あなたは、表題に賛同しますか? それとも反対しますか?
私たちは考えることを通して学びます。その手段として、読んだり、聞いたり、書いたり、見たり、したり(体験したり)します。(他に、考えたり、学んだりするのに効果的な手段はありますか?)
しかし、学校での授業での中心は、教師ががんばって教科書をカバーすることです。(生徒ががんばって教科書をカバーする、というのは聞いたことがありません! 生徒ががんばりたくなるようなシロモノではないからでしょうか?)結果的に、教師が話すのを聞くか、教師が教科書に書いてあることを違う形で板書したものを見ることが中心になります。(板書したものは、自分のノートに書き写すことがほぼ義務づけられていますが、それに能動的/主体的な部分はほぼゼロですから、価値としてはどんなものがあるのでしょうか? テスト前に暗記して、テストが終わると同時に忘れるぐらいの価値でしょうか?)
別に、聞いたり、見たり、したり等をおとしめるつもりはまったくありませんが、私たちが学んだり、考える際に読むことと書くことの価値を否定する人はいないと思います。それは、多くの大人が日常生活の中でしていることでもあるからです。(ある意味では、あまりにも当たり前にしているので、気づかないぐらいです!)
しかし、そのもっとも効果的といえる手段が、学校の中で使われることはあまりないのです。学ぶことに特化した場所である学校や大学が、そんなふうでいいのでしょうか?
教師ががんばって話したり、書いたりする代わりに、生徒ががんばって話したり、書いたりするだけで、生徒たちの学びの量と質は飛躍的に伸びると思いませんか? 生徒が聞き手にとって面白い話ができるようになるためには、必然的に面白い話を聞いたり、たくさんの本や資料を読んだりすることになります。
この単純な転換を図ることはできないでしょうか?
このシンプルな転換をみごとに実現した方法の一つが、ライティング・ワークショップとリーディング・ワークショップ(以下、WWとRWと略す)です。(WWとRWを実践する教師は、だからといって、楽をしているわけではありません。自分ががんばって話したり、板書したりする代わりに、カンファランス、ミニ・レッスン、共有の時間等、他のより効果的な方法で生徒たちを支援していますから!)
そして、WWとRWのクラスには、唯一絶対の教科書は存在しません。多様な教材やメンター・テキストのうちの一つとして教科書は存在します。生徒たちは、自分に合った本(書く際には、もっとも参考にしたいメンター・テキスト)を選べる能力を磨く形でWWとRWの時間を過ごします。この選書能力は、生涯にわたって読み続ける/書き続けることを考える際に、もっとも役立つ力と言えるかもしれません。
また、読むときに優れた読み手が当たり前のように使っている「理解のための方法」も大事にされています。それには、読みながら①関連づける(自分と、他の本と、世界で起こっていることと)、②質問する、③イメージを描く、④推測する、⑤何が大切かを見極める、⑥解釈する、⑦自分の読みや理解を修正するなどが含まれています。(これらについて詳しくは、『「読む力」はこうしてつける』と『理解するってどういうこと?』を参照してください。)
この「理解のための方法」のすばらしさは、読むときだけでなく、聞くときや見るときはもちろん、話すときも、さらには書くときも使えるものです。使った方が、理解や学びの質と量が大きく伸びます。より多くを考えますから。
これら読み書き能力を国語で練習し続けることは当然なのですが、算数・数学、理科、社会、そして他の教科でも使うことを考えたことはありますか?
使わないと、かなり貧弱な学びが続いてしまうことを意味しています。
そして、表題に書いたように、教科書以外の読み物★を大量に読んだり、教科書とは関係のないことを大量に書いたりするようにしないと、学びの楽しさも味わえないと思います。
★残念ながら、教科書を「読み物」と捉えられる人は、百人に一人もいないでしょう。どうがんばっても、誰にとってもあれが進んで読みたいものになることは考えづらいです。
欧米では、20年近く前から教科書も含めた「テキスト・セット」という考え方が普及し始めています。一つの教材が生徒全員に等しく受け入れられるはずがないからです。多様なニーズと興味関心および読みのレベル等の生徒たちに受け入れられるには、複数のテキストを用意して選んでもらうのが、よりよい学びをつくり出すために欠かせないと判断したからです。これについては、『教育のプロがすすめる選択する学び』と今冬に出版予定の『教科書をハックする』が参考になります。
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