2020年5月29日金曜日

新刊案内『ぼくは にんげん ~ おもいやりって だいじんだね』



ピーター・レイノルズの最新の絵本が、新進気鋭の書き手のスーザン・ヴェルデさんとのタッグで、翻訳出版されます。(訳は、『ギヴァー』の島津やよいさんです。)
『てん』の三部作などと並んで、メンター・テキストとして最適です(メンター・テキストは、とくに書くことを教える際に頻繁に使えるモデルとなる本のことです。詳しくは、本ブログ左上で検索すると、大量の情報が得られます)。
これまでのピーター・レイノルズの絵本と同じく、(文にマッチした)たくさんのいいイラストが見られることは当然ですが、今回はヴェルデさんのことばもいいです。
今の時点で、私が選び出したのは・・・・以下の4つです。

●いきているかぎり まなびつづける
●人生というこのすばらしい旅路を ときにはまよい なやみながら 一生をかけてあるきとおすんだ
●ぼくは「えらぶ」ことができる  それがにんげんの  いいところなんだって
●さあ ぼく史上さいこうの  ぼくになるために  これからもがんばるぞ

あなたのお気に入りのことばを、ぜひ選んでください! (その時々で、違ってくる気がします。自分が置かれている状況によって。)

 また、この本いまのタイミングにピッタリでもあります。出版されたのは2018年ですから、当時コロナウィルスでこんなことになるとは、作者もイラストレーターも知るはずはありませんでしたが。(ということで、広い用途に使える本です!)


◆本ブログ読者への割引情報◆

1冊(書店およびネット価格)1320円のところ、
WW&RW便り割引だと   1冊=1200円(送料・税込み)です。
5冊以上の注文は     1冊=1100円(送料・税込み)です。

ご希望の方は、①冊数、②名前、③住所(〒)、④電話番号を 
pro.workshop@gmail.com  にお知らせください。

※ なお、送料を抑えるために割安宅配便を使っているため、到着に若干の遅れが出ることがありますので、予めご理解ください。また、本が届いたら、代金が記載してある郵便振替用紙で振り込んでください。



2020年5月23日土曜日

ライティング・ワークショップと教師の変容

  今回は高校の英語でライティング・ワークショップに取り組んできた吉沢先生に書いていただきました

「ライティング・ワークショップ」って何?
〜私の高校英語での実践をもとに〜

 私は高等学校の英語の授業で、数年間にわたりライティング・ワークショップ(以下WW)を実践しました。WWは米国で開発された、母語による作文教育のアプローチです。それを、英語のライティングの授業に応用できないだろうかという関心を持って試行錯誤を続けてきています。その過程で多くの気づきや発見がありました。最近は、身近な人たちにWWを紹介する機会がありますが、やってみようという教師は増えていきません。何がWWの実践に踏み込むのをためらわせているのでしょうか。そこにはさまざまな不安や疑問があると思われます。それは、実は私自身が直面した不安や疑問でもあります。ここでは、それに応える形で私のWW実践での気づきを述べてみます。

 (1)書くことを生徒が決めるようにしたら、教師は対応しきれないのではないでしょうか。

 教研集会などでWWの実践を発表すると、決まってクラスサイズについての質問が出ます。個別指導は結構なことだが、人数が多くては無理ではないだろうか、という質問です。「生徒の数だけいろいろな内容の英文を逐一チェックするなんて無理!」と、私自身もそう思っていました。
 WWを進めながら気づいたのは、私が「教師の役割=英文を逐一チェックすること」という固定観念にしばられていた、ということでした。
 WWでは書きつつある生徒たちと「カンファレンス」を行います。「へえ、こんなトピックに関心があるんだね」とか「この書き出しはなかなか良いね」とか「何か具体的なエピソードがあると良いんだけどね」とか「ここは、自分で辞書で調べてごらん」とか、カンファレンスの内容は多岐に渡ります。私は一番多い時で1クラスに40人もいましたから、1コマの授業で全員とカンファレンスを行うことはできません。そこで、時折ノートを集めてフィードバックを書き込んだりしてカバーしました。
ポイントを決めて全員のノートをザーッと見てまわり(★)、後の時間は気になる生徒に絞ってカンファレンスをしたこともあります。
 もちろん人数が少ない方がよいのですが、大勢では無理と決めつける前に、工夫の余地はないか考えることが必要です。
 さらに言えば、個別指導は人数が多いと無理だという考えは、裏を返せば、一斉指導の講義形式なら人数が多くても大丈夫だという考えにつながりかねません。
 「本当に大丈夫なの? 誰にとって?」と聞きたくなります。そのように考えている時、教師のイメージする生徒とは、教師の注入する知識を受け入れるだけの存在になっているのではないか。WWを通じて私は自分にそのような問いかけをするようになりました。

(2)書いたものの添削に主眼を置かないとしたら、教師の仕事は何なのですか。

 ライティングの授業において添削するのが教師の主たる役目だ、と私は思っていました。WWを実践することで、その考えがくつがえりました。書きつつある生徒に付き合うこと、「カンファレンス」ということも教師の大事な仕事です。というより、それ抜きにはWWは成り立たないのです。
 R.フレッチャー& J.ポータルピの『ライティング・ワークショップ』(★★)には、「書き手とのカンファレンス」という章に、教師がカンファレンスで何をすればよいかが書いてあります。しかし、これが私にはイメージしにくかったのです。例えば、「聞く」ということがあります。「聞く? 何を?」と思いました。生徒に教えることを仕事としてきた私にとって、「聞く」とは何と難しいことか。また、「一読者として生徒の作品を読む」ということがあります。しかし、すぐに間違いを見つけてしまうのです。一読者として読むということが何と難しいことか。そんなところでギクシャクしながらも、次第に生徒の書いているもの、書こうとしていることがらに関心が湧いてくるようになりました。「へえ、そんなことに興味があるんですね」という反応をすると生徒はうれしそうにしています。そして、以前の私は、このようにして生徒たちの興味・関心に好奇心を持つことがなかったことに思い至りました。それでは、生徒たちがやる気にならないのも無理ありません。何をするのが教師の仕事なのかについて、WWは根本的な変革を私にせまったのでした。

(3)自分の書きたいことを書くだけだったら、文法や文型が身につかないのではないでしょうか。

 私もこの疑問を持っていました。しかし、WWを進めていくと、書きたいことを
書く中でこそ、必要となる文法や語法を身につけるのだな、ということを実感するようになりました。穴埋め問題や並び替え問題をやるだけでは、文法や文型は使えるようになっていかないのです。もちろん、問題は解けるようになりますし、その結果テストで良い点を取れるようにはなります。なのに、いざ、自分の体験を書いてごらんなさい、と言っても書けないのです。
 学年末に授業アンケートをすると、「接続詞の使い方を教えてもらった」とか「文法をしっかりと教わった」というコメントがありました。

(4)WWでは英検やGTECに対応できるのでしょうか。

 このような質問に対して、「対応しないといけないのですか?」と聞き返したく
なる気持ちがあります。とは言え、英検やGTECが広く普及しており、それを励みに英語の勉強にいそしんでいる生徒がいることも事実です。
 私の勤めていた学校では、高校生全員がGTECを受験することになっていましたので、正直なところ私は不安でした。「英語表現」の授業でWWをやってきた私の学年だけがスコアが低かったらどうしよう、という気持ちでした。その一方で、WWはそのような外部試験に奉仕するためのものではないという考えがありましたから、授業の中で試験対策はしませんでした。
 結果はどうだったか。それは杞憂でした。他の学年と私の学年で有意な差はなかったのです。それどころか、GTECのライティング部門だけで見ると、WWで教わった普通クラスの生徒の多くが、進学クラスの生徒たちに混じって上位にいたのです。中には高1から高2で、20点以上も上がった生徒もいて、本人もびっくりしていました。
 とは言え、このようなデータを示して、だからWWはすごいでしょう、と言うつもりは私にはありません。テストの点数以上の価値あるものを授業の中で、生徒も教師である私も体験しています。気持ちはそちらの方に向かっているからです。

(5)書く内容を生徒に任せたのでは、すぐにネタが尽きてしまうのではないですか。

 私も初めはそのように思ったこともありました。しかし、WWを進めていくと、ある生徒は最初に書いた作品から、次の作品のテーマが派生していました。また、一つのトピックでいくつもの文章を書く生徒もいました。また、教師の方から、文章のさまざまなジャンル(★★★)を紹介することもできます。私の場合は、体験にもとづくエッセイの他に、短詩型文学、映画評、日記、英語の絵本を読んでの考察、物語の創作などを試みました。ネタが尽きるどころか、時間が足りないくらいです。

(6)自由気ままに書かせていたのでは、授業が成り立たないのではないでしょうか。

 私はWWの授業は、いわゆる自由放任の授業ではないと思っています。生徒自身
書く内容を決めさせるとか、好きなことについて書かせるというところから、自由気ままな、自由放任のイメージを持つ人がいるとしたら、そうではないことを私は主張します。
 新学期の授業の冒頭、「自分の好きなことについて書いてみましょう」と言うと、「わーい」と多くの生徒たちが喜びます。特に、教科書を覚えることが授業だと思い込まされてきた生徒にとっては、解放された気分になるのでしょう。しかし、ことはそう簡単ではありません。
 自分の好きなことを書く、書きたいことを書くということは、書く内容について誰から強制されるのではなく、自分で選ぶことを意味します。それは自分の責任で選ぶわけです。それはある意味で、自分の内面と向き合う作業でもあります。
 ある生徒がこう言いました。「先生、僕は何を書いたらいいですか。」「自分で書きたいことを書いたらいいのです。」と返すと、「これを書いたらいい点がもらえるテーマを教えてください。しっかりやりますから。」と言います。「いい点をもらうために書くのではないですよ。点をもらうとかもらわないとかとは関係なく、自分の中にある書きたいものを探すのです。」と私は言いました。うまく説得できた自信はありませんが、その気持ちは今も変わっていません。
 お付き合いで授業に出席し、テストでそれなりの点を取って単位だけ欲しいという生徒にとっては、このWWは本当にうっとうしい授業です。しかし、自分を見つめ、それを表現することにささやかな喜びを見出せる生徒にとっては、WWはとても良い授業であると信じます。誰々より上か下かという競争心で勉強するのではありません。他の人たちと場を同じくし、他の人たちの作品を共有しながら学んでいくのです。それを支えることが教師の喜びである。それがWWだというふうに考えます。

★ナンシー・アトウェルは、このような短時間の確認を「チェック・イン」と呼んで、「カンファレンス」と区別しています。ナンシー・アトウェル(小坂敦子・澤田英輔・吉田新一郎訳)『イン・ザ・ミドル』(三省堂, 2018)279ページ参照。
★★ R.フレッチャー& J.ポータルピ(小坂敦子・吉田新一郎訳)『ライティング・ワークショップ』(新評論, 2007)
★★★ Nancie Atwell, In the Middle, Third Edition (Heinemann, 2015)の313ページ以降(Genre Studies)に詳しい説明があります。

2020年5月16日土曜日

「自分は一人ではない」ことの本当の意味


 「社会的距離」を保つために「オンライン○○」の機会が増えてきました。直接「対面」ができないのですから、もどかしい思いをすることも少なくありません。そう思っていたら、この間「オンライン」での会議中、アップロードされた資料内の語彙をアプリの検索機能で調べながら聞くことも可能で便利だということに今更ながら気づきました。紙媒体の資料ではこれはまずできません。紙媒体の資料の文章の特定の語彙を短時間で探すことは少なくとも私には難しいことです。

しかしそういう機能を使っている時には、資料の文章内容を経験しているのではなく、情報を検索しているのです。これは『理解するってどういうこと』の41ページの「表22b 多様な理解の種類」に掲げられている七つの「理解の種類」のどれ一つ使わないことです。「熱烈な学び」でもなく、「じっくり考える」ことでもなく、「もがく」ことで新たな発見をするわけでもありません。なぜか。作家の藤谷治さんの『小説は君のためにある』(ちくまプリマー新書、2018年)に、それに答えてくれる一節がありました。



 「読む」とは入力と同じではない。入力というのは情報を収集し、蓄積することだが、「読む」は情報の収集蓄積とは、似て非なるものである。

 確かに人間は、文章を読めば、その文章にある情報を理解はできる。だがそれを保存したり、まるごと出力したりはできない。

 じゃ「読む」とはなんなのか。人は文章を読んでいる時、何をしているのか。

 経験である。僕たちは文章を読んでいる時、その文章に書かれていることを、経験しているのである。(『小説は君のためにある』41ページ)



 「読む」ことがコンピュータの「入力」「出力」と大きく違うのは、それが人の「経験」だからだ、と藤谷さんは明快に言い切っています。だからこそ「読む」ことは「もとの文章を一字一句再現する」こととは違うのです。

 タイトルを一目見てわかるように、藤谷さんのこの本は「小説」とは何か、「文学」とは何かということについての入門書です。しかも「君のためにある」というフレーズには、文章との親密に交流する「経験」、その文章と読者である「君」とがかかわりあう「経験」こそが「小説」であり「文学」であるということをあらわしています。藤谷さんの言う「経験」は、私たちが生活のなかで経験する多様な「理解の種類」でもあります。だから「読む」ことが次のような成果をもたらすと言うのです。



 イヤな奴、理解できない人間はもちろん、それほど嫌いな人間でなくても、人の身になって考えることは難しい。

 ましてや、いろいろな人間の、いろいろな考え方、感じ方と、君自身の考えや感じ方を、横一列に、同等に考えることは、とても難しい。どうしたって自分優先になる。

 小説を読んだくらいでは、自分優先をなくすことはできないだろう。なくしていいかどうかも、よくわからない。

 だが小説を読むという経験は、「自分は一人ではない」ということの本当の意味を、絶えず君に伝えているのだ。

 君のように感じ、苦しみ、喜び、怒り、うんざりするのは、君一人ではない、という意味も、小説にはある。

 そして同時に、「すべての人が君と同じように、『自分』なのだ」という意味での「自分は一人ではない」ということも、小説を読む経験は、君に伝えるのだ。

 それが受け止められた時に、君は知らないうちに、君という人間の幅を、大きく広げている。(『小説は君のためにある』138139ページ)



 「オンライン○○」の続く日常で、スクリーンを見つめ過ぎて疲労感を覚える日も多いのですが、「新しい生活様式」(頭を使ってかしこく生きるライフスタイル?)とは、「対面」ができなくてもどかしくても、「オンライン」であっても、そのような「経験」をするために、頭を使ってかしこく生きる工夫を少しずつしていくということなのかもしれません。そそて、それぞれのスクリーンのこちら側で、スクリーンに向かって「読むという経験」を重ねて行くことができるのなら(ディジタルらしい便利な機能も駆使しながら)、「オンライン○○」の続く日常も、「『自分は一人ではない』ということの本当の意味」を絶えず私たちに伝えるものになるかもしれないのです。


2020年5月8日金曜日

読むことに夢中になる7つの原則 ~ 読ませるのではなくて、生徒が主体的に読みたくなる条件を提供する


 あなたの授業や学校では、これらの原則ないし条件のどれだけが押さえられていますか?

1. 自分にとって関係があると思える課題や活動なら、読みたがる。
 自分の暮らしとの関連ということでは、http://wwletter.blogspot.com/2020/04/blog-post_24.htmlは究極のつながり、といえるかもしれません。あの事例では、読むことはほんの一部で、見ることや聞くことの方が中心かもしれませんが、基本的に使っているスキルは同じです(『「読む力」はこうしてつける』を参照)。これに対して、教科書(教材)を扱うことは、子どもにとってはほとんど何の必然性もありません。教師が必然性を感じられるようにアレンジしない限りは、教科書教材を扱う時間自体が、ほとんどの子どもにとっては無意味ないしお付き合いの時間になるだけです。それは、夢中で取り組むのとは極にある状態ですから、何としても避けなければなりません。

2. 多様な読み物が提供されて選べる時に、夢中になれる。
 すでに上で書きましたが、教師にとっては一つの教材ないし少ない選択肢の方が楽ですが、子どもにとっては、それこそが自分との接点が見出せない理由です。あなたには選択があります。自分が楽なほうを取るか、それとも、生徒たちが夢中で取り組むほうを取るか? 答えは明らかだと思うのですが・・・これを実現するための方法については、『教育のプロがすすめる選択する学び』をはじめ、https://sites.google.com/site/writingworkshopjp/teachers/osusumeのリストが参考になります。

3. 継続的に読める時間が提供されると、生徒は夢中で読むようになる。
 この前提で行われているのが、リーディング・ワークショップ(読書家の時間)の「ひたすら読む」です。少なくとも、20~30分の時間を確保しています。それも、頻繁に。その意味では、朝の読書の時間の10分程度というのは短すぎます。そもそも、あれは読むことが目的ではなく、気持ちを落ち着かせることが目的でした!

4. 読む選択と読んだことを表現する選択がある時、より夢中で読める。
 これは、選書の大事さと、読んだ結果をどういうふうに表現できるかの選択があることを意味します。画一なやり方は、教室の中には存在しない「平均」に合わせたやり方なので、結果的にごく少数の生徒にしか合わない方法です。http://projectbetterschool.blogspot.com/2020/04/blog-post_19.html
 一人ひとりの興味関心等を把握し、それを選書に結びつけるなどのサポートが欠かせません。http://projectbetterschool.blogspot.com/2020/04/blog-post.html

5. 生徒たちは自分が読んでいる内容をクラスメイト他の誰かと共有できると、より夢中で読める。
 読むことは、一人で行うものと捉えられがちですが、それはすでに読むことが好きな者にとっていえることで、まだそこに至っていない圧倒的多数の子たちにとっては、この共有し合うことが、読むことに取り組めたり、好きになれたりする大切な手段です。その意味で、レターエッセイ、読んだことを記す交換ジャーナル、ブックトーク、ブッククラブ、ビブリオバトルのような共有することを目的にした活動は、生徒たちの動機づけとして役立ちます。いい本を読んだら、誰もが紹介したいのです!(しかし、読書感想文は「やらされ感」が大き過ぎるので、やめましょう! フィードバックがないものは共有とはいえませんから。)

6. 自分にはちょっと難しいと思える本や文章に挑戦したり、読めたりすると、さらに読みたくなる。
 これは、教師サイドの「ZPD=誰かの助けで学べる領域=発達の最近接領域」を理解が必要です。https://wwletter.blogspot.com/search?q=ZPD
 本を読むことに限らず、学ぶということは、常にこれの繰り返しといえるのではないでしょうか? そして、教師にとってのチャレンジ/楽しみは、ZPDは一人ひとりの生徒毎に違うということです!

7. クラス(ないし学校)が読むことに与えている価値が、生徒の読みに大きく影響する。その中でも、教師がどのようなフィードバックをするかが決定的な要因になる。
 これは、http://wwletter.blogspot.com/2019/08/blog-post_9.htmlhttp://wwletter.blogspot.com/2019/08/blog-post_23.htmlと関係します。また、近刊予定の『好奇心に満ちた教室のつくり方(仮題)』の第7章で「アフォーダンス」という言葉をわかりやすく説明しながら、主にハード面の環境の学びへの絶大なる影響を論じていますが、ソフト面でも同じことがいえると思います。
生徒は、トータルな環境に影響されながら学んでいます。そして、もっとも大きな要因は教師からのフィードバックでしょう。リーディング・ワークショップ(読書家の時間)のカンファランスは、それを見事に満たしている方法といえます。

この記事の著者は、教室の図書コーナーは、教師のクローゼット・ワードローブと似ていると言います。自分が着たい衣服で常に満たしておかないと困るように、教室の図書コーナーも古くなった本では、なかなか読みたがらないということです。

出典: “Seven Rules of Engagement: What’s Most Important to Know About Motivation to Read,”

2020年5月1日金曜日

「共に在る感覚」を持ち続ける




 『理解するってどういうこと?』には「理解の種類」にかんするエピソードのなかに、エリンさんの家族のことがたくさん出てきます。第3章の「熱烈な学び」のところでは、娘のエリザベスさんと美術館に行ってゴッホの絵を観たエピソードや、エリンさんが若い頃に亡くなった母親の病について父親と一生懸命に学んだことが、また、第6章の「ルネサンスの思考」のところではエリンさんの父親と夫のことが、そして、第8章の「夢中で対話すること」のところでは、エリンさんの二人の父親のことが、いきいきと描かれ、それぞれの「理解の種類」がどのようなものかということを読者である私たちに伝えてくれます。

 「娘の誕生に端を発して、自らの学習をトレースしながら、思考を書き連ね」たという、ドミニク・チェンさんの『未来をつくる言葉―わかりあえなさをつなぐために―』(新潮社、2020年)も、家族とともにいきるなかで見出したたくさんの「理解の種類」を示した本です。副題の「わかりあえなさをつなぐ」とはどういうことか。

 この本の第8章「対話・共話・メタローグ」で、チェンさん自身が強く影響を受けたと言っている、グレゴリー・ベイトソンの「メタローグ(metalogue)」という概念が出てきます。ベイトソンは娘のメアリー★との関係を通して思考をつくり上げたというのですが、その「個体ではなく関係性から出発する思考」を記述する方法が「メタローグ」でした。チェンさんの言葉を借りれば「書く内容と結論をあらかじめ決めずに、ABという話者同士の対話を進める書き方」のことで「相互依存によって作動する、複雑な関係のネットワークを表現する」ための記法です。「メタローグ」に非常に近いのが謡曲の「共話」だとチャンさんは言っています。そして、それは「独話」とも「対話」とも違うコミュニケーションのやり方だとも。またそれが「深い関係を結ぶ相手の視点を自分のなかに住まわせて、そこから世界を見ようとする営み」だとも言っています。

 うーん、むずかしい、と言われそうですが、これってとても大事な「理解の種類」ではないでしょうか。ここからチャンさんは、自分と娘さんとのエピソードを取り上げ、それを分析しながら「学び」についてとても重要な指摘をしています。「学習行為とは個の中だけで行われるのではなく、他者との関係性のなかで発達する」ということと「ひとつの能力が線形に上昇するプロセスではなく、複数の能力が増減や身体を繰り返す「変化」が学びだ」ということです。そのきっかけになるのが「メタローグ」であり、「共話」だと言うのです。

    そしていくつかのエピソードが記され考察された後に、次のような愛すべき一節があらわれます。



ベイトソンのメタローグとは、記憶のなかで話し相手を自己の内側に生起させる方法であった。であれば、思い出すという行為はそれ自体が微少なメタローグの契機を生むものだとも言える。父のなかで、または娘のなかで、相手を生かし続けること。この構造は家族同士ではない関係であってもひとしく、記憶のなかで相手との共存関係を持続させるだろう。

 思い出すという行為は、現在のなかに過去の経験を挿し込み、現在にフィードバックさせるものだ。その意味では、過去は終わらないし、未来の在り方にも関わってくる。いつからか、わたしは死者の記憶を想起することで死者が生者のなかで生き続けるという感覚を持つようになった。だから自分がいつか死んだとしても、生者のなかで生かされ続けられるかもしれないとも思えてくる。(『未来をつくる言葉』194ページ)



 「記憶のなかで相手との共存関係を持続させる」ということは、きわめて重要な「理解の種類」なのかもしれません。相手のことが完全にわかったとは言えなくても、そういう「共存関係を持続させる」ことならできるかもしれない。「死者の記憶を想起することで死者が生者のなかで生き続けるという感覚」をもつことなら。そして「わかる」「わからない」ではなくて、これもチャンさんの言葉を借りると「共に在る感覚」をもつということが「わかりあえなさをつなぐ」ということになるのではないでしょうか。「共に在る感覚」をもつことができれば、おそらく、そうでないときよりも世界は違って見えてくるはずです。「未来をつくる」方へと。



★やがて人類学者となるメアリー・キャサリン・ベイトソンのことですが、彼女も『娘の眼から―マーガレット・ミードとグレゴリー・ベイトソンの私的メモワール―』(佐藤良明・保坂嘉恵美訳、国文社、1993年)という著作のなかで、父グレゴリーの思い出に触れながら次のように書いています。「自分がすべてを見ているのではないこと、他人は違ったふうに見るだろうということを意識しながら、多数の視線によって浮かびあがる全体図の部分に、自分の記述がしっかり収まるよう、自分に見えるものを書き留めていかなくてはならない。」(288ページ) もちろんこれは人類学の調査の姿勢のことを言っているのでしょうが、私たちが「共に在る感覚」を持ち続けるためにも大切な方法になり得ると私は思います。