「作家の時間」や「読書家の時間」は他の教科や学習コミュニティにも応用できる
私は『作家の時間』や『読書家の時間』をはじめとするワークショップの学びの仕組みに関心を持ちました。まだ教職についてまもない20年弱前のこと、子どもたちを「自立的な学習者」へと成長できるようにすることが目的であるワークショップの学び方に共感し、また、学習コミュニティが成熟していったり、子どもたち一人ひとりが書くこと・読むことを楽しみ高まっていったりする姿に感動を覚えました。
また、自分自身の子どもを見る目、学習を見る目に変化が起きていることに気づきました。他者が作った目標に向かって育てるのではなく、それぞれの子どもが内面から自由意志で伸びようとするベクトルと、私自身が持っているリソース(問い、励まし、知識や経験)とを、どのように掛け合わせたら良いかを模索し、その子特有の成長点へと教師の支援を届けるようにしました。国語という一つの教科の中であっても、子どもたちを「高い」「低い」で見るのではなく、「どのような色をしているか」という点で見るようになりました。教室の中には相互作用と多様性が生まれ、狭い価値基準で他者と比べないで、自分の得意や良さを生かす作品が生まれていきました。
そうやってワークショップという学習環境を学んできた私は、いつしか、自分の好きな教科である「社会科」や学び続けてきた「特別支援」の現場でも、この学び方を展開できるのではないかと考えました。それが『社会科ワークショップ』です。特別支援の中での作家の時間も、子どもたちの良さを引き出す学習環境となっています。
ワークショップというプラットフォームを使ってマネジメントする
つまり、「作家の時間」「読書家の時間」は、メソッドというよりは、コミュニティ作りのプラットフォームなのです。そして、その成長過程にあるコミュニティを調整していくマネジメントの一つなのだと考えています。そう考えれば、私が行ってきた『作家の時間』や『読書家の時間』を社会科や特別支援に応用すること以上に、もっと他のコミュニティに応用することが可能なはずです。
そう、私たちにとって最も身近な学びのコミュニティは、学校の先生たち、学校や職員室に応用することです。
先生たちが学習者の一人として成長しようとする学校とは?
先生たちも、「自立的な学習者」の一人として学習のコミュニティに参加し、全ての先生が他者が作ったものではない主体者意識の込もった目標を定め、一人ひとりのペースで成長していきます。そこに「高い」「低い」はなく、一人ひとりの差異が色となっていきます。お互いを尊重し、感謝とケアを送り合い、学校の存在目的である「子どもの学習」や「自立的な学習者への成長」にむかって、緩やかに協働して進んでいきます。
もう語り尽くされた感がありますが、「職員室と学級は入れ子構造である」というフレーズがあります。職員室がトップダウンであれば、学級もまたそうなってしまい、職員室の学びが受動的であれば、学級もまた受動的であることから逃れられません。この入れ子構造から逃れるためには、相当に厚い防衛線が必要で、画一化から自分を守り続けるだけで疲弊してしまいます。
そうであれば、古い皮袋にワークショップを入れるのではなく、新しい皮袋が必要になるのだと思います。学校全体でワークショップのコミュニティ作りを応用していくのです。
学校ワークショップへの問い
・先生一人一人が、主体者意識を伴った目標を設定することができるか?
・学校ワークショップにおける「ミニ・レッスン」や「振り返り」はどうあるべきか?
・学校ワークショップでの「アウトプット(出版)」はどうあるべきか?
・先生たちはポートフォリオを紡ぐことができるか?
・先生たちが学び続けられる学習環境はどうあるべきか?
・教師が作品を作ることをモデルで示すように、校長はどのようにモデルを示すべきか?
・学校運営におけるカンファランスとは、どのような関係で行われるべきか?
・ファンレター(他者からの反応)は、誰から、どのように受け取るべきか?
・成果・成長を祝うためにどうすればよいか?
・持続可能にマネジメントすることができるか?
・一人ひとりの教師がそのような責任に耐え、支え合えるか?
・職員室の多様性が、リーダーの指向に合う教育論に偏ってしまうことはないか?
・「世の中」のトップダウン・マインドに対して、学校を防衛することができるか?
これらの問いに少しずつ答えられるような仕事ができたら良いと思っています。
先生の成長を助ける学校ワークショップ
現在、私は公立小学校の教務主任という立場です。自分も特別支援学級の担任という一人のプレイヤーとして仕事をしながら、学校運営の一端を担っています。
私の勤務する学校は、一人ひとりの先生が自分の持ち味を生かしながら専門性を磨いています。力のある先生ばかりです。一方で、どこか自信なさげに見えることが多くあります。力があるのに「充実感」や「幸福感」が薄いように見えるのです。他の先生、校長、保護者や子どもから、求められている理想の教師像を気にし過ぎているのかもしれません。私自身もどのように声をかけたら良いか分からず、先生たちの背中を見つめるだけになってしまうことも多くあります。
私の教師としてのあゆみと共にいつも傍にいたワークショップの学び方が、子どもたちだけでなく、先生たちを助ける方向に生かせないかを考えています。
(写真は「横浜市自然観察の森」 子どもたちと宿泊体験学習に行きました)