2025年2月22日土曜日

自分の「声」を育てる

 アントン・チェーホフに、私自身それほどこだわりはなかったのですが、なぜかチェーホフを扱った本を先月に続いて読むことになりました。キリン・ナラヤン著(波佐間逸博訳・梅屋潔訳『文章に生きる―チェーホフと、エスノグラフィーを書く―』(新曜社、2025年)で、『理解するってどういうこと?』と同じく新曜社から今年のはじめに出た本です。

 「エスノグラフィー」は、一般的に「民族誌」と訳される言葉です。著者のナラヤンはインド出身でアメリカの大学で教えている人類学者。その人の本のタイトルがなぜ『文章に生きる』なのかと思って読み進めると、この翻訳書タイトルの意味がよくわかりました。5章構成でそれぞれ「ストーリーとセオリー」「場所」「人」「声」自分」と見出しが付けられています。冒頭の「本書にようこそ 文章に生きる」には次のように書かれていました。

 「書くことを通して、生きるという営みに対する共感が自然に育っていくし、人の認識は正確な言葉の選択によって鍛えられていきます。自分のイメージや洞察を遠くの読者まで届けることができるかもしれません。この本には、ライティング・エクササイズが含まれています。これらは、自己の内面を深く掘り下げていく思考と、自分の考えや感情を他者に伝える技術を同時に鍛えます。」(『文章に生きる』ixページ)

  一文目と二文目に、本書が『文章に生きる』と題された理由が書かれています。「生きるという営みに対する共感」という言葉になるほどと思いながら、昔読んだチェーホフの短編「牡蠣」のことを思い出していました。この小説に登場する少年の並外れた想像力にはとても強い印象が残っています(『新訳 チェーホフ短編集』沼野充義訳,、集英社、2010年ほかで読めます)。その根底に私が感じたのも「生きるという営みに対する共感」だったからです(ただ、『文章に生きる』には「牡蠣」のことは出てきません。むしろ村上春樹『1Q84』を連想させる『サハリン島』のことがたくさん出てきます。)。

 三文目にある「ライティング・エクササイズ」はむしろ『文章に生きる』の最大な特徴だと言っていいでしょう。最初の三つだけ「エクササイズ」を引用させてください。

 「「私がいちばん書きたいのは・・・・・・」につづく文章を五分以上書き続けてください。」

「作品の中で使おうかなと考えている素材を思い浮かべ、その中からぱっと目に浮かぶ二、三のイメージをざっと書き留めてみましょう。少なくとも五分間は書き続けてください。」

「「私が一番読みたいものは・・・・・・」に続く文章を書きましょう(二分以上)。」

(『文章に生きる』911ページ)

  最低12分間で、自分が書こうとする文章の骨格が見えてきます。エッセイでも小説でも論文でも、書こうとする人の意思が具体的に表現されるところがとても大切に思います。そしてこの「エクササイズ」で書いた文章を、当の書き手が何度も読み直すことができ、それを変換していくことができるというのも重要です。

 「自分の声を育てる」という一節も私の印象に残りました。早朝にたった一音を繰り返し練習し「自分の声を見つけるのが何より大切なんだ」と説いたヒンドゥスターニー・クラシックの名歌手シーラ・ダールの言葉を引いた後に、ナラヤンさんは次のように書いています。

 「私はこの一節を何度も読み返しながら、完璧な音の線を、開かれたコミュニケーションの流れとして考えてみました。ただひたむきな練習だけが、自己の認識を強化することだけが、線を、「探究すべき領域」にまで拡張することを可能にします。ヒンドゥスターニー・クラシック歌手の孤独な音の探求は、作家たちが個々に実践している、外部の要求から個人の時間を守るためのルーティーンを思い起こさせます。(中略=引用者)私の場合、トレーニングとしてできるだけ毎朝、ノートに手書きで少なくとも一ページの文章を書いています(いつもちゃんとできるわけではないです)。ノートにはどんなことを書いてもかまいません。なにしろ自分自身と向き合うための方法なのです。この孤独で内面的な書き込み練習は思考、イメージ、感情、物語を整理するのに役に立っていると私は感じます。日々めくるめく渦のように変動する内的テーマにしっくりとなじむ言葉を見つけるトレーニングは、よりのびやかで自信に満ちた声を鍛え、他の人に向けて文章を書くための声をもたらしてくれていると実感しています。」(『文章に生きる』161162ページ)

  この引用後半に書かれているナラヤンさんの「ルーティーン」のことを読むと、エリンさんが書いた次の一節のことが思い出されます。

「ガレアーノの文章を読んだその夜に、私はこの短い一節を書きました。その夜私は大きな助成金の申請書を書くはずでした。翌日が申請書の締め切り日で、その準備のために何時間も集中する必要があるとわかっていました。しかし、この本に誘いこまれて読み終えると、私はこの文章を書かないではいられなかったのです。この文章を読んでいるあいだの自分の思考を忘れたくなかったからです。申請書作成の責任感は頭の片隅に押しやって、音楽をかけ、ガレアーノと自分自身の言葉に没頭しました。後悔などしていません。結局、助成金の申請書も書き上げ、自分の思考を書き上げる時間も手に入れましたが、それから6年経ってみると、私の宝物になったのは、後者のほうでした。何年もあとになってネルーダについてこうして書くことなど思ってもいませんでしたが、ガレアーノのエッセイとこのノートを読み返して、この詩人についてより深く理解することができたのです。時間をどう使うか、私たちは毎日判断をしています。そして私は思うのです。何がもっとも長く残るのでしょうか。毎週一人が費やすほんのわずかな貴重な時間に自分が焦点をあてるべき価値のあるものとはいったい何なのでしょうか? 何を「招き入れ」、何が私たちをほんとうに換えてくれ、行動を起こさせ、共感の助けとなるのでしょうか?」(『理解するってどういうこと?』280281ページ)

  ナラヤンさんの言う「声」とは「書かれた言葉の背景に感じられる存在やメッセージ」(『文章に生きる』137ページ)のことです。エリンさんがここに書いていることは、ナラヤンさんの言う「よりのびやかで自信に満ちた声を鍛え」「他の人に向けて文章を書くための声」を見つけるためのエクササイズのことだったのではないでしょうか。それは、ネルーダという詩人や彼について書いた友人ガレアーノの言葉を深く理解するためのエクササイズでした。「自分の声を育てる」ことは、自分と他者と世界を深く理解することに確実につながります。『文章に生きる』は、そのような「理解の種類」を浮かび上がらせてくれる本でした。そして、「生きるという営みに対する共感」で貫かれたチェーホフの作品群がそれを伝える格好のモデルだということも教えてくれます。

 

2025年2月14日金曜日

「共有の時間」から「リフレクション」の時間へ (その2)~「グローバルな問い」の役割

  今回は、2025年1月11日の投稿「『共有の時間』からリフレクション』の時間へ (その1)」に続く(その2)です。今回は、リフレクションの時間での「グローバルな問い」(global questions)の役割について、 前回(その1)と同じ本『The Literacy Studio』(★1)の、主にReflection の章(174-196ページ)から考えます。

 前回(その1)では、1) 他の子どもに教えることもリフレクションの時間の一つの選択肢であり、教える子どもにとっては知識やツールの定着となり、教えられる子どもにとっては新たな知識やツールの獲得となること、2) 読み書きにおける自分の学びを共有することで、これまでに自分が学んだことのリヴィジョン(書き直し、読み直し、考え直し)、つまり知識や視点の改変や再構築(★2)につながることを考えました。

 今日(その2)の「グローバルな問い」(global questions)は、自分の学びを、今読んでいる本や今書いている作品だけにとどまらず、他教科での学びや教室の外、あるいは社会正義や公平性といった概念の理解など、新たな地平に向かって後押ししてくれるというものです。

 私は、A) 短いリフレクションの時間に、どうやって「グローバルな問い」を活用できるのか、B) 社会正義や公平性と言われると、例えば「社会正義/公平性は大切、そのために自分ができることは?」のような、教師側になんらかの模範解答なり目指す方向があって、それに誘導するようにならないか、という質問を持ちながら、リフレクションの章を読みました。

 さて、著者のキーン氏は「グローバルな問い」とは、ウィギンズ とマクタイと「本質的な問い」(essential questions)(★3)の特徴と重なるだけでなく、さらに以下のような点があるとしています(181-182ページ)。

1) 読み書きを統合したワークショップ(lieracy studio)のどの部分においても、対話の支え(anchors)(★4)となる。

2) 学んだことを、社会正義や公平性という観点につなげる。

3) 生徒が発案することも多く、個人やグループでの探求につながる。

4) 他教科での関連する学びも含めて、生徒が教室の外の世界とつながるのを助ける。

5) 年間を通して、またカリキュラム全体を通しての学びにつながる。

6) リフレクションの焦点となるものを提供してくれる。

*****

 まず、A) 短いリフレクションの時間に、どうやって「グローバルな問い」を活用できるのか、です。上記「 1) 読み書きを統合したワークショップ(lieracy studio)のどの部分においても、対話の支え(anchors)となる」と「6) リフレクションの焦点となるものを提供してくれる」とあるように、「グローバルな問い」は、ある日のリフレクションの時間に唐突に、登場するものではありません。そうではなくて、現在学んでいることのポイントをおさえる印象ですから、短時間で可能となっているように思います。

 具体例で見ると、5年生の例(183ページ)では、「グローバルな問い」は「説得力のある文章やスピーチは、社会変化を引き起こしたり、それに対応するために、どのように使われてきたのか。社会変化を引き起こしたり、それに対応するために、どのように説得力のある文章を使うことができるのか」です。この問いは、「説得力のある文章」というジャンルを学ぶユニットの中で設定されています。

 3年生の教室(184-189ページ)での「グローバルな問い」の例は、「本(およびその他のメディア)や私たちが書くものは、どのように私たちの思考、感情、信念、行動に変化をもたらすのか?」となっています(183ページ)。

 子どもたちは、「どのように、本(読むこと)によって、考えや行動が変わるか、また、書くことによって、どのように書けば、読者の考えや行動を変えられるのか」という読み書きを統合した単元で学んでいる真っ最中です。

 3年生のこの事例はかなり詳しく紹介されています。このクラスを教えるラファエル先生は、本を読んでいる子どもの中に、最初に「こうだ」と思い込むと、それを変えることなく読み続ける子が少なからずいることに気づいていました。

 そこで、クラス全体に対して、読んでいる間に自分の考えが変わることについて、先生自らの「考え聞かせ」で教えたり、必要に応じて個別カンファランスや、小グループで教えたりしてきました(小グループに教えることは、この本では Invitational Group と呼ばれています)。

 「本(およびその他のメディア)や私たちが書くものは、どのように私たちの思考、感情、信念、行動に変化をもたらすのか?」という「グローバルな問い」が意識できるように、この問いは教室にも掲示(★5)されています。つまり、グローバルな問いは、学習中の単元と密接に関連していますし、リフレクションの時間以外(先生が全体に対して教える時間、それぞれがひたすら読み書きをする時間など)でも、意識され、学びのポイントとなっています。

 私が気になっていた2点目、「B) 社会正義や公平性と言われると、教師側に模範解答があって、それに誘導するようにならないか」です。これは、3年生の事例(184-189ページ)を見ていて、「そうならない」ようにできることがはっきりわかりました

 この事例では、結果的に子どもたちは、その日の学びを「他者理解のための共感」という概念につなげて学んでいるのですが、それは教師があらかじめ決めていたことでも、予想していたことでもありません。

→ とはいえ、教師の立ち位置や進め方によっては、誘導的に進めてしまう危険性がないとはいえません。この点は、(その3で)引き続き考えていきたいと思っています

 上記で説明されているように、「グローバルな問い」は、対話の支え(anchors)であり、リフレクションの焦点であって、どこかに導くような羅針盤ではありません。むしろ、常に学びを再構築し、生成していくための土台のように思いました。

*****

★1 Ellin Oliver Keene. The Literacy Studio: Redesigning the Workshop for Readers and Writers. Heinemann, 2022.

★2 リヴィジョン(書き直し、読み直し、考え直し)については、先週(2月2日)の投稿「修正を通じて、生徒たちに書く自信を育む」では、リヴィジョンの動詞であるrevise について「再構築」という言い方もされていて、次のような文が記されていました。

「修正は、生徒が書いている作品を「再構築(revise)」する重要な方法です。それは、一人ひとりの子どもが「自分の人生を再構築する/生き直す/自分自身をつくり出す」重要な段階と言い換えられますから、とても大切です」

→「再構築」と言われると、reconstruction や rebuild などの単語が浮かびます。でも、リヴィジョンで行なっていることは、新しく構築するためのやり直しですから、まさに「再構築(revise)」に向かうプロセスのように思います。

★3 ウィギンズ とマクタイについては、以下の訳書が出ています。

『理解をもたらすカリキュラム設計』 G. ウィギンズ、J. マクタイ、西岡加名恵訳、日本標準 2012年

★4 次の★5でも記すように、「錨、支え、拠り所」等々の意味がある、anchor という単語が気になっています。

★5 教室での掲示ですが、anchor charts(アンカー・チャート)と呼ばれています。学びのポイントや学びの軌跡が掲示され、そこに戻って学ぶこともあります。


2025年2月7日金曜日

「修正」を通じて、生徒たちに書く自信を育む

 修正は、推敲のように「すでに書いた文章の表現や言葉遣いをより良くすること」がメインの目的ではなく(それも含まれますが)、「すでに書いた文章に新しい命を吹き込むこと」こそが中心的な目的です。

 表題の実践紹介のはじめに、タミー・ルーロ先生は次のように書いています(以下、●の部分は先生自身の言葉で、◆は紹介者のコメントです)。

 

● 私は、小学校で作文を教えており、修正(revision)の重要性を強く感じていますが、これを教えることは難しいことも理解しています。修正は時に、堅苦しくフォーマットに縛られているように感じられたり、生徒がやる気を失ったりして、それを試みようとしないことがあります。最悪の場合、修正は生徒の文章を「直す」こととなり、彼らに自分の書いたこと(=考え)が間違っているという感覚を与え、作品を自分の意志で表現することを抑制してしまいます。その結果、個性が損なわれ、「先生が言ってほしいことを教えてよ。そのまま書くから」といった態度が生まれることもあります。しかし、修正がうまくいった場合、それはクリティカル・シンキングや創造的な言葉遊び、さらには社会正義を育むものであり、計画的で具体的な活動と、時間をかけて自然に進行するプロセスを通じて、作品を再構築する重要な方法となります。

◆ クリティカル・シンキングは、「批判的思考」ではなく、「何は大切で、何は大切ではないかを見極める力(であると同時に、その判断に基づいて行動する力)です。「言葉遊び」や「社会正義」を意識していることがいいです! 日本の作文の授業で、これら3つは意識されているでしょうか? 「計画的で具体的な活動」と「時間をかけて自然に進行するプロセス」を、これから紹介してくれると思います。修正は、生徒が書いている作品を「再構築(revise)」する重要な方法です。それは、一人ひとりの子どもが「自分の人生を再構築する/生き直す/自分自身をつくり出す」重要な段階と言い換えられますから、とても大切です。

 

● 私はジャマイカ・キンケイドの「文章を書く際に頭の中でアイディアを反復し、修正を加えるプロセスを大切にしており、それは衝動的に行うのではなく、時間をかけて心の中で整えられていきます。執筆において決まったスケジュールや流れもありません」という書き方や修正の仕方に影響を受けて、私のアプローチに活かそうとしています。

◆ ジャメイカ・キンケイドの本は、4冊ぐらい翻訳されています。教師にとってモデルにしたいメンターや「メンター・テキスト」(本ブログの左上で検索をかけるとたくさんの情報が入手できます)があると、実践が進化します。

 

 修正は、書くときだけに使うのではない。他の教科でも、「修正」という言葉は、「再考する(考え直す)」「創造的に斬新な解決法を考え出す」「すでに作成したものを改良・改善する」などに置き換えて使えるように指導しています。そうすることで、修正の価値を理解しやすくなり、子どもたちにとって自然に理解を深めることができます。

◆ 文章を書くときに大切な「修正」は決して特別なものではなく、他の教科でも大事にされている考え方であることがわかります。他に、どんな言葉が実際に使われているでしょうか/考えられますか?

 

● 芸術作品を分析する。私は、モネが同じ主題を何度も再訪し、その都度異なる視点で見直して描き直すというアプローチを、執筆における改訂の架け橋として使っています。

◆ モネは、フランスの印象派の画家のことです。モネの作品では、同じ風景や主題を異なる時間帯や気象条件で何度も描くことが特徴的です。このアプローチは、同じシーンを異なる視点で見ることで、時間や環境が作品に与える影響を強調するために用いられました(たとえば、「睡蓮」シリーズなど)。この手法は、変化する環境や視覚的な体験を強調することで、印象派の特徴的なスタイルを作り上げました。これを、「モネのアプローチ」と言っており、執筆における再構築や見直しに関連づけられています。

 音楽や舞台芸術なども使えるでしょうか?

 ロール先生は、他の方法も紹介してくれています。自分(ないし誰か)が書いた作品を、漫画に書き直したり、手紙を詩にしたりして、作品を新たな視点で想像/創造し直します。外国語の詩を、その言語の知識や翻訳アプリの助けを借りずに翻訳し、作品の自分なりのイメージを作りあげる方法などです。ジャンルや言語を変えることで、異なる方法や視点で再構築したり、創造的に新たに解釈したりすることを可能にします。これは、前の作品に新しい命を吹き込むことを意味します。(修正の本来の意味は、これではないでしょうか? 推敲★とは、根源的に異なる視点に立っています!)

 

● 教師の書き方を開示する。自分の混沌とした書くプロセスを隠すのではなく、それをモデルとして示し、最初から最後までの思考過程をあえて紹介します。それには、作品を一度置いておき、何度も戻ってくる過程も含まれます。私たちは作家が行う選択、特に一見型破りに見える選択についても分析します。これにより、言葉のニュアンス、文学的手法、そして執筆における書き手の本当の声について議論する場が開かれます。また、他の言語や方言、スラング★★の使用を促します。私たちの目標は、作品を完璧にすることではなく(それは声を抑圧することになる可能性があります!)、書き手の声を見つけることです。

◆ ルーロ先生は、書く際に自分がすることをオープンにし、完成度を追求するのではなく、独自の声を見つけることに重点を置いている点を強調しています。日本の作文教育で、この点はどのくらい大切にされているでしょうか? 作品第一主義になっていないでしょうか? ライティング・ワークショップの最大の特徴は、「作品をよりよくするために教えるのではなく、よりよい書き手になってもらうために教えます」。


● 修正は、ポジティブな体験であるべきです。信頼し合い、協力的な教室での書き手のコミュニティーを作ることが大切です。最初は、判断やフィードバックをせず、感謝や称賛だけを共有し、生徒が自分の貢献を個々のスキルのレベルに関わらず大切にできるようにします。私と生徒たちがフィードバックを始めるときは、まずポジティブな点から始め、その後、もっと明確にする必要がある部分に移ります。

◆ ポジティブな体験とは、書いてよかった、自分は貢献していると思える体験です。私たちの目は、批判的になりがちなので(それは、練習しなくても、すぐにできてしまいます。それに対して、感謝や称賛は相当の練習が必要です!)、とにかく書かれていることや生徒がしていることの「いいとこ探し」を徹底的にします。教師が、そして生徒たちが相互にフィードバックをする際に参考になるのが「大切な友だち」のやり方です。

https://projectbetterschool.blogspot.com/2012/08/blog-post_19.htmlを参照。生徒たちは(大人も!)、これをしてもらうのが大好きです。ファンレターは、場合によっては、自分が書いたものよりも大事な宝物になることすらあります。

 

 以上のような実践を通して「修正」の大事さと方法を教えているルーロ先生は、次のように言います。 

● 修正に限らず、書くこと全般に関して、一人の生徒に役立つことが、他の生徒にも同じように役立つとは限りません。そこで、基本は一対一のカンファランスをベースに教えています。

こうした実践を通して、私の生徒たちは自信を高め、書くときに実験的な姿勢が増しました。生徒は書くことが楽しいものであるという考えをもち、修正が極めて重要なステップであることを理解し、小学校高学年以降でより高度な内容や概念で書く準備ができています。

◆ 生徒への個別カンファランス(のちには、ピア・カンファランスも)を中心にした教え方が、ライティング・ワークショップが開発された理由の一つです。これは、読むことに関しても、そして他の教科でも同じように大切と言えるでしょうか?

生徒たちは、書くことに対して前向きな態度が身につき、修正を重要なプロセスとして捉え、いろいろなジャンルを含めて、高度なスキルにも挑戦できるようになった様子が伝わってきます。

 

ChatGPTに修正と推敲の違いを尋ねてみました。その回答は、以下の通りです。

推敲は、主に日本語に特有の言葉で、文章や詩を何度も読み返して、表現や言葉を練り直す作業を指します。特に、より美しい言葉や響き、意味を追求する意味合いが強いです。言葉の選び方やリズムにこだわりながら、繰り返し練り直すことが特徴です。

一方で、revision/修正は英語圏で使われる言葉で、文章を修正する、改訂する、という意味です。内容の改善や誤りの訂正、または構成の変更を含む広範な作業が含まれます。厳密に言うと、「推敲」のように表現を美しくするだけでなく、論理的に整える、情報を追加する・削除する、新しい発見や再構築なども含まれることがあります。

★★スラングは、友人同士や若者の間でよく使われ、時にはユーモラスだったり、親しみを込めて使われたりする言葉のことです。

出典:https://www.edutopia.org/article/teaching-revision-elementary-school

2025年2月1日土曜日

問いを立てて詩を再読する

🔸 時々、投稿をお願いしている吉沢先生に、以下の投稿をお願いしました。 


20241130日の投稿「好きな詩を再読する楽しみ」で、私は、詩を読む時に使っている「技」を紹介し、その「技」を使って再読することで、以前には気づかなかったことを発見する体験をしたことを、具体例に沿って述べました。

 今回は、「問いを立てる」ということに焦点を当ててみたいと思います。詩、特に戦後の詩は難しいとよく言われます。難しいからという理由で敬遠する人も多いことでしょう。

 私は、詩、特に戦後の詩は難しいものなのだ、と思うようになりました。それは、詩人は、ありきたりの言葉の使用に揺さぶりをかけよう、と常に意識しているからです。そこから、誰もが思い付かないような比喩、イメージ、飛躍などの技を使います。ですから、当然難しく感じられるものになるのです。

 読者としては、素朴に「わからない」「どうして?」と疑問を持てばいいのです。そして、先生や友人、あるいは自分自身に問いかけて、考えてみる。そのことが思いもかけない気づきを生むかもしれません。

 今回取り上げるのは、宗左近氏の「少年」という詩です。★1

 

<第1連>

詩は「お父さん」と呼びかける言葉で始まります。

 

お父さん

裏の庭の片隅で

梅の花がほころびています

小鳥が枝の先にきてゆれています

 

 この春の気配の描写は、次第に激しさを増していきます。

 

そこらあたりいちめん明るい空気の結晶です

春の光がはじけ出ようとしているのです

やがて連翹の花むれが燃えたって

黄いろい昼火事をおこすのも間近です

冬の火葬みたいな季節です

 

 この詩は春の訪れがテーマなのかと思ったのですが、予想外の展開をします。ここで次のフレーズが続きます。

 

そしてもうすぐぼく中学を卒業する

いよいよぼく働くんです

 

 タイトルともなっている「少年」の「ぼく」は、この春、中学を卒業して働きに出る。そのことを父親に語りかけているのだ、ということが分かります。ただ、このあらたまった言葉の使い方は、普段の父と子のやり取りとは違うなあ、という印象を私は持ちました。

 

<第2連>

都会の鋳物工場に出て

しばらくお会いできないでいるお父さん

元気で働いておいでで嬉しいです

 

この「少年」をめぐる状況が少しわかってきました。父親は家を離れて、都会へ出稼ぎに出ています。めったに帰ってこないのでしょう。時折来る便りで、「ああ、元気に働いているんだな」ということを知るのでしょう。

 

とても大切なぼくの胸のなかの何かみたいに

灼熱して沸りきっている金属の塊を

その金属よりも激しい目で見つめているお父さん

 

 父親は、鋳物工場で、高温で溶かした金属を扱う仕事をしているのでしょう。熱い中での、危険な仕事です。真剣に見つめながら働く父親を「ぼく」は想像します。「とても大切なぼくの胸のなかの何か」という表現は、何を指し示すかよくわかりませんが、「何か大切なもの」という実感だけはあるのだな、と私は想像しました。

 

その金属よりも激しい目で見つめているお父さん

お父さんのその目を見つめて小学生になる

六歳の妹の目も汗っぽい輝きをましています

 

「ぼく」に妹がいることが分かります。妹は小学生になり、「ぼく」は中学を卒業する。どちらにとっても節目となる時期です。

 

お母さんが家出していった後おばあさんにあずけて

ぼくらを置いてお父さんが働きに出てからも

お父さんの見つめているものをぼく知っている

 

かなり家族の状況がはっきりしました。「ぼく」は妹と一緒に、おばあさんの所に預けられているのです。ですから、「裏の庭」というのは、おばあさんの家の庭なのでしょう。父親は、二人の子供を養うために、都会に働きに出ているのです。詩は次のように続きます。

 

灼熱して沸りきっている金属の塊

その塊が組みあげてゆく建造物

その建造物の捧げて青空に咲き出させる花

その花を灼く昼火事みたいな煌めき眩めき

すごい

恍惚

お父さんの見つめているものをぼく知っている

見つめている目を灼くむごい照り返しが姿

お父さんの皮膚と服をぼろぼろに焦がすのです

 

 父親の働く姿は、その仕事が生み出す建造物へとイメージが広がり、そこに少年は没入していきます。その眩いばかりの明るさに、少年は恍惚とした思いを抱きます。そして、父親が「見つめているもの」を、自分は知っている、と述べます。

 

<第3連>

ああ待っててお父さんぼく中学を卒業するぼく

はじけ出ようとする春の光ぼくお父さんの

見つめて目を灼かれているものをお父さんの

沸りきっている何かみたいな灼熱するものの

そばに並んでみつめて働く働くんですぼく

 

「ああ待ってて」と呼びかける「ぼく」は、父親の「そばに並んでみつめて働く」のだと言って、詩が締めくくられます。

 

<問いを立ててみる>

以上、詩の内容をたどりましたが、これを要約して、「中学を卒業して働きに出ようとしている少年が、春の訪れの中で、父親への高揚する思いを綴っているのだなあ」というふうに言うことは可能でしょう。

しかし、ここで「問いを立てる」という視点から読み直すとどうなるでしょうか。そうすると、分からないことがいろいろあることに気づきませんか。私は次のような問いが浮かびます。

 

(1)   なぜ「ぼく」は、「しばらくお会いできないでいるお父さん/元気で働いておいでで嬉しいです」という、あらたまった言葉づかいをしているのだろうか。

 

(2)   春の訪れ、春の光というものが、なぜこんなにも溢れるような言葉で語られているのだろうか。

 

(3)   鋳物工場で働く父親の姿が、その工場の作り出す建造物にまでイメージが広がっていて、それを「花」と形容しているところも、私の日常的な感覚を超えるように感じる。これは何を意味しているのだろうか。

 

(4)   なぜ、「ぼく中学を卒業する」と言わずに、「ぼく中学を卒業する」という言い方をするのだろうか。

 

(5)   父のことに焦点を当てているとは言え、なぜ母親のことが「お母さんが家出して行った」としか書かれていないのだろう。

 

<問いについて考えてみる>

自分の立てた問いを手がかりに考えてみました。おそらく、この父親は、「ぼく」にとって親しみやすい、気楽に言葉をやり取りするような存在ではなかったような気がします。母親がいなくなって、子供を養うために、黙々と仕事に取り組み、しかしたまには便りを送ってくる、そんな父親です。「ぼく」はそんな父親に対して、一定の距離を感じながらも、尊敬の念を持っているようです。

春の描写は、「ぼく」が積極的に掴み取っているもの、と感じられます。春になったこと、その明るさを感じようとする意志が見られます。そこに自分が中学を卒業して働きに出ていくことへの、希望を見出したいという気持ちにつながるようにも思えます。

鋳物工場の描写に始まる一連のイメージは、私の予想を上回るものと感じられてきました。自分が工場で作っているものが、街に出て行って、建造物を作る素材となる。自分が携わっている部分は僅かであっても、そのかけがえのなさに尊厳をもち、出来上がった建造物に「花」のような美しさを見出しているのです。そのことに少年は、「すごい」「恍惚」という感情を持ちます。

母親のいない家庭での寂しさなどは一言も語られていません。それが語られていないことで、この「ぼく」が父親に寄せる感情が極まってくるように思えます。父親と並んで、「働くんです」と言い切っている「ぼく」のひたむきさに、私は感動します。

 

 私は、こんなふうに自分の立てた問いを巡って考えを進めていって、深い気づきを得ることができました。再読し、考えを巡らすことで、この詩は私にとって大事な作品になりました。

 

★1 宗左近『詩集 愛』彌生書房, 1974年。