2025年10月10日金曜日

ライティングやリーディング・ワークショップと切り離せないアンカー・チャートとは?

 「たかが板書、されどアンカー・チャート」

 これ以下を読むと、なぜ「たかが板書、されど板書」ではなく、「されどアンカー・チャート」なのかがわかります。

 アンカー・チャートとは、授業中に子どもたちと一緒にまとめる「学びの手がかりポスター」です。学習の「よりどころ(anchor)」となる考え方や手順、ポイントを、教師と子どもが話し合いながら視覚的にまとめていくものです。

 

 もう少し具体的に説明すると、

・授業(ミニ・レッスン)の中で一緒に作るのが特徴。教師が一方的に書く板書や掲示物と違い、子どもたちと意見を出し合いながら模造紙にまとめていきます。

・後から見返せる。掲示しておくことで、次の学習や活動のときに思い出す手がかりになります。

・思考の見える化。考え方や手順、気づきを可視化して、学びを共有するためのツールです。

 

 たとえば国語の授業で「説明文」の単元なら、子どもたちの発言をもとに次のように模造紙に書きます。

 

説明文の構成

  • 最初にテーマを書く
  • 次にくわしく(理由・仕組み・特徴・具体例★などを)説明する
  • 最後にまとめる

 

ミニ・レッスンの後にこれを作家コーナーの壁に貼っておけば、子どもたちが実際に説明文を書くときの「学びのアンカー(よりどころ)」になります。これは、ミニ・レッスンのときに子どもたちと一緒につくりますが、カンファランスのときに子どもによっては、アンカー・チャートを示したり、これをつくる過程で話し合ったことを思い出させたりすればいいわけです。子どもによっては、再度説明する必要もあるかもしれません。

板書との違いは、板書がその授業時間の理解を助ける(説明・整理のため)に書かれるのに対して、アンカー・チャートは「授業を超えて次にもつながる学びのよりどころ」として残す点が大きな違いです。

 アンカー・チャートの本質は、教師が板書やハンドアウトなど子どもたちに一方的に示す説明資料ではなく、子どもと一緒に作る「作品/生成物」です。完成形は、子どもとの対話の積み重ねそのものと言えます。アンカー・チャートを活用する際のポイントは、次のように整理できます。

・授業中、黒板や模造紙に子どもの意見をメモしながらまとめていく。

・より具体的には、子どもたちに「この言葉も入れた方がいい?」「どんな順番にすると分かりやすいかな?」「どうしてそう思う?」「「あ、たいてい最初にテーマがあるね!」「理由を言って、さいごにまとめるから!」などやり取りをしながら、模造紙にまとめていく。

・子どもたちの発見や気づきで形ができていく。

・完成後に、「これ、次の時間にも使えるように貼っておこう」と教師が意図的に残す。

・単元の途中で、子どもたちの気づきや考えを足していく。

・単元末に、子どもが自分たちの学びを振り返る材料として使う。

 

 近年、日本の授業改善では「学びの見える化」「振り返り」★★などが重視されています。アンカー・チャートはその実践にぴったり合うだけでなく、「教師主導の指導やまとめ」から「子どもとつくる学びと思考の記録」への転換が図れるすぐれた媒体です。


 板書との違いを整理すると、次の表のようになります。


 あなたは、このなかで特に何が大切なポイントだと思いましたか?

 

   学年が上がると、次のようなものも使うようになります。

 - 原因と結果Cause and Effect
 - 順序・過程Sequence / Process
 - 比較と対比Compare and Contrast
 - 分類・タイプ分けClassification
 - 問題と解決Problem and Solution

※「意見文」のアンカー・チャートの書き方を示す動画 https://www.facebook.com/watch/?v=10155814818798708 をご覧ください。

★★市販の振り返りシートを使うのは、弊害の方が大きいので、早くやめたいものです!

2025年10月3日金曜日

「成績ABCについての葛藤を言語化してみる(9月26日号)」への6人の先生たちの感想

 先週の記事への感想をいただきましたので紹介します。

この評価・評定問題は、何を、どう教えるか(生徒の立場からは、何を、どう学ぶか)と表裏一体の関係にあるので、問題は一層複雑です。少なくとも、現状が続くことは許されることではないのですが、教育行政に携わる人たちは問題視していないようです(もし、問題意識があるなら、早急にアクションを取ってほしいです!)。

 

●神奈川県の藤井先生(小学校)

そもそも通知表は子どもにとってなんの価値があるのか?

受け取った子どもは何のメッセージを受け取るのか?

 

先日、市内の学習会で小学6年生の女の子が取り組んだ「子どもの権利条約」についての調べ学習を見せてもらいました。

その際に教員の学習会にその調べ学習に取り組んだ本人(6年生)がいるという何とも珍しい会でした。

彼女の調べ学習でまとめた資料をもとに対話をしていく中で「誰かと比較して考えてしまい、自信がなくなっていくことが起きていないか?」という投げかけをある方がされていました。

学校で比較してしまうことはあるか?と彼女に聞いてみると真っ先に出てきた言葉が「通知表」でした。

通知表があることで他者と比較して自分のことを評価してしまうそうです。

また、周りの友だちには、全く通知表なんか気にしていないそうです。

通知表が自分の成長につながっているという話は全く出てきませんでした。

というのが子どもの声です。(1人ですが

この話に多くの子どもが共感するのであれば、僕らが多くの時間や気を使って作成している通知表は子どもにとっては意味のない、いやむしろ他者と比較して自分を評価するというネガティブな装置になっていないか?と改めて考えさせられました。

 

今回紹介していただいたブログを読んだことで昨日の学習会とのつながりを見出せました。

 

●熊本県の松永先生(小学校) 青字は、先週のブログの記事の引用

評価・評定に対する葛藤のどれもに共感します。

特に、おそらく、子どもは、「書く力」「読む力」「知識」「思考」「粘り強さ」「自己調整」など、自分を分類され、あたかも自分が製品のように扱われているかのように感じているのだと思います。子どもは、バラバラに切り分けられた自分のパーツではなく、まるのまま、そのままを見て欲しいのではないでしょうか? 書く力の中でも、単元で狙った焦点に合わせて細分化され、それぞれの書く力がどのように関連しているのかも検証されず、一部分の書く力を取り上げて、「書く力」として概評し、さらにそれを「話すこと・聞くこと」、「読むこと」の概評と総合して、国語の「知識・理解」や「思考・判断・表現」としてABCがつけられる。教師でも何をABCで評定しているのか分かりませんから、子どもにとっても、自分が何が得意で何が苦手なのか、掴めないだろうと思います。

の部分に関しては、ある生徒のことを思い浮かべながら読みました。

Mさんは、年度始め、自分の考えをうまく整理して話すことができませんでした。「~でね、~でね、~でね」と言った具合に、一文がとても長く、思いつくままに話している感じでした。それを周りの生徒に指摘され、今度は言葉を詰まらせてしまい、自分の思いや考えを伝えきれず、悔しくて泣いてしまうこともありました。

そんなMさんと「作家の時間」を通して向き合っていく中で、ふとあることに気づきます。Mさんは決まって、絵から描き始めます。頭の中に物語の構想があって、それを文字ではなく絵に起こし、文字にしていくのです。「修正」をするときも、描いた絵とつじつまを合わせるように書き直していました。ペースはゆっくりですが、しかし確実に、順序立てて読みやすい文章が書けるようになってきています。同時に、話すことも。

また、Mさんは、病気で学校を休むことになった先生の代わりに授業をする女の子のお話や、おさるの赤ちゃんのお世話をするおさるちゃんたちのお話などを書いています。断言はできませんが、なんとなく、Mさんの心の内が分かる気がします。

そうして日々のくらしの中で(改めて)Mさんを見ると、よくお手伝いをしているのです。黒板を消したり給食の片付けをしたり、率先して、誰かの役に立つことをしています。

子どもたちにとっては、国語の授業もそうでない時間もつながっているというか、グラデーションのある時間の中で過ごしているのだと、改めて感じます。生徒一人ひとりにエピソードがあって、それらのエピソードは、教科や単元で求められている能力では伝えきれないものだと思います。それは所見ですら伝えきれないのに、ABCで伝えるなんて、幻想でしかないなぁと思います。

 

しかし同時に、葛藤している場合ではない(既に手遅れになっている)という危機感もあります。

それは、評価・評定の良し悪しで(本質的には良し悪しではないのですが)、「〇〇してもらえる」ということ(ご褒美システム)が信じられないくらいにはびこっているということです。

しばらく前は、Aの数がいくつだったと他者と比較するような生徒たちの様子に困り感を抱いていましたが、最近は他者と比較する生徒はあまりいません。なぜなら、Aがいくつあるかで〇〇してもらえるかどうかが決まるので、他者の評価・評定なんか気にしなくていいからです。学校でいくら生徒に「評価」を教えても、家に帰ればご褒美の材料に様変わりしてしまうのですから、変えることに必要なエネルギーは膨大です。

だからこそ、前に情報提供してくれた方法の一つである「自己評価シート」は、小さく始めることのできる方法、かつ、やってよかったという実感があります。(事前にお願いをきちんとすれば)どのご家庭も、お子さんをエンパワーメントするコメントを書いてくださいました。評価とはやる気につながるもの、そのやる気とは外発的動機付けではなく内発的動機付けである必要があることを、保護者の方々とも共有し続けていきたいと思います。

追伸・何につけてもがんじがらめのシステム下にあってはエネルギーを奪われることが多いですができることをコツコツとやるほかないなぁと思いました。坂本九さんの「上を向いて歩こう」を何年かぶりに思い出しました。

 

●兵庫県のK先生(小学校)

もちろん、最大限に所見欄に子どもたちのがんばった姿を盛り込んで、それを読んだ家族から子どもが食卓で褒められる姿をイメージしながら書きました。宮沢賢治のペア読書でどれほどに挑戦できたのか、社会科で問いを立てどんなよい発表ができたのか、一人ひとり丁寧に描きました。それでも、各教科の3観点のABCの羅列に、子どもたちもその家族も、目を奪われてしまいます。現実問題、大盤振る舞いでAばかりをつけるわけにはいきません。中にはCをつけなければならない子もいます。どんなに素晴らしいエピソードを所見欄で語ることができたとしても、ABCによってその物語は一瞬にして崩壊してしまうような気がしています。

全くそのとおりです。ここに無力感を覚えます。もちろん、所見欄を子どもは熱心に読んでくれます。きっと心に残っているお子さんもいるでしょう。でも、成績が上がったら〇〇をしてもらえる、という場合の成績はABC3段階評価です。 かつての卒業生が今同僚なので、彼女に聞いてみます。所見のことを覚えているかと。私は彼女に何を書いたかは覚えていませんが。

3観点での成績をつけるにあたって、これまでの旧来の観点でしか成績表を作ったことのない私にとって、初めて聞いた考えと出会うことになりました。

「知識・技能」がAでないと、「思考・判断・表現」はAにならない

「主体的に学習に取り組む態度」だけがAになるということはない

これらの考えは、各評価の観点は「主体的な学習に取り組む態度」を頂点に、「思考・判断・表現」の下に「知識・技能」が位置するという従属関係にあることを示しています。つまり、知識・技能が優秀でないと、他の観点でも優秀でないことを示し、各観点が独立的ではないことになります。

(この評価についての考え方の根拠は、学習指導要領の総則編や国立教育政策研究所「『指導と評価の一体化』のための学習評価に関する参考資料」などに登場する「「思考力・判断力・表現力等」は「知識や技能を活用して課題を解決するために必要な力」」という定義に基づいているようです。)

本校でもこの言説がまかり通っています。冨田先生の所よりひどく、文書化されています。「主体的…」は昔の関心・意欲と違うからという人もいますが、文科省資料(出典失念)には、誤解・誤用があったので文言を変えた。とあったはずです。

結果が出なければ態度がAでないならば、オリンピックでメダルを取れなければどれだけ自己調整しながら意欲的に取り組んでいても、Aがつかないということになります。結果と意思的な側面はそこまで関連するのでしょうか。

さらに、もともと、能力のある子どもであれば、さして試行錯誤や努力をしなくても知識技能や思考判断表現はAがとれます。試行錯誤、自己調整を懸命に続けた結果、前学期、知識や思考においてCだった生徒が、今学期ともにBになった場合でも、BBAはつけられないというのでしょうか。さすがにCCAはないと思いますが、どんな科学的根拠をもとにした規準なのか納得がいきません。だいたい良い成績をつけられて文句を言う子供や保護者がいるでしょうか。しかも点数化されない態度面において。がんばっていたのに評価されないという方が(がんばる=主体的・・ではないですが)やる気をそぎます。何のための評価なのか、子どもに力をつけたり意欲を向上させるための評価でなければ、意味がありません。選別をするふるい分けに使うわけではないのですから。

また、この評定の考え方に起きる別の問題もあります。この考え方をきちんと踏襲すると、Aが一つの教科、または特定の子どもに集中してしまいます。その逆に、この考え方をCの評定にも当てはめるならば、Cが集中してしまう子どももでてきます。成績表を見て、Aがたくさんあるという理由で喜び、Cがたくさんだという理由で意欲を無くす。所見にどんな素敵なエピソードが書かれていようとも、ABCの魔物は5年前よりもさらに恐ろしい姿にパワーアップしているように思えました。

国語の「知識・理解」や「思考・判断・表現」としてABCがつけられる。教師でも何をABCで評定しているのか分かりませんから、子どもにとっても、自分が何が得意で何が苦手なのか、掴めないだろうと思います。

このあたりの一連の冨田先生の記述も、全く同感です。最悪なことに、評価について話し合う、という場合、この評定・評価の厳格化・従順化が議題になります。周囲の先生は、おかしいよね、といいながらも、学校で決められたことだから、国研の資料にあるそうだからとしぶしぶ従っている方も多いです。いったいどちらを向いて仕事をしているのでしょうか。管理職に批判されなければ、子どもはどうなってもいいのでしょうか。と強気に言えるのは、私がもう退職にあと数年で、人事評価なんかどうでもいい、と思えたり、こういう場で共鳴できる人たちがいてくださるからできることです。

こんな評価を指導要録に残して何年も保存して一体何になるのか。子どもや保護者に渡してどんな効果があるのか。直接議論したいくらいです。

早く、現行の通知票をなくしたいです。三者面談・自己評価の実績を積んでいきたいです。*勤務市の一部校長さんの中には、通知票廃止に動いている人がいますが、それが自己評価の力をつける意図かどうかはまだ読めていません。単に業務改善だけかもしれません。

 

●神奈川県の坂上先生(小学校)

私が評価に携わる中で、現在最も悩んでいるのは「主体的な視点での個人内評価」と「ABC評価」との境界の捉え方です。

学年内で「学習に取り組まない児童をどう扱うか」という話題が出ました。私は、Cをつけるのであれば必ず改善策とセットであるべきだと考えています。なぜなら、多くの「やらない児童」の背景には、私たちの支援不足や働きかけの不足があるのではないかと思うからです。単に「やらないからC」という評価は、見取りや手立てを放棄したものになってしまうのではないでしょうか。

また、知識があるから思考できる、という理屈に基づき「Aが連鎖的につく」ケースにも疑問を持っています。確かに理屈としては正しいのですが、実際の授業では全ての瞬間を教師が見取ることはできません。テストベースや限られた場面での評価だけでは、子どもの実態と評価との間にずれが生じると感じています。

このような悩みの根底には、「評価=総括的評価」という捉えが依然として強いことがあると思います。だからこそ、形成的評価をより具体化し、授業の枠組みやルーブリックの工夫を進める必要を改めて感じています。

 

●東京都の有馬先生(私学小学校)

 いわゆる通信簿による評価の葛藤を誠実に書き記していただいたことで、課題がくっきりと浮き彫りになったと感じています。
 大前提として私は通信簿の無い、厳密には記述式の所見のみを学期末に渡す仕組みを開校以来とっている学校に勤めており、そのような特殊な位置から一般の仕組みの批判をすることははばかられる気持ちもあることを先に述べておきたいと思います。
 この文章を読むと、ABCの成績をつけることになんの意味があるのかと思います。この文章で書かれている「宮沢賢治のペア読書でどれほどに挑戦できたのか、社会科で問いを立てどんなよい発表ができたのか、一人ひとり丁寧に描きました。」これこそが評価(そのなかでもポジティブ・フィードバックにあたるのでしょう)なのだと思います。しかし、文章は次のように続きます。「それでも、各教科の3観点のABCの羅列に、子どもたちもその家族も、目を奪われてしまいます。」なんということでしょう。記号化されることで本来の評価に注目が無くなるというのです。この悲劇が公然と行われているのはどうしてなのでしょうか。
 通信簿の問題点は、その評価基準が本来主体である学習者側に不明瞭なことが大きな問題だと思います。いったいなぜ自分がAなのかBなのか、はたまたCなのかがわかりません。これではBCをもらった児童が、自分には何が足りなかったのか、Aをとるために必要な努力は何なのかがわかりません。評価というより審判、もっと強い言い方をすれば、人によっては断罪でしかありません。それも説明無しの。
 もし現行のABCの評価を使うのであれば、それはきちんと評価基準が事前に学習者に明示されるべきです。そして学期の途中でいまの形成的評価が行われるべきと考えます。なぜなら評価は断罪ではなく学習者がよりよい学習経験を積むために行われるべきだからです。なぜそうされないのか憤りさえ感じます。
 さらには後半の「久々の成績の世界で聞いた言説」は私もちらほらと耳にしていたものの、こうして整理された文章で見るとそのあまりの整合性の無さ、くだらなさにあきれてしまいます。この砂上の楼閣のような議論は、いったい誰の何のために行われているのでしょうか。
 さて、通信簿の無い学校に勤めておりますが、指導要録は法的につけなければなりません。基本的にはやはり数値による記載となります。私はこのとき「主体的な学習に取り組む態度」は自分の授業ではほとんどAをつけています。なぜなら子どもたちが主体的に取り組むように最大限の努力をもって授業に臨んでいるからです。私にとって指導要録の評価は、学習者への評価の形をとっているものの、明らかな自分の授業の振り返りとして記載しているといえるかもしれません。私はすべての子が参加する授業を目指しており、それはかなり達成されることが多いので、Aの行列になります。それがおかしいことだとはまったく思いません。(指導要録は基本的に開示請求がないかぎり児童が目にすることはありません。そして20年以上一回も開示請求を受けたことはありません。実質ほぼ誰にも届かない評価といえるので、このような考えに至りました。)
 この通信簿の議論をしていると、「それでも通信簿が学習の動機付けになる子もいる」という意見を耳にします。たしかに一部の子にとってはそのようなこともあるかもしれません。でも同時にこの通信簿という「理由の分からない評価もどき」によって動機を著しく奪われる児童も多くいることを見て見ぬふりをするのをいい加減やめるべきなのではないでしょうか。

 

●新潟県のT先生(中学校)

大谷翔平が3年連続のホームラン王を逃しました。「逃した」とか言っているのはマスコミですね。失礼過ぎです。

大谷君は全く気にしていない。むしろ休養をとっている。自分にとって、チームにとって、それがベストだと考えている。

大谷君にとって他人の評価よりも、自己評価が大切で、自分自身が楽しいだけでなく、チーム競技である野球も理解できていて、何よりそれを愛している。

数字はデータとして自分の成長の分析に役立てている。

形成的評価の鬼、大谷翔平。

 

さて、学校はどうでしょう。

「法定帳簿でもない通知表は不要なのでやめてほしい」

「通知表は評価として意味がない。時期的にも、内容としても意味をなさない」

私の考えです。

通知表は総括的評価の名を借りた「値札」のようです。その数字は、子どもが自分を変化させるための材料にはなりません。受け取った瞬間の「嬉しい」「悔しい」という感情は15分ほどで忘れ去られてしまいます。

 

そもそも、私の周囲には「形成的評価」という言葉を聞いたことがないという人が多くいます。教育実習生が「大学の講義で聴いたことがある」と言いました。管理職も形成的評価と総括的評価の違いが分かっていません。

 

中学生の保護者は異常に通知表を気にします。入試に直結する数字を読み取る道具になっているからです。

新潟県では次の入試から、調査書に乗るのは5段階評定のみとなりました。観点別が消えました。欠席日数が消えました。特別活動の記録が消えました。

ある保護者が言いました「うちの子は好き好んでクラス委員をやっているわけじゃない。もう成績に関係ないからやめさせたい」。

ものすごい極端な教育観。得か損か、コスパ、タイパでしか価値を見出せない保護者。大事なのは数字だけ。

その保護者の価値観で育つ子どもたち。人としての成長よりも数字を追いかけ続けます。

 

かくして、なかなか通知表は消えてくれません。管理職は他校と違うことはやりたくありません。つつがなく任期を終えて、退職したいのです。

 

一方で、二次障害を起こしている子どもたち、学びから逃走している子どもたちがいます。

通知表の有無に関わらず、学習そのものに耐性がなく、嫌いになってしまっている子どもたち。

それをテストや評価の数字と記号で縛って、学習させようとする学校。

中学校の教室は、小学校1年生から高校生くらいの学力の子まで、幅がどんどん大きくなっています。

個別最適化?個々のペースでドリルをさせる時間だと思われています。

 

特別支援学級(知的学級)の子も、高校受験するから数字の評価を出してと言われます。保護者が、特別支援学校には行かせたくないそうです。高校卒業にならないから。それって、子どものためですか?

 

通知表の観点別評価。テストの得点が評価の中心であることは、「テスト形式が得意な子」に利があるわけですので、私たちはテストと同等に授業における成果物と取り組みを評価します。

教師にも保護者にも多くいる「テスト信者」に伝えたいです。テストが苦手でも、いい成果物を生む子はいますよ。言葉を使いながら覚えていくタイプの子ども、書き手になることで読めるようになる子ども、子どもの学びは様々です。課題や方法の選択肢が多くなれば、形成的評価を繰り返せば、その子の「よさ」が出てきます。

 

現任校は、いわゆる困難校です。学習を放棄している子どもたちもいます。成績のつけようがない状況です。それでも教室にいる以上は通知表の評価が要るとのことです。でも、学習できていないのは、学習を放棄している子ども自身がわかっているはずです。その子に、通知表として「1」「オールC」を伝えることに意味はありますか?

ちなみに、この子たちが学習を放棄しているのは、本人の選択です。絶対に参加しませんし、寝ています。そういう行動を自ら選択しています。教室にいないと問題になったり、保護者を怒らせるから教室にいるだけです。この子に今、学習の強制をすることは意味がありません。授業を妨害しない努力をしていることを認めつつ、本人が本当に困るまで待つしかありません。いろいろな気持ち、本人の能力、家庭環境、価値観などが複雑に絡み合っていると考えられます。もちろん、「ただのわがまま」と一刀両断する教師もいます。

私は校長に言いました。「通知表は法定帳簿ではない。通知表が子どもを傷つける結果が予測される場合は、評価評定を出さなくていいのでは? 私は評価者として白紙を選択します」と。まだ回答はもらえていません。

 

読むこと、書くこと、考えることを、子どもたちはどこで嫌いになってしまったのか。

嫌いになるというか、楽しんだ経験がないようにも見えるのです。

自分よりも弱い子どもを探して、特別支援学級の子どもへの暴言がやみません。

勝手に他者を撮影して、加工して、ばらまいて、嘲笑っています。

学力だけでなく、人としての品性が身についていません。

一方で、これらを指導すべき教師が、恣意的に行事の動画をクラスで配っています。

もうね、滅茶苦茶です()

 

こんな授業も見ました。特別支援学校の詩を作る授業。「時間がないから」ということで、教師が子どもがメモした内容から単語を選び、チョチョイのチョイと並べて詩を作る授業でした。特別な支援とは、教師が代行する授業のことのようです。

 

学校や教室によっては、まったく「子どもを認める」ことができていないのではないでしょうか。「子どもを認める」ことが点数やABCであると信じられているところが圧倒的なのではないでしょうか。その評価の仕組みや息苦しい授業、学校から逃走する子どもが多くいると感じています。

 

そして教師が破廉恥で逮捕される。世も末です。

子どもを「商品」として消費する醜い大人たち。

今の教育現場はディストピアのようです。

 

原稿段階での私の反応は・・・とてもいい読者への投げかけだと思いました。

とくに、子どもと教師の間にある評価・評定に関するズレの対比のリストがよかったです。

このリストが、文科省や教育委員会の評価・評定を押し付ける人たちが、評価の「ひ」の字も理解していないことを証明しています!

そもそも、評価のことがほとんど全く理解していない人たちが、教師に通知表や指導要録のために評定をつけさせているので、それに付き合うことは億劫以外の何物でもないわけで、生産的に生み出すものは何もないです! (単に、「従順、服従、忖度」の見本を教師が子どもたちに見せつけ、そういう社会を私たちはつくることが求められているのですと、隠れたカリキュラムとして実践しているにすぎません! 見えるカリキュラムの方は、カバーはしていますが、ほぼ定着することは期待できない中で!)

WW/RW便り: 「観点別評価」の三つの観点には、問題がある!

大学の研究者も文科省(=国研)に忖度してしまって、機能していない枠のなかで本を出して自分の実績にしてしまっていますから、していることは「迷惑の振りまき」以外の何物でもありません! 「悲しい」を通り越して「犯罪」です。影響力のある人たちはほとんど誰も、「学校評価に問題がある」と言ってくれません。

それで、冨田さんが中心に書いた2冊の本以外にも、『イン・ザ・ミドル』(特に、第8章)『「考える力」はこうしてつける』(特に、第8章)『成績をハックする』『一人ひとりをいかす評価』『成績だけが評価じゃない』『教科書をハックする』(特に、第6章)『聞くことから始めよう』などを出し続けている理由です。そして、いまも『見取り・子ども理解をハックする』のプロジェクトを過去3年ぐらい取り組んでいます(あと1年ぐらいで、本にできたらとは思っていますが・・・・)。

しかし、評価だけを切り離せません。それは、何(カリキュラム)をどう教えるか(教え方・学び方)と表裏一体のものですから。その意味で、25年前に文科省が「指導と評価の一体化」と言い出したのは正しいのですが、それを言い出した人たちは当時も、今も、それが真にどういう意味で、何をすればそれが実現するのかを理解できていないとしか思えません。カリキュラムと教え方と評価の関係について追いかけてみたい方には、『みんな羽ばたいて』『学びの中心はやっぱり生徒だ!』『生徒一人ひとりを大切にする学校』『あなたの授業力はどのくらい?』『教育のプロがすすめる選択する学び』などがおすすめです。

 

2025年9月27日土曜日

成績ABCについての葛藤を言語化してみる

ABCの世界にカムバック


成績のシーズンが終わりました。今年は、久々の成績付けでした。2019年に一般学級の担任をしてから、その後の5年間は特別支援学級の担任をしていたので、3観点で成績表を作成するのは、私にとって初めての経験でした。


特別支援学級では、ABCで成績をつけることは、ほとんどありません。それは、特別支援学級に在籍する児童は、その子一人ひとりの実態に応じた個別の指導計画を作成し、それに基づいた評価を行うからです。もちろん、指導目標や内容は学習指導要領に基づいて作成しますが、一人ひとりの置かれている特性や状況はさまざまです。知的に遅れをもつ児童や情緒が安定しない児童など、苦手な内容を学ぶときには基礎的な内容に的を絞ったり、下学年の内容を習熟することを目標に設定したりして、その子にとってちょうど良い目標を定めます。それを保護者や本人と一緒に決定して、一人ひとりにあった指導計画を作成します。その目標に合わせて達成状況を評価するため、一般学級のように一律の観点別の成績(ABC)をつけることはありません。


(学校や自治体によっては、交流している教科の成績を出されるところもあります。本人や保護者が希望すれば観点別評価をもらえる学校もあり、実態はさまざまです。)


本校の特別支援学級の成績表は、数字や記号ではなく、教科や領域によって枠のある記述式の評価でした。なので、その子の良さが発揮された活動場面がふんだんに書かれています。特別支援学級の担任だったときには、口頭でもその子の活躍を伝える取り組みを行い、照れ笑いを浮かべる子どもたち一人ひとりに成績表(成績はないので成績表という表現が適切ではないかもしれません)を手渡しました。成績表は、その子のがんばりを認めるような温かいものとなりました。


今年度は6年ぶりの一般学級担任です。気の進まない思いで成績をつけました。「成績をつけることが大好きだ」と言っている教師を、私は見たことがありません。教師を仕事にしている人の誰もが、成績をつけることに対して、前向きになれない気持ちで、決められた仕事だから仕方なくやっていることだと思います。


もちろん、最大限に所見欄に子どもたちのがんばった姿を盛り込んで、それを読んだ家族から子どもが食卓で褒められる姿をイメージしながら書きました。宮沢賢治のペア読書でどれほどに挑戦できたのか、社会科で問いを立てどんなよい発表ができたのか、一人ひとり丁寧に描きました。それでも、各教科の3観点のABCの羅列に、子どもたちもその家族も、目を奪われてしまいます。現実問題、大盤振る舞いでAばかりをつけるわけにはいきません。中にはCをつけなければならない子もいます。どんなに素晴らしいエピソードを所見欄で語ることができたとしても、ABCによってその物語は一瞬にして崩壊してしまうような気がしています。


朝日を浴びる北穂高岳


久々の成績の世界で聞いた言説



3観点での成績をつけるにあたって、これまでの旧来の観点でしか成績表を作ったことのない私にとって、初めて聞いた考えと出会うことになりました。

「知識・技能」がAでないと、「思考・判断・表現」はAにならない

「主体的に学習に取り組む態度」だけがAになるということはない


これらの考えは、各評価の観点は「主体的な学習に取り組む態度」を頂点に、「思考・判断・表現」の下に「知識・技能」が位置するという従属関係にあることを示しています。つまり、知識・技能が優秀でないと、他の観点でも優秀でないことを示し、各観点が独立的ではないことになります。

(この評価についての考え方の根拠は、学習指導要領の総則編や国立教育政策研究所「『指導と評価の一体化』のための学習評価に関する参考資料」などに登場する「「思考力・判断力・表現力等」は「知識や技能を活用して課題を解決するために必要な力」」という定義に基づいているようです。)


たしかに、まったく関係がないことはないでしょう。語彙が豊かな子どもはおそらく、根拠をしっかり示した論理的な文章を書くことができる可能性は高いでしょう。そして、そういう子は、振り返りをしながらもっと良い言葉がないか、もっと伝わる事例はないか、自分の学習を調整してよりよい学びに修正することができるかもしれません。


しかし、たとえ言語技術が未熟だったとしても、文章作成の目的をしっかり捉え、一貫した考えを資料を生かして書けていたとすれば、「知識・技能」が優れていなくても、「思考・判断・表現」は優れていると評定されるかもしれません。また、振り返りを主体的に行いながら自己調整を繰り返し、稚拙ではあっても粘り強く自分の作文と向き合い続ける子どもがいれば、「主体的に学習に取り組む態度」だけは優秀ということにはならないのでしょうか。(しかし、残念ながら自己調整や粘り強さが成果に結びついていないという点では、教師の支援が必要な状況であることは否めません)成績作業を進めながら、その考えについての疑問を解くことができませんでした。


また、この評定の考え方に起きる別の問題もあります。この考え方をきちんと踏襲すると、Aが一つの教科、または特定の子どもに集中してしまいます。その逆に、この考え方をCの評定にも当てはめるならば、Cが集中してしまう子どももでてきます。成績表を見て、Aがたくさんあるという理由で喜び、Cがたくさんだという理由で意欲を無くす。所見にどんな素敵なエピソードが書かれていようとも、ABCの魔物は5年前よりもさらに恐ろしい姿にパワーアップしているように思えました。


決してこの評定に対する考え方は強制されるものではありませんでしたし、学校経営計画等の文書にしっかり記載されているものでもありませんでしたが、なんとなく先生たちから聞くこの考え方に、私は困ってしまいました。私たちの学年では各クラスの担任の対話を通して、上にあげた従属的観点別評価の視点の妥当性を一部認めつつも、「絶対ではないよね」という共通認識をもつことができました。

夕闇の中の雲の平山荘



成績をつけるという仕事、やっぱり変えなくちゃいけない



やはり、評価・評定は変わらなければならないように思います。例えば特別支援学級のように、記述式の評価のみにして、子どもの頑張りを認める機会にしたりすることもできるでしょう。一部の学校では、ABCの成績を子どもに渡さないという方針をとっているところもあるそうです。(法令上は、指導要録作成の必要があるので、そのあたりはどうしているのか、私もわかりません)また、令和7年7月に出された教育課程企画特別部会 第10回の資料の中には、「主体的に学習に取り組む態度」を「個人内評価」にする案が検討されています。子どもの主体性は最も大切な資質・能力であることは変わりませんので、それが維持されるのであれば、この方向性には共感しています。


評価とは、教師と子どものこれからの学習のための作戦会議であると思っています。子どもは励まされたり、これからの学習の役に立ったりして、さらにやる気になる評価が、本当の評価なのではないでしょうか? この考えに立てば、子どもも自分から他者に評価をもらいに行ったり、または自分で自分のことを評価するものが本物の評価です。教師も、私のようにためらいながら評価するものは本物の評価ではなく、子どものためにも、自分のためにも、積極的に行いたくなるものが評価のはずです。その評価の集積が総括されて評定になるのであれば、評定はその総括や表現の方法が間違っているのではないかと思います。


どうして本来の評価と評定のための評価にズレができてしまうのでしょうか? そこには、子どもと教師の間にさまざまなズレがあり、そのズレの橋渡しをできていないからであるように思います。

双六池にうつる夕焼け



子どもと教師の間にある評価・評定に関するズレ

  • 子どもは作品や作品作りについて助言や励ましをもらいたい
    • 教師はその作品の奥にある子どもの書く力を評定しなければならない

  • 子どもは様々な力を使って書くことを行っている
    • 教師はその単元の中で特定の限定された書く力を評定しなければならない
  • 子どもはその日その時、またはテーマや文種などによって、書く力はまちまちで一定ではない
    • 教師はその単元で発露された子どもの書く力だけを一般化して評定しなければならない
  • 子どもは自分の力をどうやって評定されるのか、説明を受けていない
    • 教師は評定するという威圧的な側面を隠しながら、それでも評定をしなければならない
  • 子どもは自分の力を評定されることを望んでいない
    • 教師は子どもの力を評定しなければならない
  • 子どもは自分の力が高まっていることを温かい言葉を通じて知りたい
    • 教師はABCで子どもの力をつけなければならない



おそらく、子どもは、「書く力」「読む力」「知識」「思考」「粘り強さ」「自己調整」など、自分を分類され、あたかも自分が製品のように扱われているかのように感じているのだと思います。子どもは、バラバラに切り分けられた自分のパーツではなく、まるのまま、そのままを見て欲しいのではないでしょうか? 書く力の中でも、単元で狙った焦点に合わせて細分化され、それぞれの書く力がどのように関連しているのかも検証されず、一部分の書く力を取り上げて、「書く力」として概評し、さらにそれを「話すこと・聞くこと」、「読むこと」の概評と総合して、国語の「知識・理解」や「思考・判断・表現」としてABCがつけられる。教師でも何をABCで評定しているのか分かりませんから、子どもにとっても、自分が何が得意で何が苦手なのか、掴めないだろうと思います。


これでは、僕が大切にしている「子どもを知る」「子どもを認める」ということにつながりません。学習は子どもを知らないと機能することはありませんし、学習が深まっていけば、子どものことをもっと深く知ることにもなります。


参考:本ブログ 2025年3月28日金曜日投稿 「作家の時間を通じて、子どもを見る」

https://wwletter.blogspot.com/2025/03/blog-post_28.html


また、自己評価、自分を知ることについても深まりません。学習が深まっていけば、これまで見たことがなかった自分の新しい側面と出会い、自分のことをより深く理解し、または、どうにもならない自分と向き合うこともあるでしょう。自己評価をすること、自分への理解を深めることは、評価の観点には欠かすことのできないことです。


2025年6月27日金曜日投稿 「作家の時間で自己表現「『推し』の魅力を伝えよう」ユニットを振り返る」

https://wwletter.blogspot.com/2025/06/blog-post_27.html


紙幅が足りなくなってきたので、これについては拙著『読書家の時間』や『社会科ワークショップ』の評価の章をご覧いただければと思います。



「『推し』の魅力を伝えよう」の子どもたちの中には、こちらが何も言わなくても、友達同士で読みあって、お互いの「推し」の文章を認め合ったり、さらに書くと説得力が高まる内容を提案したりする姿が見られました。私のところにも何人も「先生読んでー」と来て、私の反応を確かめたりする姿がありました。あのような魅力的な姿に、評定を下す必要があるのかどうか、やはり私には、自分の中でどのように整理をしたら良いか分からないのが、この評価・評定の問題であります。


コマクサと槍ヶ岳



2025年9月20日土曜日

理解の種類の一つとしての「わかってもらう」こと

  『理解するってどういうこと?』は「誰もわかるってどういうことか教えてくれたことはなかったわ。」という小学校2年生のジャミカの言葉に、著者のエリンさんが答えるために書かれた本です。2021717日のこのページで取り上げた『ヒトの言葉 機械の言葉―「人工知能と話す」以前の言語学―』(角川新書、2021年)の著者川添愛さんの近刊は『「わかってもらう」ということ―他人と、そして自分とうまくやっていくための言葉の使い方―』(KADOKAWA2025年)では、「わかってもらう」ために何が必要なのかということが、わかりやすい言葉で丁寧に論じられています。

 川添さんは「わかってもらう」ことを、「言葉を使うことで、他の人たちと、そして自分自身とうまくやってくこと」と定義し、そのことは「言葉を使うことによって、自分と他人の両方が幸せになること」への「第一歩」だとしています(『「わかってもらう」ということ』、18ページ)。「わかる」ことと「わかってもらう」こととは対照的な行為ですが、考えようによっては、同じ行為の両面でもあります。いや、「わかってもらう」ために頭と心を使うことによって、「わかる」が生み出される関係にあると言ってもいい。あるいは、「わかってもらう」ための配慮をすることができるからこそ「他の人たち」や「自分自身」の言葉を「わかる」のではないか。この本を読んで、私はその思いを強くしました。

 たとえば本書の第一章「わかってもらうための大前提」には「相手がどこまで知っているかを考える」という節があります。「わかってもらう」ためには「相手がどこまで知っているかを考え」ながら話すことが重要だと言うのです。つまり、「相手はすでに知っている」ことを想定した話し方を心がるということです。

 

〈たとえば、今日雨が降ることを相手に伝えたいときに「今日、雨がふるらしいよ」という言い方をすると、こちらが「この人は今日雨が降ることを知らないんだろうな」と思っていることが相手に伝わってしまいます。文末の助詞「よ」は、「私はこのことを知っているが、相手はこのことを知らない」というときに使われることが多いからです。

 こういうときは「よ」ではなく、「ね」や「よね」など、別の助詞を使うという手があります。たとえば「今日は、雨が降るらしいね」のように言えば、もし相手がそのことを知っている場合は「そうらしいね」という答えが返ってきますし、知らなければ「へえ~、そうなんだ」というリアクションが返ってきます。〉(『「わかってもらう」ということ』、3536ページ)

 

 言語学者らしくきわめて繊細に文末の「助詞」に目を向けています。「今日、雨がふるらしいよ」と「今日は、雨が降るらしいね」とで何が違ってくるのか。聞き逃してしまいそうな、そしてどちらもあまり変わらないような表現です。川添さんの言うように、後者(「今日は、雨が降るらしいね」)と言われると、何か反応したくなるのは確かです。川添さんが例に挙げているような肯定的な反応もあるでしょうが、「別の天気予報では、今日はまだ降らないと言っていましたね」という反論も可能です。「今日、雨がふるらしいよ」は「対話」を誘いにくく独話に終わることが多いですが、「今日は、雨が降るらしいね」は「対話」を誘います。その「対話」のなかで、それまで考えていた以上に言うべきことを自分がもっていたことに、聞き手も話し手も気づくかもしれません。『理解するってどういうこと?』の第8章で取り上げられている「夢中で対話すること」という理解の種類にあてはまります。「わかってもらう」ための大前提の一つは「わかる」ための方法でもあるのです。

 もう一つ「質問」をめぐる考察を引用します。

 

〈質問をより具体的にすることで、質問された側が感じる負荷を下げることができます。そしてそのためには、質問をする前に、自分がいったい何を知りたいのかを突き詰めておく必要があります。つまり、「この書類はどうしたらいいのかな」といったぼんやりとした疑問をそのまま口にだすのではなく、「この書類について何が明らかになれば、私は次の行動を決められるだろう」と考えるのです。そうすれば、「この書類の保管場所がどこかが分かれば、そこに書類を置くことができるな」とか、「この書類を誰に渡せばいいかが分かれば、その人に渡すことができるな」など、自分の行動を決めるために必要な情報が見えてきます。「はい」か「いいえ」で答えるyes/no疑問文や、「誰」「何」「いつ」「どこ」を問うタイプの疑問文は、比較的答えやすいものです。その一方で、「どう」や「どのような」、「なぜ」と問うタイプの疑問文は相手を考え込ませてしまう可能性が高くなります。「どう」や「なぜ」は解釈の幅が大きいため、欲しい答えが返ってこないことがあります。〉(『「わかってもらう」ということ』、76ページ)

 

 『理解するってどういうこと?』の310ページ以降にはクララという先生による「質問する」という「理解のための方法」のミニ・レッスンが掲載されています。その先生も、『ルビー・ブリッジスの物語』を読み聞かせ、自分の頭のなかで起きたことを考え聞かせながら、さまざまな種類の質問をしていますが、とくに書き手が何を取り上げて、何を取り上げていないかということに子どもたちを注目させる質問も入れ込んでいます。書きたいことを「わかってもらう」ためにその物語の作者が何に頭を悩ませているかということにも、子どもたちが目を向けるようにしたのです。

 川添さんは、フィクションの書き方について述べているわけではありませんが、読み手や書き手に「わかってもらう」ためにどういうふうに言葉を使っていけばいいのかということについての作家の判断もまた、川添さんの言う「言葉を使うことによって、自分と他人の両方が幸せになること」を願うものであることは確かです。「わかってもらう」ための言葉の使い方を考え、学ぶことは、「わかる」とはどういうことなのかを深く知るためにとても大切なことだと思います。そうです、「わかってもらう」ことは、理解の種類の一つなのです。

2025年9月12日金曜日

The Artful Read-Aloud: 10 Principles to Inspire, Engage, and Transform Learning (『心を動かす読み聞かせ―学びを刺激し、引き込み、変革する10の原則』)レベッカ・ベリングハム著のレビュー

 このレビューを書いたのは、中学校で国語を教えるジェニー・ランドール先生です。

 *****

私は本を読むのが大好きです。財布やスマホ、鍵を持たずに家を出るなんて考えられないのと同じで、本を持たずに出かけるなんてありえません。ところが、私の中学校のクラスで読み聞かせを続けるのはとても難しいと感じてきました。そんな思いから、レベッカ・ベリングハムの著書『The Artful Read-Aloud』を手に取りました。

ちょうどこの本を読み進めていたころ、私の教師としての日常が一気に崩れました。世界中の学校と同じように、私の学校も閉鎖になったのです(4年半ほど前の話です!)。離れ離れになった生徒たちとつながり続け、学びを続ける方法を探しながら過ごしました。そんな中で「読み聞かせ」についての本を読むのは、なんだか皮肉なことのように感じました。

でも、毎晩『The Artful Read-Aloud』に戻るうちに、読み聞かせが不安定な時期にどれほど強力なツールになるかに気づきました。物語は、時間も距離も越えて私たちをつなげてくれるのです。だから、私が生徒たちのために撮った最初の動画は読み聞かせでした。そして気づいたのです——私は流暢に、感情を込めて読むことはできるけれど、まだまだ学ぶべきことがたくさんある、と。

ベリングハムは本書を、「生徒の心を動かす読み聞かせのための10の原則」を中心に構成しています。たとえば「本文になりきる(Embody the Text)」「顔を上げて読む(Look Up)」「(生徒たちの本に関する)会話を引き出す(Invite Conversation)」といった原則です。それぞれの原則には、具体的なコツが例や写真とともに紹介されています。

読み聞かせで実際に使える資料――アンカーチャート、グラフィック・オーガナイザー、本文への書き込み例――も掲載されていて、読者が具体的な場面をイメージしやすくなっています。ベリングハムは、生徒への読み聞かせの経験、教師へのコーチング★経験、そして女優やリテラシー・コーチ★としてのキャリアから得た知見を惜しみなく紹介しています。

 

国語の授業を超えて

ベリングハムは、読み聞かせがリーディングとライティング・ワークショップを支える方法を示すだけでなく、国語以外の授業にも広げて考えています。

たとえば、第七の原則「驚きを大切に(Be Awed)」では、生徒を「わくわくさせる」ことを勧めています。「理科や社会などのユニットの導入で絵本を使えば、生徒の興味を一気に引き出し、すぐに背景知識を与えることができます」(p.91)。

昨年の秋、私は個人叙述のユニットで、6年生(アメリカでは中学1年生)のクラスにジャクリーン・ウッドソンの『Brown Girl Dreaming』(わたしは夢を見つづける ジャクリーン・ウッドソン作 ; さくまゆみこ訳  小学館 2021年)を読み始めました。私の落とし穴の一つは、読みながら自分の思考をすべて声に出して説明してしまったこと★★です。ある日読み始めたとき、生徒の一人が「先生、ただ読んでくれますか?」と尋ねました。「あれこれしゃべらずに?」と、私が言葉を補いました。恥ずかしくなって、そのあとはウッドソンの美しい作品そのものに語らせました。だからこそ、ベリングハムが「読むこと」と「語ること」のバランスについて丁寧に考察している部分が、とてもありがたく感じられました。

The Artful Read-Aloud』を読み終えたあと、私はパム・ムニョス・ライアンの『Mañanaland』(明日の国  パム・ムニョス・ライアン著 ; 中野怜奈訳  静山社, 2022年)を読み始めました。すると、物語を主役に据えつつ、生徒たちを引き込むチャンスを探しながら読む、自分の読み方が変わっていることに気づきました。

第四の原則「顔を上げて読む(Look Up)」で、ベリングハムはこう提案しています。「子どもたちを共演者にすることで、場面のドラマ性が高まり、子どもたちは場面の細やかなニュアンスにアクセスできるようになります」(p.59)。私も読みながら、どこで立ち止まり会話を促すかを探しましたが、それは慎重に選ばなければならないと感じました。

ベリングハムは、授業での対話を支えるためのツールも用意しています。読み聞かせ以外の場面でも使えるコツや発問が紹介されているのです。中でも秀逸なのが、文章の難易度別に整理された質問の一覧表(p.68)。また、「正しいかどうかをすぐに言わないで待つ」(p.50)といった対話のヒントや、理解に苦しむ生徒をうまく導くための工夫など、授業全般に応用できるアイディアも多く紹介されています。

 

日々の授業準備を超えて

教師に役立つのは、授業準備を導くための工夫も紹介されている点です。たとえば、「子どもの本を読むときに心に留めておきたい意味づけのための質問リスト」(p.38)、自分自身の読書生活を豊かにするための方法、そして厳選された読み聞かせ向けテキストのリスト(引用文献一覧 p.152)などです。

ベリングハムがもっとも私を惹きつけたのは、彼女自身の学びの旅、迷いや成長を正直に見せてくれる部分でした。たとえば「ひと呼吸おいて(Take a Breath)」という章では、忙しさについてこう書いています。「忙しさは、私自身、人としても、友人としても、もちろん母親としても、そしていつも教師としても、取り組んでいる課題です。」

一方で、この本にはとても深い思索と共感に満ちた部分もあります。読み聞かせが、教師とすべての生徒とのつながりをつくり、学年相応の読書力に達していない生徒にも公平な学びの場を提供する方法について語る中で、ベリングハムはこう述べています。「読み聞かせをすると、どんな日でも、たとえちょっとやっかいな気分の子や問題を抱えている子でも、私はもう一度、彼らを愛おしいと感じられるのです」(p.60)。

第八の原則「深く掘り下げる:公平性・行動・変革を育む(Dig Deep: Promoting equity, action, and change)」では、読み聞かせを通して「社会正義のための教育」を支える方法を探ります。ベリングハムは「自分の視点が限られていることを認めつつ、複雑な会話の場を設ける」ことで、生徒と一緒に難しいテーマに向き合うための具体的な方法を提示しています。

私自身も、深呼吸して覚悟を決め、Google Meetや録画動画を使って『Mañanaland(明日の国)』を生徒たちに読み聞かせ始めました。第1章では2回立ち止まり、生徒たちが感想を書き込める時間を取りました。ペアトークではなく、チャット欄に生徒の言葉が次々と流れました。本を閉じたとき、私は生徒たちの表情に気づきました。それは、少なくともその瞬間だけは、彼らが別の世界へ旅していたことを示す表情でした。そして私は改めて思ったのです——読み聞かせは確かに「安心感とつながり、そして最終的には愛の源」なのだと(p.61)。

 

★コーチおよびコーチングに興味のある方は、10月に出版予定の『インストラクショナル・コーチング』と『The Art of Coaching(邦訳タイトル未定)』を参照してください。欧米では、過去20年ぐらいの間に、学校や授業改善に欠かせない存在になっています。

★★「考え聞かせ」という方法です。詳しくは、『読み聞かせは魔法!』を参照ください。しかし、ここに書いてあるように、やりすぎると問題があります。逆に、ほどほどだと効果があります(特に、ノンフィクション系で有効と言えるかもしれません)。

出典:https://www.middleweb.com/43154/ten-principles-of-artful-read-alouds/

10 Principles Read-Aloud また、10の原則については、https://blog.heinemann.com/10-principles-of-artful-teachingを参照。

2025年9月5日金曜日

国語で一番大切なのは、生徒一人ひとりが(正解を言えることではなく!)自分で読み書き続ける力を育むこと★4

 タラ・バーネット先生とケイト・ミルズ先生はニュージャージー州で国語を教える教師(ケイトは、現在は読み書きのコーチ)です。二人が特に好きだったのは、協力してティーム・ティーチングをした年でした。教師としても生徒としても、協働がもたらす大きな力を実感できたからです。二人はhttps://taraandkate.wordpress.com/ というブログを一緒に運営しています。

  *****

「ひたすら読む時間」は、私たちのリテラシーの授業(日本の国語の授業)の命綱です。私たちは、尊敬し学び続けている教育者(や本の虫)たちと同じように、「生徒に合った本」「読む時間」「読んだことに反応する時間とその方法を学ぶ機会」を与えれば、生徒は情熱的で好奇心あふれた読み手/学び手になると強く信じています。

しかし残念なことに、アメリカ心理学会(APA)の調査などを見ると、10代の読書習慣は急激に減少しています。1970年代後半には、12年生(日本の高校3年生)の60%が「ほぼ毎日、本や雑誌を読んでいる」と答えていましたが、2016年にはわずか16%にまで減ってしまいました。さらに、2016年の調査では12年生のおよそ3分の1が「この1年間に一度も読書をしなかった」と答えており、これは1970年代のほぼ3倍です。★1

こうした統計を見ると、私たちはなおさら、生徒たちが自主的に読む生活を大切に育てたいと強く思います。そのために、私たちが実践しているいくつかの方法を以下に紹介します。

クラスメイトがすすめる本

私たちは、リテラシー(国語)の授業のそれぞれのクラスに「リーダーズ・チョイス(読み手が選んだ本)」と書いたかごを置いています。23週間ごとに、一人の生徒を選んで、その生徒が自分のおすすめ本を23冊選び、なぜその本をすすめるのかを簡単に書いた付箋を表紙の内側に貼ってもらいます。昨年は、『The Hate U Give』(邦訳、『ザ・ヘイト・ユー・ギヴ : あなたがくれた憎しみ』アンジー・トーマス作、服部理佳訳、岩崎書店、2018年)がこのかごに入ったのをきっかけに、何冊も買い足すことになりました。実際のところ、生徒たちはクラスメイトのおすすめをとても信頼しているのです。

〇シドニーがすすめる2冊の本 (写真参照)

〇『ミラクルズボーイズ』(ジャクリーン・ウッドソン作、さくまゆみこ訳、さわだとしき絵、理論社、2002年)の表紙の内側に、シドニーが書いた短いレビューがあります。


レビューの訳:シドニーのおすすめ

Feathers』は気に入りましたか?
同じジャクリーン・ウッドソンの作品なので、『ミラクルズボーイズ』もきっと気に入ると思います。
もしお母さんが亡くなって、お兄ちゃんがあなたの面倒をみなきゃいけなくなったらと想像してみてください。(続きは本の中で)

読んだ本への反応の仕方:

本を読むのは好きなのに、読んだことについて書く意味がよくわからない生徒は少なくありません。私たちもその気持ちはわかります。夏に海辺で本を読んでいるとき、わざわざ感想を書いたりはしませんから。

でも、これまでの経験から、読んだことについて書くと、その本から受け取った印象や考えがより深く、長く残ることもわかっています。

私たちは短い文章や長編小説を読むとき、読んだことへの反応の仕方を示し、生徒にいろいろな反応の仕方の選択肢リストも渡しています(以下の質問を参照)。すべての方法を毎回使う必要はありませんが、この「選べるメニュー」があることで、生徒は自分らしい、本物らしい方法で読んだことに反応できるようになるのです。

読んでいるときに考える質問
読んだことについて何を書けばいいか迷ったら、以下の質問をヒントにしてみましょう。質問をページのいちばん上に書いて、それについて自分の考えを広げていきます。

  1. 登場人物をひとり選ぶ。この人と友達になりたい? それはなぜ? それともなりたくない? その理由は?
  2. 本を読むことは、今まで知っていることを深めたり、新しい見方をくれたりして、あなたの考えをゆさぶるものです。次の文のどれかを使って、考えを書き出してみましょう。
    • この本を読んでから
    • この本を読んでいて、私の考えが変わったのは
  3. 「黄金の一文」と思える行はある? なぜその一文が特別?
  4. 主人公と自分に共通するところは? 逆に、主人公と自分とでまったく違うところは?(たとえば、主人公がどんなふうに問題を解決したか、それを自分ならどうするかを比べてみる)
  5. 舞台はどんな場所? 自分の生活の場とどう違う? どんなところが同じ?
  6. もしその本の舞台に行けるとしたら、どんな感じ? どんな景色や雰囲気?
  7. この本のいちばん大事なメッセージを表すワンシーンを、150字以内で書いてみよう。
  8. 今読んでいる本を表すのにぴったりな言葉を三つ選んでみよう。それを選んだ理由も書こう。
  9. 本の新しい表紙をスケッチして、出てきたテーマを表そう。
  10. この本で特に大事だと思う言葉は何? その言葉を使って詩を書こう。(たとえば、やなせたかしの詩のように)

「本の世界に入ったらどこにいる?」掲示板

Goodreads★2のX(旧Twitter)アカウントでは、「もし今読んでいる本の舞台にいるとしたら、どこにいる?」という投稿がよく流れてきます。私たちはこのアイディアがとても気に入り、教室の掲示板に取り入れました。掲示板は数週間ごとに更新し、付箋で飾っています。

生徒は自分の本の舞台を書き、時々、掲示板を見ながら12分おしゃべりする時間もつくります。ひたすら読む時間には、ただ掲示板を眺めるだけのときもあります。とてもカジュアルなやり方ですが、クラスメイトからおすすめの本を知るきっかけになり、互い本へのこだわりや好奇心がぐんと高まることがわかりました。

 

読書目標と読書記録

私たちは、読書の目標を立てることで、ペースを保ちやすくなることを知っています。学校では、生徒に1週間単位で自分の読書量を記録させ、平均してどれくらい読んでいるかを確認します。そして、目標を書いたカレンダーを用意し、毎日読んだページ数を記録させます。本を読み終えたら、その記録用紙を読書ノートに貼らせます。これによって、生徒と「読書を続けること」について簡単に話し合うきっかけができます。

リストづくりというミニ・レッスンの後には、私がこれまで読んだ本のなかで特に印象に残っているもののリストを生徒に見せます。そして、そのリストを作ることがなぜ大事かを説明します。リストがあると、もっと読みたくなるからです。たとえば、「2025年夏に読んだ本」などのリストを作り、振り返ると達成感があり、自分がどんな本を読んでいるかも見えてきます。生徒にもノートに「読んだ本のリスト」のページを作らせ、年の途中でも追加するように声をかけます。学年末にはそのリストを見返すことで、自分の一年間の読書生活をふり返ることができます。

次に読む本のリスト

正直に言えば、計画があると読書が続けやすくなります。学年の最初の週に、生徒全員に読書ノートの1ページを「次に読むの本リスト」として使うように指示します。こうすることで、本を読み終えたあとに「次は何を読もう?」と迷い、12週間も新しい本なしで過ごしてしまうという事態を防げます。

まず、私たちが過去数か月に読んだ本を短く紹介する「ミニブックトーク」をして、生徒に「面白そう」と思った本をそのリストに書き込ませます。そして、私たち自身の「次に読む本のリスト」も見せます★3。

授業中に本を読むための時間を確保する

ここまで紹介したアイディアはすべて、「本を読むことは大切!」というメッセージを生徒に伝えるためのものですが、いちばん大事なのは、実際にそのための時間を確保することです。私たちは毎回のリテラシー(国語)の授業を、必ず10分間のひたすら読む時間から始めます。日によってはもっと長く取れることもありますが、10分より短くなることは絶対にありません。

この時間、私たちは教室を回りながら生徒とミニ・カンファランスをします。読書ノートを確認したり、今週書いている読書についてのメモや次に読む予定の本について話したりして、教室全体の「本を読む空気」を感じ取ります。

こうしたルーティーンを積み重ねることで、リテラシー(国語)の授業でいちばん大切な目標である「生涯にわたって本を読む人になること」を常に中心に据えておくことができるのです。

★1 日本の同様の調査結果については、https://chatgpt.com/share/68b5621f-a7e0-800e-bd58-39e0c0bd5a51 をご覧ください。

★2 Goodreadsの日本版としては、読書メータ、ブクログ、ビブリアなどがあります。

★3 これは、「読んだ本のリスト」と同じかそれ以上に大切です。これがあると、途切れることなく読み続けられる可能性が高まりますし、このリストを増やし続けるために努力もするようになります!

★4 日本の国語には、このことは国語を12年間も学ぶ目的には含まれていません! 結果的に、https://wwletter.blogspot.com/2025/04/blog-post_18.htmlで紹介されているような本が売れ続けるという、極めておかしな現象が起こり続けます。多くの人が読める人にはなりたいのだと思いますが、12年間+大学での4年間でも上で紹介したような「生徒一人ひとりが自分で読み続け(明日の自分を選ぶ)」ための練習をする機会が提供されないのです。正解あてっこゲームのような国語の授業は極力減らし、上で紹介した方法を少しでも多く練習する時間を増やしてください。一人ひとりの生徒が自分にピッタリの本を選べるようにならない限りは、読み続けられませんから!

出典: https://choiceliteracy.com/article/nurturing-independent-reading-lives-in-middle-school/

 

 

2025年8月30日土曜日

やさしいけれど難しい? 〜村上昭夫の詩を読む〜  

*時々投稿をお願いしている吉沢先生に、今回の投稿もお願いいたしました。 

 2025年6月1日の投稿で私は、「難しいけど、この詩いいよねえ」と言いたくなる詩もあります、と述べ、石原吉郎さんの詩を紹介しました。今回は、「やさしそうに見えるけど、この詩、難しいねえ」と言いたくなる詩を紹介したいと思います。2年ほど前、「やさしい言葉で書かれた詩を読む」というタイトルの投稿で一度取り上げたことのある村上昭夫の詩です。★1

 その時は、「やさしい言葉で書かれた詩」ということで済ませていたのです。しかし、今回、読み直してみて、「やさしい言葉で書かれた詩」で済ませられないことに気づきました。村上昭夫の詩に再度向き合う中で、彼の詩を深く掘り下げてみたいと思います。

雁の声★2

  村上昭夫


雁の声を聞いた


雁の渡ってゆく声は


あの涯のない宇宙の涯の深さと


おんなじだ 

 

私は治らない病気を持っているから


それで


雁の声が聞こえるのだ 

 

治らない人の病いは


あの涯のない宇宙の涯の深さと


おんなじだ 

 

雁の渡ってゆく姿を


私なら見れると思う


雁のゆきつく先のところを


私なら知れると思う 

雁をそこまで行って抱けるのは


私よりほかないのだと思う 

 

雁の声を聞いたのだ


雁の一心に渡ってゆくあの声を

私は聞いたのだ



 

 雁が群れをなして渡っていく姿を見て、作者は心を打たれたのでしょう。作者は、その鳴き声が、宇宙の涯てを思わせるようだ、と言っています。けれども、それがどんな鳴き声だったかを描写しているわけではありません。

 詩の冒頭が、仮に次のようになっていたら、どうでしょうか。

雁の鳴き声を聞いた


雁の渡ってゆく鳴き声は


あの涯のない宇宙の涯の深さと


おんなじだ 

  このように書くと、雁が鳴きながら渡っている姿、第三者として眺めているような印象を受けます。

 作者には、「雁の鳴き声」ではなく、「雁の声」なのです。雁に作者の心がまっすくに向かっていることを感じます。聞こえてきたのではなく、「私は聞いたんだよ」というふうに作者は言いたいのです。

 作者は「治らない病気」にかかっています。そのことが、この詩を支えるもう一つの要素です。このことを理解するために、作者の生涯をたどってみます。

 村上昭夫は1927年(昭和2年)に岩手県で生まれ、当時の岩手中学校(現在の岩手高等学校)を卒業後、満州にわたり、現地の部隊に入隊しますが、まもなく終戦を迎えます。翌年、帰国し盛岡市内の郵便局で働き始めますが、1950年に結核を発病し、サナトリウムに入院し、この闘病生活が41歳で亡くなるまで続きます。

 闘病生活の中で書き溜めた詩は、晩年、『動物哀歌』という詩集にまとめられ、1967年に土井晩翠賞を、翌年、H氏賞を受けます。その受賞に際し、村上昭夫は次のように語っています。★3

「死」という未知なものが、さまざまな動物や植物、それに、実にたくさんの人間の形態となって姿を見せました。それらのものを懸命になってノートや原稿に、書きしるしました。それが『動物哀歌』となって、世に出ました。★4

  当時、結核にかかって亡くなる人は多く、「死の病」と思われていました。30代の若さで、自分は死ぬのだということに向き合うことのつらさ。それが作者を、雁に向かわせたのでした。

 雁に向かって、作者は心を寄せています。心は雁の声、渡っていく姿、行き着く先へと、まっすぐに向かっています。詩から私が感じるのは、そのまっすぐさ、ストレートさ、その思いの強さです。

 そして、それ以外のことが詩には書き込まれていません。余分なものが削ぎ落とされています。雁の具体的な描写とか、「私」が今どこにいて、何という病気にかかっているのかとか、そのようなことは一切書かれていません。読み進んでいくうちに、そのような雑音が消えていくのを感じます。

 雁が鳴いている。雁は渡っていき、どこかに行き着くだろう。その雁を抱きしめたい。私は死ぬ。そんな私こそが、お前とともにいたい。----そのようなメッセージが、そのようなメッセージだけが、言葉として読み手に伝わってくる。それがこの詩の魅力だと思います。


 もう一編、紹介します。

ねずみ★5   


ねずみを苦しめてごらん


そのために世界の半分は苦しむ 

 

ねずみに血を吐かしてごらん


そのために世界の半分は血を吐く

 

そのようにして


一切のいきものをいじめてごらん 

そのために


世界全体はふたつにさける 

 

ふたつにさける世界のために


私はせめて億年のちの人々に向って話そう


ねずみは苦しむものだと


ねずみは血をはくものなのだと 

 

一匹のねずみが愛されない限り


世界の半分は


愛されないのだと 

 

 「ねずみ」という弱者、「血を吐く」という部分に、作者自身が投影されていることは、容易に分かると思います。

 「世界の半分は苦しむ」「世界全体はふたつにさける」という言葉で、作者は何を言いたいのでしょうか。いろいろな解釈や感じ方があると思います。

 この詩に描かれているのは、ねずみを苦しめ、いじめる者と、苦しめられ、いじめられるねずみ(いきもの)との対立です。言い換えれば、加害者と被害者のいるこの世界の姿です。その中で、「一匹のねずみ」に作者は思いを寄せています。そして、一匹のねずみを愛することが、「世界の半分」が愛されるために必要だ、と言います。一匹のねずみに向かっている眼差しの向こうに、この世界全体、地球に住む私たち全体を見ようとしています。ためらいなく、世界全体に自分の言葉を投げかけるストレートさに、私は感銘を受けます。

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★1 2023年7月9日WWRW便り「やさしい言葉で書かれた詩を読む」

★2 『現代詩文庫159 村上昭夫詩集』思潮社、1999年、13ページ

★3 村上昭夫の生涯については、盛岡市公式ホームページを参考にした。  https://www.city.morioka.iwate.jp/kankou/kankou/1037106/1009526/1024995/1025008/1025058.html

★4 同上ホームページより引用。

★5『現代詩文庫159 村上昭夫詩集』思潮社、1999年、19-20ページ


2025年8月22日金曜日

効果的なフィードバックのコツ ~ 生徒が伸び、教師も疲れない

  成績づけ/評価をすることは、教師にとって大きなストレスの種。でも朗報があります。生徒の学びにとって本当に効果的なのは、「点数」ではなく、「的を絞ったフィードバック」。しかもそれは、私たち教師の時間とエネルギーも節約してくれるのです。

 と書くのは、教職に就いて10年以上は中学校の英語教師を務め、最近高校の英語教師に転身したCathleen Beachboard先生です。彼女は、教師であると同時に、著者であり研究者でもありますが、極度の虐待とネグレクト(育児放棄)のケースから5人の子どもを養子に迎えた経験をもとに、トラウマや不安を抱える人々の支援を改善することにも情熱を注いでいます。

あまり語られませんが、「成績をつける(評価をする/生徒にフィードバックをする)」という作業は、知らず知らずのうちに教えることへの情熱をすり減らしてしまうことがあります。夜遅くまでの作業。終わることのない作文の山。一生懸命書いたコメントが、授業の終わりには丸められてゴミ箱に入っているのを見たことはありませんか?

でも、救いはあります。研究によれば、もっと賢いやり方があるのです。

ジョン・ハッティとヘレン・ティンパーリーの「The Power of Feedback」というタイトルの研究★によると、すべてのフィードバックが学びにつながるわけではありません。成長を促すフィードバックには、タイミングがよく、具体的で、課題そのものに焦点を当てていることが必要です——個人ではなく課題に、です。
 ただし、たとえその条件をすべて満たしていたとしても、実はもうひとつ問題があります。それは、人間の脳が一度に処理できる情報には限りがあるということです。

 それが、生徒の作文に教師が一日がかりで添削して、たくさんのフィードバックをしても効果がない理由です。わずか数ページ(あるいは一枚)の作文に10~20のコメントを書き込んでも、生徒が受け取るメッセージは「あなたの作文はダメです」「直すところが多すぎます」であり、結果的に「やっぱり自分は作文はダメ/嫌いなんだ!」だけです。しかし、ライティング・ワークショップ(作家の時間)のときのように、やり取りする数を一つか二つに限定して(それも、作品をよくするためではなく、書き手を育てることに焦点を当てた)フィードバックをすることで、生徒は書く気を保ったり、新たな挑戦をする可能性が開けます。★★

 つまり、見直すべきなのは「評価の仕方/成績のつけ方」だけではありません。「フィードバックの伝え方(見取りの仕方)」そのものにも意図的な変化が必要なのです。★★
 ここでは、私が「より苦労せず、より効果的に」評価する方法をどう身につけてきたか、そして、どんな小さな工夫が、生徒の成長にも私自身の心のゆとりにも大きな変化をもたらしたかをご紹介します。

1. 点数の行進をやめて、「シングルポイント・ルーブリック」を使う

教師になったばかりの頃、私のルーブリックはまるで税金の申告書みたいでした。細かい文字、分かりにくい評価項目、そして数字のオンパレード。生徒たちはほとんど目を通していませんでしたし、正直、それも無理はないと思います。

今では「シングルポイント・ルーブリック(single-point rubric)」を使っています。もう元には戻れません。この簡潔な形式では、「何ができていれば合格(成功)なのか」だけを明確に示します。数字であれこれ示すのではなく、成功のイメージを共有するのです。期待を上回る出来ばえなら「どこがよかったか」を書き添え、基準に届かなかった場合は「どこを直すべきか」を伝えます。

ここで認知科学の視点から見た利点もひとつ:
フィードバックを「ひとつの明確な目標」に絞ることで、生徒のワーキングメモリ(作業記憶)に合った学びが可能になります。6つの評価基準を同時に意識させるよりも、生徒は本当に大事な部分に集中できます。そして私たち教師にとっても、時間とエネルギーの節約になります。

実践する際のヒント:

白紙のドキュメントかスプレッドシートを開いて、3列作ってみてください。真ん中の列に「成功の基準(Success Criteria)」と書き、目標を明確かつ生徒にわかる言葉で書きます。左右の列には「期待以上(Exceeds Expectations)」と「改善が必要(Needs Improvement)」という見出しをつけ、それぞれコメントを書き込めるようにします

◆ これだけでは、「シングルポイント・ルーブリック(single-point rubric)」が実際にどんなふうに見えるかをイメージしにくいかと思うので、実際の事例を下に示します。

テーブル

AI 生成コンテンツは誤りを含む可能性があります。

 これは書くプロセスの5つの基準(計画、修正、編集、推敲、新しいアプローチに挑戦)について、左右に改善が必要な点とすでに強みと言える点を書き込めるようになっています。

 それに対して、従来の「マルチポイント・ルーブリック(multi-point rubric)」の例としては、下をご覧ください。

グラフィカル ユーザー インターフェイス, テーブル

AI 生成コンテンツは誤りを含む可能性があります。

テーブル

AI 生成コンテンツは誤りを含む可能性があります。

 こちらでは、それぞれの基準に対して5つの段階の詳しい説明が書かれています。生徒は、一つの段階から一つ上(ないし二つ上)の段階を目指せることが意図ではあるのですが、実際にはその教師の意図がくめる生徒はそう多くないのが現実です。それで、最近はこの作成するにも時間のかかるマルチポイント・ルーブリックよりも、時間がかからないで作れ、かつ的を射たフィードバックが可能なシングルポイント・ルーブリックがより頻繁に使われるようになっています(https://www.edutopia.org/article/6-reasons-try-single-point-rubric を参照)。 なお、見本として示した2つのルーブリックの出典は、10月ないし11月に出版予定の『インストラクショナル・コーチング』(ジム・ナイト著、図書文化)の190~193ページに、その訳が出ます。(それまで待てない方は、生成AIを使って暫定的な訳をご覧ください。)

◆ 皆さんは、シングルポイント・ルーブリックとマルチポイント・ルーブリックのままではわかりづらいと思ったので、生成AIに助けを求めたら、Single-point rubricは、単一基準ないし単一点ルーブリック、Multi-point rubricは、複数基準ないし複数点ルーブリックを提示してくれました。これで、わかりますか? 私はわかりづらいと思ったので、逆提案してみました。

前者は、評価する基準は複数ありながら、各基準の段階は「到達すべき目標」が一つ示されているだけなのに対して、後者はたとえば、未達、部分的に達成、おおむね達成、完全に達成などの段階にわけて、それぞれの段階の達成状況が示されているルーブリックなので、単一到達段階ルーブリック と 複数到達段階ルーブリックでどうでしょうか、と。

 これには生成AI君も賛成してくれました。皆さんも、わかりやすい名称を模索してください。

 説明が長くなりましたが、2番目のポイントに移ります。

 

2. 生徒が前に進めるフィードバックを、少しずつ、確実に

フィードバックをするとき、私は「一度にすべて直そう」とはしません。ハッティとティンパーリーの研究も、それを裏づけています。
 間違いをあれこれ一気に指摘してしまうと、生徒のやる気をそぎ、結果的にどのフィードバックも活かされなくなってしまうのです。

そのかわりに私は、まず「今いちばんのつまずき」に注目します。基準に届かない最大の原因は何か?たとえば、根拠が弱いのか、構成がずれているのか。そのポイントに集中して伝えるようにしています。

でも、フィードバックは「欠点を直す」だけのものではありません。

動機づけの研究者キャロル・ドゥエックらの研究によれば、生徒は「改善点」とともに「強み」も示されたときの方が、フィードバックに前向きに取り組めるそうです。
 だから私は必ず、たとえ小さくても「うまくできていること」を見つけて伝えるようにしています。努力でも創意工夫でも、いい書き出しでも――「ここ、いいね」と伝えることで、生徒は「見てもらえている」と感じるのです。

実践する際のヒント

    まずは本気のポジティブから始めよう
 改善点を伝える前に、「ここがいいね」と思える具体的なポイントを見つけて伝える。
 これは、生徒の心を開き、「あなたにはできる」というメッセージを届けるため。

 例:
 - 努力:「考えをまとめるのに、すごく時間をかけたのが伝わってきます」
 - 思考:「主張が明確で、筋が通っています」
 - 成長:「前の下書きと比べて、根拠の示し方がずっとよくなっています」

  改善点は、12個までにしぼって明確に
 前向きなコメントのあとで、「ここをよくすれば、もっとよくなる」という点を12個にしぼって具体的に伝える。

 例: 「主張をもっと強めるには、具体的な例を増やして、それがどう関係するのかも説明するといいかもしれません」

    最後はこれからにつながる声かけで締めくくる:
ドゥエックの研究が示すように、生徒に「成長できる」と思わせる言葉が大切。

 例:
 - 「すでにいい方向に進んでるよ。この一歩で、もっと完成に近づくね」
 - 「今の努力の積み重ねが、書く力を伸ばしてくれる。ぜひ挑戦し続けて!」

 今回の紹介はここで終わりにしますが、原文では、あと2つの実践例を紹介してくれています。最後に、以下のようにまとめてくれています。

 

成長を後押しし、脳にもやさしいフィードバック

成績づけ(評価)は、あなたの夜やエネルギーを奪うものである必要はありません。

タイミングがよく、具体的で、脳が処理しやすいフィードバックに焦点を当てることで、私たちは「学びを止めるフィードバック」ではなく、「学びを促進するフィードバック」があふれる教室をつくることができます。

それは「基準を下げる」ことを意味するわけではありません。本当に意味のある成長を促すには、脳のはたらきに沿った、より賢い仕組みが必要なのです。生徒にとっても、そして私たち教師自身にとっても。

なぜなら、最終的に私たちの影響力を決めるのは、費やした採点時間ではなく、生徒に届けるフィードバックの「明確さ」「思いやり」、そして「脳にやさしい方向づけ」だからです。それなら、もっと賢くやっていきましょう。やる価値は、十分あります。

 

★興味のある方は、https://simvilledev.ku.edu/sites/default/files/PD%20Resources/Hattie%20power%20of%20feedback%5B1%5D.pdf で読めますが、かなり専門的な内容です! このテーマでは、『教育の効果 フィードバック編』 ハッティ,ジョン/クラーク,シャーリー著、法律文化社が出ていますが、これも結構専門性の高い本という匂いがします。(そもそも、筆者のCathleen Beachboard先生は、先に出ている本のこちらではなく、一般の教師には入手しにくい論文の方を引用しているの? という疑問もわいてしまいますし!)

★★ まさに、文科省が25年ぐらい前に言いだして、いまだに実体のない「指導と評価の一体化」の具体的な中身について書いてくれています! 教師が教えつつ、それが生徒の学びや成長に寄与する評価(というよりも、生徒にとって意味があり、かる活かせるフィードバック)を実現することですから。言い換えると、評価が、生徒がよりよく学べるように教師の教え方の変更を迫ってそれを実現するものになることが「指導と評価の一体化」が本来言わんとしていることなのですが、言い出した当事者たちも、いまだにそのことをイメージがつかめていない(というか理解できていない)と思います。「指導と評価の一体化」の要は、フィードバックであることは間違いありません! それも、教師から生徒への一方的なものではなく、生徒から教師へや、生徒相互のフィードバック(さらには、今のICTの時代では、教室外の多様な人たちのフィードバックまで)が同じレベルで価値あるものと捉えられる必要があります! 

出典・https://www.edutopia.org/article/effective-feedback-saves-teachers-time