2024年10月26日土曜日

AIが作家の時間で絵本を作ったら

「小さな冒険家と不思議な森」

ある晴れた日、好奇心旺盛な女の子、あおいは、いつもの公園に飽きてしまい、冒険に出かけることにしました。家の裏にある、茂みで覆われた小道を進んでいくと、今まで見たことのない、不思議な森が見えてきました。木々は高く、光が差し込み、地面にはカラフルなキノコが群生していました。


あおいは、ドキドキしながら森の中へと足を踏み入れました。すると、道端で小さな妖精を見つけたのです。妖精は、キラキラした羽を持ち、花の蜜を飲んでいるところでした。「こんにちは!」とあおいが声をかけると、妖精は驚いた様子を見せながらも、優しく微笑みました。妖精の名前はピピと言います。

ピピは、あおいを自分の家に招待しました。そこには、光り輝く宝石や、甘い香りが漂う花々でいっぱいの部屋がありました。ピピは、あおいにも花の蜜を分けてくれ、二人は一緒に楽しい時間を過ごしました。しかし、日が暮れてくるにつれて、ピピは心配そうな顔をしました。「そろそろお別れだよ。人間の世界へ戻らなくちゃ」


あおいは、ピピとのお別れが寂しくて仕方ありませんでした。でも、ピピはあおいに、小さな花の種をプレゼントしてくれました。「この種を大事に育ててね。きっと素敵な花が咲くよ」とピピは言いました。あおいは、ピピとの出会いを胸に、森を後にしました。家に着くと、すぐに種を植えました。そして、毎日水をやり、愛情を込めて育てました。数日後、小さな芽が出て、やがて美しい花が咲きました。あおいは、この花を見るたびに、ピピとの楽しい思い出を思い出したのでした。


AIは物語も挿絵も描いてくれる


先日、某イベントに参加した時に、面白そうだったので、「AIで絵本を作る」というワークショップに参加してきました。AIには、「小学生も楽しめる童話風の物語を書いてください。場面は起承転結の4つに分けてください。全体で400字程度の文章にしてください。」と指示を出しました。すると、本当に一瞬で物語を書いてくれます。


さらに、上の物語を画像生成のAIに読ませると、勝手に挿絵も描いてくれます。これについては、やり方によっては統一感がなかったりして難しかったのですが、家に帰って「ChatGPT」(無料版)で試行錯誤した結果、ある程度統一感のある絵(それでも、登場人物やその服には統一感がありません。)が出てきました。


まだこのような体験をしたことがない方は、ぜひやってみてください。なんとも、不思議な気持ちになれます。しかし、体験してみて思うことは、ご想像の通り、自分は何もしていないということです。


想像しなくても、創造しなくても、文章ができてしまう


文章も絵もAIが作ってくれますので、「絵本を作りたい」と思い立つことと、「機器を操作する」ということだけで、一通りできてしまいました。もちろん、これが優れた作品か、人の心を打つ作品かどうかは別として、形になってしまうわけです。読む人も多くいるでしょうから、確かにこの物語で感動をする人もいるかもしれません。私は、読む相手のことを考えることもなく、作りたい物語や主人公を思い描くこともなく、そして、完成した時に感じる喜びもなく、絵本はできてしまいました。いつの間にかできてしまったのです。想像力や創造力など、何も使わずに。


技術と共存していくとは? 人間が失っていくもの


こちらのワークショップの講師の方は、「AIを使わない未来はない」と言っていました。確かにそうなのだろうなあと思います。私たちの未来は、AIというものが生まれてしまった以上、この物と共存していかなければなりません。プラスチックも遺伝子組み換え技術も原子力も、たしかにとても便利な物かもしれませんが、長期的には地球環境を壊すことになるかもしれません。AIが便利なことは明白です。けれど、長期的に考えると、人間は少しずつ想像力や創造力を失っていってしまうのでしょうか?


それよりも、絵本を作ろうと思ったときの自分の可能性に心踊る感覚や、相手に伝わる良い言葉が見つからなくて悶々とする感覚、結まで書き終え解放されてホッとする感覚など、僕は、何かを創り上げる時に生まれる感覚自体が軽薄になり、それを他者と共有できなくなってしまうことが、大変恐ろしいことなのではないかと思っています。



AIと自分との境界線が薄くなっていく


文章を含めて何かを作るということは、その人がもつ唯一の個性や、これまでに出会ってきた人や体験、その人の現在の感情や身体感覚、身の回りの環境や時間など、多くのものに影響を受けています。読み手は書き手が置かれている状況を想像するのも、読むことの一つの大切な側面であるし、言い換えればそれは、自分だけが作り出したものではありません。これまでに話した人や読んだ本、関わった多くの人の影響のおかげで、今の自分の作り出したものが存在できていると思います。


AIが生み出したことが、あたかも自分が創り上げたもののように感じてしまい、自分とAIや他者との境界線が薄くなってしまうことはないでしょうか? どこかの誰かが創ったものも、まるで自分が創ったかのような、知的謙虚さのない人間が多く出てきてしまうようにも思います。


また、たとえば、AIを使いこなすことで一時の万能感を味わい、その万能感を求めるために、AIから離れられなくなってしまうような中毒的な症状に苦しむことはないでしょうか? 片時もスマホを話すことができないでいる人もいる中、AIに答えを聞かないと自己決定ができなくて苦しむ人や、AIと会話することにしか楽しみを見出すことができない人など、まるでディストピア小説のような未来を想像してしまうのは自分だけでしょうか?


「書くこと」は「相手を思う」 「読むこと」は「ツッコミを入れる」


「本を書くことは、読む相手を想うこと

本を読むことは、「ツッコミ」を入れること」


私が『読書家の時間』や『社会科ワークショップ』を出版した新評論の代表取締役の武市さんから教わった言葉です。「書くこと」が「相手を想う」ことで相手が受け取りやすいように文章にして届けることであり、また「読むこと」は、筆者の主張を読んで、自分の内なる声で「ツッコミ」をいれることだそうです。「書くこと」がまた「受け入れること」でもあり、「読むこと」がまた「声を出すこと」でもあるというのが、読み書きの複雑性を言い表しているようで「なるほど」と膝を打ちました。読むことも書くことも、想像力や創造力を活かして、相手を思い、自分の声でツッコミを入れないと、魅力は減退してしまうように思います。


特別支援にAIはどうか?


批判的に書きましたが、読み書きにおいてAIのすべてを受け入れないのは、もったいないような気もしています。


読み書きに困難さを持つ子どもが、AIから支援を受けながら書くことができれば、どうなるでしょうか? 一長一短があるように思います。iPadで書いている子どもは、入力予測機能が提案をした言葉を選ぶことができるので、それだけでも読み書きがずいぶん楽になっているのではないかと思います。さらに、AIが適切に問い返してくれるなど、人間臭いAIがあると良いかもしれません。


それでも、AIが頻繁に介入してくることに、「うざったい」と思ってしまう子どもはいるように思います。カンファランスの効果は、子どもと教師との間の関係性の中で発揮するものだと思いますし、根底的に「良い作品を作らせるために」という部分が拭えず、「良い書き手を育てる」ことが疎かになるようにも思えます。


理想的に言えば、作品に「よい」も「わるい」もないわけで、指導者が「良い書き手」に向けて、方向性を指し示すことが、もっとも効果的なカンファランスになるでしょう。それをAIができるかと言えば、僕がAIを触った感じでは、難しいように思います。


逆に、書くことのおまけとして、挿絵だけはAIに書いてもらったり、または、図工の作品を読み込ませて、AIがそれにお話を創ってくれるというのであれば、面白い要素が増えてくるかもしれません。自分にはなかった発想が芽生え、それをきっかけにさらに発想が広がるような使い方ができるかもしれません。(子どもがAIを、そのような付加的な使用だけに限定して使うことができるかどうかは、微妙な気もしています。どうしても、楽してしまいたいと思ってしまうでしょうから。)


素晴らしい技術かは使い方次第


今回の「AIで絵本を作る」ワークショップは、(主催者にそのような意図はなかったと思うのですが、)人が何かを「書くこと」や「作ること」について、考えるきっかけを与えてくれるような、逆説的に考えさせる、よいワークショップだったように思います。みんなでAIを体験して、「書くこと」や「作ること」について、しっかり考えていき、新しい技術とどのように付き合っていったら良いのかを考えていけたら良いと思います。音楽や自転車のように、人間が考えた素晴らしい技術の一つになるように、みんなでAIを考えていきたいところです。


(秋晴れの下、みなさんは何をしますか?)


2024年10月19日土曜日

「質問する」ときに頭のなかで起こること

  「理解するための方法」の一つに「質問する」があります。

 『理解するってどういうこと?』の第8章(310ページ~324ページ)には、クララという先生が行った「質問する」のミニ・レッスンの記録があります。クララ先生はこのミニ・レッスンのはじめの方で、7歳と8歳の子どもたちに次のように話しています。

 〈今日は、読者がもっとよく理解するための方法のひとつの「質問する」を使うとき、頭のなかでどういうことが起こっているのかを、みんなに見せてあげます。もし一冊の本がこれまでの私たちの考えや信じていることを変えてくれそうなら、私たちはその本を深く理解する必要があります。(中略)質問は、その本をもっと深く理解できるようにしてくれる、ツールだということを私たちはもう知っていますね。読んでいる途中で質問をすればするほど、読み手はもっとうまく理解できるようになります。〉(『理解するってどういうこと?』311ページ)

 クララ先生はこの後、ロバート・コールズの『ルビー・ブリッジスの物語』(未邦訳)を子どもたちに読み聞かせながら、時折それを止めながら自分の「頭のなか」で「どういうことが起こっているか」話します(「考え聞かせ」です)。ミニ・レッスンと言うには少々長くて、1時間ほどかかっていそうですが、「質問する」を使って「その本をもっと深く理解できる」ようになるようにするための緻密な働きかけがそこにはあって、ミニ・レッスンの後半では子どもたちからいい質問がたくさん出てきます。

 では、「質問する」つまり「問い」が生まれる時には、頭のなかでどういうことが起こっているのでしょう。

 今年9月に刊行された、安藤昭子さんの『問いの編集力―思考の「はじまり」を探究する―』(ディスカバー、2024年)ではそのことが探究されています。

 〈「問い」はなんであれ、内面の了解と外側の世界とのズレから生じるものだ。既知(すでに知っていること)と未知(まだ知らないこと)が踵を接するところに問いのタネが潜んでいるのだとすれば、誰にも問うべき事柄は際限なくあるはずなのだ。ただ、与えられた問いに首尾よく答え続けるうちに、自分の内側から湧き出る問いは「問うまでもない」こととして処理される。そうして、問いの芽吹きがおこる柔らかな領域にはいつしか固く蓋がされてしまう。〉(『問いの編集力』1011ページ)

  そもそも読む行為は「既知」と「未知」とが「踵(きびす)を接する」ところで営まれるものですから、読む過程で様々な「問い」が読者の内部に生まれて然るべきです。他の人から「与えられた問い」ばかりに答えることを続けていると、そういうことをしなくなってしまう。安藤さんの言葉に従うと、「問い」を立てることはそれに抗うことになるでしょう。安藤さんはこの引用文に続けて〈「問う」という行為をつきつめて考えていけば、それは「情報」を「編集」することにほかならない〉と言っています。「問う」ことは、その「情報」を「編集」する「思考のプロセス」を活性化することにほかなりません。

 安藤さんはこの本のなかで、自分の内側から「問い」を湧き出させる読みの方法を「探究的読書(Quest Reading)」と名づけています。「探究的読書」で重要なものは、自分の今の問題意識であり、手持ちの知識のその先に何を考えたいか、ということで、それを意識することで一冊の本の読み方が著しく積極的なものになるとされています。

 〈そもそも本を読むというのは、一方的に情報を得るだけの行為ではないのだ。テキストで表現されたことと自分の想像力が「混ざり合う」、著者との相互編集活動だと思ったほうがいい。書き手がバラバラになりそうな思考をなんとかひとつの流れにのせて紡いでいく言葉に、読み手の想像力が「いいぞ!」と感心したり「そうか?」と疑義を唱えたり「ちょっと待てよ」とあらぬ方向に寄り道したりしながら、著者と読者の間に思索の可能性を切り開いていく行為なのだ。〉(『問いの編集力』119ページ)

  読者の側が「白紙」の状態では読む行為は「著者との相互編集活動」になりません。手持ちの知識や問題意識に基づいた読者自身の「想像力」があった初めて「相互編集活動」になります。その「想像力」を駆使して「いいぞ!」「そうか?」「ちょっと待てよ」と考えていくことが、「質問する」という方法を使う頭のなかで起こっていることなのです。

 本書にはいくつかの「練習問題」が置かれていて、実際に「問い」を生むためのヒントになるエクササイズになっています。その一つに「なぜなに変換」があります。

 〈思い浮かぶものの中から何かに少し思いをめぐらせて、ほんのちょっとでも気になることがあれば、それを「なんで?」「それはなに?」などと思ってみる。いつもの風景を「なぜなに変換」してみよう。〉(『問いの編集力』173ページ「練習問題16」の一部)

 そうです。いつもの見慣れた自分の周囲の風景のどこかに注目して「なぜなに変換」をしてみる、それを言葉にしてみることが「問う」「質問する」という行為なのです。それは日常の見慣れた風景に「驚き」を覚えることでもあります。そうです。「質問する」ときに頭のなかで起こるのは、そうした「驚き」で、これを安藤さんは「内発する問い」と呼んでいます。

安藤さんの〈自分の内面、また自分と世界が関わるところに、何より豊かな問いの宝庫がある〉(『問いの編集力』210ページ)という言葉を、ミニ・レッスンの終わり近くで、クララ先生がイーゼルに書き出した〈ときには、質問にすぐ答えようとしない方がいい。その代わり、しばらくのあいだ頭のなかに漂わせておく〉(『理解するってどういうこと?』323ページ)関わらせて考えてみると、「質問する」について新たな視点が生まれます。対象に対する「問い」や「質問」をつくることは、それを理解する上でとても大切な手がかりですが、生み出された「問い」や「質問」にすぐ答えるのではなくて、「しばらくのあいだ頭のなかに漂わせておく」ことによって、子どもたちが「自分の内面」や「自分と世界が関わるところ」をさらに見つめて考えることは、対象を理解する上でそれ以上に大切なことであるという視点です。 

2024年10月12日土曜日

フィクションを書く 〜ライティング・ゾーンを知っている生徒たち

【書いているプロセスが幸せ!】

 圧倒的な充実感を何とか伝えようと、両手を大きく広げながら話し、話している間に、手の間隔がどんどん広がっていく。中学生のグレイソンは、フィクションを書いているときの自分を伝えようと、目一杯の身振り手振りで、次のように語っています。

「フィクションを書くとき、頭の中はいろいろなトピックを探求している。これまでに観た映画とか読んだ本とか何か他のこととかを、結びつけながら、アイディアが出てくる。書き始めると、脳がこんなに大きくなっていく(手を使ったジェスチャーで大きさを示している)。書き続けていくと、どんどん大きくなっていく(ジェスチャーがさらに大きくなる)。それは、もっとたくさんの言葉やアイディア、この作品をもっと良くできることで、脳がいっぱいに満たされていくから」

 上の描写は、ニューハンプシャー大学でライティングを長年教えたトーマス・ニューカーク(Thomas Newkirk)氏による、フィクションを書くことについての本『Writing Unbound: How Fiction Transforms Student Writers』(Heinemann, 2011)の112ページに出てきます。(また、以下のページ数も、この本のページ数です。)

 フィクションを書くのが好きな他の生徒は、「外の世界から得た情報をすべて取り込んで、混ぜ合わせ、マッシュアップして、自分だけのものを作り上げるんだ。その世界で、何が起こるのかを決めるのは自分だ」(111 ページ)と言っています。

 本の世界に入り込んで、読むことに没頭する状態であるリーディング・ゾーンがあるように、ライティング・ゾーンに入って執筆に没頭する生徒たちもいます。ある生徒は、「書いているときは本当に幸せだったけれど、完成するまで自分がどれだけ幸せだったのかわからなかった」(43ページ)と、フィクションに取り組む時間自体にも大きな魅力がある様子が伝わってきます。

【読み書きにおけるフィクションのギャップ】

 教室の図書コーナーにはフィクションの本が溢れていても、教室で生徒たちがフィクションを書く時間は、あまり多くないかもしれません。

 それは、教師自身、フィクションを書いた経験が少ない、生徒が書こうとするフィクションは質の低い娯楽作品の真似になる、経験の浅い書き手は作品の筋をうまく作れず、計画性のない、やたら長い作品になる、暴力シーンなど好ましくないテーマを書くことへの懸念がある、大学進学や自分のキャリア形成を考えている生徒にはフィットしないように感じる(4-9ページ)等、いろいろな理由がありそうです。

 またフィクションを書く時間があっても、制限が多い場合もあるようです。「暴力シーンを書くのは禁止」みたいなルールがあったり、中には、「学校で禁止されていることは、フィクションの登場人物は行ってはいけない」(!)という教室まであるそうです。生徒が読むフィクションには、一定の暴力シーンが登場することがあるにもかかわらず、です(6ページ)。

 教室でのフィクションの扱いについては、読むことと書くことにおいて、使う時間も、制限の度合いも、かなりの差が生じているようです。

【邪魔なフィルターだらけ? 開かれた自由な場が少ない教室でのライティング】

 ニューカーク氏によるこの本は、多くの生徒たちへのインタビューが土台となっています。フィクションを書くのが好きな生徒たちのライティング・ゾーンは、自由で開かれた場のようです。しかしながら、それは「教室の外」にあることが多い!のです(43ページ)。

 ニューカーク氏は、フィクションを書くのが好きな生徒たちへの、ほぼ全てのインタビューで中心的なテーマとして出てきたのは、決まったやり方、評価基準であるルーブリック、成績評価、他の生徒との比較などが存在しない、開かれた場(open space)への渇望だったと指摘します(44ページ)。 

 「先生が何を求めているかは分かっている」けど、「設定、キャラクター、プロットなど、フィクションの書き方に関するルーブリック(評価基準)を与えないで!」(117ページ)という生徒もいます。

 「徐々に」責任を移行していくモデルではなくて、「直ちに」責任を生徒に渡して!("immediate release of responsibility")と言う生徒もいます。教師が決めた線路の上しか走れないのはやめて、ということのようです(46ページ)。

→ 教師は、フィクションを書くことを"助ける"ために、あらかじめ決められた図などに書き込むことで準備させたり、物語の構造を指定したり、評価基準となるルーブリックを提示したりすることもあるかと思います。でも、生徒にとっては、それらはライティング・ゾーンに入る邪魔になっていると感じることも少なからずあるようです。

 教室の生徒が読者になることすら、邪魔な「フィルター」と感じている生徒もいます。

 エヴァは、「学校で何かを書くと、それが誰かに読まれることがわかっていて、完璧なものにしなければならないとか、みんなに納得してもらわなればならないとか、そういう心配のようなものを感じる」(107ページ)と言います。エヴァは教師については、「生徒がクリエイティブであるかどうかや、与えられた課題に沿っているかどうかについて、教師自身の意見を持ち込む」、また、「同じ学校の同じ年齢のクラスメートと比べる」ことなどから、自分の読者として最適かどうかは、疑問だと考えています(107ページ)。

【教師がより良い読者になるためにできること?】

  イーサンは、担当のリーフ先生(Linda Rief)を、自分にとって、助けになる読者として受け入れているようです。それは、自分がホラー小説を書いているときに、「他の教師だと、『他には何が起こりうるかな』とか言って、違う方向に導こうとするが、リーフ先生は、いつも、自分が書こうとすることをサポートしてくれる」からだと言います。そして「教師は、自分の意に沿わないかもしれない作品についても、読む準備ができていて、教師が大いに気に入っている作品を評価するのと同じように、自分の好みに合わない作品も評価できる」ことが必要だと言います(120ページ)。

→ そういえば『ライティング・ワークショップ』のカンファランスのセクションに、「教師自身の傾向や好みを知る」というセクションがあり、そこに以下のように書かれています。

「それぞれの教師は書かれたものについて様々な好みを持っています。[中略] 教師の好みを超えた範囲で書かれた子どもたちの作品の価値を偏りなく評価するためにも、教師は自分の傾向や審美眼を認識しておくことが重要になります」(『ライティング・ワークショップ』78ページ)

 ニューカーク氏も、「ルールやルーブリックの項目に従っても、それらは限られた狭い視野でのことなので、何も新しいものは見えない」と言います。せっかく、生徒が自分なりの新しい世界を作りあげていても、もともとある項目ありきで、生徒の作品をその中に無理やり入るように眺めているわけです。それを防ぐためには 教師は注意力 (attentiveness)が必要で、「私たちが注意深く、テキストの中の瞬間、テキストの斬新さ、生徒の特異性に完全に心を開いていれば、教師として前に進んでいける」(116ページ)と言います。

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 こうやって見ていくと、フィクションを教えることは、教師にとっては、面白いチャレンジになりそうな気がします。つまり、「書き手の意図を理解した上でのカンファランス」「それぞれの書き手の個性に気づく」「自分の好みを超えた範囲で作品の価値を偏りなく評価する」などは、どのジャンルの作品を教えるときにも心に留めておきたいことだからです。それらを教師に、よりはっきり教えてくれるのが、フィクションのように思えます。

2024年10月4日金曜日

フリーライティングを試してみよう!

 東京都の公立中学校で「科学者の時間」を中心に据えた理科を教えている井久保大介先生が、原タイトルがWriting without teachers(教師のいらない/いない方がいい書く指導)という本の書評を書いてくれましたので、紹介します。

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 文章を書くことが苦手だと思っている人がいたら、『自分の「声」で書く技術――自己検閲をはずし、響く言葉を仲間と見つける』(ピーター・エルボウ著)で紹介している「フリーライティング」という手法を試してみてください。フリーライティングとは、紙とペン(もしくは無題のドキュメントとキーボード)を用意して、10分間、頭の中に浮かんだことをとにかく書いてみる、という手法です。そのとき、文法の間違いや意味の分からない文を修正したりする必要はありません。とにかく思ったことを、ただひたすら文章にするという練習です。それではこれから10分間、私がフリーライティングをしてみます。(長くなるので最初の5分だけ載せます。)


フリーライティングっておもしろい。なんだか体と手がつながったみたいだ。書くということはとても身体的なことなのかもしれない。というか手で書いているわけだから身体的だ。でもなんだか書き方を教わるときって、頭で書けと言われる。もしかしたら頭で書いていないじゃないだろうか。いや、頭も身体だとすれば、すごく全体的な行為なのではないだろうか。そもそも心を体を分けて考えること自体、すごく西洋的、というか医学的?な考え方なんだろうか。おなかがすいた。おなかがすくというのも身体的だ。これも心で感じているけどその大元は体にある。おなかがすくっていうのもすごく面白い感覚だ。だって胃の中を視覚的に見ているわけではないのに、なんだか感覚的にすいているという気持ちになる。もしかしたら、他の人のお腹すくという感覚って違うんじゃないか。ひとそれぞれ?だから文字を書く時のからだの動きって人それぞれちがうんだろうなあ。みんなもやってみればいいのに。やってる人とやってない人では書くという行為のとらえ方が全然違う気がする。そういえば体と心を一緒にして呼んでいるような人がいたような。。。「こらだ」とか。誰だっけ?医学のひとだっけ?覚えていない。。。教育学のデューイも探究したいときってお腹がすいたような感覚だって言ってたような。体は不思議だ。おなかすいたー。


 このように、10分経った後には、自分が考えていたことが活字として目の前に現れます。もちろん、改善の余地がたくさんある文章が出来上がります。ただ少なくとも、自分は文章を書けないのではなくて、書けないと思わせる何かがある、ということに気づくでしょう。

 私がフリーライティングをやってみたとき、自分がいかにいろいろな制約を受けながら文章を書いているかに気づかされました。そして、文章を書けないように制約を課しているのは、何を隠そう自分自身だったのです。その制約はどこからやってきたものかといえば、おそらく自分が受けてきた教育が根っこにあるような気がします。文法だったり修辞だったり、文章をうまく書くために自分が学んできたことが、皮肉にもかえって制約になっていたのです。うまく書こうとするほど、自分の書くスピードと思考の幅をどんどん制約しているのです。

 同じようなことが私の教えている理科でも起きている気がします。理科は科学的に思考する方法を一般化して、それを授業で教えるために、教師はあれやこれやと試行錯誤します。実験には目的が大事だ、予想をしなければいけない、実験の結果を表やグラフにして、考察は結果を根拠に書かなければならないなどなど。教師が大事だと思う科学的な思考のプロセスを教えようとすればするほど、子どもたちは自分がこれまで培ってきた好奇心や探究心とはかけ離れた方向に理科の授業を認識してしまうのです。子どもたちは、自分たちの好奇心や探究心を開放すれば、自らどんどん学ぶことができる存在です。子どもたちは対象に触れたり遊んだりしながら、無意識の中でこうしたい、ああしたいと目的を持ち、どうなるか予想をわざわざ立てなくても推論して試し、膨大なトライアンドエラーを繰り返して遊ぶことで、対象を認識していきます。子どもたちはもともと科学者です。科学的な思考の素地をすでにちゃんともっているし、いつも科学者のように、そして探検家、芸術家のように遊んで学んできているのです。その素地を生かさないように学べと教えるのが、学校で学ぶ理科の授業であったとしたら皮肉なことです。

 文章を書く、という行為に置き換えてもそれは言えることです。私たちは普段から無意識に言葉で考え、頭の中は膨大な言葉であふれては消えてをくりかえしています。その中からほんのごく一部を選んだ言葉を使って話をします。それは子どもも大人も同じです。その考えていることを形として文字に表せば書くという表現は容易なわけです。おそらく、もともと誰もが作家であるはずなのです。しかし多くの人が、自分の頭の中の言葉を無意識に自己検閲することによって、書くという行為にまで至らないのです。その状態を、頭に文章が浮かばない、だから私は書けない、と認識しているのです。

 それはまるで、作家である自分とは別に、自分の言葉をいつの間にか勝手に添削する編集者と、思い浮かんだ考えを手厳しく評価する批評家が頭の中に同居しているような感じでしょうか。どちらも私の分身である編集者と批評家の声によって、作家としての言葉を失ってしまうのです。

 自分の言葉で書けるようになるということは、自分の分身ともいえる編集者と批評家の声とどううまく付き合えるようになるか、ということなのではないでしょうか。そのなかでも、いったん彼らの声に耳を貸さずに、生まれてくる言葉をそのまま書くためのトレーニングが、フリーライティングという手法です。

 まずは10分間、ペンかキーボートを手にとって、書き始めてみてください。絶対にスラスラ書けますから!