2016年9月30日金曜日

ブッククラブのいろいろな活用法(外国語も含めて、他教科への応用の可能性)


先日のことです。「それなら、ブッククラブで読めば?」という発言に、一瞬、「え??」という感じで、会話が止まりました。


これは英作文の教科書で、「比較と対照」とか「時間順に並べる」等の、段落構成方法の説明が複数出てくるので、その説明を授業でカバーしていると時間がなくなる、と一人の人が話したことへの助言でした。「それなら、ブッククラブで読めば?」と言った人の説明は以下の通りでした。



 「今、自分の授業では、テキストを使って、スピーチとプレゼンを教えているが、その説明は学校では行わない。自宅で読んできてもらって、学校では、読んできたものについて、ブッククラブをして、それから、そこで学んだことを使ってスピーチとプレゼンの練習やカンファランスをしている。ブッククラブで出てきたことを聞いていると、こちらが要点としてまとめようと思っていることが、すべて出てきている。そうであれば、教師が一方的に、教えるポイントをまとめたり、決めたりして、教えなくていいのでは?」



 面白いと思いました。というのは、「ミニ・レッスン」のバリエーションとして、ブッククラブを使っていると思ったからです。ミニ・レッスンのトピックを決めて、ミニ・レッスンで教える代わりに、ミニ・レッスンの題材を学習者に渡してしまっているようにも感じました。低学年には難しいかもしれませんが、学習者の年代や教える内容(やそのためのテキスト)によっては、応用可能な方法のように思います。



 その人と話していると、ブッククラブを、日常的に、かなりいろいろな方法で使っていることが分かりました。



 そこで、他教科にもいろいろ応用可能だと思ったので、「『RWWW便りで紹介したいので、例を出してください」、とお願いしたところ、上以外に、現在進行形で使っているブッククラブとして、以下を教えてくれました。



1 (自分の)大人の学びの場としてのブッククラブ


オフ会とも連携して、同じ仕事の人とブッククラブを楽しみ、スキルアップ。同時に専門的な知識も楽しく深める。



2 リーディング・ワークショップ(英語の授業)でのブッククラブ


 「実に楽しげ、笑いあり、涙ありの充実した時間で、学生たちは皆この時間が好き」だそうです。



3 共通のテキストを使う英語の授業でのブッククラブ



 これには二つのパターンがあるそうです



1)一つは上で紹介した、スピーチやプレゼンの例です。つまり、ある特定の伸ばしたいスキルがあり、そのパフォーマンスを高めるために、参考とするために読み、ブッククラブをします。



2)もう一つは、RWでよく行われているブッククラブと少し主眼の置き方が異なる、「外国語学習」に特化したブッククラブです。



このブッククラブの場合、「読んできて学んだ言語を使うことが、随所に織り込まれて」いるようです。このブッククラブは、学んでいる外国語で再話することから始まりますし、読みやすいような準備シートも作っているそうです。



 またブッククラブの要約と報告を授業内で行い、そこから出てきたポイントをクラス全体で行う、この一連の作業を学んでいる外国語で行えるようにサポートしています。



(⇒ ガイド読みならぬ、ガイド・ブッククラブ、みたい、と私は思いました。)



 ある意味、「教科書のブッククラブ的使用」と言えるかもしれませんが、大きく違うところは、与えられた教科書を使ってブッククラブをしているのではありません。

 話を聞いていると、上のようなガイドいっぱいのブッククラブに適したテキストで、かつ内容(コンテンツ)がブッククラブのネタになるものを、かなり注意深く選択しています。



 いろいろな活用を教えてくれたこの人は、日常的に自分で複数のブッククラブを行っていて、その魅力を体感しているからこそ、「ブッククラブ活用」を、いろいろな場面で応用・模索しているように思いました。



 そういえば、先日、英語の先生の集まりで、ピーター・レイノルズの『っぽい』の英語版のブッククラブで大いに盛り上がったのですが、ブッククラブで他の人と学ぶ楽しさを一度体験すると、教室で再現したくなるのかもしれません。

 

★ブッククラブの楽しさを知らない方は、ぜひ、一度、ブッククラブ体験を! 『読書がさらに楽しくなるブッククラブ~読書会より面白く、人とつながる学びの深さ』吉田新一郎著、新評論、2013年を見ると、具体的にイメージしやすいです。

2016年9月23日金曜日

「何も書くことがない!」への対応の仕方


9月から作家の時間(WW)に取り組み始めた先生から、「ほとんどの子たちは順調に書いていますが、数人の子たちが何も書くことがない状態で困っています。何かいい対応の仕方があったら教えてください」というメールをもらったので考えました。

1)子どもたちが好きなこと、得意なこと、学校以外のところでよくすることなどなど、子どもたちについて知ることがまずは考えられます。ある程度以上の学年であれば、子どもたちを対象にアンケートを取れますが、低学年なら保護者に協力してもらうといいかもしれません。

2)カンファランスでは、その子について聞きまくります。好きな本は? 作家は? テレビは? 遊びは? 興味関心は? 趣味は? 自分にとって大切な人は? 場所は? これまでに書いたものの中で、自分がいいと思っているものは? などなど ~ これら自体、上記のアンケートのテーマになり得ます。要するには、アンケートないしインタビューで、子どもについて尋ねてあげるのです。★

ここまで書いて、このブログでは過去に何回も、このテーマを扱ってきたのを思い出しました!

3)たとえば、サッカーがとても好きだということが分かったら、それについて根掘り葉掘りインタビューします。そして、「それってとても面白いよ。ぜひ書いてみて」と誘ってあげます。『ライティング・ワークショップ』の「はじめに」のジェレミのように。

4)なかなか書く題材が見つからない子が何人かいる一方で、多くの子たちが書けているなら、その子たちに作家の椅子で発表してもらいます。「ああいうのを書けばいいんだ」「あれなら、自分も書ける」「ああいうの自分も書きたいな」というモデルが多様に提示されることが刺激になります。(それは、教師の誘いよりも、インパクトがあるぐらいです。立場が近い子どもがすでにやってしまっていることなので。)

5)教師と子どものカンファランスではなくて、子どもたちに話させる(会話をさせる)ことも、インパクトがあります。主には、問いかけに対して答える形で自分の書きたいものが生まれることが少なくありません。従って、書く時間は静かにするのではなくて、特に書けない子たちにとっては、自分のアイディアを(興味やこだわりや趣味等について)聞いてもらい、それに対して質問をしてもらうことで、自分は何を知っているのか、何が書けるのかを発見できるのでとても価値があります。要するに、ピア・カンファランスです。

6)書き手はどこから/どうやって題材(書くアイディア)を集めているのか、というミニ・レッスンをやることも大切です。それも、本物の作家たちのモデルを紹介しながら。(『作家の時間』の第5章「題材探し」を参照してください。詳しく紹介してあります。)

7)時間制限をして(約5分)、各自で(あるいは小グループで)、書ける/書きたい題材のブレーンストーミングをし、その後で相互に紹介し合い、最後に出されたものの中から自分が書きたい題材を自分の作家ノートに書き足します。

8)教室のWWの時間だけ書く努力をするのではなくて、作家ノートを持ち歩き、書けるテーマを書き出すように提案してみます。自分は書き手であるというアイデンティティをもってもらうこと★★は、とても大切です。提案するだけでは弱いので、教師が自分でモデルを示すことが先決かもしれません。

9)そのアイデンティティをもってもらうために何よりもインパクトがあるのは、自分が作家の椅子に座って発表し、友だちの反応(ファンレター)をもらうことです。そういう機会を早く(可能なら度々)もってもらえるように、最大限のサポートをします。

他のアイディアを実践している方、他のアイディアが浮かんだ方、ぜひ教えてください。


★ 日本の作文教育を含めた国語教育は、子どものことを知らなくても教えられてしまうことが、一つの特徴なのではないでしょうか? それに対して、WWRW(読書家の時間)も子どもたちのことを知ることがスタートラインです。この違いは、大きな違いを生み出します。

★★ 書き手を育てるうえで、書き手としてのアイデンティティを確立することは欠かせませんが、この考え方も日本の作文教育には存在しません。いい作品を書くことには努力していますが。


2016年9月16日金曜日

「わからないこと」に触れてわかる歓び

 『理解するってどういうこと?』をエリンさんが書くきっかけになったのは、小学校2年生のジャミカの、「でも、誰も、わかるってどういうことか教えてくれたことはなかったわ」という言葉でした(4ページ)。この発言の重みによろめいたエリンさんは「理解というのは、読み手が、筆者の意図したメッセージと自分がこれまで知っていることを結び付けて、自分なりの解釈をつくり出そうとするときに起こる」という考えは持っていましたが、それをジャミカに言っても納得は得られないと思い、それは言いませんでした。そのかわりに、その翌日から足を使って、ジャミカら子どもたちは日常的にどのような「理解」経験をしているのか(させられているのか)を調べます。エリンさんは、自分たちが教室でやっているのは子どもたちが「わかって」いたのかを「チェック」しているだけだ、ということに気づきます。理解するということの「子どもたちのなかに眠っている知的能力に見合った捉え直し」が必要だということに思い至るのです。
 ジャミカの爆弾のような発言に対するこのエリンさんの「初動」が、実はきわめて柔軟で大切な理解行為であると教えてくれたのが、尹雄大さんの『やわらかな言葉と体のレッスン』(春秋社、2016年)でした。

・何かを見るとき、“それ”を見ているのではなく、“それと自分との関係”を見ている。そのため人は自分の見たいものを見たいようにしか見ていないのです。(107ページ)

 エリンさんがもし、ジャミカの言葉と自分(のこれまでの知識や体験)との関係だけにこだわっていたら、そもそもジャミカの言葉に打ちのめされることはなかったでしょう。その言葉を「わからないこと」として排除し、『理解するってどういうこと?』は書かれずに終わったかもしれません。「わかる」歓びの探求に向かうことはなかったはずです。
 尹さんは「明るさのもとでの理解を「認識」とするならば、光の届かない領域の知覚を「把握」と呼びたい」と言います。彼の言う「把握」とは「自分が移動して触れるという運動の中で『そのものが何であるか』を理解していく」ことで、「そこには正解はなく、ただ自分にとってそれがなんであるかを知る」ことです。自分にとってその対象が何であるかを、自分の体感を含めて「わかる」ということだと思います。

・「考える」ことを頭だけに任せ、ともかく答えを知ることに重きが置かれている時代です。誰もがそのようなやり方のみが「考えることだ」と思うのであれば、そこで出された答えは似たり寄ったりになってしまうでしょう。実際、頭では「多様性が大事だ」とわかっていても、いったん事が起きると、すぐに賛成か反対かと意見を割り切りたがる傾向があるようにも思います。
 だからこそ、わからないことを割り切ったり、別の考えに置き換えて済ますのではなく、わからないことがあったならば、早わかりをしてしまわない。結論めいた言葉を読み、自分の安心できる内容を確認して終わらせるのではなく、次のページをめくってみる。そうすることで初めて膝を打つような納得が訪れ「考える」ことが開始されるのではないでしょうか。こうした体験は情報や知識、概念を知るにとどまらない体の感覚を伴うだけに、「わかった」という頷きは深いところで生じるはずです。(『やわらかな言葉と体のレッスン』200ページ)

 私もこの原稿を書くために、先々週読み終わった『やわらかな言葉と体のレッスン』を引っ張り出して、既に印を付けた箇所を前後も含めて、初読では気にもとめていなかった箇所でも改めて重要だと思ったところにマーカーで印をつけたり、ノートに手書きで書き写したりしました。引用した箇所はそのうちのごく一部です。
 半ば強引に『理解するってどういうこと?』のエリンさんの言葉と尹さんの言葉を重ねてみるということも、尹さんの言う「自分が移動して触れる運動」の一つではないかと自分のやったことを勝手に意味づけています。

・わからないことを恐れ、闇を排除したくなるのは、それが言葉に、概念に置き換えられないからです。(180ページ)

・わからないことに恐怖するのは嘘ではない。けれども、わからないことに不安を感じつつも何があるかわからないことに期待や歓びを覚えるというのも確かです。(213ページ)

「わからないこと」「闇」を排除するのではなく、そのものに踏み込む勇気を持って「運動」することが「わかる」ことなのだということを二人の本は伝えてくれます。その行為が、私たちのなかに「眠っている知的能力」を引き出し、「わかる」という「歓び」をもたらしてくれるのだとも。尹さんが教えてくれた「自分が移動して触れるという運動の中で『そのものが何であるか』を理解していく」ことは、私たちが大切にしなくてはならない「理解の種類」の一つなのです。きっとそのことによって、自分のなかのそれまで見えていなかった部分に触れることができ、それがくっきりと見えるようになるという「宝物」が得られると思います。

 

2016年9月9日金曜日

【続】 (書くこと、読むことについて)たった一つのことしか、教えられないとすると?


 「読む場合、選書以外に大切なことは何でしょうか?」と、前回のRWWW便りに書かれていました。

  ここ2回のRWWW便りは、「(書くこと、読むことにおいて)たった一つのことしか教えられないとすると?」でしたが、「たった一つシリーズ(?)」でもう1回書きます。



1)  前回のRWWW便りで、書く題材の選択の大切さを読みながら、『ライティング・ワークショップ』(新評論、2007年)の本文最後のページで、この本の締め括りとして、ナスディジという作家の言葉が引用されていることを思いだしました。
 「私は言語使用に関する規則は知らないし、読点をどこに置くべきなのかも知らない。<中略>でも、書くときに自分の心をどこに置くのかを知っている」(156ページ)
 初めて『ライティング・ワークショップ』を読んだときは、どうして、この引用が最後に来たのか、どこか腑に落ちないところもありました。でも、WWやRWを学ぶなかで、「選択」があるから、書きたいことを掘り起こしたり、培ったりしながら、その人しか書けないものがかける、その価値を少しずつ理解できてきた気がします。

2) 「読む場合、選書以外に大切なことは何でしょうか?」という、前回のRWWW便りの問いですが、少し前までの私の答えは、「本に引き込まれること・反応すること」でした。

 それは『リーディング・ワークショップ』(2014年、新評論)の中の以下の文に、強い印象を受けたからです。

 「ここまでに、優れた読み手が習慣的に行っている読み方を子どもたちに見せるための多くの方法を提示しましたが、その中で最も大切なことを一つだけ取り上げるとすると、それは、その本に引き込まれているという見本を示すことです」(56ページ)

 本に引き込まれることは、今もとても大切に思っています。もっとも、私は、たまに降りる駅を乗り越してしまいますが(苦笑)。

 とはいえ、前々回のRWWW便りで「書くことについて、たった一つのことしか教えられないとすると?」を書いたあと、「リーディングでたった一つしか教えられないなら、『読者意識』」も悪くないかも?」と思い始めています。

 リーディングで読者意識?というのは、ヘン? どういうことなの?? と思われるかもしれません。


 読者意識というよりも、「誰のために、誰を意識して読むのか」、と言ったほうがいいのかもしれません。当然、「誰のために、誰を意識するのか」によって、読む目的も影響されますし、読み方も変わってきます。



 私の読書生活を振り返ると、「誰のために、どういう目的で、読むのか」によって、読み方を変えています。そして「読み方を変えることができる」というのは、かなりクリティカルが気がします。

 このことを考えさせてくれたのは、リーディングのカンファランスに特化した本で、誰のため(誰を意識して)に読むのかということについて、自分自身、自分と関係のある人、会うことのない人の3つに分けています。

①ですが、自分のために読むときは、自分が読み方を決めていくことが多いです。


にですが、たしかに少し考えてみると、ブッククラブの準備で読むとき、クラスメートに本を紹介するために読み直すとき等、読み方が変わります。

については、この本では、例として「テスト」を挙げています。テストの読み方が要求されるわけです。

  「誰」を意識することによって、読み方が変わることを子どもたちが意識できる、そして必要に応じて読み方を変えることができる、こんな、ある種の「読者意識」を持てることも、かなり大切な気がします。

*****

上で紹介した本は、Conferring: The Keystone of Reader's Workshopです。Patrick A. Allen著で、2009年にStenhouseから出版。 6275ページに、目的と読者(purpose and audience)について、詳しく説明されています。そして、それぞれの場合のカンファランスについても述べられてます。

 


2016年9月2日金曜日

読むことについて、たった一つのことしか教えられないとしたら?

前回のテーマは、「書くことについて、たった一つのことしか教えられないとしたら?」でした。

あなたは何を教えますか?

私も考えました。
そして、断然、「選題(書く題材)」についてだと思いました。

すでに、「読み直すこと」と「読者意識」が先週紹介されていますから、これで3つ目です。

ぜひ、あなたの選択を教えてください。
「多様さ」こそが、WWのいいところです。
作文教育には、この多様さがあるでしょうか?
自分が何を大切にするかを明確にすることは、とても重要です!

さらに、私は考えました。
先週の質問を「読むこと」に置き換えたらどうなるかな、と。

私の答えは同じでした。「選書」についてです。

選書と選題抜きでは、自立した読み手にも、自立した書き手にもなれないと思うからです。それがなければ、読むこと/書くこと自体も存在しませんし、読み続ける/書き続ける可能性も限りなくゼロに近くなってしまいます。
(ひょっとしたら、日本の読解教育と作文教育は、それをやり続けている??)

前回も登場していたNancie Atwellという先生は、WWRWの実践者で、それらの普及にアメリカで(というか英語圏で)火をつけた人の一人です。
彼女が、読むことを教える際に大切な3つのことをまとめてくれています。★

① 教室内にあるたくさんの本 ~ 教室のある充実した図書コーナーはRWの必需品です。その前提として、学校図書館が充実していることも。
② 子どもたちに読むものの選択を提供すること ~ 選択を提供しなければ、夢中で読みふける状態は得られません。夢中で読めれば、読解力も、読むことの面白さも、そして成績も自然についてきます。
③ 子どもたちを鼓舞する教師/教え方 ~ 日本のあちらこちらに充実した図書館はすでにありますが、子どもたちの読書量や読む力が向上しているという話はなかなか聞きません。(どちらかというと、それらが落ちているという話は聞きます。)
そこで、欠かせないのが読むことに情熱をもった教師の存在です。教え方で、いまあるベストはRWです。それは、上記の①もも含んだ教え方ですから(その意味では、教科書中心の教え方は、すでに無理なことを意味しています。選択を提供していませんから)。
 アットウェルさんは、マイクという中学校1年生の男の子の例を紹介してくれています。彼は、読むことにまったくの関心がなく、アットウェルさんの学校に入学してくる前の年は一冊も本を読まなかったし、読みのレベルも学年よりはるかに低いことがわかっていました。しかし、アットウェルさんはマイクの興味関心(スポーツ、コンピューター・ゲーム、ファンタジーなど)に応える形で、彼が自分にピッタリの本を選べるようにすることで(読みのレベルも乗り越えて)年間に36冊もの本を読めるようにしてしまったのです。それによって、彼の思考力、一般的な知識、共感能力等は伸び、誰もが認めるいい生徒にも、いい人間にもなったということです。

国語の授業で教師ががんばって「言語の技術」を教え続けることで、に書いたようなことのどれだけが得られているでしょうか? (教えているはずの「言語の技術」のどれだけが、身についているのかも検証が必要かもしれません。上で書いたようにを踏まえたなしでは、身につかないことがわかっているからです。)★★

それほど、選書(そして、書く場合は選題)が大切なのです。
そして、その後に書く場合は、「読み直すこと」や「読者意識」やその他のことが。
読む場合の、選書以外に大切なことは何でしょうか?



★★ ①~③について、詳しくは『リーディング・ワークショップ』と『読書家の時間』を参考にしてください。①と②については、上記の両方の本の第2章に、本の集め方なども含めて詳しく書いてあります。