2021年11月26日金曜日

新刊『学校のリーダーシップをハックする』

 訳者の一人の公立中学校の国語教師の飯村さんが、本の紹介文を書いてくれました(飯村さんは、『私にも言いたいことがあります!』も訳しています)。

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教育業界でときどき耳にする言葉の中に「不易流行」があります。最新のトレンドを追い求める(=流行)だけでなく、これまで先人の培ってきた伝統や教育文化(=不易)を見つめ直し、その良さを次につなげなくてはならない、といったニュアンスで、戒めとして使われることが多いです。

しかし、なぜか、逆の論法で使われることは少ないと思います。つまり、「これまでの伝統や教育文化だけでなく、最新の情報や時代に合わせて変えていかなければならない」という意味です。なぜか、日本における学校という場所は保守的な色合いが強く、変化を避ける傾向があるのです。

現在、働き方改革が叫ばれ、コロナ禍のなかで様々な変化が要求されています。その答えは、ただ現在の状況のように一人一台端末を準備すれば叶うというような単純なものではありません(http://wwletter.blogspot.com/2021/09/blog-post.html)。また、教育に対する政治的なメッセージや世論を忖度し、その意の通りに実践することでもありません。学校のリーダーが自分の学校の実態、生徒・保護者のニーズを把握し、教師の成長を促し、主体的な変化を求める必要があると思います。

本書はその具体的な考え方と手立てが書かれています。こちらの「RW/WW便り」を読まれている方ならきっと共感できると思います。RW/WWは、従来の国語のあり方から転じ、子ども一人ひとりのニーズと、その進み具合に合わせていく方法です。こうした考えを学校経営全体に広げて考えたのが本書であると言えるでしょう。

また、RW/WWを学校の事情でなかなか実践できない方もいると思います。教科書を使い、テストを使う、という学校の枠組みの制限を受けているから、チャレンジできない部分もあるでしょう。学校が変われば、可能性も大きくなるかもしれません。学校リーダーが柔軟になり、教師のチャレンジを推進できるような学校づくりをすることも書かれているのです。もし、自分がそのポジションにある方、あるいはこれから学校リーダーを目指そうという方に読んでいただきたい本です。

「不易流行」は、本来、「不易」も「流行」もどちらも大切で、その良さがあるものです。本書を読むことで、改めて、あなたなりの学校に必要な「不易」と「流行」がきっと見えてくると思います。

本の内容構成(目次)は、以下のようになっています。

 

はじめに より良い方法

問題 学校はリーダーではなく、管理者によって運営されている。          

ハック 1 校長は、もっと教職員の中に分け入り、学び続けるモデルとしての姿を見せよう――学びのフロントラーナーである校長は、誰の目にも明らかである

問題 学校のリーダーは自分の影響力を過小評価している

ハック2 C.U.L.T.U.R.E(文化)をつくりだすー―リーダーが率先してはじめましょう

問題 リーダーは関係構築を意図的に行っていない。

ハック3  関係を構築する――意図的に関係をもとう

問題 知識がなければ、人は自分の中で「真実」をつくろうとしてしまう

ハック4 学校の壁を取り払う—―コミュニティーとパートナーになろう

問題 学校は、後手後手になりがちである

ハック5 生徒の声を利用して拡散しよう—―声を見える化し、周囲の人の支持を高めよう

問題 私たちは、子どものためではなく、大人のために学校をつくっている

ハック6 生徒を学校の中心に据える—―子どものための学校をつくろう

問題 教師不足は現実の問題である

ハック7 スーパー教師を見いだす—―スペシャリストのチームを育てよう

問題 教員には専門性を高めるための時間が必要である

ハック8 大人も情熱を注げるプロジェクトをつくる—―教師を励まして学びと成長を推進しよう

問題:教員には協働して学ぶ機会がほとんどない

ハック9 協働して学ぶ――仲間とともに成長しよう

問題 教師はネガティブ思考に陥りがち

ハック10 マインドセットを変える—―ネガティブ思考をやめよう

おわりに 水のように

 

 以上から、これまでとは違う可能性が少しは見えてきそうでしょうか?

 

◆本ブログ読者への割引情報◆

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2021年11月20日土曜日

つながりあう世界で「ルネサンスの思考」を築く

  『理解するってどういうこと?』の第6章「理解のルネサンス」では「ルネサンスの思考」という「理解の種類」が取り上げれています。「ルネサンスの思考」とは、エリンさんによれば、「幅広いテーマや興味・関心やジャンルの本や文章を探究することに駆り立てられ」「複数の考えが相互に関連するのを理解したり、パターンを認識したり」「特定のテーマや作家に熱烈な興味を抱くようになり、それらを理解するためなら、たくさんの時間とエネルギーを惜しげもなく使おうと」して、「考えを掘り下げることで、今まで知らなかった側面を発見する」ような「学習者」になるということです。「ルネサンスの思考」を促す教室の条件は『理解するってどういうこと?』の206ページに示されています。どうすればこの「理解の種類」とその成果を分かち合うことができるのでしょうか。

 「デジタルな遊びもそれ以外の遊びも大事。遊びは子どもの仕事である」という立場から書かれたジョーダン・シャピロ(関美和・村瀬隆宗訳)『ニュー・チャイルドフッドーつながりあった世界で生きる知恵を育む教育ー』(NTT出版、2021年)という本の第8章「新しい読み書き」にそのヒントになる一節がありました。シャピロさんは「リテラシー教育」の歴史を概観しながら、「テクノロジー」(技術)と「エピステーメー」(認識)の関連づけを重視して、次のような二つの問いを立てます。

今日、書面でのコミュニケーションはあらゆる職業で行われています。もちろん、私たちは葦のペンで粘土板を彫ることはなく、古代ギリシャ人のように動物の皮をなめし、軽石でこすって羊皮紙をつくることもありません。中世の修道士が使っていたインクの調合法も僕は知りません。そうしたリテラシーの訓練をしても、もはや無駄です。一方で、今の子どもが学ぶべき新技術はたくさんあります。ですから、私たちは古代シュメール人に学び、学校を「コンピュータハウス」と考えるべきなのかもしれません。そうすることで、次のような重要な問いと真剣に向き合うことができるのです。子どもたちは新しいテクノロジー環境で充実した人生を送れるように、十分に準備できているか? 新しい時代の道具を利用しながら、これまで人類に大きく貢献してきた価値観、智恵、独創性をうまく生かせる世界を築き上げられるか? (シャピロ『ニュー・チャイルドフッド』187ページ)

 この引用の最後の二つの問い(とくに最後の問いはこれからの教育を考えるために極めて重要です)を考えるために、シャピロさんは自分の息子が小学校3、4年で学んだ「説得的ライティング」の学習を取り上げて考察します。「説得術の伝統的ルール」を教えるために、プレゼンテーションソフトを使った「プレゼンテーション資料の作成」が宿題として課されていたそうです。シャピロさんの見立てによると、この学習は「プロセスライティング」の考え方に立つものでした。「プロセスライティング」が、着想、校正・編集、そして成果物の作成と共有のそれぞれのステップで「新しいテクノロジー」が十分に機能することを述べた後で、シャピロさんは次のような重要な指摘をしています。

先生がその宿題で育てようとしたスキルは、ごっこ遊びを通して育まれるのと同じものでした。プロジェクトの狙いは、息子が自分の中に強い自己感を見出す手助けをし、自信をもって、自分の価値を順序立てて表明できるように導くことにありました。(中略―引用者)今の子どもは、伝統的な装置とデジタルな装置を組み合わせて意思疎通ができるようになることを求められています。なぜなら、自己表現のプロセスは、そのために使う道具から切り離せないからです。マーシャル・マクルーハンは「メディアはメッセージである」と言いました。現代のテクノロジーを意図的に学習体験に取り入れようとする教師の存在なしには、子どもはつながりあう世界に合った創造的な表現スキルを磨くことはできません。(シャピロ『ニュー・チャイルドフッド』192ページ)

 そして、「新しい時代の道具を利用しながら、これまで人類に大きく貢献してきた価値観、智恵、独創性をうまく生かせる世界を築き上げ」るための方法を、シーモア・パパートの「コンピュータは二の次で、知識が第一」という考えや、ミッチェル・レズニックの「子どもはものを構築するとき、頭の中で新しいアイデアを組み立てている。そしてそのアイデアを原動力として、新しいものをこの世界で構築する。この終わりのないスパイラルが延々と続いていく」という言葉などを手がかりに考察しています。そのうえで、コンピュータースキルを子どもが身につける学習は、「つながりあう世界で貢献する方法を、十分な情報をもとに選択できるようになるため」であるという重要な見解を導くのです。「新しい産業革命」に貢献することがけっしてその目的ではないということを指摘することも忘れずに。
 「つながりあう世界で貢献する方法を、十分な情報をもとに選択できる」ということは「ルネサンスの学習者」の重要な属性にほかなりません。加えて、シャピロさんは「新しいテクノロジー」の時代の「ルネサンスの学習者」のリテラシーにとって重要な問題をもう一つ指摘しています。

ひとつだけ確かなことは、僕の息子の世代が大人になったとき、日常的な読む行為のほとんどがスクリーンデバイス上で行われるということです。テクノロジー恐怖症の人たちがどう考えようと、スクリーンデバイスは書き言葉の敵ではありません。むしろその逆で、スマホのおかげで今日の社会はかつてなく文字への依存度が高まっています。読む人の数も読む量も、頻度も増えています。ただし、読まれているのは本ではありません。ウェブ上の文字との関わりは極めて軽薄で、重厚な文学は滅びかけていると考える人もいますが、そうした見方のもとにあるのは過去へのロマンにすぎません。そういう人が思い描いているのは、誰もがプラトンを読み重厚な散文を書いていたような古き良き時代です。
しかし、実際には、そんな時代は存在しませんでした。そもそも大半の人は読み書きができず、たとえできたとしても、多くが大衆的な読み物を楽しんでいました。(中略―引用者)しかし何を読んでも、誰も痛い目にはあっておらず、それから(引用者注―『源氏物語』や『ドン・キホーテ』が書かれた時代から)数百年たった今も、文字を読めるひとはかつてなく増え、「良い」読み物も「悪い」読み物も入手しやすくなっています。これがデジタルテクノロジーの功績です。(シャピロ『ニュー・チャイルドフッド』201~202ページ)

 この考え方は読者史・読者論史でこれまでも言われてきたこと★の延長線上にあり、「デジタルか紙か」という問いは核心的な問いでないことがよくわかります。読み書きのツールの転換をわたくしたちは歴史のなかで何度も経験し、その都度それらのツールの「上手な」使い方を開発し、共有してきました。「デジタルデバイスを使った上手な読み方」を教え、読み書きの文化を共有するコミュニティをつくっていくことができるかどうかということを真剣に考えていくことこそ、これからの教育・文化・社会の重要な課題です。そのようなコミュニティが形成されてこそ「ルネサンスの学習者」を育てることが可能になるからです。『理解するってどういうこと?』206ページに示された「表6・1 ルネサンス的思考を促進する教室」の諸条件を満たすために「新しいテクノロジー」が強力なツールとなりうることを、シャピロさんの『ニュー・チャイルドフッド』は教えてくれます。それが、子どもたちに提供された「タブレット」を前にわたくしたちが考えていかなければならない大切なことの一つなのかもしれません。

★たとえば、カヴァッロとシャルチエ『読むことの歴史』(東京大学出版会)や、永峯重敏『雑誌と読者の近代』(日本エディタースクール出版部)など。

2021年11月13日土曜日

批評と反応

 「生徒は、書かれていることを根拠にしてどんなふうに文学を読み解き批評するのかを学ばなくてはいけません。ですから、私は、生徒に文学を批評するための用語や視点を教えます」

「でも、私は同時に、生徒の個人的な反応、ある特定の書き手が特定の作品を書く個人的な文脈、そしてその作品が読者に与える個人的な影響も大切にしています」

 上記の引用は、どちらも『イン・ザ・ミドル』(アトウェル、三省堂、2018年)の233ページからです。

 文学を読み解き批評するための用語や視点という時間をかけて蓄積された知識と、ある特定の読者にしかできない反応。アトウェルの『イン・ザ・ミドル』を見ていると、「個々の読み手の外の世界で積み上げられた知識」と「個々の読み手が築く本との個別な関係」、この二つが並行して存在し、生徒たちはこの二つを、教師のサポートも得ながら、自分なりに、かなり自由に行ったり来たりしている印象があります。

 この両方が必要であることを、10月16日の投稿「読む行為の『当たり前』を疑う」で紹介されていた『嗅ぐ文学、動く言葉、感じる読書―自閉症者と小説を読む―』(岩坂彰訳、みすず書房、2021年)を読み始めたことがきっかけで、考えました。

 この本は、私にはほとんど読んだことのない分野の本でしたし、サカサカと早く読める本でもありません(まだ読んでいる途中です)。通勤で読み始め、ページを開くと、その中に引き込まれて行きます。

 「個々の読み手の外の世界で積み上げられた知識」と「個々の読み手が築く本との個別な関係」という観点から考えると、私は後者についてはたくさん語れそうです。

 例えば。。。

 著者と文学の関係について「弁護士の息子で経済学を専攻していた学生が本の虫になった」(Kindle の位置No.299-301)等の著者の個人的な情報が出てきたり、また、養子にした自閉症の息子DJとの詳細なやりとりが紹介されていたりで、著者の息遣い?というか著者という生身の人間がいることを随所に感じます。著者自身やその立ち位置にも興味が湧きます。

 「そして最後に、本書は文学への愛ーーいわば真の愛、狂おしい愛、奥深い愛ーーについての物語である。せめてこの愛の一片でも読者に受け取っていただけたらと願う」(Kindle の位置No.459-461)という文を見ると、本好きの私は嬉しくなります。

 また、作家であり英文学の教授でもある著者が、自閉症の人たちとの読書を通じて、「ときとして、熟知した文学作品の中身に改めて気づかされ愕然とすることがある」(Kindle の位置No.4475−4476)と読むと、少し前に読んだ『未来のきみを変える読書術』苫野一徳、筑摩書房(ちくまQブックス)2021年で、以下のように書いていることを思い出したりもします。

「でも、著者が「言いたいこと」以上のもの、もっと言えば【著者が気づいていなかったことさえも、わたしたちは読み取ることだってできる】のです」(94ページ)

(*この本は2色刷りで、上記の【 】の部分は原文では赤色で印刷されていました。)

 こんな感じで、この本への反応や読んで思い出したことはいくらでも書けそうです。

 しかし、自閉症、認知のプロセス、文学など、この本を批評するために必要な、これまで積み上げられてきた知見や語彙は、私の中にはほぼ皆無ですから、「個々の読み手の外の世界で積み上げられた知識」を使って、この本を論じることはできないのがわかります。この本の外側にいて、この本に反応しているようにも感じますし、「批評できること」と「反応できること」の違いが実感としてわかります。

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 『イン・ザ・ミドル』の第5章の扉には、「よい読者がいなければ、よい本も存在しない」というラルフ・ワルド・エマーソンの言葉が引用されています(203ページ)。

 個人的に反応するだけでは、その本を十分に良い本として、存在させることができないようにも思います(本は、それでも、そういう読者に文句を言うこともなく、許容してくれています。考えてみると、これもすごいことかもしれません)。

 そんなことから、「よい本を存在させるよい読者とは?」が少し気になりました。

 そこで、まずは、『イン・ザ・ミドル』から考えると、どんなことが出てくるのか、少し探してみました。

 例えば、読み手として生徒に求める目標として、アトウェルは以下のように記しています。

「それは、本に浸り、読むスタミナを培い、多様なジャンルや作家を読むこと。読んでいるものに対して書き手の視点から学ぶこと。自分の好みをつくりあげながら、はっきりとした言葉で、よいものはよいと言えること。鑑賞力のしっかりとした批評家となり、自分の考えを練り上げて表現する的確な語彙をもつこと。本に書かれていることを根拠とした判断ができること。詩や小説を読み、引き込まれ、そして自分の人生のなかに取り込むことで、より良い、より賢明な人間になっていくこと」(204ページ)

 また、関連して、読み書きのつながりについては、次のように述べています。

「書き手が使う技についての語彙に親しむこと。それによって、生徒は、優れた書き手や読み手としての視点をもてるようになってきます。教師が生徒に有益な語彙を譲り渡すこと。そして、生徒たちが自分の読む経験をベースに自分自身の文学を書いていく場を与えること。そうして初めて、生徒は文学作品に対して、この作品は作家の多くの選択が結集したものだという見方ができるようになるのです。これこそが、読むことと書くことの本質的なつながりです」(221ページ)

 『イン・ザ・ミドル』で登場する生徒は、中学生の年代です。中学生が学ぶこの教室では「蓄積された知識」と「個別の反応」がつながっているだけでなく、「読み」「書き」もつながっているように思います。このつながりを自分の読書生活の中で意識できると、私も、もう少しよい読者になれるのかもしれません。引き続き、よい本を存在させるよい読者とは?を、ほかの文献や視点からも考えていきたいです。


2021年11月5日金曜日

新刊『国語の未来は「本づくり」』

協力者の一人の都丸先生が、新刊の紹介文を書いてくれましたので、掲載します。

20年間の教員生活の中で、1年生を担任したのは一度だけです。

国語の授業では、ライティング・ワークショップやリーディング・ワークショップの学び方を実践しました。クラスの子は、「書きたいこと」を自ら見つけ、「書くこと」を楽しむようになりました。また、「読むこと」においては、時間が経つのも忘れるくらい夢中になって本を読むようになりました。学年が終わる頃には400冊以上の本を読んだ子もいたほどです。

私にとってはたった一度の1年生の担任でしたが、子どもたちの読み書きのへの意欲や成長に驚かされた1年間になりました。

まだ下訳の段階であった『国語の未来は「本づくり」』の原稿を読ませてもらったとき、自分の想像をはるかに上回る子どもたちの姿に圧倒されました。

この本で紹介されている子どもたち(5歳~8歳)の「読み書き」の成長には目を見張るものがあります。彼らは知っています。「書くこと」が自分の中だけで完結するものではないことを。書いたものが読者に届くことによって、自分をとりまく周囲の人々に影響を与えることを。

「本づくり」は子どもたちが「読み書き」を夢中になって学び合い、互いに高め合えるコミュニティーの形成につながっています。

私たち教師は日々、子どもたちに読み書きを教えています。

そして、悩んでいます。

どうしたら子どもたちが読み書きに夢中になれる学び方ができるのでしょう?

どうしたら読み書きを楽しむコミュニティーをつくることができるのでしょう?

同じような悩みをもつ先生方に、ぜひこの本を手に取って欲しいと思います。

この本は、小学校に入学したばかりの1年生に「文字が書けないから」と、書く機会をつくらないのはもったいないことに気づかせくれます。たとえ線一本でも、紙の上に何かを書けるのであれば、それは本の始まりです。

この本を書いた先生たちは教えてくれます。「書き手」の視点から本を読む機会があれば、たとえ未就学児であっても何かを書くためのヒントを得られることを。(絵を描くことも「本づくり」には含まれています)

この本は、「書くことが見つからない」と嘆く子どもたちに読み書きを教える際に役立つ多くの事例が紹介されています。それだけではありません。教師が一方的に教えるだけでなく、教室の子どもたちが考えた「書けない状態」を脱するためのアイディアの共有の仕方まで得ることができます。

もう一度1年生を担任する機会があるならば、私は「本づくり」を4月から行います。子どもたちは、過去のクラス以上に、読み書きが好きになることでしょう。

*****

 都丸先生の紹介では、この実践、あたかも小学1年生でしかできないように書かれていますが、本の中では小2でも小3でも、幼稚園でもできることが紹介されています。そして、若干の応用で、小4以上や、中学・高校でもできます(そうした方が、生徒たちは国語が好きになりますし、国語のスキルを確実に身につけます!)し、英語等の他教科で実践することも可能です。(教科書をカバーするという、決して効果的ではない教え方から逃れることができれば! それは、教師が教科書にお付き合いする見本を示し続けることにしかなりませんから、生徒たちは「勉強がお付き合いでするもの」という捉え方を上塗りするだけで、主体的に学びに取り組む選択肢を奪われたままになります。そんなこと、やりつづけていいのでしょうか? もちろん、教科書を無視する必要はありません。選択肢として生徒に提供すればいいのですから。選ぶ生徒は、ほとんどいないと思いますが・・・)

◆本ブログ読者への割引情報◆

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5冊以上の注文は     1冊=2300円(送料・税込み)です。


ご希望の方は、①書名と冊数、②名前、③住所(〒)、④電話番号を 

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※ なお、送料を抑えるために割安宅配便を使っているため、到着に若干の遅れが出ることがありますので、予めご理解ください。また、本が届いたら、代金が記載してある郵便振替用紙で振り込んでください。




2021年10月29日金曜日

文字のない絵本を楽しむ

(時々、投稿をお願いしている吉沢先生に、今回の投稿をお願いしました。)

文字がないのに、そこに言葉を感じさせるものがある。その絵本について語りたくなる。疑問が湧いてくる。そのような魅力のある絵本があります。今回は、そのような文字のない絵本のいくつかを紹介します。



安野光雅『旅の絵本』(福音館書店, 19771


 物語は、小さな舟に乗った一人の男が岸に着くところから始まります。次の場面で、男は土地の人から馬を借ります。その馬に乗って旅をしていくのです。

旅人の訪れる先々の集落、街並み、広場に、さまざまな人、家、動物、木々、乗り物、道具が描かれています。そこには英雄とか偉大な人とかは登場しません。日々の暮らしを営む人たちばかりです。

巻末の解説の中で、作者はこの絵本に込めた思いを次のように語っています。


旅人は、その人々の暮らしとは全く別の世界から来て通り過ぎ

ていくのです。何かしたいと思っても、旅人はあまり関わるこ

ともできないのですが、そこには、人の数だけ、物語があるはずです。わたしは、それを描きたいと思いました。「旅の絵本」はそうして生まれました。


初版が発行されて間もない時期に、国語教師の大村はまはこの本に出会い、早速中学1年生の授業でこの本を使ったそうです。その時の様子を、苅谷夏子が次のように書いています。


本が配られると、あっちでもこっちでも頭を本に埋めるようにして覗き込む。全てのページに数えきれないほどある、人の一瞬の姿や意外な表情、出来事や物音、生活の断片など、生徒たちは夢中になって見つけていって、気づいたことを一つひとつはまに言わずにはいられなかった。★2


人の数だけある、そのような物語の一つひとつに、私もまた思いを寄せたくなります。



ショーン・タン『アライバル』(河出書房新社, 20113


 最初のページを開くと、部屋の中のものを描いた9つの絵があります。紙で折った鳥。置き時計。フックに掛けられた帽子。鍋とスプーン。

小さな子供が描いた絵。ひびの入ったティー・ポット。飲みかけのコーヒー(?)の入ったカップ。ふたの開いたスーツケース。そして、男の人、女の人、女の子の3人の肖像。裕福な家ではなさそうです。

 その3人は家族なのです。家族の写った写真を大事にスーツケースにしまいます。ふたを閉じた手にもう一人の手が重なります。

 ようやく次のページで、部屋の全体の光景が描かれ、男が妻と娘を置いて、一人、旅に出ようとしていることがはっきり分かります。手と手を合わせる二人の姿から、二人の間に流れる愛情と別れの悲しみが伝わってきます。

 家族3人は家を出て、駅に向かいます。3人の歩く街は、巨大なしっぽのような影で覆われています。何の影か分かりませんが、不気味で不安な雰囲気が漂います。

男は職を求めて移民船に乗って、別の国へ向かうのです。着いたところは、言葉の通じない、見たこともない動物、乗り物、食べ物、システムのある世界です。何とか宿にたどり着き、職を求め、さまざまな人に出会って、その人たちの過去を知り、残る家族に仕送りをして----というふうに物語は続いていきます。


見たこともない動物や食べ物など、西洋でも東洋でもない、とても不思議な世界です。ファンタジーを感じさせる一方で、現実にある移民の人たちの思いに通じるものも感じられます。

 モノトーンで描かれた一つひとつの絵が続いて、まるでサイレント映画を見ているような感覚にとらわれます。どんな会話をしているのだろう? どんな気持ちなのだろう? というふうに、一つひとつの絵に立ち止まって考えているうちに、私はいつの間にかこの本の世界に引き込まれました。

ショーン・タンはオーストラリア生まれで、父はマレーシアから西オーストラリアに移住してきました。その父の経歴も作風に影響しているでしょう。6章からなる長大な絵本です。



ニコライ・ポポフ『なぜあらそうの?』(BL出版, 20004


白い花の咲く草地。1匹のカエルが1本の花を手にしているところから物語が始まります。

そこへ1匹のネズミが地面から飛び出してきて、花を持ったカエルに気づきます。突然、ネズミはそのカエルに飛びかかり、花を奪います。カエルは驚くばかり。

そこへ、2匹の大きなカエルが飛び込んできて、ネズミに襲いかかります。花を持って逃げるネズミ。カエルたちは、花を奪い返し、そこらじゅうの花を摘んで、大はしゃぎします。ところがネズミは黙って引き下がっていません。長靴の戦車に乗って近づいてきます。

ネズミはカエルたちを撃ちます。すると、カエルたちは、ネズミの乗った長靴戦車が橋を渡るところを狙って、橋を壊します。大勢のカエルたちが加わり、靴の戦車2台で反撃に出ます。

こんなふうにそて争いはエスカレートしていきます。仲直りとか和解とかは望めない展開になってきます。ひたすら、「最後はどうなるの?」という気持ちでページをめくることになります。


 それにしても、なぜでしょう。なぜ、ネズミは最初、カエルに飛びかかったのでしょう。「見せて。きれいだね。」と言っても良かったのに。

周囲には、花がいっぱいあるのです。自分も1本、花を手にして一緒にお話ししてもよかったのです。でも、カエルの持っている花を奪うのはなぜなのか。

 また、なぜ、当事者でない2匹のカエルが飛び込んできて、仕返しをするのでしょう。その挙句、花のことは吹っ飛んでしまい、相手をやっつけることが目的になっています。なぜそうなるのか?

 こんなふうに問いかけていくと、「これって、人間のことじゃない?」というふうに思えてきます。そう、人間のことです。そんな思いを痛切に感じる一冊です。



姉崎一馬『はるにれ』(福音館書店, 1979


「はるにれ」とは、ニレ科の落葉高木の名前です。山地に生え、高さ約30メートルにもなるそうです。その木を写真に写した一冊です。

最初のページを開くと、広々とした草地に生える1本の木が目に入ります。枯れた草色が目立ち、秋に向かう気配が感じられます。

ページをめくると、空は灰色に曇っています。時刻は夕方でしょうか。

次のページ。横なぐりの雨(雪のようにも見えます)の中の木の枝がズームアップされています。

次のページ。再び木の全景に戻り、きは雪原に立っています。冬です。

次のページ。夜に向かっています。景色全体が深い青みを帯びています。

次のページ。光が差してきました。朝日でしょうか。地平線に近い空が淡いオレンジ色を帯びています。地面は雪です。

次のページ。日が昇ってきました。木の真ん中、枝越しに太陽が見えます。空が明るくなってきました。

 

 見開き2ページの中央またはほぼ中央に木を配した構図です。木が主人公ですが、地面や草、空や雲、太陽や月、遠景の山々にも目が向きます。時刻や季節、天候によって変化する風景の美しい瞬間がとらえられています。

 木は何も言いません。ただそこに在るだけです。それだけで感動させるものがあります。この木を実際に見に行ってみたい。そんな気にさせる本です。



Paul Fleischman & Kevin Hawkes, Sidewalk Circus, Candlewick Press, 2004


 ポスター貼りのおじいさんが、何やら叫んでいますが、その後ろの壁に映る大きな影は、メガホンを持ち山高帽をかぶった呼び込みの人のよう。そんな表紙から、もうすでに物語は始まっています。

商店の並ぶ街中の電光掲示板に、「ガリバルディ・サーカスがもうすぐ始まるよ」という掲示が出ます。歩道にはベンチが一つ。座っている人、立っている人が数人。サーカスって、どこで?と思いながら、ページをめくると、工事中の梁の上を両手にバケツを持って歩く男の人が目に入ります。「おっとっと」とバランスを崩しそうになるその男の姿は、まるで綱渡り。コックさんが両手に持つフライパンでパンケーキをひっくり返している様は、まるでジャグリング。

さまざまな光景が、通りのあちこちで繰り広げられます。ハラハラしたり、微笑ましく思ったりしながら、次は何?と思ってページをめくりたくなります。

*****


 文字がないことによって、読み手の心に生まれでる言葉があるのだ、という思いを強くします。そして、誰かに語りたくなる、聞いてほしくなります。文字のない絵本を通して、たくさんの人たちと語り合いたい。私はそんな気持ちになります。


*****


1 『旅の絵本』シリーズは8巻まで刊行されています。ここで取り上げているのは、第1巻目です。

2 苅谷夏子『評伝 大村はま』(小学館, 2020495ページ

3 原作は、Shaun Tan, The Arrival, Arthur A. Levine Books, 2007.

4 原作は、Nikolai Popov, Why?, North-South Books, 1996.

2021年10月22日金曜日

新刊『学習会話を育む ~誰かに伝えるために』

 かえつ有明中・高等学校の大木理恵子先生(国語科)が、書評を書いてくれたので紹介します。

「会話は創造的な作業空間である」

  “対話的で深い学び”という言葉がアクティヴラーニングの代名詞のように使われるようになり、日本でも多くの教室の風景が変わってきたように思います。知識伝達を軸とする講義式授業からの脱却を図り、生徒たちが学びのオゥナーシップを持って、学習感を拡充しながら生き生きと取り組む授業をどうデザインしていったらよいのか?

そんな意識を持っていらっしゃる先生方が増える一方で、その具体的な進め方についてはあまり語られておらず、手探り状態で苦戦されている方も多いのではないでしょうか。実は私もその一人です。国語科の教員として、「会話」という体験を通して豊かな言語力と複雑な思考を楽しむことのできる力を手にいれてほしい、自分の学びに自信と誇りを持てるような、真実と成長のある教室を創りたい!という思いを抱きつつ道なき道を進んだあげく、ついに迷子状態に…。そんな私にとってタイムリーに現れた『学習会話を育む』というタイトルの本は垂涎(すいぜん)ものでした。

本書はさまざまなアプローチ(マインドセット、場づくり、具体的な実践方法、実践実例、学習会話を促進させるカードなどのツールやアクティビティの紹介、評価の方法等)から、「学習会話」の実践に挑戦する私たちへのパワフルな提案(サジェスチョン)がちりばめられています。道に迷っていた私にとって、まさに必要なポイントごとに具体的で明確な目印がうたれた地図そのもので、読めば読むほど「すごいアイテムを手にしてしまった!」と感動しきりでした。

 「学習会話」は日本では耳慣れない言葉ですが、 “生徒が学習内容の理解を深め、思考力や言語能力を高める上でとても有効な手段”と紹介されています。また、会話を価値づけることで、「いかに学び、生きるかについての生徒たちの見方が育ち、他者と話すことによって学ぶこと、考えをつくること、意思決定をすることの価値を理解した時、生徒たちの学習感は拡充される」とも言っており、「学習会話」のスキルを身に着けることが生徒たちのエージェンシー(主体者意識)を高めるために必須な力であることは間違いないようです。

 とは言っても、「このテーマについて話し合って」というファシリテーションだけでは、生徒たちは自分たちの「会話」を「学習会話」へと深めていくことはできません。

ただの「おしゃべり」を「学習理解を深め、学習感を深める会話」へと質を高めていくために、どのような手立てが必要なのでしょうか。

 この問いに本書は余すところなく、直球で答えてくれます。

「…それだけに、考えをつくりだす意義を生徒に理解させることは、根本的なことであり刺激的な挑戦ともなります。私たちは、生徒が考えをつくりだす習慣と、それを可能にするスキルの育成をもっと重視しなければなりません。そのために本章では、考えをつくりだすのに必要とされる会話スキルを身につけるための実践的な方法を紹介していきます(51~52ページより抜粋 )」

とあり、実際の生徒の学習会話の記録をもとに、“明日から使える”具体的な手法がたくさん紹介されています。カードや天秤などのアイテム、三連続ペアトークやテキスト・ウォーキングなど、思わず使ってみたくなるアイディアに刺激され、授業の組み立てのイメージが次々と湧いてきます。

特に第4章は「国語科での学習会話」の実践について詳しく述べられており、文学の解釈の授業を通して人間であることの意味をより深く理解してほしいと考えている国語科の先生方にはぜひ読んでほしいチャプターです。

少しだけ紹介すると、

4.1のモデルを見ると、本や文章についての会話には豊富な内容があることがわかります。他の人は自分とは異なる理解をもっており、新しい発見、質問、回答、説明議論を提供してくれます。二人の生徒が一つの文章について話せば、その文章の可能性は大きく広がるのです。……生徒に、理解に重点を置いた長く豊かな会話を展開できる力を身に着けさせるには、粘り強く指導していくことが大切になります。(149~150ページより抜粋) 


   おまけですが、本書全体を通して「会話は創造的な作業空間である」というメッセージが織り込まれており、これは生徒たちの前に、まず大人である我々が理解しなければならないスタンスだと感じました。たとえば「会議」などのシーン。それぞれの立場からの意見をただぶつけあうだけのコンフリクトな状況がしばしば生じますが、「会議という会話の場」は「新しいものを創り上げる、“考え”を練り上げる場」であると捉えれば、その時間がまったく異なる表情を見せるのではないでしょうか。 本書でも「生徒が会話をすることに開放的な場所、生徒の声を大切にする場所、生徒が考えをつくり上げることを許可する場所では、有意義で永続的な学びが起こります。」(239ページ)「学ぶことにより興奮し、クラスメイトとよりよい関係を築き、より確かで永続的な方法を使って学習内容を学び、他の人とつながりながら生きることの価値を認識した人間へと成長していく生徒の姿を見ていると、この努力や挑戦には価値があることがわかります。」(284ページ)と書かれています。これを我々大人にもそっくりあてはめて考えることができれば、私たちの職場も未知の可能性が広がるすてきな空間になり得る、そんな心境にまで導いてくれた、大切な一冊です。

 興味を持たれた方はぜひ、本書を手に取っていただき、会話から生み出される創造的な学びの空間の魅力に触れてみてください。

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2021年10月16日土曜日

読む行為の「当たり前」を疑う

 子どもたちが私の想定する範囲をはるかに超えた理解のレベルのしっかり考えて発見したことや見解を見せてくれた何度もの機会を、記録に取っていたらと思います。そういう経験を何度も経たことで、とうとう私は、その子たちの理解を高めたのは、単に理解のための方法を使ったおかげだとばかりは言えないのではないかと思い至りました。それは、こうした理解のための方法を用いることで子どもたちに可能になったことを明らかにし、説明することだったのです。(『理解するってどういうこと?』248ページ)

 ハーマン・メルヴィルの『白鯨』、レスリー・マーモン・シルコウの『儀式』、フィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢をみるか?』、マッカラーズの『心は孤独な狩人』・・・いずれも多くの読者を得ている小説です。そこに登場する個性的な登場人物たちに魅了される経験をした人も少なくないでしょう。それらを誰かと一緒に読んだとしたら「魅了される」だけでは済まされないことが起こるのではないか。しかもそれが自分とは違う感覚を持つ読者だったとしたら。詩人で作家のラルフ・ジェームズ・サヴァリースのやったことです。その『嗅ぐ文学、動く言葉、感じる読書―自閉症者と小説を読む―』(岩坂彰訳、みすず書房、2021年)冒頭の「本書に寄せて」のなかで、盲目の作家スティーヴン・クーシストは次のように言っています。
 本書は読書についての本だが、私がこれまで出会ったどんな本とも違う。自閉症者は心の理論を持たない、言語障害を患っている、想像による遊びができない、といった有害な先入観やステレオタイプを脇に置き、テキサス州オースティンに住む言葉を話さない男性が『白鯨』の中を泳ぎつつ自分の感覚の物語を語るのに耳を傾けるといい、あるいはオレゴン州ポートランドに住むサイバーパンクのさっかにしてコンピューター・プログラマーでもある女性が『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を読み、六人のアンドロイドを「廃棄」する賞金稼ぎ、リック・デッカードの共感面での弱点を追究するようすを見てみよう。自閉症者はここに出てくるアンドロイドと同じように共感力を欠くと言われているのだが。
 神経学的に多様な心は、読書に何をもたらすのだろうか。得られることは多い。よく言われる「絵で考える」才能は、文学が映し出す「感情の映画」のいては有利でさえあるかもしれない。(『嗅ぐ文学、動く言葉、感じる読書』v~viページ)
 サヴァリースのやったことを、強いて短く言えば、読んだり、批評したりすることについての自分の見方や感覚の狭さに、自閉症者との読書会を通じて思い至ったということになります。その手法は、1970年代から1980年代にかけて、自分とは異なる読者反応を手がかりにして,自身の文芸批評のありようを押し広げ、自明とされた解釈を問い直した、デヴィッド・ブライヒの『主観批評』や『ダブル・パースペクティブ』(いずれも未邦訳)といった著作と共通しています。サヴァリースの試みは自閉症者の読む行為に対する姿勢や見解を観察するばかりでなく、そのことによって自らの読む行為を揺さぶられ、内省を繰り返していくところに特徴があります。「ニューロティピカル」(神経学的な定型発達者)としての自身の読む行為が、実はかえってテクストへの特殊な関わり方の一つなのだということを、サヴァリースの言葉に導かれながら、本書の読者としての私自身が強く思わざるをえませんでした。文学研究者であるサヴァリースは、終始分析的な精読にこだわっていますが、彼が読書パートナーとして選んだ人々は例外なく彼の分析的精読の「死角」を浮き彫りにしていきます。
たとえば『白鯨』を一緒に読んだティトの読み方について。
実際ティトは小説が終わりに近づいたころ「あと何週間か、二章ずつ進んだり戻ったり泳ぎ進めよう。ゆっくりと料理するほうが鯨の風味を引き出せるから」と書いてよこした。文学の教授が「精読」と呼ぶ読み方は「自閉症的読み方」と言い換えていいだろうと思う。ティトが示したような注意深く濃密な読み方こそが文学にふさわしいのである。(『嗅ぐ文学、動く言葉、感じる読書』85ページ)
次にシルコウの『儀式』を読んだジェイミーの読み方について。
ニューロティピカルの読者は小説のいくつものイメージをつなぎ合わせる際に、素朴なパラパラ漫画のようなことをしているのに対して、ジェイミーは映画賞を受賞するハリウッドのプロデューサーのようなつなぎ合わせをしているのだ。言葉を肉付けするだけでなく、動きをさらに加えることで「言語パターンの解釈のプロセスを強化する」のだと彼は言う。(『嗅ぐ文学、動く言葉、感じる読書』111ページ)
「ニューロティピカルの読者」よりも、ティトやジェイミーのような読者の方が、「注意深く濃密な読み方」をし、「つなぎ合わせ」に長けているというのです。同じ小説を読み合うなかで、読む行為についてのこのような発見の連続が起こったことをサヴァリーズは克明に記述していきます。この本は「理解する」ことの新たな次元を教えてくれます。
本書の最終章「当たり前を疑うために」のなかで、読む行為の認知科学的研究を進め、「感情の統合力」を考察するデヴィッド・マイアルの論文を引きながら、サヴァリースは次のように言っています。
マイアルによれば、文学は「誘発、越境、修正」を引き起こすきかっけになるという。誘発とは、感情に満ちた個人的経験を単純に思い起こすこと、越境は、そうした記憶とテキスト内の出来事とが一時的につながること、修正は、最初の感情を考えなおすことである。マイアルにとり、文学は「感情を呼び覚まし、その意味合いを修正するための効果的な手段」となるものである。(『嗅ぐ文学、動く言葉、感じる読書』278~280ページ)
こうした「誘発」「越境」「修正」は、読者とテクストとの個人的なやりとりで生じるのでしょうか、それとも、読者相互のやりとりの過程で引き起こされるものなのでしょうか。『嗅ぐ文学、動く言葉、感じる読書』の著者は、自閉症者とともに小説を読むなかで「誘発」「越境」「修正」を繰り返しています。
冒頭に引用した箇所でエリンさんが「記録にとっていたら」と思ったこととは、読む子どもの変容というだけでなく、エリンさんの「想定する範囲をはるかに超えた理解のレベルのしっかり考えて発見したことや見解」を目の当たりにして揺さぶられた自身の「誘発」「越境」「修正」の過程そのものだったと言えるのではないでしょうか。それは、サヴァリーズが実践したようにして読む行為の「当たり前」を疑ってみることでもあります。