2015年7月31日金曜日

いい本に出合えていますか?


刺激的な本や得るものの多い本に出合えた時の気分は、なんとも言えません。

夏休みの読書は、快調に進んでいますか? それとも、これからですか?

いずれにしても、ぜひいい本に出合っていただきたいです。

その出合いによる影響というか価値はとても大きいですから。自分のすること(や授業実践等)が変わってしまうぐらいに。そういう本の感想を紹介します。

本は『理解するってどういうこと?』です。
KさんもBさんも小学校の先生で、両者とも、各章を丁寧に自分のブログに書き込みながら読んだ後に、本全体を振り返って、以下のまとめを書いてくれました。この最後の振り返りは、ブッククラブをする時にもとても大切なことです。


Bさん

この本に出会うまでどこかで「学習って耐えるもの」「テストで良い点をとるためもの」、そしてその苦しくツマラナイものを乗り越えて自分の興味が持てるものを見つけられたとき、「大人になってから学習の楽しさが分かる」という風に思っていました。それは、やはり自分の経験がそれしかなかったから。勉強が嫌いな子ではなかったですが(むしろ非常によく学んだタイプ)、希望の大学に入れたわけでもなく、いろいろ物知りなわけでもなく、大人になってからもたびたび「もうちょっと頭がよかったらな~」なんてことを考えていたくらいです。

 でもこの本を読んで自分の思い込みがひっくりかえった感じです。特に印象的だったのは「知的に没頭するのは子どもたちだって体験できる。」 しかも偶然の類ではなく、ということと、「理解には種類がある」ということ。

 自分の思考を言語化して「意識」できたり、使えたりするなんて!!考えたこともなかったです。というより、普段自分がなにげなくやっていること(関連づける・質問するなど)や(我を忘れる・じっくり考える・もがくなど)が理解するための方法であり、理解の種類だったなんて。なんでもっとはやく教えてくれ なかったの?という感じです。

 教師はよく子どもたちに「わかった?」と聞くけれど、そもそもその「分かった(理解する)」ということが分かっていないのに今までやってきたということが、今では不思議です。なぜだれも言わなかったのか?これからの教育はきっと、児童理解や教材研究・理解というのも大切だけれど、人の思考というものにももっとスポットが当てられるべきだと思いました。


Kさん  ~ 自分自身が、自立した学び手になる!

全体を通して感じたことを、自分自身の学びとして書いておきたいと思います。

あとがきや資料編に目を通してみて、そして、全体を振り返ってみて、最も強く感じたことは、「自分自身が、まずは自立した学び手となること」がとても大切であるということです。

はじめから「自分がこんな授業を実践するとしたら」ということを念頭に読み進めてきたような気がしますが、最もこれまでの自分と異なると思ったところは、 子どもたちに必要なことをしっかり教えていくこと以外に、教師が自分自身の知的探求について、理解を深めた経験について、必ず語っていることでした。
教師が具体的な実体験やリアルな感情、自分自身が学びで得た変化についてダイレクトに伝えることで、子どもたちは「理解するとはこういうことなんだ」と感じることができます。そしてこれを繰り返し行うことで、どんどん子どもたちに浸透していく。
さらに教師が行っていたことは、理解するための7つの方法や読書家、作家の技をミニレッスンで伝えて、じっくり時間をとって試させ、そしてその方法や技を使うことによって、自分の理解がどのように進んだか、どういうことがそのような理解に結び付いたか、ということを、しっかり考えさせ、話させ、共有するのです。
こんな問いかけもします。例えば「どんなことをイメージした?」「イメージできたとしたら、どんなことだと思う?」 子どもが答えられるまで、しっかり間をとって待つのです。他の子たちも、考える間はとても大切だと知っていて、静かに、息を殺して待つことができます。
学習指導要領や教科書よりもずっと高度なことを、子どもたちの能力を信じて、授業で扱います。
優れた作家や読書家はこんなふうにする、ということを折に触れて子どもたちに伝えていきます。
子どもたちを一人とり、丁寧にカンファランスし、そのステップにあった適切な指導を教師は随時行っていくのです。

巻末に資料がたくさんありますが、結構高度な内容が指導資料としてたくさん載っています。たしはこれを読んだ時、「たし自身がこれまで読んだり書いたりする時にこのようなことをやってきていて、子どもたちに自分の経験を通して教えられるか?」、大きく疑問を感じました。
自分自身が、自立した読み手であり、自立した書き手であり、自立した学び手であるか、とても重要だと思いました。今までの自分は、定期的に本も読めていないし(積ん読ばっかり)、文章も書いてはいません(フェイスブックを始めてからブログをストップさせてしまった)。ルネサンス人のように、自分の興味関心に素直に従ってとことん学び、情熱的に子どもたちに語れるものをもっているとはいえません(憧れるだけ)。

まさに、「子どもたちにしてもらいたいことは、まずは自分たちがしなければならない」のです。でなければ、とうてい教えることなどできやしません。指導の言葉にも、説得力がありません。自分でも自信をもてないまま伝えたって、子どもたちに本当には伝らない。これじゃあだめなんじゃないかな、と。

これまで、「自分自身が生きること、学ぶことを楽しみ、それを体現できる教育者になりたい」と理想をもってきましたが、まさにそうだなって、思えます。理想じゃなくて、現実にしないと!

さてさて・・
全部読んだぞ〜っていう達成感と同時に、自分自身の仕事や学び、プライベートの過ごし方などの考え方が少し変ったことも感じます。これは、実感をもって、同僚や友人に伝えられそうな気がします。


同じ本の必要はまったくありませんが、いい本に出合われた方は、ぜひ送ってください。誰かに書くと、得るものも確実に増えますから。自分の頭の中で整理することになるので。

2015年7月25日土曜日

早く読める本

 『おばあちゃんのきおく』(講談社)、『ポスおばあちゃんのまほう』(朔北社)などの絵本の著者でもあるメム・フォックス(Mem Fox)氏は、読み聞かせの名手としても知られています。(インターネットでは彼女自身が自分の本を読み聞かせる(英語)のを聞くこともできます。さすがに上手です。http://memfox.com/for-everyone-current-read-alouds/ ★)

 ここしばらく、フォックス氏の読むことについての本『Reading Magic』★★を読んでいて、今日は、そこから、面白いと思ったことを一つ紹介します。

 それは、「早く読めれば読めるほど、読むのが楽になる、というのは、そこまでに読んだ部分が記憶に載っているし、その情報を使って、続きも推測できる」(115ページ)ことです。つまり、「読むことが苦手な子どもの場合、一語一語に苦労して、一語一語を考えながら読んでいると、読んだ内容も忘れてしまうので、益々理解できない」(115~116ページ)とも言えます。

→ なるほど、と思いました。


 RWでは選書が大切にされていますし、『読書家の時間』でも「選書のミニ・レッスン」がいくつか紹介されています。(例えば第1章、「最初の10時間」、5年生の6時間目「こうやって本を選んでみよう」、1年生の2時間目「題名を見て、それから中をパラパラと見て選書する」、9時間目「自分にぴったりの本をさがすには」等々)

 選書については、私は、「難易度レベル」、「興味」、「同じ著者」、そして「友達(が読んでいるので同じ本について話せる)」等をよく考えます。

 上のフォックス氏の本を読んでいて、「早く読める」という観点も大切!と思いました。


 つまり、難易度レベルが低い本であっても、子どもが一語一語読むことから抜けられない場合、時間がかかることで、一語一語に目が行っている間に、内容も頭から消えていって、結局、理解が難しくなる、ということです。どこかで、「一語一語」単位から、まとまりで読む、不必要なところは飛ばし読みする、という読み方を体験できるのは、大きい気がします。


  (大人でもそうですよね。一語一句読んでいると、全体像はつかみにくいので、よく読めている人は、ある程度、まとまりで読んでいる気がします。)

 フォックス氏は、子どもが、飛ばし読みができるようなものを読むことで、読むことへの自信ができてくること、そのためにも、繰り返しも多くて、予測も簡単な本でその感じをつかむことを、書いています(113ページ)。
 

 こういう本のストックが何冊かあれば、子どもの必要に応じて、カンファランスでお薦めするのもいいかもしれません。

 夏休みに普段読めないいろいろな本を読むときに、「子どもが、一語一句でなくて、早く読める本」というカテゴリーを、意識に隅っこに置いておいてもいいように思いました。 


*****
 
★  メム・フォックス氏のホームページでは、本人自身による絵本の読み聞かせも、英語ですが聞くことができます。http://memfox.com/for-everyone-current-read-alouds/

★★ Mem Fox, Reading Magic: Why Reading Aloud to Our Children Will Change Their Lives Forever, updated and revised edition, Harcourt, 2008


2015年7月17日金曜日

『デザイン思考が世界を変える―イノベーションを導く新しい考え方―』と『理解するってどういうこと?』



  今年2月に読んだ本ですが「いやー、どうしようもなく面白い本!」と奥付に鉛筆で走り書きをしてしまった本があります。ティム・ブラウン(千葉敏生訳)『デザイン思考が世界を変える―イノベーションを導く新しい考え方―』(ハヤカワ・ノンフィクション文庫、20145月)です。パート1(第1章~第6章)が「デザイン思考とは何か?」、パート2(第7章~第10章)が「これからどこへ向かうのか?」と題されています。パート1の各章の見出しだけ掲げてみましょう。

 第1章 デザイン思考を知る―デザイン思考はスタイルの問題ではない

 第2章 ニーズを需要に変える―人間を最優先に

 第3章 メンタル・マトリクス―「この人たちにはプロセスというものがまるでない!」

 第4章 作って考える―プロトタイプ製作のパワー

 第5章 初心にかえる―経験のデザイン

 第6章 メッセージを広げる―物語の重要性

 「デザイン思考」とは「偉大なデザイン」を生み出すデザイナーのように考えるということです。「デザイン」を実際に作ったり、実行したりすることよりも、むしろ、自分がデザイナーだと自覚したこともない人々(私も確実にその一人です!)にデザイナーの道具を手渡し、その道具をより幅広い問題に適用できるようにすることを目的としています。そして、「人々が自分でも気付いていない内なるニーズを明らかにする助けを行うこと」(57ページ)が「デザイン思考家」の仕事です。パート1の各章では、ビジネスの現場での実例をもとに、偉大なデザイン思考のもとになる原理や方法を理解するのに役立つ「枠組み」が示されています。それらの「枠組み」は『理解するってどういうこと?』で探究されている「さまざまな理解の種類とその成果」に共通するものでした。私がこの本を「どうしようもなく面白い」と感じたのは、そのせいかもしれません。「偉大なデザイン」を生み出すデザイナーのように考えるとは、優れた読み手が使う理解するための方法(かたい言葉を使えば「理解方略」)を使って理解しようとするによく似ていると思いました。

 「デザイン思考」は人間を物語の中心に据える、人間中心のデザインを求めるものですが、そこで重視される要素は「洞察」(insight)「観察」(observation)「共感」(empathy)。「洞察」と「観察」は不即不離の要素として述べられています。「観察」から「洞察」につながるのです。この本で「洞察」という訳語が当てられているinsightは、『理解するってどういうこと?』の原著でも繰り返し使われています。理解するにあたって大切な私たちの頭のなかでの振る舞いのことをあらわすために、キーンさんは何度もinsightという言葉を使っていました。翻訳では「洞察」ではなく「じっくり頭のなかで考えて発見したこと」という訳語をあてました(『理解するってどういうこと?』「訳者あとがき」363ページ)。

ブラウンの言う「観察」「洞察」は、いろいろな現場に赴いてそこで人々が日常生活をどのようにやりくりしたいているのかをよく見極め、「人々のすること(しないこと)に目を向け、言うこと(言わないこと)に耳を傾ける」ことなのだというのですから、これはこれで理解するために極めて重要な態度です。それは、先入観を脇にどけて、問題をじっくりと時間をかけて考えようとする態度です。だから、『デザイン思考が世界を変える』のなかの「観察」「洞察」も「じっくり頭のなかで考えて発見したこと」に他なりません。

「観察」「洞察」に加えて、デザイン思考では、対象に「共感」することが大切であるとブラウンは言っています。「共感」とは「観察対象の人々と根本的なレベルでつながり合う」ことです。そのうえで次のように述べています。

共感こそ、学問的な思考とデザイン思考を隔てる大きな違いだろう。私たちの目的は、新しい知識を生み出したり、理論を検証したり、科学的仮説を実証したりすることではない。確かにこれらは私たちの共有する知的風景には欠かせない一部だが、それは大学の同僚たちのする仕事だ。デザイン思考の役割とは、観察から洞察を、そして洞察から生活に役立つ製品やサービスを生み出すことなのだ。(『デザイン思考が世界を変える』67ページ)

「製品やサービス」を「宝物」と置き換えてみれば、これは、「理解する」ということついてのとても重要な指摘であると言うことができます。ちなみに、『理解するってどういうこと?』の副題は「理解するための方法と理解することによって得られる「宝物」」です。『デザイン思考が世界を変える』が『理解するってどういうこと?』と重なる、と私が感じたのはそのためであったかもしれません。

「デザイン思考」を使って「観察」「洞察」することで「生活に役立つ製品やサービス」を生み出す過程は、理解するための方法を使って、理解の成果(宝物)を生み出す過程と似ています。『理解するってどういうこと?』の第9章には、『むこうがわのあのこ』という絵本を小学校3年生の子どもたちとキーンさんが読む場面があります。キーンさんは「これまで知っていたことや体験したことを関連づけながら話し合い共有すること」を「共感」と名づけています。「他の誰かの体験を理解するだけでなく、それを本当に共有すること」が、エリンさんが子どもたちと共有した理解の成果でした。それを彼女は「共感」と名づけて、これがじっくりと考えて発見したことの「宝物」だとしているのです。

理解のための指導は、特定の本や文章のどんな特定の出来事を思い出したり説明したりすることよりも、一つの理解のための方法や一つの理解の成果に焦点を絞ることで、どのような読みの場面においても子どもたちがよりよい読み手となる助けになるように行われるべきなのです。(『理解するってどういうこと?』355ページ)

『デザイン思考が世界を変える』は、一人一人がデザイナーのように考えてみることで、日常生活の見えていない問題や状況を発見することをうながしています。デザインをデザイナーに任せたままにしておくことは、特定の本や文章の理解と解釈を誰か他の人に任せて自分の感覚や頭で感じたり、考えたりしないことに似ています。この二冊の本は深いところで問題を共有しているように思われて成りません。そうだとすれば、『理解するってどういうこと?』も、ジャミカの問いを深く考えることから、立派に新たなイノベーションを導く考え方を探り出した本だと言うことができるのではないでしょうか。

2015年7月10日金曜日

1学期の振り返り★



「小1の娘の読むこと/国語嫌いがスタート」というメールを、埼玉の小1のお母さんからもらいました。
                                   
このような授業や朝読書は、全体の何割を占めていると思いますか?
それにしても、悲劇です。

ちなみに、このメールをくれた方、お嬢さんのクラスの読み聞かせボランティアを始めています。

2015年6月23日:
それから、別件ですが、娘の問題なんですが、娘は日々、国語が嫌いになっています。とても悲しいです。授業がつまらないと言っています。

また「朝読書」の時間を嫌がっています。「気分じゃなくても、本を無理やり読ませられるのが嫌だ」と言っています。この時間はただ各自に本を読ませるだけとのことで先生からのアクションは何もないそうです…

娘が国語嫌いにならないように私に何ができるのか、日々自問自答です。

2015年6月24日:
状況補足しますと、国語の時間は、娘の話によるものですが、例えば、ある説明文を毎回音読し、簡単な質問をし、最終的に説明文に書かれたものを絵として描写する、という流れのようです。娘は音読も「ゆっくりすぎていらいらするし、内容ももう飽きたし、うんざり」と言っています。

担任の先生をかばうわけではないですが、授業参観で見たところ、絵やカラーの文字カードを使ったり工夫もなさっていて、簡単なグループワークも導入したり、先生なりに一生懸命なさっていました。ですから、とても偉そうなんですけど…もったいないと思いました。

娘が小学生になり、吉田先生がおっしゃっていた「国語教育への危機感」のようなものを身近に感じるようになりました。


まるで、私の50数年前の体験を聞いているようでした!!

これは、小1に限定したことではありません。すべての学年で起こりえることです。★★というか、すでに現実に起こっていることです。
一度、嫌いになったら再び好きになるには、相当の努力が必要になります。私は大学院を卒業して3~4年経ってからのことです。押し付けられる「読み」から解放されたことと、好きな本をたくさん読めたことで好きになれました。(これって、まさにRWです。読書のサイクルを自分で回し始めたのです。)

子どもたちがどういうふうに思っているのか、ぜひ直接聞いてみてください。
上記のメールの中の先生のように、本人は良かれと思ってがんばっていても、嫌いになる子を作り出していては悲劇です。聞いたら(直接に子どもたちや親たちに)、修正できる可能性が開けますが、聞かなかったら同じことをやり続けることが約束されているだけです。
ぜひ、学期末のチャンスを活かして振り返りをしてください。★★★年度末では、遅すぎますから。


★ もちろん、カンファランスが教師の教え方のレパートリーに含まれていれば、授業中の日々の子どもたちとのやり取りから、上記のような問題は察知でき、修正することができるので、学期末の振り返りは必要ありません。その意味で、カンファランスという教え方は「指導と評価の一体化」を実現しています。評価(振り返り)まで待つ必要がないのですから。ほんらい大切なはずの子どもの声に耳を傾けることが、通常の国語の授業では行われていないということだと思います。力点が違うところにあるので。主役が違う人になっているので。

★★ しかも、国語のみで起こりえるだけでなく、すべての教科でも、です。

★★★ 以下の用紙の必要な箇所をアンケートやインタビュー形式ですることが考えられます。https://docs.google.com/viewer?a=v&pid=sites&srcid=ZGVmYXVsdGRvbWFpbnx3cml0aW5nd29ya3Nob3BqcHxneDo4ZTc0Nzc3MWIxZDViM2M

2015年7月3日金曜日

夏休み中の読書



あなたの生徒たちは、夏休みに進んでたくさんの本を読む準備がすでにできていますか?
もし子どもたちが、夏休みに読まない/読めないとしたら、学期中の(国語と図書)指導がおかしいことを意味します。あなたのこれまでの指導は大丈夫ですか?

要するに、学期中も「自立した読み手」を育てるために指導していないと、夏休み中に子どもたちが自分から進んでたくさんのいろいろなジュンルの本を読むということはあり得ません。1冊ぐらいは、読書感想文を書くために、夏休みの課題図書を仕方なく読んでくれるかもしれませんが・・・・学期中の「自立した読み手」を育てない授業が、夏休みにも続くことを意味します。(もっと言えば、課題図書を提示して読書感想文を書かせるということ自体が、「自立した読み手」を育てることに反しているとさえ言えます。私自身50年前に、課題図書を喜んで読んだ記憶はありません。あくまでも、苦役でした。読むことが嫌いなる大きな要因でした。)
ポイントは、自分で主体的に本が選べるか、それとも強制されるかが分かれ目です。(強制されたら、嫌いになるだけです。)

●生徒たちに夏休みの間、読んでもらうために、今から20日間でできること
・自分にあった本があることを知ってもらう
・互いのオススメの本を紹介し合う。
 ・生徒たちの興味や趣味を聞いて、それにあった本を紹介する
(司書にも助けてもらう)
 ・図書館に行って、実際に本の借り方を知ってもらう ~ しかし、
これだけでは意味がないので、興味のある本と出合う必要がある。
・本は一人で読む必要はないので、学期中に絵本を使ったミニ・
ブッククラブを体験して、一緒に数人と読むことの楽しさを
しってもらう
   ・ブッククラブを体験したい生徒たちで実際にグループをつくり、
    本まで決めて分かれる。ぜひ、教師もメンバーに入る。
    登校してくる時にやってもいいし、中学以上ならメールで
やりとりしてもいい。
   ・家族でブッククラブをやってみるようにすすめる(親にも!)
・夏休みの読書計画を立てる
   ・計画を立ててみれば、自分で考えたのだから、その中の一つぐらいは
    実際に試してみるかもしれない。
   ・立てられなかった生徒は、読むのが好きな他の生徒の刺激を受ける
    かもしれない。

●『読書家の時間』の16~17ページの「ゴールデンウィークは読書ジョギングに挑戦」、128~131ページの「冬休みも本を読もう」、『リーディング・ワークショップ』の第12章「リーディング・プロジェクト」は、すぐに参考になります。

●そして、来年の今ごろ同じ悩みを持たないようにするために、今年の夏休みの間、『読書家の時間』『リーディング・ワークショップ』『理解するってどういうこと?』を読んで、学期中に「自立した読み手」を育てるための授業をスタートするための準備を始めることも、大事なステップです。

夏休み中にどれだけの本を読めるかは、夏休み以降の①勉強のできや②その後の読書生活=人生を大きく左右します。(教師にとっても!)それほど大事なことなのですが、これまでにそのような捉え方がされたことはあるでしょうか?★★


★夏休みの読書のために、先生方がしているアイディア大募集です! 下のコメント欄か
pro.workshop@gmail.com にお寄せください。

★★ 私は、小学校から大学院まで、長期期間中(そういえば、学期中もでした!)本が丸ごとない生活を送っていました。とても損をしたと思っています。しかし、いま悔やんでも、そのチャンスは戻ってきません。やれることは、今を変えることだけですから。

★★★ 以上は、すべて「読むこと」についてでしたが、まったく同じことが「書くこと」にも言えるでしょうか?