2024年6月28日金曜日

「子ども研究」のすすめ 特別支援学級の作家の時間より

(全ての人物の名前は仮名です。障害特性や学習場面等にも、ある程度のフィクションが入っています)


4・5月は子どものアセスメントがしやすい学習を行う


 今年度も特別支援学級の作家の時間は緩やかに続いています。去年の卒業生が抜け、中学年の新しいメンバーも加わって、新しい体制で進んでいます。メンバーが変わると、また新しい発見や課題と出会い、その年その年で違った様相を見せるのが、作家の時間のおもしろいところです。


 今年は、4月は子どもの様子を把握するために、春の季節の写真に載せて詩を作りました。子どもたちの好きなものやこだわりのポイント、認知特性をよく見てアセスメントする期間としました。5月の半ばから6月の半ばは、作家の時間の楽しさを知るために、自由に書きながら、その子の強みと課題を掴んでいきました。どんなジャンルが書きやすいのか、どんな媒体なら書けるのか、試していきます。特別支援学級の子どもは、認知的にも情緒的にも、凹凸のある子どもが多いです。どんな環境ならば、自分らしく表現できるのかをアセスメントしていきます。本校は春に運動会を行うので、運動会が終わるまでは子どもをしっかり見ることに時間を使ったように思います。


「良樹くん研究」想像を膨らますのは気持ちが悪い?


 今年も個性的でユニークな作品を作ることのできる子どもたちが集まっています。4月に行った詩の単元ですが、児童詩というと、よくあるのが自然物や身近なものが、擬人化して話したり動いたりするような物語性のあるものが書かれます。僕自身も、いつもながらの工藤直子の『のはらうた』からあまり考えもなく紹介してしまうのですが、今年はこのような子がいました。


 3年生の良樹くんは、学級園でだんだんと茎が伸びてきたトマトの苗を写真に撮ってきました。同じように植物の写真を撮ってきた子どもには、「この花はどんなことを言っていると思う?」とか、「この花は何をしたいのかな?」なんて、想像を膨らませることで、詩のイメージの土台を作っていくのですが、良樹くんには、この手法は全く通じませんでした。

「えっ、そんなの分からない」「うーん、難しい」という言葉を繰り返すばかり。しまいには、「そんなことできないよぉ」とうずくまってしまいました。良樹くんは、目に映るもの以上に想像を膨らますことが、自分の感覚とは合わないどころか、気持ちが悪いという感覚なのかもしれません。

 この方法では良樹くんには逆効果なので、作戦変更。

 私「どうしてトマト撮ってきたの?」

良樹「僕のトマトだから」

 私「良樹のトマトは元気?」

良樹「今日の気温は28℃で暑いから、トマトは元気だよ」

 良樹くんは外に吊るしてあるWBGT計の気温が大好きで、一日に何度も見にいきます。「良樹のトマト、28℃、暑い、元気」この言葉を使って、詩を書いてみよう」と誘ったら、良樹くんは、その言葉を聞くや否や、タブレットのトマトの写真の上に、「よしきのトマト」「28℃」「あつい」「げんき」と4つの言葉を指で書き入れました。これはこれで、なんだかストレートで素敵な詩です。「良樹しか書けない詩ができたね!」と声をかけました。

 そして、この良樹くん。ノンフィクション作品で非常に自信をつけていきます。良樹くんが習っているスイミング教室のコーチや練習の様子などを、タブレットに絵と文字で表現していきます。作家の時間を始めると、物語を書くことに喜びを見出す子どもが多い中、良樹くんの日常の出来事や好きなものを切り取って自己表現を始めたのです。「ノンフィクションの良樹だね」「ノンフィクションの魅力をみんなに伝えてくれているね」と、大袈裟ですがたくさん褒めました。




「浩一郎くん研究」そのまま繰り返す言葉を作品に


 6年生の浩一郎くんは、光るものが大好き。学校中の警備センサーや火災報知器の点滅を眺めたり、校庭から見える信号機をゆっくり見て楽しんでいます。4月、僕も陽だまりに一緒に座り込みながら、校庭から信号機をぼんやりと眺めて、「もうすぐ春だね」と季節の移り変わりを感じることもありました。浩一郎くんは、肌からの感覚を楽しむ子なので、学校の気持ちの良い場所ですぐに寝っ転がってしまいます。床の冷たさ、マットのザラザラとした感覚、そういう皮膚からの感覚を楽しんでいるのだと思います。校庭で遊んでいる子どもたちには、不自然に寝っ転がった姿勢に見えてしまうので、僕も傍で地面にあぐらをかいて座り、一緒に信号機を眺めると、子どもたちは関わろうとしてきます。1年生が「何をしているの?」と尋ねてくるので、僕が代わって「信号機を見ているんだよ。綺麗だよね」と返します。そんなのんびりとした関わり方で、浩一郎くんとの関係を作っています。

 さて、浩一郎くんが支援員さんと一緒に撮ってきた春の写真は、やっぱり信号機でした。さすが、ベテラン支援員さん、ナイスチョイスです。どのように浩一郎くんらしい言葉を引き出そうかと考えながら、教室に浩一郎くんを誘い入れました。彼は寝っ転がって床の冷たさを楽しみながら、僕のカンファランスに反応しようとしています。

 僕はまず、「浩一郎くん!(写真を撮ってきてくれて)ありがとう」と声をかけました。浩一郎くんはよく先生の言葉をそっくりそのまま繰り返します。浩一郎くんもこのとき、「ありがとう!」と大きな声で答えました。支援員さんが、「浩一郎くん!春だね!」と言うと(一応、詩のテーマは春でしたから)「春だね!」と返しました。僕は「あーこれは使えるかもなあ」と思い、タブレットの音声入力を起動させて自動で音声を文字に変換するようにセットしました。彼の耳元で「ありがとう!」というと「ありがとう!」と返し、「春だね!」というと、「春だね!春だね!春だね!」と3回繰り返しました。こうして、浩一郎くんの信号機の写真に、「ありがとう!」「春だね、春だね、春だね」の言葉が添えられることになりました。

 この浩一郎くんの詩も廊下に掲示しました。先生方や放課後デイサービスの先生に大変好評で、浩一郎くんらしさが出ていてすばらしいと絶賛されました。また、友達の前でも発表しました。写真をテレビ画面に映し、浩一郎くんが「ありがとう!春だね、春だね、春だねーーーー!!」と堂々と読み上げました。聞いている友達も、「浩一郎くんは信号機が大好きなことが分かりました」と反応します。浩一郎くんは、褒められるのがまんざらでもない様子。浩一郎くんも作家の時間が大好きになりました。浩一郎くんの今書いている作品は、近くのショッピングセンターの各階に何のお店があるか、フロアマップを作って説明してくれようとしています。こちらも私がそのショッピングセンターの写真を出してあげて、支援員さんと会話をしながら、タブレットに書き進めています。




「子どもらしい」という架空の子ども


 僕は、もしかしたら、「子どもらしい」詩のようなイメージを定型化・一般化して、子どもたちに安易に被せていたのかもしれません。二人のような子どもはそれほど多くはないと思いますが、似たような特性を持った子どもは支援級にも一般級にも在籍するでしょう。子どもが詩を描くならば、こんな詩がよいなあとイメージを持つことはもちろん大切ですが、その子がその子らしい自己表現を行うときに、その教師のイメージが学習を阻害してしまうこともあります。そうであれば、そのイメージは手放さなければならないこともあるでしょう。僕の作家の時間の場合、「どんな力を育てるか」ということよりも、「〇〇さんの自己表現をよりよいものにするためには」「〇〇さんの学習体験をもっと豊かにするためには」ということの方が、大切なのだと思います。

 僕は良樹くんのように、目の前に見えている事実とは違うことを表現することに、これほど苦痛を感じてしまう子を初めて見ました。きっとこれまで、僕はこのような子をきっと受け持ったこともあったのだと思います。けれど、その子の個性に気づかずに、「想像を膨らませて書こう」と、良い方法と思われている指導法を当てはめていたのかもしれません。その子は、そういう対応ができてしまう子だったので、きっとあまり望まない「トマトがあいさつをしているよ」っぽい詩を作らせてしまっていたのかもしれません。良樹くんが、しっかり想像を膨らませることを拒絶してくれたので、「よしきのトマト」「28℃」「あつい」「げんき」の詩が完成しました。良樹くんの目の前の事実を書きたいと言う気持ちを、少し理解するきっかけになりました。

 また、浩一郎くんのように、文字や言葉を書くことが難しい子どもが、ストレートに自分の好きなものを表現し、その楽しさを友達や先生と一緒に共有できることも学びました。自分を表現することは、だれにとっても楽しく喜びに溢れるものです。浩一郎くんにその機会を作ることができたことが、彼の成長のきっかけになりました。浩一郎くんは、自分の好きなものをもっと伝えたいと、彼のペースではありますが作家の時間でゆっくりと書き進めています。


他者の靴を履く「To put yourself in someone's shoes」


 ブレイディみかこさんは、『他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ』(文藝春秋 2021年)という本の中で、エンパシーの力について言及しています。「他者の靴を履く」とは「To put yourself in someone's shoes」の日本語訳ですが、自分とは違った立場にいる他者の靴(それがたとえ、自分の好みに合わない靴であったとしても)を履いて、その景色をイメージするエンパシーの力について様々な角度から論じています。つまるところ、僕は作家の時間という時間を通じて、子どもの靴を履いてみることで、「子ども研究」をしているのだと思います。良樹くんや浩一郎くんは、その瞳からどんな風景を見て、何を感じているのか、想像してみようと試みています。もちろんそれは、完璧にはできません。どれほどできているのかも、証拠があるわけでもありません。けれども、良樹くんや浩一郎くんが、今より少しでもよりよく自己表現をするためには、どのような学習環境を用意したら良いのか、子どもの姿を追い続けることで研究をしているのだと思います。特別支援学級の作家の時間を行うことで、子どもが自己表現を楽しむとはどのようなことなのか、試行錯誤しています。

 「子ども研究」とか「アセスメント」とか表現すると、格好の良い響きに聞こえるかもしれませんが、まったく効率的でスマートなことではありません。子どもと喧嘩したり、泣いたり、紙をぐちゃぐちゃにしてしまうことも多々あります。本当に泥臭くて、時間もかかり、煩雑なことがアセスメントであり、子ども研究です。けれど、やっぱり学校という場所は、子どものことを考えて動いてくれる大人が、「ああでもない、こうでもない」と子どものために思い悩んで、少しずつ進んでいくところなのだと思います。そういう学校が、自分は好きなのだと思います。


(写真は『本当にヘビが食べるの?』 この近くに本当にヘビがいました。)

2024年6月22日土曜日

「読書のノイズ性」との出会いをアシストする

 働き始めると時間がなくなるから学生時代の時間のあるうちに本を読んでおいたほうがいい、とよく言われます。また、読みたい本はたくさんあるけれども忙しくて時間がなくて読めないという言葉もよく聞きます。SNSやインターネットがあるのだから、もう本を読まなくてもいいのではないかという言葉も聞くことがあります。

 この4月に刊行された三宅香帆著『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書、2024年)は、労働と読書との関係について、克明な調査に基づいて書かれた本です。明治以来の日本社会での読書と読者の歴史を踏まえて立論されているので、説得力があります。もともと読書家だった三宅さんも、会社員として勤め始めた頃、仕事は面白かったけれども忙しくて気がつけばしばらく本を読んでいないことに気づくことがあったそうです。しかし、仕事を辞めてからは再び読むことができるようになり、本を書くまでに至ったといことです。それだけなら、仕事が忙しくなければ読めるということになりますけれども、「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」という問いに対する答えはそういうことではないと三宅さんは考察を進めます。
なぜなら「読む」ことであれば、どんなに忙しくても通勤電車のなかでスマホを取り出して、あるいは自宅のパソコンの前で皆頻りにやっていることだからです。また自己啓発本や読書術の本はよく売れています。読むことそのものがなくなっているわけではないのに、働いていると本は読めなくなっている。これをどういうふうに考えればいいのでしょう。三宅さんは、ある現代映画の登場人物が「パズドラ」をしても読書はあまりしないということを取り上げて、次のように言っています(引用文中の「麦」はその人物名)。

 本を読むことは、働くことの、ノイズになる。
 読書のノイズ性――それこそが90年代以降の労働と読書の関係ではなかっただろうか。(中略)麦が「パズドラ」ならできるのは、コントローラブルな娯楽だからだ。スマホゲームという名の、既知の体験の踏襲は、むしろ頭をクリアにすらするかもしれない。知らないノイズが入ってこないからだ。
 対して読書は、何が向こうからやってくるのか分からない、知らないものを取り入れる、アンコントローラブルなエンターテインメントである。そのノイズ性こそが、麦が読書を手放した原因ではなかっただろうか。(『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』182~183ページ)

 「読書のノイズ性」を消去することで成り立つのが「スマホゲーム」という「コントローラブル」(制御可能)な娯楽だということです。それに対して「読書」は「ノイズ性」を帯びるがゆえに「アンコントローラブル」(制御不能)な「エンターテインメント」であるというわけです。また、「読書のノイズ性」に応じるとは、自らの知らない「文脈」に向かい合い、それを取り入れることでもあります。

 1冊の本のなかにはさまざまな「文脈」が収められている。だとすれば、ある本を読んだことがきっかけで、好きな作家という文脈を見つけたり、好きなジャンルという新しい文脈を見つけるかもしれない。たった1冊の読書であっても、その本のなかには、作者が生きてきた文脈が詰まっている。
 本のなかには、私たちが欲望していることを知らない知が存在している。
 知は常に未知であり、私たちは「何を知りたいのか」を知らない。何を読みたいのか、私たちは分かっていない。何を欲望しているのか、私たちは分かっていないのだ。
 だからこそ本を読むと、他者の文脈に触れることができる。
 自分から遠く離れた文脈に触れること――それが読書なのである。
 そして、本が読めない状況とは、新しい文脈をつくる余裕がない、ということだ。自分から離れたところにある文脈を、ノイズだと思ってしまう。そのノイズを頭に入れる余裕がない。自分に関係のあるものばかりを求めてしまう。それは、余裕のなさゆえである。だから私たちは、働いていると、本が読めない。
 仕事以外の文脈を、取り入れる余裕がないのだ。(『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』233~234ページ)

 ではどういう社会にすれば働きながら読むことができるようになるのかということについての三宅さんの結論は、是非この本を手に取って読んでください。「他者の文脈」を知り、「読書のノイズ性」を取り入れるためにどうすればいいのか。『理解するってどういうこと?』のはじめの方にあるエピソードを紹介します。テキサス州アリーフでの教員研修の日、学校のプールで泳いでいた小学校高学年の子供たちをそのままカフェテリアに連れ出して、そこで一冊の絵本を使って行われたモデル授業です。

 私はジャクリーン・ウッドソンの『むこうがわのあのこ』を読んでいる間、はじめのうち子どもたちに見られた緊張感が消えていくのがわかりました。そして、モデル授業の前に私が教えた理解のための方法を使って、今まで想像もしなかったような、この本に盛り込まれている深い意味を考えさせるいくつかの質問をしてくれたのです。私はもう少し子どもたちに迫って、自分たちの出したさまざまな質問がどのようにその絵本を理解する手助けになったのか説明するように求めました。すると、当初はバラバラだった反応が活発な話し合いへと発展していったのです。(中略)他にもたくさんの、それもすべての学年で体験した多数の経験のおかげで、理解することの指導を通して子どもたちを考える生活に誘い入れることが、未開拓だけれどもゆたかな原野のようなものであると私は考えるようになったのです。知的なレベルで参加することを可能にし、深く理解するとはどういうことなのかを話し合うことによって、子どもたちがさまざまな考えを身につけ、そして活用できるようになると、私は気づいたのです。(『理解するってどういうこと?』14~15ページ)

 この子どもたちは、三宅さんの言葉を借りれば、「読書のノイズ性」を自分のうちに取り入れて、「他者の文脈に触れる」経験をしたわけです。「理解するための方法」の「質問する」を使って語り合うことが、「読書のノイズ性」を消去するのではなく、むしろそれをいかして深く考えるためのサポートになったのです。「読書のノイズ性」との出会いをアシストすることになったのです。

2024年6月15日土曜日

詩を読み解く 〜背景的知識を踏まえて〜

  時々投稿をお願いしている吉沢先生に以下を書いていただきました。書き出しの「ホッパー」と言うことばを見た途端、「???」の私でした(汗)。ですから、以下を読みながら、ことばを見たときにイメージできる背景知識が、私一人では読めなかった詩の扉を、次から次へと開いてくれるのを実感しています。

*****

 詩の読み取りにおいて、モチーフとなっている事柄についての知識を踏まえたうえで、語句の意味を知り、何を象徴しているのかを考える。そのような作業が読み取りを深くする。そんな作品があります。今回は、そのような視点から、1編の詩を取り上げます。郷武夫さんという方の「背広の坑夫」という作品です。★1


[第1連の書き出し]

背広の坑夫

郷 武夫

ホッパーは止まった

斜坑の巻き上げ機の

鋼鉄ロープが錆にくるまる


 「ホッパー」とは、炭鉱で採掘した石炭を、出荷・積込みまで貯めておく貯炭槽のことです。四角い箱の形をしたコンクリートの建造物で、巨大なものもあります。ホッパーは積み出し設備でもあるため、貨物の引込み線や運搬用の道路上に作られていることが多いです。

 「斜坑」とは、地面から斜めに掘られた坑道です。「巻き上げ機」が、地下へ資材や人を送ったり、掘り出した石炭を地上に運ぶトロッコを引っ張り上げます。

 「ホッパーが止まった」というのは、単に停止したのではなく、炭鉱の営みが終わった、ということを象徴しています。ボタ山と同様に、ホッパーは炭鉱地域を象徴する存在でした。その稼働音、石炭を積み込む音、貨物列車の汽笛、積み込まれる石炭の音。作業する人たちの声。そのような日常。それが終わったのです。静寂が訪れます。そして、「鋼鉄ロープが錆にくるまる」ほどの時間が過ぎたのです。


 [第1連のつづき]

光におびえて眠った坑夫たちの

(三○年だよ三○年)

筋肉はすき透っていた

くらやみでこそ見えたくらやみの色の石

そんなにも慣らした眼を 就寝前に

黄色い三○ワットの台所で

洗いたてる日課があった

今日 歯みがきの香りたつ朝にぬぐうと

汗だくの夢を溶かす洗面器に

硼酸液が浮く(ああ まだぼんやりだ)


 暗い坑内で働く坑夫にとって、外界の光は眩しいだけでなく、怖いくらいのものだったのでしょう。そんな暗闇の中ではものが見えない、と嘆きたくなるのが普通かもしれませんが、「くらやみでこそ見えたくらやみの色の石」と表現されていることに、私は注目します。暗闇で仕事を続けた坑夫たちの誇りを感じます。「黒い石炭や岩石」を、「くらやみの色の石」と表現するところが、この詩人の技であるといえます。

 暗い中での仕事は目に負担をかけます。そして、坑内には石炭の粉塵が大量に漂っていて、それが目に入ると目の健康を害します。ですから、家に帰ってくると目を洗うのが日課になっていたのでしょう。単に「洗う」ではなく「洗いたてる」という表現に、目をしっかりと洗う坑夫の姿が感じられます。「硼酸液」は、目の洗浄に使われた薬品です。毎晩、目を洗っても視力は衰えたのでしょう。(ああ まだぼんやりだ)という坑夫はつぶやきます。


[第2連]

ブラックフレームと清潔な襟首とおろしたての革靴

キュッとしめあげても

みんな少しずつ大きすぎた

くつずれの予感が熱く戻ってくる


 それでも、男は身なりを整えて出かける準備をします。「ブラックフレーム」のメガネをかけ、「清潔な襟首」のシャツを着て、「革靴」を履く。どれも、坑夫には縁の遠いものでした。それを身につけて、どこへ出かけるのでしょうか。「くつずれの予感」を感じる男にとって、それは心踊るようなことではなさそうです。


[第3連]

数える指をなくしてから曜日を忘れる

ゆるいたたみに発破のこだまごと身を置いて

枕元に動かぬ若かった妻の膝頭が

とても丸くて白かった

(おぼえている おぼえているとも)

ますいがきれた朝

切断されて

ないはずの指先から

生えてくる爪の痛みに 泣いた


 回想シーンです。炭鉱事故で指をなくしたことが想像できます。炭鉱は危険を伴う職場であり、多くの事故がおきました。私が子供の頃、落盤で大勢の死者が出たというニュースをテレビで見たことを覚えています。

 出かけようとしている男の心に浮かんだのは、炭鉱事故で指を失ったことでした。

「若かった妻」とありますから、それから年月が経ち、今は夫婦とも若いとは言えない年齢になっていることが分かります。妻は、怪我をして寝ている男の枕元でじっとしている。その妻の白い膝頭が、男の目に入る。その時の光景が男の心に焼き付いています。「おぼえているとも」と心の中でつぶやく男の、妻に対する思いが伝わってきます。


[第4連]

亀の尾 千代鶴 竜ヶ沢 そして浅貝

これら多湿の坑夫街 柱の暦一枚めくれば

せり上がる水位(血ではないな)

時代に沈んだ軒下の表札跡を読みながら

これからはしばらく

こうして貨幣の街へ出かけて行くのだ


 男は集落を通っていきます。歩き始めます。「亀の尾、千代鶴、竜ヶ沢、浅貝」は福島県の常磐炭田があった地域に実在する地名です。古めかしい時代を感じさせるその地名から、都会と対比される集落の雰囲気が感じられます。

 「柱の暦一枚めくれば/せり上がる水位(血ではないな)」という表現は私には難解な感じがします。「暦をめくる」という表現は、時間の経過を表しているでしょう。

「水位」というのは何でしょうか。炭鉱では、水が侵入することで水位が上がることがありました。炭鉱内に水が留まることは、作業に支障をきたすだけでなく、そこで働く坑夫の死につながります。私が想像したのは、一日が過ぎるたびに、「ああ、また水位が上がった。・・でもまだ死者は出ていないな。(=血ではないな。)だが、明日はわからない・・」といった不安が男の心によぎった、というものです。

 「時代に沈んだ軒下」とあります。石炭産業はかつて時代の花形でした。それが凋落し、時代の中に沈み、忘れられていく。

「表札跡」とありますから、その住人は家を離れて(おそらく村を出て)行ったことを暗示しています。そのような家の佇まいを見ながら、「ああ、ここは確か○○の家だったはずだ」と男は感じているのかもしれません。

 「貨幣の街」とは何でしょうか。かつて男の仕事は石炭を採取することでした。それが閉山になって、男は職を求めて街にいきます。そこは、何かを採取したり生産したりするよりも、流通や販売や事務といったサービスに対してお金が支払われる世界です。


[第5連]

職安の若い役人に

どこから話そう

引き金は引けまいが

かせぎなら握れることを

妻に話した様に

言わねばならない

手を見せて


 「職安」は「公共職業安定所」の略です。そこに向かいながら男は「どこから話そう」とつぶやきます。指をなくした自分に何ができるだろう、仕事が見つかるだろうか、という戸惑いがあるのかもしれません。

「引き金は引けまいが/かせぎなら握れる」とはどういうことでしょうか。「引き金を引く」ということは、銃を撃つ動作を意味します。男は直接、銃を撃つ仕事をしてきたわけではありませんから、象徴的な意味で使われていることが分かります。例えば、強さとか攻撃性の象徴かもしれません。炭鉱で働くということは、肉体的に過酷な、強さや忍耐力が求められる仕事でした。それができなくなったわけです。あるいは、レバーを引いたりして機械操作する、といった引き金に類する動作ができない、そのような仕事ができない、ということの象徴かもしれません。しかし、「かせぎなら握れる」のです。これも象徴的な意味合いで使われいます。自分の限界を認識しつつも、何とかして仕事を見つけて、家族を支えていきたい。そのような意志を私は感じます。

 男は、手を見せて言わねばならない、とつぶやきます。この最後のフレーズがこの詩作品のピークであり、私は読むたびに感動します。普通であれば、人前に晒したくない自分の姿。それをまず見せて、そのことから話を始めなければならない、と男は考えます。私が感動するのは、「事故で指をなくしていますが、そんな私でも何かできることはありませんか?」と聞いているのではなく、「指をなくしているが、私にもできることはある」と言い切っていることです。決意と意思表示。それは、妻に言った言葉でもありました。自分を支えてくれている妻への思いも込められています。

  これは、一人の男の物語として描かれていますが、第一連で「坑夫たち」とあるように、時代の中で懸命に生きてきた、そして今は底辺に追いやられたけれども、しっかりと生きていこうとしている人たちがいるのですよ、ということを詩人は言おうとしているのだと思います。

 もう一度、最初から詩を読んでみて下さい。言葉のひだに込められた、繊細なイメージや感情の動きを味わってみましょう。あなたは、どの言葉に惹かれますか。それを仲間で出し合って、分かち合ってみて下さい。



★1 郷武夫『背広の坑夫』紫陽社, 1979. 

★2 平成の時代になって、「ハローワーク」という言葉が使われるようになりました。



2024年6月7日金曜日

国語で、「主体的・対話的で深い学び」と「個別最適と協働的な学び」を実現する方法

国語の授業で、「主体的・対話的で深い学び」や「個別最適と協働的な学び」は実現できていますか? どうしたら、それらを実現できるかご存じですか?

まずは、下の表をご覧ください。

(出典:『シンプルな方法で学校は変わる!』の113ページないし『効果10倍の学びの技法』の111ページ)

 通常の作文は、左側で間違いないでしょうか? 訂正した方がいい箇所を見つけた方は、ぜひpro.workshop@gmail.com宛に教えてください。

 この表の右側のライティング・ワークショップないし「作家の時間」は、https://wwletter.blogspot.com/2012/01/blog-post_28.htmlで紹介されている「作家のサイクル」と、1時間の「時間の使い方」(出典:『ライティング・ワークショップ』の23ページ)の2つの図と深く関係しているので、よくご覧ください。

ライティング・ワークショップないし「作家の時間」をするときは、常に「作家のサイクル」を回し続けることと、45分授業の場合は、ミニ・レッスン(約5~10分)→ひたすら書く(約30分)→共有・振り返りの時間(約5~10分)を毎時間繰り返すことを意識して、教師も生徒も取り組みます。

 一番長い時間を確保している「ひたすら書く」時間のなかには、

・書きたいこと(テーマ)を探したり、読者や書く目的を設定したり

・友だちのアドバイスや励ましをもったり

・場合によっては、二人ないしチームで書くことに挑戦したり

・「作家のサイクル」の図にあるように、サイクルのすべての段階で常に「振り返りと改善・評価」をしたり

することが含まれています。

 

 そして

・本当の読者が存在し

・その人たちからのフィードバックが提供され

・自分(の振り返りや自己評価)や友だちのアドバイスで、何度も修正・構成をし

・自分の作品を発表・出版し、

・本当の作家や詩人やジャーナリストになる体験をし

たりすることなどを通して、深く学んでいます。

 

 この年間を通して回し続ける「作家のサイクル」と、毎時間まわし続ける「授業のサイクル」が、ライティング・ワークショップ(作家の時間)という学び方・教え方を魅力的なものにすると同時に、「主体的・対話的で深い学び」と「個別最適と協働的な学び」を実現する主要な要素になっています。

 以上は、作文指導とライティング・ワークショップ(作家の時間)で比較してきましたが、同じことは、下の表のように読解指導とリーディング・ワークショップ(読書家の時間)にも言えます。

    (表の出典:『「読む力」はこうしてつける』の53ページ)

 さらには、社会科に応用した『社会科ワークショップ』(冨田明広ほか著、新評論)や、これから出版予定の『数学者の時間』や『科学者の時間』などでも、似たような表がつくれてしまいます。

2024年6月2日日曜日

詩に誘う「声」と「ヒーロー」と「余白の価値」

  NBAのバスケットボール選手だったコービー・ブライアント氏が、引退の時に綴ったという「Dear Basketball」という短い詩(★1)を、最近、読みました。詩を使って読み書きを教えるというテーマの本(★2)を書いたリンダ・リーフ(Linda Rief) 氏の巻末資料の「(詩の)お薦め」リストの一番最初に、「動画で見れる詩」として紹介されていました。コービー・ブライアント氏やバスケットが大好きな生徒にとっては、もし「詩」というジャンルに多少の苦手意識があっても、「コービー・ブライアント!!」という名前で、「とりあえず」は見て(読んで)みようと思えるかもしれません。

→「見て」と書いたのは、この詩から動画が作られ(★3)、その動画は、2018年第90回アカデミー賞で短編アニメーション賞を受賞したそうです。4分半ぐらいです。

 コービー・ブライアント氏というと、名前の由来が神戸牛だとか、ヘリコプターの事故で若くして亡くなった等ぐらいしか知らなかった私ですが、有名なスポーツ選手が、詩で自分の思いを伝えていることに興味津々で、この詩を読み、動画も視聴し、英語の全文、日本語訳も見つけました。今日はそのプロセスで考えたことや思い出したことを、いくつか記します。

▶︎ すっと入れる詩と「声」のサポートが必要な詩

  丸めた靴下をバスケットボールに見立てて、大きな試合でシュートを打つ姿を想像する幼い頃の描写からスタートしているこの詩は、読みやすい文章を読む感覚で、「詩を読むのだ」と構える(?)暇もなく、読み続けることができました。コービー・ブライアントの名前に惹かれて読み始めた多くの生徒にとっても、「詩」というジャンル自体をあまり意識せずに、読み進められると、結果として「詩」というジャンルのハードルも下がりそうです。また、詩自体がそれほど長くないこともあり、「あ、この箇所、いいなあ」など、読み直しや繰り返して読むことも自然にできそうです。

 他方、たとえ自分のヒーローが書いた詩であっても、読み始めると、難解で読み続けられないこともあると思います。また、最初から、あまり興味が持てなくて、読もう、という気にならない詩もあると思います。

 そういう時には、詩を読み上げてくれる人の「声」が大きな助っ人になりそうです。毎回の授業の最初に、10分程度、詩を使っているアトウエル氏も 授業で詩を読み聞かせる時に、「私が読む時には、できる限りニュアンスが伝わるように、前もって読む練習をします。それは生徒が私の声に乗って詩の世界に入り、その意味するところを私の声から聞き取り、どうやって経験豊かな読み手が詩を理解しているのかを、彼らが観察でいるようにしたいからです」(★4)と述べています。 

 詩を読み上げる人の「声」が、詩との決定的な出合いとなることもあるようです。上で紹介したリンダ・リーフ氏は、長い間、「詩は理解できないし、好きではなく、関わらないのがベスト」と思っていたようです。そんなリーフ氏が詩を大好きなるきっかけは、「声」でした。教え子からのお誘いがあり、お付き合いで出席したという、詩人のウィリアム・スタフォード氏(William Stafford)が詩を語ってくれるというセッション。1時間30分のセッションが、あっという間で、スタフォード氏の声、ことばが、空中に浮いていて、聞いているリーフ氏がそれを受け取り、自分のものにするのを待っている、そんな時間だったようです。リーフ氏は、スタフォード氏が、彼のことばを受け取るように言っているように感じ、それが自分のものになったと記しています(★5)。詩が大の苦手で、仕方なく出席した場で、詩人の語る声に魅せられる--そんなことが起こる!! ことに驚きました。


▶︎ 詩の余白(改行)の価値

 コービー・ブライアント氏の詩(上記★1)を英語でゆっくり音読してみると2分ぐらいでした。詩節の区切りで分けられているので、まとまりで見ていくこともでき、とても読みやすいです。英語の全文を見つけたサイトで、日本語訳が見れるのもわかりました。外国語という点でわかりにくい箇所は、日本語で確認できるので、助かります。ただ、日本語訳を表示にすると、詩節ごとの空白の行が示されていませんでした。先に詩節ごとに区切られた画面を見たこともあり、同じ詩で詩節の区切りがわからないと、読みやすさに大きな差が出るのを感じました。

 そういえば、詩の実践でも有名なアトウェル氏は、「詩は余白(改行も含めて)をうまく使っているので、詩を読み聞かせるときには、生徒が詩自体を見れるようにする(印刷して配る、あるいはスクリーンに映しだす等)」(★6)と記していたことを思い出しました。詩の「余白」は、読む上での助けとなるだけでなく、生徒たちが詩を書くときに使える大きな技の一つとなりますから、自分の目で見て、余白を確認する価値は大いにありそうです。近年、動画(アニメーションなど)で視聴できる詩が増えていますが、動画から入っても、原文があれば、後日、それを音声なしで読み、目で余白を体験するのもいいなと思いました。


▶︎ 文字の黙読以外でも楽しめる詩

 上記のリンダ・リーフ氏の巻末資料で、詩の「お薦め」リストは、以下のカテゴリーになっています。(★7)

Poetry as Video

Online Sites for Finding Poetry and Poets

Button Poetry

Spoken Word Poets

Novels in Verse

Sports Poetry

Eight Random Books I Highly Recommend

 まだ目を通し始めているところで、詳しい紹介はできませんが、「詩を読むとは、印刷された文字を見て、それを分析し、そこで使われている詩の技巧を学ぶ」のではないアプローチが多様にあり、多様なアプローチに対応してお薦めできる作品も多くあるのがわかります。そういえば、TEDトークでも、アメリカの桂冠詩人も務めたビリー・コリンズ(Billy Collins)のような有名な詩人ほか、多くの詩人が登場しています。「生徒が楽しめそうな詩を見つけるためにも、まず、教師が楽しむ」ーーそのための選択肢も多そうです!

******

★1

https://www.theplayerstribune.com/articles/dear-basketball

日本語と英語の画面の切り替え方がよくわかりませんが、Googleで日本語画面で上のURLを入れると、この詩の日本語訳が出てきます。私の画面では、詩節の区切りはわかりませんでした。そして、日本語訳の上の方に「To Read in English (Published Nov 29, 2015), please click here.」と書かれていて、hereをクリックすると英語訳に変わります。英語画面からスタートした場合、右上の地球のようなアイコンをクリックして、JPを選び、さらに、バスケットボールから、「親愛なるバスケットボールへ」を選択すると、日本語訳が表示されます。

★2

Linda Rief. Whispering in the Wind: A Guide to Deeper Reading and Writing Through Poetry. 2022年にHeinemann社より

★3

https://www.youtube.com/watch?v=bfiwfx6y6Wg

★4

ナンシー・アトウェル『イン・ザ・ミドル』三省堂 2018年 114ページ

★5 

上記★2の本、2-3ページ

★6 

Nanice Atwell. Side by Side. 1991年にHeinemann社より 90ページ

★7 

上記★2の本 189-191ページ