WWとRWのアプローチには、教材研究という発想はない?
先日、僕が書いた指導案の投稿の一節にあった「教材研究」について、このブログの書き手の一人である吉田新一郎さんが、メッセージを送ってきました。「私はWWとRWのアプローチには、教材研究という発想はないと思います」というメッセージでした。ガーンです。僕は20年間のこれまでの教材研究を否定されたかのような感情になり、ここから議論になりました。今回はこの「教材研究」について、落ち着いて、自分なりの考えを表してみたいと思います。
学習の三角形の視点から「教材研究」はどう見える?
まず、僕が書いた指導案の投稿の一節はこのような内容でした。
「そうは言いつつも、私も教員歴20年、指導案を作り続けてきました。指導案を通じて、子どもにとって価値のある目標は何なのか、子どもが学びやすい学習の構造はどのようなものなのか、考え続けてきました。指導案作成がなかったら、「この教材をしっかり掘っていこう」と深い教材研究に挑戦することができなかったかもしれません。指導案という箱が完璧では無いと分かりつつも、一つの教材としっかり向き合ったり、授業について入念な準備を行うことについては、その価値を否定する物ではありません。」
WW/RW便り: 「ワークショップの学び方」は指導案で表現できるのか
この上の一節について、吉田さんは反応しています。さきほどの「私はWWとRWのアプローチには、教材研究という発想はない」というメッセージへと続きます。そこで、「吉田さんにとっての教材研究とは何か?」と聞いてみると、すぐに一枚の資料とともに、返事が返ってきました。
(私(吉田新一郎さん)にとっての教材研究とは)「教師が生徒の興味関心やニーズ等を無視して、一方的に教え込むための手段。教える時間も、生徒たちの許容範囲をはるかに超えた長い時間」です。
吉田さんが添えてきた資料は、『ようこそ、一人ひとりをいかす教室へ』(北大路書房)のP.60に掲載されている「学習の三角形」でした。この本の著者であるC.A.トムリンソンさんが「若くて、聡明で、熱心な数学教師」でありながら思春期の生徒とすれ違う教師に、授業を参観して助言した際に用いたものです。そこで著者は、この教師の授業は、学習内容だけは完璧で、二つの角(教師と生徒)に問題があったと述べています。「教師と生徒が一緒になって、学習の三角形を強めることのできる学習環境をつくり上げることができるようになるためには、健全な教室において生徒と教師と学習内容が相互にいい関係を築き合うことで、それぞれにとって何が起こるのかということを理解することが大切なのです。」と締めくくられています。
そう、吉田さんが伝えたいことは、上の図の「生徒」「教師」が不在で、「学習内容」ばかりが肥大化してしまうような「教材研究」について、警鐘を鳴らしているのだと思います。確かに、例えば教科書単元の教材研究を例に挙げたとしても、学習に「生徒」は全くと言っていいほど影響を持つことはできません。また、教科書通りに従順に単元をこなしている教師にとってみれば、そこに「教師」の意思決定もされません。いくら学習内容が素晴らしいものだったとしても、生徒の状況も教師の意思も反映されていなければ、学習の三角形はペタンコに潰れた貧弱な形になってしまいます。
僕は、生徒不在の教材研究を行なって、子どもとすれ違ったことが何度もあります。例えば、6年生社会科で研究発表を行なったとき、横浜独自の地域教材でアピールするために「原三渓」を扱いました。生糸の貿易で財を成した横浜の豪商です。先生が一生懸命調べてきたということで、子どもたちも一生懸命学んでくれましたが、当時の僕は一生懸命学んでくれる子どもの姿しか目に入らず、他の子どもが気持ちが置いてけぼりになっていることすら、気がつきませんでした。後になって、クラスの荒れということで、子どもとの乖離が明らかになっていきました。
(詳しくは、以下のリンク先の『読書家の時間』 旧版10章「教師の変容」をご覧ください)
『改訂版 読書家の時間』 オンライン章(無料です) | TOMMY'S IDEA ROOM
アトウェルの「譲り渡し」には、「教師」と「生徒」がある
そんな経験がありながらも、今の僕が続けてきた「教材研究」を守りたい気持ちを抑えきれず、僕は同じくブログの書き手の一人である小坂敦子さんにすがるように泣きつきました。「WWやRWにおいても、教材研究って大切ですよね?」とメールを出したわけです。
優しい敦子さんは、アトウェルが「譲り渡し」について書いている部分を引用して送ってくださいました。この「譲り渡し」も、結果的には「教材研究」なのではないか? というわけです。
「ライティング・ワークショップで譲り渡すとはどういうことでしょうか? それは、アンに靴ひもの結び方を教える時と同じように、私の書くことについての知識を教室に持ち込むことなのでした。私はまず、良い文章について色々なジャンルから自分が学んだことから始めました。例えば、書き手としての自分の成功体験や失敗体験。優れたものもそうでないものも含めて読んできた、他の書き手の作品。そして他の書き手や教師からの助言などから学んだこと。また7・8年生がどういう年代かという、発達段階についての知識も使います。そして、自分が教える一人ひとりの生徒の課題、強み、書きたいこと、興味、書くプロセスを理解するために、学期の最初から全力を尽くすのです」(『イン・ザ・ミドル』36ページ)
この「譲り渡し」をよく読むと、明らかに三角形の一角である「教師」の体験をもとにアトウェル自身が学習内容を決定しています。また、一人ひとりの「生徒」の実態をつぶさに捉えて(アセスメント)、相手が受け取りやすい形で「学習内容」を気持ちを込めて届けています。まさに、「譲り渡し」をしているわけです。うーん、僕の「原三渓」教材研究とは、だいぶ質が違います。
「譲り渡し」で、アトウェルの瞳には、おそらく特定の個人の具体的に学ぶ姿が写っているように思います。「あなたのために譲り渡したい」「〇〇を学ぶ〇〇のために譲り渡したい」と生徒を思って教材を考えているのでしょう。目の前にいる生徒のアセスメントを大切にして、教材を考えている姿勢が伝わってきます。僕の「原三渓」は具体的な子どもの姿は見えていません。
『イン・ザ・ミドル』の第1章を読むと、若い頃のアトウェルも「談話の階層」という概念を援用して、劇のセリフから物語、説明文へと段階を経て練習していくカリキュラムに心酔していたと書かれています。子どもの姿やアセスメントよりも、教材や教え方ばかりに目を奪われていた時期があったようです。それが、ジェフという生徒で出会うことをきっかけに、「教え方」から「学び方」への視点の転換があったことが語られています。
「教材研究」のアップデート
つまるところ、吉田さんのいう「教材研究」には「生徒」や「教師」が全く存在しないことが、大きな問題なのでしょう。教材研究というと、教科書にある物語教材の「ごんぎつね」や「やまなし」の発問を考えたり、言葉一つ一つの意味を調べたり、また、その教材を活用して教師のねらいをどのように到達させたらよいかを考えることが大きな目的の一つでした。たしかに、このようなアプローチでは、生徒はいつまでも蚊帳の外。生徒の、生徒による、生徒のための学習は、成しうることができません。
しかし、一方で、主体的な学習と銘打って、教師がろくな支援も行わず、子どもたちを放ったらかしにしてしまう学習も存在していることを知っています。子ども主体の学習に有効な支援を行うためには、教師の蓄積や子どもを見る目(アセスメント)が必要です。それらは、教師の教材を学んだ経験がいかされるのではないでしょうか。
また、子どもたちががんばった学習を価値付けて、子ども達を勇気づけるためには、自分自身もまた汗をかいて学び、そこで得た自分自身の体験に裏づいた具体的な感覚や感情を、子どもの中から見つけて共感していく必要があります。教師自身が主体的に学んでいないと、子どもに届く言葉はきっと見つからないでしょう。物語を読む楽しさを子どもたちに感じて欲しいのなら、教師も一緒になって物語を楽しみ、その姿を示していきたいものです。教師自身も学び手として成長し続けるという意味での「教材研究」ならば、学習の三角形の「教師」と「学習内容」の間の辺を強く結ぶことができるでしょう。
「教材研究」という言葉はアップデートしなければならないのかもしれません。「生徒」や「教師」が不在で「教え方」ばかりに気を取られてしまった教材研究は古い時代のものです。生徒と学習内容をどのようにつなげるか、教師の実体験と学習内容をどう結びつけるかという学習の三角形を活用し、「学び方」に力点を置いた「学習の研究」の視点になるのだと思います。