東京都の公立中学校で「科学者の時間」を中心に据えた理科を教えている井久保大介先生が、原タイトルがWriting without teachers(教師のいらない/いない方がいい書く指導)という本の書評を書いてくれましたので、紹介します。
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文章を書くことが苦手だと思っている人がいたら、『自分の「声」で書く技術――自己検閲をはずし、響く言葉を仲間と見つける』(ピーター・エルボウ著)で紹介している「フリーライティング」という手法を試してみてください。フリーライティングとは、紙とペン(もしくは無題のドキュメントとキーボード)を用意して、10分間、頭の中に浮かんだことをとにかく書いてみる、という手法です。そのとき、文法の間違いや意味の分からない文を修正したりする必要はありません。とにかく思ったことを、ただひたすら文章にするという練習です。それではこれから10分間、私がフリーライティングをしてみます。(長くなるので最初の5分だけ載せます。)
フリーライティングっておもしろい。なんだか体と手がつながったみたいだ。書くということはとても身体的なことなのかもしれない。というか手で書いているわけだから身体的だ。でもなんだか書き方を教わるときって、頭で書けと言われる。もしかしたら頭で書いていないじゃないだろうか。いや、頭も身体だとすれば、すごく全体的な行為なのではないだろうか。そもそも心を体を分けて考えること自体、すごく西洋的、というか医学的?な考え方なんだろうか。おなかがすいた。おなかがすくというのも身体的だ。これも心で感じているけどその大元は体にある。おなかがすくっていうのもすごく面白い感覚だ。だって胃の中を視覚的に見ているわけではないのに、なんだか感覚的にすいているという気持ちになる。もしかしたら、他の人のお腹すくという感覚って違うんじゃないか。ひとそれぞれ?だから文字を書く時のからだの動きって人それぞれちがうんだろうなあ。みんなもやってみればいいのに。やってる人とやってない人では書くという行為のとらえ方が全然違う気がする。そういえば体と心を一緒にして呼んでいるような人がいたような。。。「こらだ」とか。誰だっけ?医学のひとだっけ?覚えていない。。。教育学のデューイも探究したいときってお腹がすいたような感覚だって言ってたような。体は不思議だ。おなかすいたー。
このように、10分経った後には、自分が考えていたことが活字として目の前に現れます。もちろん、改善の余地がたくさんある文章が出来上がります。ただ少なくとも、自分は文章を書けないのではなくて、書けないと思わせる何かがある、ということに気づくでしょう。
私がフリーライティングをやってみたとき、自分がいかにいろいろな制約を受けながら文章を書いているかに気づかされました。そして、文章を書けないように制約を課しているのは、何を隠そう自分自身だったのです。その制約はどこからやってきたものかといえば、おそらく自分が受けてきた教育が根っこにあるような気がします。文法だったり修辞だったり、文章をうまく書くために自分が学んできたことが、皮肉にもかえって制約になっていたのです。うまく書こうとするほど、自分の書くスピードと思考の幅をどんどん制約しているのです。
同じようなことが私の教えている理科でも起きている気がします。理科は科学的に思考する方法を一般化して、それを授業で教えるために、教師はあれやこれやと試行錯誤します。実験には目的が大事だ、予想をしなければいけない、実験の結果を表やグラフにして、考察は結果を根拠に書かなければならないなどなど。教師が大事だと思う科学的な思考のプロセスを教えようとすればするほど、子どもたちは自分がこれまで培ってきた好奇心や探究心とはかけ離れた方向に理科の授業を認識してしまうのです。子どもたちは、自分たちの好奇心や探究心を開放すれば、自らどんどん学ぶことができる存在です。子どもたちは対象に触れたり遊んだりしながら、無意識の中でこうしたい、ああしたいと目的を持ち、どうなるか予想をわざわざ立てなくても推論して試し、膨大なトライアンドエラーを繰り返して遊ぶことで、対象を認識していきます。子どもたちはもともと科学者です。科学的な思考の素地をすでにちゃんともっているし、いつも科学者のように、そして探検家、芸術家のように遊んで学んできているのです。その素地を生かさないように学べと教えるのが、学校で学ぶ理科の授業であったとしたら皮肉なことです。
文章を書く、という行為に置き換えてもそれは言えることです。私たちは普段から無意識に言葉で考え、頭の中は膨大な言葉であふれては消えてをくりかえしています。その中からほんのごく一部を選んだ言葉を使って話をします。それは子どもも大人も同じです。その考えていることを形として文字に表せば書くという表現は容易なわけです。おそらく、もともと誰もが作家であるはずなのです。しかし多くの人が、自分の頭の中の言葉を無意識に自己検閲することによって、書くという行為にまで至らないのです。その状態を、頭に文章が浮かばない、だから私は書けない、と認識しているのです。
それはまるで、作家である自分とは別に、自分の言葉をいつの間にか勝手に添削する編集者と、思い浮かんだ考えを手厳しく評価する批評家が頭の中に同居しているような感じでしょうか。どちらも私の分身である編集者と批評家の声によって、作家としての言葉を失ってしまうのです。
自分の言葉で書けるようになるということは、自分の分身ともいえる編集者と批評家の声とどううまく付き合えるようになるか、ということなのではないでしょうか。そのなかでも、いったん彼らの声に耳を貸さずに、生まれてくる言葉をそのまま書くためのトレーニングが、フリーライティングという手法です。
まずは10分間、ペンかキーボートを手にとって、書き始めてみてください。絶対にスラスラ書けますから!
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