました。もちろん初めて知るものも多くありましたが、実は現在、全国の学校で行われているだろうことも複数書かれていました。「朝の会」や「グループでの活動」(日本における「班活動」に置き換えられるでしょう)、「クラスの仕事」(こちらは「係」「会社活動」)などは、今、実際に取り組んでいる方も多くいると思います。僕もそのひとりです。

この本の題名「SEL」は聞き慣れない初めての言葉でしたが、決してそれは新しい概念ではありませんでした。むしろ、私たちがずっと大切にしてきたものと僕には感じられました。そして、今こそこの本を教員みなで読み合うべきだとも思いました。なぜなら、この本に書かれていることは、私たちがずっと大切にしてきたものですが、それが今教育の場から失われていると感じられたからです。前述の朝の会にしろ、係活動にしろ、目的のための手法だったものが、いつしか慣例となり、手段が目的となることで本来の目的が失われているように考えます。この本を読むことで、その錆をきちんと落とすことができるでしょう。私たちがやっていることの本来の意味をよみがえらせることができると思うのです。

この本を同僚と読み合いたいです。そのうえで「学校」とはそもそも何のためにあるのか、今「学校」がある意味はなんであるのか、そんな問いを投げかけ、一緒に考えたいと思いました。

●割引情報: https://wwletter.blogspot.com/search?q=SEL

SEL関連情報: これから半年間ぐらいの間に、SELに関する本が、上記の本以外に3冊出る予定です。それほど大切なことです。一冊はSEL評価との関連、一冊はSELと教科指導との関連(タイトルはなんと『学びはすべてSEL(仮題)』!)、一冊は教師がSELを身につけるには具体的にどうしたらいいかが多様に書かれた内容です。お楽しみに。

2022年10月7日金曜日

最近のお気に入り絵本紹介(プラス長編詩?を一つ)

  今回は、最近のお気に入り絵本から何冊か紹介します。定期的に見ているオンラインの読み聞かせサイトで、新しい絵本に出合い、そこから同じ著者の絵本を探したりすることが結構あります。以下の3名の作家(デボラ・マルセロ、ソフィー・ブラッコール、アンドレア・ベイティー)のうち、2名も、最初に知ったのはオンラインでの読み聞かせを通してでした。

・『びんに いれてごらん』(デボラ・マルセロ、なかがわちひろ訳、光村教育図書、2022年)

オンラインの読み聞かせイベントで著者自身が読み聞かせていて★、この作家を知りました。この本の登場人物(動物)の中に教師は出てこないものの、ピーター・レイノルズの『てん』を思い出しました。友達の引っ越し、シェアすること、大切なものを伝えることなどを考えることができそうな絵本です。

→ この絵本と対になっている絵本として、『びんから だしてごらん』(デボラ・マルセロ、なかがわちひろ訳、光村教育図書、2022年)も出ています。テーマから考えると、あまり対になっている印象を受けませんでした。前作の『びんに いれてごらん』の方が、私は好きです。

・『地球のことをおしえてあげる』(ソフィー・ブラッコール、横山和江訳、鈴木出版、2021年)

自分の日常生活を眺める視点を、少し広くしてくれそうな絵本です。『いろいろ いろんな かぞくの ほん』(メアリ ホフマン、杉本 詠美訳、少年写真新聞社、2018年)を思い出しました。立ち位置は似ていますが、『地球のことをおしえてあげる』は、より広く、動物や自然についても思いを馳せることができます。家の形態も多様であるだけでなく、戦争や自然災害で家を失った人もいることも思い出させてくれます。

・『おーい、こちら灯台』(ソフィー・ブラッコール、山口文生訳、評論社、2019年)

『地球のことをおしえてあげる』と同じ著者の作品としては、『おーい、こちら灯台』が大好きです。灯台での仕事や日常生活を描いています。船舶の安全を守る大切な仕事。時には急いで対応しなければいけないこともありますが、絵本に流れているトーンは静かな印象を受けます。コールデコット賞を受賞しています。

→ 上記2冊を出したソフィー・ブラッコールは、他の作家のためのイラストも多く書いています。よく知られているのは『プーさんと であった日 〜世界で いちばん ゆうめいな クマの ほんとうに あった お話』リンジー マティック, ソフィー ブラッコール (イラスト), 山口文生訳、評論社、2016年)かと思います。

・『ちいさな こえが みらいを かえる!』(アンドレア・ベイティー、かとう りつこ訳、絵本塾出版、2021年)

同じ出版社、同じ訳者で、2017年に『しっぱい なんか こわくない!』、2018年に『せかいは ふしぎで できている! 』と、理系の女の子の背中を押してくれるような絵本を出したアンドレア・ベイティーですが、今回は公園をつくろうとするお話です。(コミュニティの人のために)役に立つ人であること、そのために実際に行動するときの不安などを感じます。主人公の働きに賛同する人が登場しているページのイラストでは、『しっぱい なんか こわくない!』、『せかいは ふしぎで できている! 』の主人公の姿もありました!

*****

(おまけ)

・『ビリー・ジョーの大地』(カレン ヘス、伊藤比呂美訳、理論社、2001年)

 10月1日の投稿「言葉のもつエネルギーに圧倒される〜宗左近の長篇詩『炎える母』〜」を読んで思い出し、少し古い本ですが、地元の図書館から借りてきて、読みました。こちらは絵本ではありません。300ページを越す長編で、14歳の少女の視点で、時系列で、日記のような詩で紡がれています。ニューベリー賞も受賞しています。原題は Out of the Dust(Karen Hesse, Scholastic Reissue版, 1999)。1930年代、アメリカ中部の大平原でダスト・ボウルと言われる砂嵐が何度も起こり、人々を苦しめます。初めて読んだのは10年近く前?ように思います。そのときと比較すると、私自身のダスト・ボウルについての知識も増えていたこともあり、その過酷さも以前よりは想像でき、理解の助けになりました。

 10月1日の投稿で、吉沢先生は『炎える母』について「東京大空襲の悲惨さを訴えるとか、戦争の醜さを告発するといった視点では書かれていません。自分にとってかけがえのない一人の人間を失うということ、その一人を死なせてしまうということ、そしてそれに向き合いつつも、それによって癒されることのない作者の心を伝えていると、私は感じます」と記されていました。

 『ビリー・ジョーの大地』は、著者の体験ではありませんが、過酷な現実の中でそれでも1日1日生きていく主人公に引っ張られて、どんどんページが進みます。

*****

★『びんに いれてごらん』の著者による読み聞かせ(英語)は3分半ぐらいですので、よろしければこちらもどうぞ!

https://www.youtube.com/watch?v=9o1Mr5yaJhg

2022年10月1日土曜日

言葉のもつエネルギーに圧倒される 〜宗左近の長篇詩『炎える母』〜

◆ 時々、投稿をお願いしている吉沢先生に、今回の投稿をお願いしました。

 

 長編詩というジャンルをご存知でしょうか。雄大な構想のもとに書かれた長い詩、または、いくつもの詩を集めて構成した長編の詩集です。長編ですから、国語の教科書に載ることもなく、優れた作品であっても多くの人の目にはふれることがありません。
 今回は、そのような長編詩の一つを紹介します。宗左近による長篇詩『炎える母』です。★1
 私がこの本を手にしたのは、高校1年生の時です。圧倒されました。たたみかけてくる言葉のエネルギーにふれ、感動しました。難しい言葉や、わかりにくい比喩などもでてきますが、そこで足踏みせず、とにかく駆け抜けるように読みました。語りかけてくることばのイメージとテンポに身を委ね、読み進む。そんな体験でした。

▷ 内容と構成
この作品は、1945年5月の東京大空襲の時、母とともに逃げる途中ではぐれ、母を死なせてしまった経験をもとに書かれたものです。
次のような6章で構成されています。

献辞
序詞―墓
Ⅰ その夜
Ⅱ さかしまにのぞく望遠鏡のなかの童話
Ⅲ 来歴  
Ⅳ 明るい淡さ無機質の
Ⅴ 祈り
Ⅵ サヨウナラよサヨウナラ
終詞―墓  

 第1章で、作者と母の行動を記述し、第2章で、作者の出生、幼年時、少年時の記憶を辿り、第3章で、母の出自と来歴にふれます。第4章以降、母を失ったことへの感慨、痛恨の思い、省察、覚悟などを、さまざまなイメージとともに語っています。
 300ページを越える大作です。その全体を網羅した紹介はできませんが、「第1章 その夜」が、空襲に遭遇した時の状況をつぶさに語っており、ハイライト部分と言えますので、そこを中心に紹介します。

▷ 献辞
 冒頭に置かれた「献辞」は、この作品に取り組んだ作者の思いを伝えています。

母よ
あなたにこの一巻を
これは
あなたが炎となって
二十二年の
炎えやすい紙でつくった
あなたの墓です
そして
わたしの墓です
生きながら
葬るための
墓です
炎えやまない
あなたとわたしを
もろともに
母よ

▷ 冒頭
 当時、作者は26歳。東京に住んでおり、妻子は福島に疎開していました。母はその前夜福島から上京し、荷物を背負って、午後10時半、上野駅発の夜行列車で福島に戻る予定でした。

たえずわたしたちはわたしたち自身の荷物を
背負って歩いて行かざるをえなかった
(「その夜1 月の光」)

 作品はこのように始まります。「私たちは自分の荷物を背負って歩いた」と書けば済むところを、2行を費してこのように書いています。1行が長いのです。これが、この長編詩に見られる特徴のひとつです。

▷ 逃げ惑う二人
 作者は、当時間借りしていたお寺の離れをでて、最寄りの駅に向かいます。駅に足を踏み入れた時、空襲警報のサイレンがなります。大編隊の敵機が近づきつつあることを知った二人は、お寺の離れに戻ることにします。戻った途端、

あっと息をのみおえたときにはすでにわたしたちは
油脂焼夷弾の炎える花園に閉じこめられてしまっている
(「その夜4 炎の小鳥」)

という状況に置かれます。作者は火叩きで消そうと奮闘します。

いつのまにか母の正面にむいていたわたしは母の頭の
黒い防空頭巾にもうひとつの花が炎える花びらを散らしているのを見た
はじめて驚きと怒りがわたしのなかで爆けた爆けたと同時に
オカアサンはりあげたに違いないわたしの声をわたしは聞けなかった
(「その夜5 金箔の仏壇」)

▷ 母とはぐれる
 作者と母は、崖を降りて逃げ道をさがしますが、崖下の谷底にも火の手が迫って来ます。再び、木の梯子でお寺の墓地に戻りますが、そこも炎上しています。とにかく炎の波を蹴って走るしかありません。そのような状況が描写された後、作品は、この章の最終節「その夜14 走っている」にたどり着きます。

走っている
火の海のなかに炎の一本道が
突堤のようにのめりでて
走っている
その一本道の炎のうえを
赤い釘みたいなわたしが
走っている
走っている
一本道の炎が
走っているから走っている
走りやまないから走っている
わたしが
走りっているから走りやまないでいる

 ところが、ふと見ると、母がいないことに作者は気づきます。

いないものは
いない
走っていないものは
走っていない
走っているものは
走って

走って
走って
いるものが
走っていない
走って
いたものが
走っていない
いない
いるものが

いない

母よ

いない
母がいない
走っている走っていた走っている
母がいない

 作者を襲った驚き、焦り、怒り。それが、ことばの繰り返しと改行、行間に込められています。そして、母の描写が入ります。

母よ
あなたは
炎の一本道の上
つっぷして倒れている
夏蜜柑のような顔を
もちあげてくる
枯れた夏蜜柑の枝のような右手を
かざしてくる
その右手をわたしへむかって
押しだしてくる
突きだしてくる

わたしよ
わたしは赤い鉄板の上で跳ねている
一本の赤い釘となって跳ねている
跳ねながらすでに
走っている
(「その夜14 走っている」)

▷ 母への思い
 この母の最期についての痛恨の思いは、このあと、さまざまな形で表現されていますが、そのエッセンスともいうべき言葉が、第5章「祈り」に見られます。

愛するとはどういうことなのか
そう尋ねることが直ちにわたしには
殺すのはどういうことなのか
殺しておきながら生きているとはどういうことなのか
そう尋ねることとまったく同じことなのだから
燃えさかる炎のただなかにたしかにわたしは
母をおきざりにして逃げてきました
引き返し抱きおこすこともできたはずなのに
一目散に走りに走ってふりむきませんでした
見殺しにしたのではないそれ以上です
(「Ⅴ祈り」―「愛しているというあなたに」)


 この作品は、東京大空襲の悲惨さを訴えるとか、戦争の醜さを告発するといった視点では書かれていません。自分にとってかけがえのない一人の人間を失うということ、その一人を死なせてしまうということ、そしてそれに向き合いつつも、それによって癒されることのない作者の心を伝えていると、私は感じます。少しでも多くの人に、作品の一端にふれて欲しいと思います。★2


★1 初版は彌生書房より1968年に刊行されました。すでに絶版ですが、2006年に日本図書センターにより再版されています。

★2 『現代詩文庫70 宗左近詩集』(思潮社, 1977年)に、『炎える母』より、第1章のほぼ全編を含む計27編の詩が収められています。ただし、この本も新刊書としては入手できなくなっています。
北九州市立文学館が、第1章の全編をホームページ上に掲載しています。
宗左近「炎える母」(抄)- 北九州市立文学館
https://www.kitakyushucity-bungakukan.jp/wp-content/uploads/2020/05/9f36d82c6487717527c6d0e2831e485b.pdf