「小さな冒険家と不思議な森」
起
ある晴れた日、好奇心旺盛な女の子、あおいは、いつもの公園に飽きてしまい、冒険に出かけることにしました。家の裏にある、茂みで覆われた小道を進んでいくと、今まで見たことのない、不思議な森が見えてきました。木々は高く、光が差し込み、地面にはカラフルなキノコが群生していました。
承
あおいは、ドキドキしながら森の中へと足を踏み入れました。すると、道端で小さな妖精を見つけたのです。妖精は、キラキラした羽を持ち、花の蜜を飲んでいるところでした。「こんにちは!」とあおいが声をかけると、妖精は驚いた様子を見せながらも、優しく微笑みました。妖精の名前はピピと言います。
転
ピピは、あおいを自分の家に招待しました。そこには、光り輝く宝石や、甘い香りが漂う花々でいっぱいの部屋がありました。ピピは、あおいにも花の蜜を分けてくれ、二人は一緒に楽しい時間を過ごしました。しかし、日が暮れてくるにつれて、ピピは心配そうな顔をしました。「そろそろお別れだよ。人間の世界へ戻らなくちゃ」
結
あおいは、ピピとのお別れが寂しくて仕方ありませんでした。でも、ピピはあおいに、小さな花の種をプレゼントしてくれました。「この種を大事に育ててね。きっと素敵な花が咲くよ」とピピは言いました。あおいは、ピピとの出会いを胸に、森を後にしました。家に着くと、すぐに種を植えました。そして、毎日水をやり、愛情を込めて育てました。数日後、小さな芽が出て、やがて美しい花が咲きました。あおいは、この花を見るたびに、ピピとの楽しい思い出を思い出したのでした。
AIは物語も挿絵も描いてくれる
先日、某イベントに参加した時に、面白そうだったので、「AIで絵本を作る」というワークショップに参加してきました。AIには、「小学生も楽しめる童話風の物語を書いてください。場面は起承転結の4つに分けてください。全体で400字程度の文章にしてください。」と指示を出しました。すると、本当に一瞬で物語を書いてくれます。
さらに、上の物語を画像生成のAIに読ませると、勝手に挿絵も描いてくれます。これについては、やり方によっては統一感がなかったりして難しかったのですが、家に帰って「ChatGPT」(無料版)で試行錯誤した結果、ある程度統一感のある絵(それでも、登場人物やその服には統一感がありません。)が出てきました。
まだこのような体験をしたことがない方は、ぜひやってみてください。なんとも、不思議な気持ちになれます。しかし、体験してみて思うことは、ご想像の通り、自分は何もしていないということです。
想像しなくても、創造しなくても、文章ができてしまう
文章も絵もAIが作ってくれますので、「絵本を作りたい」と思い立つことと、「機器を操作する」ということだけで、一通りできてしまいました。もちろん、これが優れた作品か、人の心を打つ作品かどうかは別として、形になってしまうわけです。読む人も多くいるでしょうから、確かにこの物語で感動をする人もいるかもしれません。私は、読む相手のことを考えることもなく、作りたい物語や主人公を思い描くこともなく、そして、完成した時に感じる喜びもなく、絵本はできてしまいました。いつの間にかできてしまったのです。想像力や創造力など、何も使わずに。
技術と共存していくとは? 人間が失っていくもの
こちらのワークショップの講師の方は、「AIを使わない未来はない」と言っていました。確かにそうなのだろうなあと思います。私たちの未来は、AIというものが生まれてしまった以上、この物と共存していかなければなりません。プラスチックも遺伝子組み換え技術も原子力も、たしかにとても便利な物かもしれませんが、長期的には地球環境を壊すことになるかもしれません。AIが便利なことは明白です。けれど、長期的に考えると、人間は少しずつ想像力や創造力を失っていってしまうのでしょうか?
それよりも、絵本を作ろうと思ったときの自分の可能性に心踊る感覚や、相手に伝わる良い言葉が見つからなくて悶々とする感覚、結まで書き終え解放されてホッとする感覚など、僕は、何かを創り上げる時に生まれる感覚自体が軽薄になり、それを他者と共有できなくなってしまうことが、大変恐ろしいことなのではないかと思っています。
AIと自分との境界線が薄くなっていく
文章を含めて何かを作るということは、その人がもつ唯一の個性や、これまでに出会ってきた人や体験、その人の現在の感情や身体感覚、身の回りの環境や時間など、多くのものに影響を受けています。読み手は書き手が置かれている状況を想像するのも、読むことの一つの大切な側面であるし、言い換えればそれは、自分だけが作り出したものではありません。これまでに話した人や読んだ本、関わった多くの人の影響のおかげで、今の自分の作り出したものが存在できていると思います。
AIが生み出したことが、あたかも自分が創り上げたもののように感じてしまい、自分とAIや他者との境界線が薄くなってしまうことはないでしょうか? どこかの誰かが創ったものも、まるで自分が創ったかのような、知的謙虚さのない人間が多く出てきてしまうようにも思います。
また、たとえば、AIを使いこなすことで一時の万能感を味わい、その万能感を求めるために、AIから離れられなくなってしまうような中毒的な症状に苦しむことはないでしょうか? 片時もスマホを話すことができないでいる人もいる中、AIに答えを聞かないと自己決定ができなくて苦しむ人や、AIと会話することにしか楽しみを見出すことができない人など、まるでディストピア小説のような未来を想像してしまうのは自分だけでしょうか?
「書くこと」は「相手を思う」 「読むこと」は「ツッコミを入れる」
「本を書くことは、読む相手を想うこと
本を読むことは、「ツッコミ」を入れること」
私が『読書家の時間』や『社会科ワークショップ』を出版した新評論の代表取締役の武市さんから教わった言葉です。「書くこと」が「相手を想う」ことで相手が受け取りやすいように文章にして届けることであり、また「読むこと」は、筆者の主張を読んで、自分の内なる声で「ツッコミ」をいれることだそうです。「書くこと」がまた「受け入れること」でもあり、「読むこと」がまた「声を出すこと」でもあるというのが、読み書きの複雑性を言い表しているようで「なるほど」と膝を打ちました。読むことも書くことも、想像力や創造力を活かして、相手を思い、自分の声でツッコミを入れないと、魅力は減退してしまうように思います。
特別支援にAIはどうか?
批判的に書きましたが、読み書きにおいてAIのすべてを受け入れないのは、もったいないような気もしています。
読み書きに困難さを持つ子どもが、AIから支援を受けながら書くことができれば、どうなるでしょうか? 一長一短があるように思います。iPadで書いている子どもは、入力予測機能が提案をした言葉を選ぶことができるので、それだけでも読み書きがずいぶん楽になっているのではないかと思います。さらに、AIが適切に問い返してくれるなど、人間臭いAIがあると良いかもしれません。
それでも、AIが頻繁に介入してくることに、「うざったい」と思ってしまう子どもはいるように思います。カンファランスの効果は、子どもと教師との間の関係性の中で発揮するものだと思いますし、根底的に「良い作品を作らせるために」という部分が拭えず、「良い書き手を育てる」ことが疎かになるようにも思えます。
理想的に言えば、作品に「よい」も「わるい」もないわけで、指導者が「良い書き手」に向けて、方向性を指し示すことが、もっとも効果的なカンファランスになるでしょう。それをAIができるかと言えば、僕がAIを触った感じでは、難しいように思います。
逆に、書くことのおまけとして、挿絵だけはAIに書いてもらったり、または、図工の作品を読み込ませて、AIがそれにお話を創ってくれるというのであれば、面白い要素が増えてくるかもしれません。自分にはなかった発想が芽生え、それをきっかけにさらに発想が広がるような使い方ができるかもしれません。(子どもがAIを、そのような付加的な使用だけに限定して使うことができるかどうかは、微妙な気もしています。どうしても、楽してしまいたいと思ってしまうでしょうから。)
素晴らしい技術かは使い方次第
今回の「AIで絵本を作る」ワークショップは、(主催者にそのような意図はなかったと思うのですが、)人が何かを「書くこと」や「作ること」について、考えるきっかけを与えてくれるような、逆説的に考えさせる、よいワークショップだったように思います。みんなでAIを体験して、「書くこと」や「作ること」について、しっかり考えていき、新しい技術とどのように付き合っていったら良いのかを考えていけたら良いと思います。音楽や自転車のように、人間が考えた素晴らしい技術の一つになるように、みんなでAIを考えていきたいところです。