2022年9月23日金曜日

「働き方改革」を超えて、「生き方改革」へ

 訳者の飯村寧史(公立中学校の国語の先生)が昨日発売された『教師の生き方、今こそチェック! あなたが変われば学校が変わる』(アンバー・ハーパー著、新評論)を読者にすすめる文章を書いてくれたので紹介します。

 このページをご覧になっている方は、教師もしくは学校に関わりのある人だと思います。「教師の生き方」と聞いて何を思いますか? また、特に教師の方は、ご自身の生き方をどのように見ていますか?

 本書の原題は”Hacking Teacher Burnout”、すなわち「教師のバーンアウトをハックする」です。バーンアウトといえば日本では「燃え尽き症候群」という言葉に置き換えられます。しかし、バーンアウトの意味するところは幅広く、頑張ってもうまくいかない人も、ワーク・ライフ・バランスがおかしくなっている人も、そして、教師や学校にマンネリを感じてしまっている人も含みます。アメリカでも、多くの教師がこうした症状に陥っているのです。本書はそうした人に向けて、自分の仕事や時間をコントロールし、かつ自分の成長を目指すためのハック(巧妙につくり替えること)を紹介する内容となっています。

 日本に目を移してみましょう。「定額働かせ放題」「ブラック部活動」など、教師の長時間労働が大きな社会問題となり、また、それと連動するように教師の成り手不足が話題となっています。「働き方改革」が叫ばれていますが、仕事そのものはなかなか減りません。

もちろん、退勤時間を早くしようという傾向は確かに強まっています。早めに仕事を切り上げる教師も増えてきました。家庭でゆっくりすることや、趣味を生かすこともできるようになってきたのではないでしょうか。ぜひ本書を読んで、余裕のある時間をただ休み、楽しむだけでなく、仕事や人生のさらなる充実のために使う方法を探ってみてもらいたいと思います。 

一方で、多くの教師は、自分の現在の仕事に必ずしも満足できず、自分の理想とする教師像に近づくために、まだまだ長時間、多くの仕事を抱えながら頑張っていると思います。本書は、そうした人にこそ、ワーク・ライフ・バランスを保ちつつ、自分の成長・向上を楽しみながら、教師として歩む方法を伝え、応援してくれるのがこの本です。

 本書では、今の自分の状態を把握することから始まり、自分自身のブランド(他者が自分をどのように見て、評価しているかということ)を見つめるワークへと進んでいきます。自分のことをよく知ることから始めるので、自分に嘘をつくことも、自分に無理をさせることもありません。必要なのは、ちょっとしたノートと時間だけ。できれば悩みを聞いてくれる人(直接会う人でも、ネット上でも)がいれば、なお良いでしょう。

 そして、次はいま目の前にある困難に向き合います。その克服のために、自分の習慣や強みを見直し、生かしていくのです。直したい悪い習慣に心当たりはありませんか? それを直せばきっと生き方が変わってきます。その手助けが本書から得られます。また、誰にでも強みはあります。たとえ自分で気づいていなくとも。自分のブランドに基づき、強みを生かして仕事をする、まさにそれが理想です。

 さらには、成長し続けるために、自分の可能性を見つけ、それを長期にわたって伸ばす方法、意識的に行動する方法も紹介されます。教師として、まだまだ伸ばせる分野がきっとあるはずです。それを見出せれば、ますます自分が好きになり、結果的に、周りの家族、子どもたち、同僚などが恩恵を得ることにもなるでしょう。

 いかがでしょうか。教師としての自分の生き方に、悩みや疑問がある人はもちろん、さらに自分を伸ばしたいと思っている人にもぜひ手に取っていただきたい本です。考え方も、具体的な手立ても盛り込まれた、実践の書と言えます。「働き方改革」を超えて、「生き方改革」へ。ぜひ本書をお読みください。

 ****

この本の翻訳の過程では、普通は起こらないことが起こりました。飯村さんの奥さんがイラストレーターとして参加し、各章のエキスを描いてくれています。たとえば、

◆本ブログ読者への割引情報◆

1冊(書店およびネット価格)2640円のところ、

WW&RW便り割引だと 1冊=2400円(消費税・送料サービス)

3冊以上の注文は     1冊=2112円(特価=定価の20%引き・送料サービス)


ご希望の方は、①書名と冊数、②名前、③住所(〒)、④電話番号を 

pro.workshop@gmail.com  にお知らせください。

※ なお、送料を抑えるために割安宅配便を使っているため、到着に若干の遅れが出ることがありますので、予めご理解ください。また、本が届いたら、代金が記載してある郵便振替用紙で振り込んでください。

2022年9月17日土曜日

自分のなかに他者の主張の居場所をつくる

 物語や小説といった「フィクション」を読むのは大好きだけど「ノンフィクション」を読むのは苦手だというひとは少なくないでしょう。私も通勤読書で読む本の大半は「フィクション」です。たいていは「フィクション」の筋や登場人物の言動の「面白さ」にひかれて読み進めています。ところが、日常の仕事で読み書きしているのは、仕事柄、圧倒的に「論文」や「研究書」という「ノンフィクション」です。

 これは私の特殊事情というだけではないと思います。多くのひとが日常的に読み書きしているのは「フィクション」よりも「ノンフィクション」の方が多いのではないでしょうか。
『理解するってどういうこと?』の第7章の後半で、エリンさんは次のように書いています。

「私たちは、子どもたちにノンフィクションの根底にあるさまざまな構造を教えないままにしてしまいがちなのです。その結果として、単に時間軸で並べただけの要約や、子どもたちが使った元となる文章を最小限書き換える以上の文章はめったに生まれないのです。すでに研究は明らかにしてくれています。もし私たちが子どもたちにノンフィクションで読んだことを身につけ、活用してほしいと望むのであれば、私たちはノンフィクションの構造の直接指導を国語科だけでなく、各教科の指導に組み入れなければならないということです。」(『理解するってどういうこと?』268ページ)

 日本の国語教科書で言えば「説明的文章」の読み書きに関することになります。エリンさんがこの引用の後に掲げている「ノンフィクションを読む際の障害」という表(269~273ページ)に書かれてある「障害」は、「説明的文章」を読む時に多くのひとが突き当たるもので、思い当たることも多いのではないでしょうか。続けて「ノンフィクションをしっかり読めるようにするには」という表も掲げられて、そこにはいくつかの原則と効果的な指導法が記されています。そのなかに「「理解するための7つの方法」のなかでも、特に、質問する、何が大切かを見極める、解釈する焦点を当てて指導します」というものがありました(276ページ)。三つの「理解するための方法」がとくに「ノンフィクション」の理解でどうして大事なのか。
 哲学者の山口尚さんの『難しい本を読むためには』(ちくまプリマー新書、2022年)は、現代日本の代表的哲学者たちの著作の読み方を具体的に示しながらこの問いに答えてくれます。
 山口さんはこの本のなかで「解釈学的循環」(全体と部分のあいだの循環)が、理解するために何よりも重要だということを繰り返し主張しています。

「「解釈学」は、全体と部分のあいだの循環構造に着目しながら、《どのような仕方で文献や人間や歴史や社会は理解されるべきか》を考察する学問です。したがって「解釈学的循環」という語は、文献の読解のさいに生じるグルグル回りだけでなく、人間や歴史や社会を理解しようとするさいの《全体と部分のあいだの循環》も指します。」(『難しい本を読むためには』89ページ)

 実は日本近代以降の国語教育での読むことの学習指導法も「解釈学」によるものです。それによって読むことが嫌いになったというひとも少なくないと思いますが、山口さんのこの本を読むと、それが「解釈学」解釈のせいだったのではないかと思われて仕方ありません。山口さんが大切だと言っている、理解しようとして対象の全体と部分との間を行ったり来たりして「グルグル回り」すること、を十分に実践してこなかったから、読むことが嫌いになる学習指導が行われることになったのではないか。山口さんの本を読むとそういうことを考えざるをえないのです。山口さんは次のようにも言っています。

「何度読んでもわからない本や一読してつまらない印象の本があるかもしれませんが、これだけで「この本はわからない」とか「この本はつまらない」と決めつけるのは性急です。むしろ、理解に〈循環〉がつきものであるならば、一冊の本をわかるようになることもグルグル回る手間の必要な作業でしょう。」(『難しい本を読むためには』93ページ)

 もちろん、闇雲に「グルグル回り」が奨励されているわけではないのです。全体と部分との「グルグル回り」が大事だいうのは、理解することの原理を読者に銘記してもらうためです。『難しい本を読むために』はその原理をいかす方法もしっかりと示されています。
 その一つは、理解しようとする文章の「前提」(結論を導き出す根拠を示す部分)と「結論」(文章全体の主張(=キーセンテンス)を「腑分け」することです。それだけで文章の「構造」が明らかになるというのです。そのうえで反論や批判を試みることで、その文章の「言っていることをよりはっきりと理解できる」ようになると山口さんは言っています。これが文章の「論理」を捉えるポイントです。
 もう一つ「本全体の話の流れ」をつかむことも、理解するために山口さんが大事だと言っていることです。「文章を読み進めるさい、《いま話の流れ全体のうちのどの段階なのか、そして何が行ばわれているか》を意識すること」ができれば、「《何がわかればOKか》」を考えることができるようになるというわけです。(『難しい本を読むためには』の135ページには、「本全体の話の流れ」をつかむための表が例示されています)こちらは、文章の「内容」を捉えるポイントですね。
 しかし、この二つだけでは、文章の理解が表面的に終わる危険性があると山口さんは言っています。そうならないためには「〈重要性を指摘すること〉」が必要だと言っています。これは、エリンさんの「何が大切かを見極める」という理解のための方法を使うことでもあります。「〈重要性を指摘すること〉」=「何が大切かを見極める」は、どうして文章を理解するために必要なのか。山口さんは次のように説明しています。

「それは読み手である自分の中に書き手である他者の主張の居場所をつくる作業です。たしかに書物や論文を読むさい、初めの一歩としては、《著者は何を主張しているのか》を正確に押さえることが必要不可欠だと言えます。とはいえ、その主張をせいぜい「ただ他人が言い立てていること」としか捉えられないのか、あるいはそれを自分にとって意味のあるものと捉えられるのかは、理解の深度に大きな違いを与えます。そして、もし深いレベルの理解に達したいのであれば、《当該主張はどこが重要なのか》を明確にする作業は避けることができないのです。」(『難しい本を読むためには』162-163ページ)

「読み手である自分の中に書き手である他者の主張の居場所をつくる」ために「何が大切かを見極める」という理解のための方法がある、ということがよくわかります。選択することで、自己の地平と他者の地平が融合するというのですね。そうすることによって、理解したことを自分の言葉にすることができるのです。

「《どこが重要なのか》を自分の言葉で説明できるようになれば、主張は自分のうちに場所を得ることになります。書物の言っていることが〈他人の意見〉であることを超えて〈自分の内部に位置を持つ考え〉になる――このときはじめてその本はきちんと理解されたことになります。」(『難しい本を読むためには』179ページ)

 そのために「具体例をあげる」ことが大切だとも言っています。ですが、自分では最適だと思える「具体例」も自分ひとりではその良し悪しはなかなか見えてきません。山口さんは「《そこで役立つのだが読書会だ》」(199ページ)と言って、同じ本を読んだ他のひとと「具体例」を出し合い、議論することの重要性を指摘しています。これは「修正しながら意味を捉える」という理解のための方法を駆使することになると思います。
 こうして私は、山口さんの著作に、「読み手である自分の中に書き手である他者の主張の居場所をつくる」という、あらたな理解の種類を教えてもらったことになります。そしてそれは、説明的文章や論説・評論文をはじめとした「ノンフィクション」を読むために、とても大事な理解の種類です。
 

2022年9月10日土曜日

ジャズの掛け合いのようなやりとり vs 教師の準備でつまらなくなる話し合い

 7月16日の投稿「本について語り合う『幸福』」で紹介されていた『読書会という幸福』(向井和美、岩波新書)をじっくり読みました。(今日の投稿タイトルの中の「ジャズの掛け合いのようなやりとり」も、以下に紹介するように『読書会という幸福』の中で使われていた表現です。)著者の向井氏は、「もしかしたら、わたしがこれまで人を殺さずにいられたのは、本があったから、そして読書会があったからだと言ってもよいかもしれない」(『読書会という幸福』p.7, Kindle 版)という少し物騒な?文も記しています。殺人を防ぐ効果まである?読書会ですが、向井氏にとっての醍醐味は、ほかの人の発言を聞いている間にどんどん浮かんでくる新たな視点や考えのようです。

 例えば、以下のような文が出てきます。

「ほかの人の発言を聞いているうちに、『なるほど、そういう捉えかたもあったのか』『わたしはこのページのこの言葉がすごく胸に響いた』と、話したいことがどんどん湧いてくる。それこそが読書会の醍醐味であり、これは同じ本をみなで読んだからこそ味わえる連帯感だ」(『読書会という幸福』p.16, Kindle 版)

 この記述から思い出すのが『イン・ザ・ミドル』の中に出てくる「ダイニング・テーブル」です。読むことを教える方法を模索する中で、『イン・ザ・ミドル』の著者アトウェル氏が、当時の自分の教え方について、「とりわけ、あのダイニング・テーブルがないのは致命的でした」と振り返っています(『イン・ザ・ミドル』43ページ)。

 「あのダイニング・テーブル」とは、ある日、自宅に友人が来て、夕食の後に、その友人がアトウェル氏の夫とひたすら語っていた場です。アトウェル氏は、その時のことを次のように描写しながら、自分の教室を思い浮かべます。

 「その空間には、文学が満ち溢れていました。文学に満ち溢れた場では、私たちはひたすら語り続けます。そこには教師からの課題も、レッスンプランも、教師用マニュアルも、付箋もディスカッションのための質問も、何もいらないのです。必要なのは、語り合う文学好きの人が、自分以外にもう一人いること、それだけ。この会話は、強制されたものでも、表面的なものでもありません。議論、エピソード、観察、冗談、情報交換、好きな箇所とそうでない箇所とその理由……生き生きとした話題で満ちていました。このダイニング・テーブルでの会話は、会話をしている人と一緒に、文学の世界に入り込む空間と場所になっていました」(『イン・ザ・ミドル』40ページ)

 「この経験から私は考えました。このダイニング・テーブルのような場所を教室に持ち込み、すべての生徒たちが椅子をもってきて居場所を見つけるには、どうすればよいのだろう?」(『イン・ザ・ミドル』40ページ)

 アトウェル氏は、ダイニング・テーブルに必要なのは、「語り合う文学好きの人が、自分以外にもう一人いること」であり、「教師からの課題も、レッスンプランも、教師用マニュアルも、付箋もディスカッションのための質問も、何もいらない」と書いています。

 でも「何もいらない」と言われると、「確かにそうかもしれないけども、本当に何もなくて、うまくいくのですか?」という思いも以前はありました。生徒たちに「いい話し合い」をしてほしいと思い、そのために、テキストのポイントから話し合いの深まりそうな質問をあらかじめ考えておいたり、背景となる情報を準備したり等、教師がテキストについての準備を頑張れば、成功確率が上がるように思っていたからです。

 しかし、自分のうまくいかない経験から、話し合うテキストについての準備を頑張っても、成功確率は上がらないことを学びつつあります。

 『読書会という幸福』でも、司書でもある著者が、生徒たちの読書会を成功させようと、苦労して準備するものの、うまくいかない例が以下のように書かれていますが、情景が浮かぶような気がしました。

「生徒たちは、図書委員になって初めて読書会というものを経験する。本を読んで意見を交わすことに慣れていないため、なにをどう話していいかわからない。それならば、と進行役の生徒を決めてあらかじめ本を読ませ、話し合うポイントを十ほどピックアップさせて、たたき台を作ってみた。それを本と一緒に前もって配り、考える準備ができるようにしておくのだ。ところが、そうすると実際の読書会では「問題と答え」のような単調なやりとりが続くだけで、そこから話し合いが生まれるでもなく、授業の延長みたいでおもしろくないのである。<略>読書会の醍醐味である『相手の言葉を聞いているうちに、言いたいことが湧き出てくる』というジャズの掛け合いのようなやりとりに進展しないのだ」(『読書会という幸福』p.54, Kindle 版)

*****

 アトウェル氏は、ダイニング・テーブルでの会話について、「文学のある生活から自然に生まれる、本、作家、文体について家族や友人と語り合うあの会話が、教室にはまったくありませんでした」(『イン・ザ・ミドル』43ページ)と、リーディング・ワークショップを始める前の授業について記しています。

 「自然に生まれる」ものであれば、教師にしろ、参加者の一人にしろ、誰かがポイントの整理や質問の準備をして生まれるものではありません。逆に準備をすることで、話し合いの筋書きが定まり始め、「自然に生まれる」余地が減少し、つまらないものになっていくのかもしれません。

 そうなると、教師ができる準備は、「話し合いが自然に生まれる土壌づくり」になり、アトウェル氏によると、その土壌は「文学のある生活」ということになります。

 確かにその通りだとは思いますし、その方法はリーディング・ワークショップ関連の本でも、「本についての話し合い」に限定されずに多々紹介されています。

 「本についての話し合い」に焦点をあてて考えると、幸い、著者の向井氏は「三十年以上続く読書会に所属する身として、話し合いを充実したものにするための方法をいくつか挙げてみた」ということで、長年の経験を踏まえて以下を教えてくれています。

 これらは話し合いの準備や話し合い中の「チェックリスト」として使うこともできそうです。

①できるだけ欠席しない

②課題本は必ず読み終える

③ほかの人の意見を否定しない

④課題本をリスペクトする

⑤ひとりで喋りすぎない

⑥雑談をしすぎない

(『読書会という幸福』p.19~p.22, Kindle版。各項目について説明されています)

 (上記はもちろん「対話できる時間」があることが前提です。『読書会という幸福』の中では、他の読書会への潜入記録もあり、それぞれの読書会に参加したプラス面や、それぞれの読書会にはそれぞれのやり方や歴史があることも十分に認めた上での感想なども書かれていました。「全員がひととおり感想を言うだけで一時間近くかかってしまい、読書会の醍醐味ともいえる意見交換がほとんどできなかったのは残念だった」(『読書会という幸福』p.36, Kindle版)という記述もありました。「掛け合い」の時間がなければ、それぞれの「発表」で終了となってしまいます。)

*****

 2016年9月16日の投稿「ブッククラブのいろいろな活用法(外国語も含めて、他教科への応用の可能性)」で多様なブッククラブを楽しみ、活用していることを紹介してくれた知人は、この日の投稿の中で、リーディング・ワークショップ(英語の授業)でのブッククラブについては、「実に楽しげ、笑いあり、涙ありの充実した時間で、学生たちは皆この時間が好き」と記しています。

 私はこの知人に、今まで何度も、「どうやったら、実に楽しげ、笑いあり、涙ありの充実した時間がつくれるのですか」と尋ねてきました。でも、いつも「特に何もしていない、それぞれが気になった箇所を選んで語るだけ」というような感じの答えが返ってきます。そして、私はいつも納得できなくて、「何か成功に直結するような準備でできることがあるはずだ」と思い、しばらくすると、再度、同じような質問をして、再度、同じような答えをもらっていました。

 その答えの理由がようやくわかった気がします。

 そういえば、この知人は、最近、学生がある英語の絵本の英語の読み取りについて質問にきて、話しているうちに、その学生のバックグラウンドと絵本の内容が重なっていることがわかったそうです。「質問したかったのは間違いないだろうけど、それよりも、読んだ本について、僕と言葉を交わしたかったんじゃないかと思った」と後日、振り返っていました。

 何か言いたいことがある本に出合える、そしてそれについて語る場があり、語る人がいる。この知人の準備は「話し合いが自然に生まれる土壌づくり」で、それが実を結んでいるだけ、このことを忘れないようにしたいと思いました。そして土壌ができてきたところで、『読書会という幸福』で紹介されていたような、話し合いを充実したものにするための方法を少しずつでも実現していければと考えています。


2022年9月2日金曜日

改訂版『読書家の時間』を読んで

 兵庫県の小学校の先生の北元さんが、以下の感想文を送ってくれましたので、紹介します。

*****

  夏休みの読書として、『読書家の時間』『ようこそ一人ひとりをいかす教室へ』『あなたの授業力はどのくらい?』『社会科ワークショップ』の並行読書に挑戦してみました。

現在読み終えたのは、『読書家の時間』『ようこそ一人ひとりをいかす教室へ』の2冊ですが、どの本にも共通していたことは、「子ども一人ひとりの学びを保障する」「どの子にも、その子らしさを伸ばすことができるのであり、それを手伝うのが教師の仕事だ」ということです。

その中から、今回は『読書家の時間』についての感想を書かせていただきます。

 PLC便りやWWRW便りで紹介されている本は、どの本も「読んでよかった」「これも読んでみたい」と思うものばかりですが、この本も、お薦め1冊です。

 この本には、「読書家の時間」とは何か、進め方、その効果が具体的な例とともに書かれています。

「そうそう、そういう子どもはいます。そんなとき、どうされたのですか?」という疑問にも、余すところなく実践例で答えてくれています。目の前の子どもたちと試行錯誤しながら作ってこられたフレームだということがよく分かり、とても信頼できる1冊だと思いました。

紹介されている子どもの姿に、強く憧れます。こんなことをしてあげることができたら、きっとその子は充実するだろう、とわくわくします。同時に、これまで担任してきた子どもたちのいろいろな姿を思い出すと、申し訳ないことをしてきた気にもなります。

具体的な足跡の言葉から、「やってみよう」「自分にもできるかもしれない」と実践への意欲が湧いてきます。等身大の豊富な具体例は、この1冊をバイブルに『読書家の時間』に取り組むのに十分な情報です。


しかし、この本はいわゆるハウツー本ではありません。

教科を問わず、「一人ひとりを育てる」「自立した学び手を育てる」大切さを考えさせてもらえる本です。この本では、国語を切り口として語られているだけです。

これまで、私は国語の学習で教師や指導書の解釈を子どもに押し付けるような読解授業は避けてきたつもりです。

たとえば、1学期の6月から臨時担任をした2年生の『スイミー』では、(校内事情のため、急遽2か月間限定の担任)「質問づくり」を取り入れ、学級みんなの共通問題をつくり、話し合いました。また、共通問題の設定にいたるまでは、5時間ほどの独自学習(一人読み)の時間をとり、音読、自分の?を調べ、文章との対話を書き込むなどの学習に取り組んでもらいました。

独自学習では、作品に出てくる海の生き物を図鑑やタブレットで調べてノートに絵を描いたり、文中の言葉から感じたことを教科書やノートに書き込んだり、各自が自分の方法で読むことを楽しめていたと見ていました。

共通問題作りも、各班でワイワイガヤガヤと意欲的に考えていました。共通問題についての話し合いも、自分の理想の姿には遠いものの、「もっとやりたい」という声も出るなど、それなりに主体的に、少しは深く学べた感じもしていました。『スイミー』を学習した後は、レオ・レオニさんの他の作品を自由に2時間読みました。

『スイミー』のような文学教材だけでなく、説明文教材も、大筋としては似たような形で、教科書の作品を共通教材として扱ってきました。まれに、教科書の代わりに自分で選んだ作品を扱うこともありましたが、共通教材であることには変わりありません。

私は、同じものをみんなで見ないと、「ああでもない、こうでもない」という議論や深まりが得られないと考えていました。一つの事でも、その子によって見方・考え方やアプローチの仕方、感性の働かせた方が違うことが発見できます。そのことが、教師の児童理解の広がりや深まりになり、子ども同士のよさの認め合いにつながると考えていました。

 

ところが、『読書家の時間』は違います。一人ひとりが自分に適切で必要な本を選んで読みます。なぜ、こんなに手間暇のかかることをするのでしょうか。

それは、一人ひとりに「読む力」をつけたり、読書生活をとおして自分の世界を広げる生活を身に付けさせり、互いのよさを見つけ、認め合ったりするためだ、と私は、理解しています。

今までの国語の指導の仕方では、一人ひとりに本当に「読む力」がついたのか、見取ることができていません。「本を読む」という行為が、その子の成長にとってプラスになっているのか、どういう働きをしているのかなど、まったく見えていませんでした。見ようという視点すらもっていませんでした。

一人ひとりの「読む力」や「読書生活」に、1年間をとおして継続的に丹念に指導と評価を繰り返していく『読書家の時間』こそ、まさに、学習指導要領に謳われている「社会に開かれた教育課程」であると思いました。子どもたちに、読む力と読む力を自分で伸ばす方法、読むことの価値について教えてくれるフレームワークだからです。

学習指導要領では、「指導と評価の一体化」も強調されています。本書には「本当の評価とは、自分の目標に近づくための助けであるはずですので、子どもにとっても教師にとっても楽しいものでなければなりません」と書かれています。本当にそのとおりだと思いますが、こんな当たり前のことが実はできていません。

それは、一人ひとりをいかす/育てるのが教育であるという認識が、私に欠けていたからだと思います。

「楽しい授業」「よい授業」(「楽しい」や「よい」の定義も必要でしょうが)をすればよいと思っていた私。教科書「で」教えるといいながら、教科書の呪縛から解き放たれていなかった自分。『読書家の時間』は、そんな自分を映し出してくれる1冊でした。

「壇上の賢者から伴走者へ」「心理的安全性からはじめる」等、本書にはこれまの自分の痛いところをつく言葉が随所にありました。裏返せば、私にとって、教師のはたらきとは何か、教室にはいかなる文化が必要かを見直させてくれる貴重な1冊にもなったということです。

 

私は、今年度は担任をしておりません。6年の理科の教科担任として授業があるだけです。6年生は4クラスです。大規模校の中ですぐにワークショップ形式の学習を取り入れることは、難しいと思います。

次年度、担任になったとしても4~6クラスある学年の中で、いきなり『読書家の時間』を始めることも、単学級や2クラスの学校とは違い、決して簡単ではありません。しかし、大切なのは、方法ではなく「一人ひとりをいかす/伸ばす」ことだと思います。そのために何ができるか、思い切って変えられる方法があるのではないか、ということを学年のスタッフや管理職と考えていく必要があると思います。

理科は、自分に任されていますので「一人ひとりをいかす/伸ばす」指導のフレームワークを試行錯誤しながらつくってみたいと思います。

 

『読書家の時間』のような、教育の本質を問う著書を、執筆、出版、紹介してくださる方々に本当に感謝します。並行読書している『社会科ワークショップ』や『あなたの授業力はどのくらい?』も早く読み終えたいです。

『読書家の時間』は、これまで読書や児童書にあまり関心がなかった私に「本を読みたい!」いう気持ちを起こさせてくれました。本書に紹介されている絵本や児童書を今はよみたくてうずうずしています。時間に余裕のある夏休みが終わってしまうのが、残念です。

これまでの学習指導や評価に、何かひっかかりを感じておられた方、国語や読書にあまり関心のなかった方、『読書家の時間』を読まれることをお薦めします。

購入希望者への割引情報: https://wwletter.blogspot.com/2022/06/blog-post_24.html