2024年1月26日金曜日

自立的な学び手を育てる漢字学習 『バツをつけない漢字指導』より



 素敵な本と出会いました。小林一仁さんの書かれた『バツをつけない漢字指導』(大修館書店)です。この本の出版は1998年、1999年の学習指導要領改正を目前に控えていた頃です。「詰め込み」から「生きる力」へと、教育全体が動いていた時代の本ですが、今の時代の私たち教師が読んでも、大変参考になる本であると思います。

 私がこの本をお勧めする理由は、学習内容がどのようなものであれ「自ら学ぶことのできる人」(本書では「自己陶冶力」とも表現していました)を育てることができると気付かされたからです。私は、創作活動や探究など、自分を表現することのできる教科や内容をベースにして、大人になっても楽しみながら自立して学ぶ子どもを育てるためにはどうしたらよいか、考え続けてきました。しかし、それは、自分を表現できる活動に限ったことであって、いわゆる正しい答えのある「漢字」や「計算」のような学習を通して、その姿勢を育てようとは全く考えてもいませんでした。悪い言い方をすれば、ちゃんとやれさえすればいい「消化教科」でした。しかし、たとえ「漢字」であっても、いや、「漢字」だからこそ、人を学び手として育てることができると、本書は語りかけてきます。


学び手が中心の漢字学習とは


 かいつまんで内容を紹介すると、漢字の指導において、こう書けば正しくて、それ以外であればバツという、私を含めて多くの教師が行っている方法では、漢字を好きになるどころか、書くことがどんどん嫌いになり、子どもは学ぶこと自体から遠ざかってしまう。50問のテストに容赦無くバツや点数を書き込んでいく方法など、子どもの意欲を削り取ること以外に成果はなく、そのような漢字指導はすぐにでもやめなければならないということです。

 そうならないためにも、教師の漢字に対する向き合い方を変えていかなければなりません。そもそも、私たちは漢字についてよく分かっていないにも関わらず、漢字テストが正答としている漢字の形を盲目的に鵜呑みにし、思考を停止させて採点業務を淡々とこなしています。もちろん、私もそうです。けれど、そもそも、脈々と続く漢字の歴史の中で、正しいといえる漢字の形は一つではなく、そして、子どもの実態も多様にある。だから、もちろん正しいとされる漢字を書けることは素晴らしいことだが、その正しさの意味する範囲を子どもに応じて広げてもよいのではないか、ということです。筆者はそれを、「許容形」や「おおむね成就」と表現しています。励ましながら、良いタイミングで、「許容形」や「おおむね成就」から「規範形」へと少しずつ修正できれば良いし、今すぐそれができなくても全く構わない。そんな、大らかで受容的な漢字指導の姿が分かります。学び手が中心の学習を、漢字指導の中に見出しているのです。


正しい漢字は一つではない


 正しいと言える漢字の書き方は一つではないのでしょうか? 学習指導要領や教科書にある字形を正しく書けた方が良いに決まっていると、私も長い間考えていました。しかし、平成28年(2016年)に、文化庁から「常用漢字表の字体・字形に関する指針(報告)」があり、私の中に激震が走りました。漢字のとめ・はね・はらいならともかく、一画の長短や、右から書くか、左へはらうのか、など、それでも間違いではないことが、公官庁から示されたからです。SNSで厳しすぎる漢字指導の採点がアップされているのを他人事のように感じていましたが、私自身も文化庁が良いと言っているものにも、バツをつけていることが分かりました。本書は文化庁の指針よりも10年以上前からそのことに言及し、本の中で詳細に解説を加えています。

 この本の読みどころの一つですが、「右」と「左」などの筆順についても、「一字形一筆順ではない」と書かれています。古い文献を辿れば、意見は統一的ではないそうで、「一」から書くものが正しいもの、「ノ」から書く方が正しいもの、どちらも正しいとするものなど、諸派あるそうで「正しい」筆順は決められないとあります。「当用漢字字体表」(1949年に内閣から告示された。1981年に作られた常用漢字表のベースとなるもの)を作成するにあたっても、漢字においてどんな考え方を採用するのか、活発な議論があったそうです。書き順テストなどで、絶対の正しさを子どもに求めることは難しそうです。

 それは不安を感じることでもありました。子どもに「この漢字は合ってますよね」と言われれば、バツにできなくなるのではないか。正しい漢字すら、教えることができなくなるのではないか。大袈裟に言えば、教師の権力が失墜していくようにも感じられました。多くの先生方がこの指針を冷ややかな目で見ていたことを覚えています。


子どもの実態によって、マルもちがう


 これは本書では深く言及していませんが、子どもの実態も漢字以上に多様で、その子にとってよい支援はさまざまにあります。例えば、左利きの子が漢字を「規範形」のように正しく書くことができないケースがありました。基本的に漢字は偏から旁と書き進めていくので、左利きだと自分の手で書いた字が隠れていってしまいます。そのため、特に学齢が低い子は、その点でとても苦労をします。

 また、私が担当している特別支援学級の子どもの中には、字の大体は書けても細かいところまで認識することは苦手で、直すように指示すると、途端に不機嫌になって学習を放棄してしまう子どももいます。おそらく、ただでさえその子にとって精神的負荷の高い「漢字を書く」という作業に、バツをされると、自分を否定されたかのような感情になってしまうのでしょう。その気持ち、私にもよく分かります。そんなときは、本当に学び直して欲しい箇所だけを教師が厳選して、次の日に直せるような工夫をしています。次の日の方が、自分を否定されたような感覚が薄れるからです。また、そもそも、漢字を書くという学習の目的を、新しい文字や言葉と出会う場とも捉えていますので、最初から正しく書けなくてもよいと考えています。

 筆者が進めている学習の一つに、バツをつけずに近くにもう一度書くスペースを作り、そこに児童が正しく書けたなら、マルをつけてあげるような支援の方法があります。最近ではそれに倣い、マルをたくさん増やせるような取り組みも行っています。

 漢字という正しい答えのありそうな学習でさえ、マルの規準は人によって違うし、支援は異なります。この子にとってはここまで書けたら十分マルとなるし、あの子にとってはマルではなく、直して書けたらマルとなる。子どもの学習のために教師の支援があることは当然の前提ですから、子どもの学習状況や認知の特性などによって、マルやバツの基準はともかく、支援のあり方さえも大きく変わってきます。この当たり前の話を、私たちは漢字ドリルやテストなどを見る時にすぐに忘れてしまいます。筆者はこの私たちの安易な漢字指導について、20年以上前から警鐘を鳴らしているわけです。


自己陶冶力を育てる


 筆者は「自己陶冶力」という言葉を使って、子どもたちが自ら学ぼうとする意欲を育てることを強調しています。そもそも、テスト偏重の学習や反復的な書き取り指導が、一人一台端末を文房具のように扱うことを目指した学習環境に適しているのかという点でも議論が必要ですし、漢字を自分の手で書くことができる楽しさや喜びとは何かを、わたしたち支援者側がしっかり考えなくてはいけません。自分自身を陶冶していく子どもを育てることを念頭においた時、漢字とどのように出合わせていけばよいのか、漢字の魅力や必要性をどう感じられる場をつくったらよいのか、教師の専門性が問われています。従来通りのテスト依存では、自己陶冶力は育たないのは明白です。

 現行の指導要領でも、「当該学年の前の学年までに配当されている漢字を書き,文や文章の中で使うとともに,当該学年に配当されている漢字を漸次書き,文や文章の中で使うこと。」と定められています。そして、言い尽くされたことですが、「知識・技能」は生きて働くものとして習得されなければなりませんから、テストのように文脈のないものではなく、子どもたちの表現の中でいきいきと活用される漢字でないと、「知識・技能」とは言えません。

 私の場合は、『作家の時間』などの作品の中で、漢字を使えたら読者にとっても読みやすいし、漢字と平仮名とでは、読者の受け取り方が違うというミニレッスンになっていきます。タブレット端末で書いている子は、鉛筆で漢字を書けなくても漢字をしっかり活用して書けている子もいるので、それ以上の漢字指導が必要かどうかも考えます。実際に、漢字の学習だけは過剰な負荷にならないように下学年の内容を学習している子もいます。


漢字指導をもう一度作り直す


 いきいきと漢字の世界を楽しむことができる子どもを育てるまで、自分の実践はまったく行き着いていませんが、漢字の成り立ちを探ったり、同じ部首(例えば魚編の湯呑みとか出したら面白いです)を集めたりと、こんなに楽しい漢字の世界を子どもたち一緒に覗いてみるのがよいかもしれません。そして、鉛筆で漢字の隅々まで教科書通りに正しく書く指導は、学校では終焉を迎えたのかもしれません。自己陶冶力を涵養させる学習環境とは何か、もう一度漢字指導を作り直すことが求められています。


2024年1月20日土曜日

本を「自分事」にする

 小学校の4年生の時、養護教諭の先生が、水戸サツヱさんの『幸島のサル』(実業之日本社、1971年:鉱脈社、1996年)という本を紹介してくれました。宮崎県の幸島という島で群れをつくっていたサルたちの観察記録です。刊行当時話題になった本だったことは後で知りましたが、サルに興味をもっていたわけでもないのに、この本を繰り返し読んだ記憶があります。サルのことをほとんど知らない私でしたが、自分の生んだ子ザルが亡くなったのに、その死骸をいつまでも抱えているメスのサルの姿や、群れの外側に追いやられる若いサルたちが、餌として砂浜にまかれたモミを海水で洗って食べたり(「砂金採取法」と名付けられていました)、やはり芋を海水で洗って塩味をつけたりしたりするところを、印象深く覚えています。

サルについて自分が知っていたことはほとんどありませんでした。母ザルの子ザルへの愛情や、餌を食べやすくする工夫をする若いサルたちの知恵を、ほんとうにあったことなのかと思いながら、読んでいました。そのあたりは繰り返し読んだので記憶に残っているのだとも思います。なぜ繰り返し読んだのか。自分と自分を取り巻く世界の何かと似ていると思ったからです。きっとこの本を書いた水戸さんが、観察したサルたちを自分と変わらない存在と考えていたからなのだと思います。200ページほどの長い本を読み通したのははじめてのことでしたが、それができたのは、少なくとも水戸さんが、自分の身内や友としてサルたちのことを捉え、描いて、私に伝えようとしてくれたからだと思います。「上から目線」で教えようとするのではなく、私の知らない世界として描き出して連れ込んでくれたからだと思います。

エリンさんは、ノンフィクションの読み書きについて、次のように書いています。

「教師自らが読んだり書いたりししたことから得た発見を活用することで、指導要領や教科書などに書かれてあることをはるかに超えた意味のある読み・書きの体験と学びの旅に、子どもたちを連れ出すことができるようになります。本書において、私はこれまでの経験と観察をもとにして、さまざまな理解の種類とその成果を定義し、説明してきましたが、それはけっして完璧なリストではありません。私の心からの願いは、読者がこの本を読んで、学校の内外での自分自身の知的探究を通して、自らのさまざまな理解の種類とその成果をつくり出していただくことです。私は、教師が子どもたちといっしょになって、人が理解するときに実際に何が起きるのか、話し合ってほしいと思います」(『理解するってどういうこと?』282ページ)

 『幸島のサル』もノンフィクションですが、書き手の水戸さんが幸島のサルたちの生態に深く耳をすまし、サルたちの行動をわかろうとしてもがいた成果として生まれた「発見」が書かれています。だからこそ、それを読む私はそこに描かれたサルたちと頭のなかで友だちになっていたのかもしれません。子ども心に、幸島のサルたちのことが「自分事」になっていたのです。だから記憶に残ったのでしょう。

 このような私の『幸島のサル』体験を説明してくれる言葉が、小鷹昌明さんの『非読書家のための読書論』(幻冬舎、2021年)のなかに書かれていました。小鷹さん自身がもともと読書家だったわけではないのですが、高校時代に友人から城山三郎さんの『素直な戦士たち』という本を貸してもらって読んだ時の経験が書かれています。

「受験を抱えた一家を描いた物語で、教育熱心な母親に育てられた長男がノイローゼになっていくような話でした。借りた手前もありましたが、意外にも、これを私は、受験シーズン真っただなかに読み、当時の日本の加熱する受験戦争に対してとても不快な気分になる一方で、自分事として読むことができました。(中略)だからと言って、これを契機に読書好きになったというわけではけっしてありませんでした。「本というものは、自分事として捉えられれば、ある程度読めるのだ」という気持ちが、少し芽生えただけでした。(『非読書家のための読書論』36ページ)

 控えめに書かれてはいますが、「本というものは、自分事として捉えられれば、ある程度読めるのだ」という発見はとても大きなものだったのではないかと思います。

「面白くない本というものは、その本がよくない本だからというわけではけっしてなく、多くの場合、いまの自分に必要ないから興味が持てないのです。読書感想文の指定図書も、幅広いジャンルのなかから、まずは生徒自身で選ばせるというところからはじめれば、少しは違うかもしれません。

そのときの選ぶコツは、物語の主人公と自分との間に、共通点や似ているところがある本を選ぶということです。自分の好きなことや趣味をテーマにした本でもかまいません。」(『非読書家のための読書論』48ページ)

 自分で「選ばせる」ということは、その本を読む行為が「自分事」になる、とても重要な行動です。「いまの自分」にとって必要なものを判断させることになるからです。「いまの自分」との共通点をもつものを選ぶという指摘も大切です。

 また、「書くという運動能力を高めるには、読むという基礎体力作りから始めることが重要」と言う小鷹さんは「付箋を貼りながらの読書」の仕方をわかりやすく説明しています。

「書くことを前提にした読書において、付箋を貼る行動の目的はひとつ、「再アクセスを容易にする」ということです。ちょっと気になった表現、言い回しの鋭い文章、自分にとって新しい情報、普段使わないような言葉、なんでもいいのです。少しでも“己の琴線”に触れた箇所があれば、どんどん付箋を貼りながら読んでみてください。すごく、すごく簡単なことです。」(『非読書家のための読書論』71ページ)

 「書くことを前提にした読書」はエッセイストならではの発想ですが、それは本を「自分事」にするためにも重要です。そのための付箋の使い方は、読書を能動的にしてくれますし、その本のどこが自分にとって大切なのか考える契機をもたらしてくれます。エリンさんも「小説やエッセイなどを読むのを中断して、それまで自分がもっていた考えや価値観を転換してくれたことについて書き出すとき、そういう中断なしに読んでしまう場合よりもずっと深いレベルの理解に入っていくのです」(『理解するってどういうこと?』282ページ)と言っています。「中断」(小鷹さんの「付箋を貼ること」もその一つだと考えます)することによって、今読んでいる自分にとって大切な箇所に幾度も繰り返しアクセスすることがその本を「自分事」にしてくれるのです。思い返してみると、小学生の私も、書くことや付箋を貼ることこそしませんでしたが、『幸島のサル』の自分にとって大事な箇所に何度もアクセスして考えていました。あの本を読みながら、実は自分の内部の何かを読み直していたのかもしれません。

2024年1月13日土曜日

読み書きを「楽しめる」ように、自ら調整する 〜そのスタート地点にあるのは違和感?

  先週の投稿「『作品をよくするのではなく、書き手を成長させるために教える』ってどういうこと?」を読みながら、「書き手(そして読み手も)としての成長」と併せてよく耳にする「自立した書き手、読み手」というフレーズについて、改めて考えました。「自立した」と言われると、「強制されなくても取り組む」というイメージを私は持っています。もし、卒業後という、教師の手が届かない時間も含めて考えると、「強制されなくても行う」のは、チャレンジかもしれません。ミニ・レッスンもカンファランスも、交流やサポートをし合う仲間も、たっぷり読み書きする時間もない環境になる可能性があるからです。

 「強制されなくても取り組むためには何が必要?」と考えるときによく思い出すのが、2021年7月23日の投稿「それぞれにぴったりの方法を見つけることをサポートする、という教師の役割」で紹介した、リディア・マホヴァによる「新しい言語を学ぶ秘訣」というTEDトークです(★1)。これは外国語学習についてのTEDトークですが、読み書きも含めた学び方に応用できる部分が多々あるように思います。

 マホヴァ氏は複数の外国語を流暢に使う人(ポリグロット)たちについて、それぞれ学習方法は異なるものの、その共通項として、一人ひとりが、「言語を学ぶ過程の楽しみ方を知っていること」を指摘しています。「学ぶ過程自体が楽しければ、強制されなくても続く」、確かにそのことには納得です。

 これをライティング/リーディング・ワークショップの教室から卒業した子どもたちで考えると、「これまで教室に存在していたサポートや時間がない条件下で、読み書きのプロセス自体を楽しめるかどうか」ということになりそうです。

 書いている途中のフィードバックもなく、読みたくなるような本も手元になく、本をお薦めしてもらえる機会ない。それでも読み書きを楽しく続けられる人もいるでしょうし、つまらなくなってやめてしまう人もいそうです。特に後者の場合、楽しめるように、自分でなんとか調整する力がないと、継続するのは難しいかもしれません。

 今回、マホヴァ氏のTEDトークを改めて視聴すると、次のように終わっています(日本語字幕よりの引用です)。

「流暢に話せるまでに足りないのは  楽しめる方法なのかもしれません   方法ひとつで あなたも ポリグロットになれるかもしれないのです  ありがとうございました」

 マホヴァ氏は、うまくいかない時に欠けているものは、「現在の方法が楽しめるものではないので、それに気づいて、それを変えること」と言っているようにも感じます。つまり、「この学び方は、何か欠けている、何か違う」と思い、楽しめる方法を探す。あるいは、それを楽しめるように、工夫したり調整したりする、ということです。

 そのために在学中にできることは、(将来)「これは違う」「楽しくない」「夢中になれない」という違和感を感じられるような基準/土台をつくることなのかもしれません。教室で「書くことには本物の読者がいる」「読むことはリーディング・ゾーンに入れること」のような経験をすることで、将来の読み書きが楽しめない時に、何か欠けている? 何か違う?という違和感をもつことにつながるように思います。この違和感が、夢中になれない学びを修正/変更/新たな選択をするスタート地点のように思います。

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 私は英語を教えていますが、英語に触れるという点からは、ここ数十年の質・量の変化には目を見張るばかりです。著者による絵本の読み聞かせや、俳優による上手な読み聞かせサイトもありますし、TEDトークのように、多様な内容や伝え方を視聴できるサイトもあります。上手な読み聞かせやTEDトークを視聴していると、あっという間に時間が過ぎますし、読むことが大好きな私は、持ち歩きしやすいペーパーバックがあれば、通勤での電車の待ち時間が待ち遠しいくらいです。

 少し前に、隙間時間に他の外国語を学びはじめたのですが、とりあえずスタートしてみると、文脈がつながらない細切れの文章が次から次へと出てきました。この言語で、英語の〇〇や△△というサイトみたいなものがあればいいのに、と思いつつも、うまく見つけられていません。言語学習における継続の大切さもよくわかっているので、細切れの文章であっても、毎日、短時間の学びをやめないようにしていますが、「方法を変えなくては」「何かプラスしなくては」という思いが、いつもあります。続けるためにも、探し続けようと思います。

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★1

https://www.ted.com/talks/lydia_machova_the_secrets_of_learning_a_new_language(英語、日本語、その他複数の言語の字幕でも視聴できます)


2024年1月5日金曜日

「作品をよくするのではなく、書き手を成長させるために教える」ってどういうこと?

この違い、分かりますか? 

これは、ライティング・ワークショップの生みの親であるドナルド・グレイヴスが繰り返し言っていたことで、ライティング・ワークショップ(作家の時間)で最も大切にされていることの一つです。

 私たちは、個々の生徒の作品をよりよくするために時間とエネルギーを割きがちです。それは、一般的には添削という形で行われます。教師がテーマを出して生徒たちに書かせ、提出された作品を丁寧に読んで、間違いやよりよく伝わりやすくできる部分を訂正したり、提案を書いて生徒に返します。それが、あたかも教師にとっての最も大切な仕事であると錯覚して。

 しかし、大方の生徒にとっては、作品を提出した段階で「すべては終わっている」ので、教師が添削したものをもらっても、それを丁寧に見直して、教師の提案等を踏まえて書き直そうとは思いません(実際、時すでに遅しです。教師もそんな時間は生徒に提供することはしません)し、訂正が次の作品にいかされることもありません。

 ちなみに、この問題は本の執筆者(特に、ノンフィクションで学術系の分野が多いと聞きます!)と編集者との関係でも存在し、生徒たちと同じ問題が起こり続けています。編集者が一生懸命に読者にとってより読みやすく、分かりやすい文章にすべく手を入れるのですが、執筆者は、編集者から戻ってきた原稿をサ~と読み直し、気になった点だけを指摘して(つまり、編集者が努力して読みやすく/分かりやすく修正した部分などは目もくれずに)戻すだけです。結果的に、編集者は「執筆者たちの文章は読めたものではない!」と不平を言い続けています。

 両方の場合で、かなりの時間を教師も編集者も割いているのに、いっこうに生徒の書く力も、執筆者の書く力も向上しません。どこかに、構造的な問題があるというか、時間のかけ方に問題があるようです。

 ライティング・ワークショップ(作家の時間)は、この問題を乗り越えた方法として、生徒がまだ書いている間に(作品を清書して提出する前の段階で)、繰り返しカンファランスを行います。その際のポイントが、タイトルの「作品をよくするのではなく、書き手が成長するために教える」です。これによって、直す必要がある全てを指摘して直させるのではなく、書き手が身につける必要のある優先順位の高いものから順に確実に身につけられるように(つまり、いま書いている作品ではもちろん、これから書くであろう作人でも活かし続けられるように)提案/問いかけていきます。「指導していきます」と書きたいところですが、それは結果的にしていることで、実際に教師がしていることは、投げかけです。判断して、それを受け入れ、そして実際に使うか否かを判断するのは生徒ですから。つまり、選択権を生徒に委ねているのです。その方が、身につきやすいからです。

 これは、ライティング・ワークショップ(作家の時間)で書く作品は教師に対して書かれたものではないことが多いことにも関連しています。個々の生徒が明確に書く目的や対象を設定して、それを満足するために書いていますから、従来の作文の作品のようにほとんど読むのは教師だけとの大きな違いです。教師も、自分が納得できるものにすることが目的ではなく、その対象に届くように生徒が書けるようにすることに、生徒と一緒に取り組むサポーター的な役割を担っています。

 また、ライティング・ワークショップ(作家の時間)では、提出された作品に対しても、教師がしっかり読み込んで添削するようなことはしません。そもそも、下書きや修正を繰り返している間にかなりのやりとりをすでにしていて、内容はもちろん、書き手の強みや弱みはすでに把握していますし、自分に対して書かれたものではありませんから。ベストのフィードバックは、教師からよりも、作品の対象(やクラスメイト達や保護者等)から直接書き手に戻してもらった方が、次に書く意欲につながります。

 このようなサイクルを回しながら、ライティング・ワークショップ(作家の時間)は「作品をよくするのではなく、書き手を成長させるために教える」を実現しています。直接的に、作品をよくする努力はしませんが、結果的には、旧来の添削アプローチよりもはるかにいい作品ができてもいます!

 

 書き手を成長させるために教えることを実現するためにやれることは、

   個々の生徒を書き手としてよく知る ~ 強みと弱みを把握する。個々の生徒の作家のサイクルhttps://wwletter.blogspot.com/2012/01/blog-post_28.htmlをよく観察すると同時に、カンファランスをして記録を取る。

   何が一人ひとりの書き手にとって最も伸ばす必要があることかを判断する ~ 学年の間に押さえること(学習指導要領と教科書をベースにつくったチェックリストないしルーブリック)を参考にしながら、①を踏まえて、生徒との話し合いをさらにして、教師が判断する。

   一人ひとりの書き手に、ニーズの高い順番に教えていく ~ 例えば、何を書いていいのか分からない生徒、短い文章しか書けない生徒、たくさん書けるけどインパクトが伝わらない生徒に、それらを乗り越える方法★を、ミニ・レッスン、小グループ対象、個別カンファランス★★で教えていく。

   常に「書き手はどうするか」という言葉を使って教える ~ 生徒が書いている作品を対象にして教えるのではなく、書き手がやれることを教える。たとえば、読み手が読みやすく、かつ理解しやすくするための方法として、詳しく説明するのではなく、どう見えのるかを書くことによって実現する方法を教える。そうすれば、いま書いている文章はもちろん、これから書くすべての文章に応用することができる。

 

参考: https://www.edutopia.org/article/teaching-writing-elementary-school

★これら3つは同じ課題ではありませんが、自分が書きたいもの/書けるものを網羅的にリストアップし(誰に対して何のためにも考えつつ)、それらのなかから優先順位の高いものを選び、どういう流れ(構成)が望ましいのか、どこに力点はどこか(どこは詳しく書き、どこはあっさり書くか)などを考えるなどの方法です。

★★クラスのほぼ全員が該当する場合はミニ・レッスンで、数人の生徒しか該当しない場合は小グループで、一人の生徒しか該当しない場合は個別カンファランスで対応する選択肢を教師はもっています。