2024年7月27日土曜日

ブッククラブのすすめ 〜学び続ける小さなコミュニティ〜

 夏休みになりました。休暇をとって羽を伸ばすことも大切ですが、それと同じくらい大切なのが、忙しくて日頃できない「学ぶことを楽しむ」の計画を立てることです。そこで、今回はブッククラブの紹介をしたいと思います。実は前回のPLC便りでブッククラブの紹介がありました。こちらに刺激を受けて、小学校教員である自分としての視点も踏まえながら、オマージュ作品として投稿できたらと思います。

(横浜の『巨大恐竜展』のティラノサウルス。怖い・・・)



前回のPLC便り

https://projectbetterschool.blogspot.com/2024/07/blog-post_21.html


本を中心に置くことの価値


 日常の教室では、どうしても教師から子どもたちへの発信が多くなってしまいます。学校の宿命ともいえるでしょう。中央集権的な発信に最適化された学校、そして教室で、私たちは生活しているからです。私自身も、忙しれけば忙しいほど、効率的で無駄のないトップダウンに流れてしまい、こんなつもりじゃなかったのになあと、省みることも多い7月でした。

 ブッククラブは、そんな凝り固まった心身をほぐしてくれるでしょう。


 わたしは、昔からの仲間と行う校外のブッククラブと、校内の仲間と行っているブッククラブの2つに参加・運営しています。

 校外といっても、教育関係者が多いので、テーマ本は自ずと学校と近い内容の本になってしまいますが、それでも、前回の『レ・ミゼラブル』のように、直接は学校と関係がない本をテーマ本にあげることもあります。『レ・ミゼラブル』を土台に自分自身を振り返ったり、考えたこともない側面から学校を考察したりします。本当に予測不能で楽しいです。仲間は、教員はもちろん、管理職もいますし、学校には所属していない教育畑の方や、友達の友達なんてつながりでいらっしゃる方もいます。

 校内のブッククラブは、校内で希望者を呼びかけて、お菓子を食べながら楽しくわいわいやります。前回のPLC便りのように、目的を設定できれば良いのですが、「楽しく本を読む」とか「学ぶ喜びを知る」という感じで、気心の知れた仲間とたまに新メンバーとで、楽しく時間を過ごしています。校内ブッククラブのテーマ本の選定は、渋々私がやっていたのですが、次回は若いメンバーがテーマ本を選んでくれました。『モモ』(ミヒャエル・エンデ作)です。若いメンバーが自ら選書してくれたことに、じわじわ嬉しい気持ちが湧き上がっています。

(『れ・ミゼラブル』は挿絵もおもしろいですよね。)



民主的な学び方、ブッククラブ


 毎回ブッククラブで感じることは、ブッククラブは民主的であるということです。


 まず、本を話題の中心に据えることで、そこにあるヒエラルキー(先輩後輩、上司部下など)から、完全には自由になれなくても、ある程度解放されることになります。

 たとえば、先輩や上司から教えを乞うとなれば、やはり教える側が主体性を発揮し、教わる側は受動的に学ぶという一方的な関係になりやすいでしょう。このような構造では、強者がより多くの主体者性を奪い、その場を強者にとって優位な環境に変えてしまいます。

 そうではなくて、本(またはその場にいない筆者)を中心に置くことで、参加者と本との関係は、自由で多様性を受容できる構造になります。本の内容に感銘を受け褒め称える参加者もいれば、本を批判し反対意見を述べる参加者もいるかもしれません。本を書いた筆者はその場にいない(はず)なので、自由に意見が言いやすくなります。そして、この本の内容に賛同して習得してほしいという期待もないので、自分との本との関係もよりフラットに作りやすいものになります。テーマ本の選定が民主的なプロセスで決定されたものであれば、それはテーマであるので、テーマについてどのように考えたか、その人個人が尊重されることでしょう。

 私もそうですが、どうしても人から何かを教えてもらうと、そこには力関係や人間関係が生じます。その人との関係をよりよく保ちたいという意識が働いてしまいます。教えてもらったことに賛同できないときには、どうしても人間関係に気を遣った物言いになってしまいます。もちろん、参加者同士の関係を完全にフラットにすることはできません。そこで、学校の職員でブッククラブを行うときには、立場や役職などは全く関係ないことを示せるように、校外を会場にしたり、お菓子や飲み物を置いたりして、通常の関係とはちがう場であることを強調するようにしています。

(このように、ブッククラブでは本を紹介し合う場もつくっています)



学び続けるコミュニティの最小単位


 ブッククラブは、自立分散的で協働的なコミュニティの最小単位となり得るように思います。一人で読む時間は、筆者と内的な対話をし、自分と向き合うことで、自分の考えを明確にする機会になります。つまり、一人読みは、教師が個を確立する役割をもっています。そして、個人たる参加者が互いの意見を化学反応させることで、新しい価値が生まれます。個人の努力だけでは到達できない考えが生まれ、その喜びが原動力になりコミュニティが起動し、継続的に学び続けることができます。その小さなコミュニティが河辺に咲く草花のように互いに影響し合いながら活性化していきます。そこで、ブッククラブを学習する組織の最小単位として位置付けるべきであると考えています。


 一人読みのような個を確立する時間が、私たち教師には不足しているように思います。学ぶ目的を捉えることができない研修に、日常の時間を捥ぎ取られていると、自分が大切にしていることは何なのか、自分が何を目指しているのか、よく分からなくなってしまい、終いには、学ぶことの楽しさや喜びが感じられなくなってしまいます。この状態は、教師としては致命傷です。

 賛成するにせよ、反対するにせよ、本に対して自分の意見を持ち、本と自分との関係をしっかり作ることから、ブッククラブは始まります。(本と向き合った結果、関係が作れないということも、一つの関係の形であるとも言えるでしょう。)参加者たちの中で、本との関係の作り方が多様であればあるほど、ブッククラブの色彩は参加者の考えが混ざり合い、絵の具をちょうどよく混ぜたようなスペクトラムになるでしょう。そこで初めて、互いの意見を重ね合わせる価値が生まれます。何も考えを持たない個人が凝集したところで、そこに新しい価値は生まれません。

 そのような学び続ける小さなコミュニティが多く生まれ出れば、コミュニティ同士の関係が生まれたり、コミュニティメンバーの新陳代謝も発生します。何かトラブルがあって、コミュニティが消失してしまっても、新たなコミュニティに加わることで、新しい学びを続けることができますし、新たなコミュニティを創り上げる選択もできるでしょう。

 「研究会」と言われるような大きな組織では、ヒエラルキーが生まれたり、組織を維持することに相当なコストが生じたりと、学ぶという本来の目的のために身動きが取れないことがあります。ブッククラブのような、小さなコミュニティを最小単位(セグメント)として、学び続ける組織をイメージすると、学校運営や学級運営もより新しい展開になるのではないかと、学校の未来の姿を想像しています。






ブッククラブの新しい形


 小さなコミュニティを創り出すことそれ自体が、読むこと以上に効果の高い学び方になります。また、ICTを活用することで、ブッククラブのコミュニティ作りもとても簡単に行うことができるようになりました。それらについては、手前味噌になりますが、こちらのブログの記事を参照してください。


(こちらの記事は、以前に賞もいただいたことのある記事です。ぜひどうぞ)

https://tommyidearoom.com/%e3%83%96%e3%83%83%e3%82%af%e3%82%af%e3%83%a9%e3%83%96%e3%81%a8%e3%81%84%e3%81%86%e3%83%a9%e3%82%a4%e3%83%95%e3%83%af%e3%83%bc%e3%82%af/


(上の記事にも登場する頭足人? クラゲかも。。。)

2024年7月20日土曜日

こころに届く言葉で

  新しい考えを受け入れてそれまでもっていた考え方を修正したり、それまでできなかったことができるようになったりするということは、学ぶことの大切な成果です。そのために私たちは学んでいるわけです。しかし、学ぼうとしている人にそのことを伝えるのは、簡単なことではありません。エリンさんは次のように書いています。

 〈子どもたちが自分でできるようになってほしいと、意識的かつ丁寧に言葉で伝え続けることはとても大切です。もし彼らが現実に起こっていることと関連づけられるようにし、自らの思考を修正し、柔軟でしなやかな頭の働きを発達させようと思うなら、私たちははっきりとそれを言葉に表す必要があります。私たちは子どもたちに考えを変えなさいとは言えませんが、優れた思考ができる人たちが実際にどのように考えを変えたのかを示す必要があるのです。(中略)さまざまな本や考えに自分たちを変える力があることを、私たちは子どもたちにはっきりと伝えているでしょうか? 自分がこれまでもっていた考えを修正し、新しい考えを受け入れた大切なプロセスを、子どもたちのためにはっきりとモデルとして示せているでしょうか?〉(『理解するってどういうこと?』257ページ)

  「モデルとして示」すとは「見本」を示すということです。それをどうすればいいのか、『冷たい校舎の時は止まる』でデビューし、『ツナグ』『かがみの孤城』を書いた小説家の辻村深月さんの『あなたの言葉』(毎日新聞出版、2024年)は、それを実践した本です。『毎日小学生新聞』に2020年から2024年にかけて連載した文章をまとめたものですから、読者は小学生。子どものこころに届く言葉で、書かれています。

保育園の遠足の時に、そこで見かけたハムスターを画用紙一杯に自由に絵を描いていた男の子が、小学生になると「たとえばこんなふうに描きましょう」と先生がお手本を見せてくれるために、自由な絵が描けなくなるかもしれないという話を、その男の子のお母さんから聞いた辻村さんは「お手本」の持つ功罪を考えます。ある日、井上涼さんの「その天女、柄マニアにつき」のファンであった彼女は家族とともに奈良の薬師寺に行って、井上作品のモデルとなった「薬師寺吉祥天女像」を見ながら「お手本」問題について次のような発見をします。

 〈「お手本」は確かに大切です。物事の基本の形や、こうすればいい、という道しるべのようなものは重要だけど、それを示す時に、私たち大人は、「それが唯一の正解」に見えるようには絶対にしてはいけないのだ、と。

 基本や背景を知ったその上で、どれだけ大胆な「新しいこと」をできるか。優れた感性はきっと、「お手本」をある日突き抜けてしまうものだと思います。画用紙いっぱいの羽虫ターを描いたあの子とも、そんな話がしてみたいな、と思いました。〉(『あなたの言葉を』91ページ)

  また、ある時に小学生から「図工室にあるお手本」をまねて作った作品をお母さんやまわりの子から「すごい」と言われて戸惑い、「まねして作るのはズルいですよね? どうしたら自分の発想で作れるようになりますか?」という手紙をもらった辻村さんは、次のような言葉で答えています。

 〈この人みたいになりたい。こんなものを自分でも生み出したい、できるようになりたい――。

 そう思って憧れ、夢中でまねをするうちに、きっとそれだけにとどまらない自分だけの発想や、自分なりの色が出てくる。少なくとも私はそうで、好きなものの影響を受けている自覚はありつつも、いつの頃からか、そこに他からの影響も加わり、私だから懸けるものが何かが見えてきました。まねしたからこそ自分には絶対にできないこともまたわかって、自分の道を探すきっかけにもなったのです。今では憧れていた本たちとずいぶん違うものを書いている気がします。〉(『あなたの言葉を』109-110ページ)

  「まね」ではなくて「自分の発想」つまり独創性はどうしたらつくれるのか、という質問に対して、「夢中でまねをする」が「自分の道を探すきっかけ」になったという答え方をなさっています。「まね」が「自分の道」につながるプロセスが極めてシンプルに子どもに伝わる言葉で書かれていて、なるほどと思わざるを得ません。

 『あなたの言葉を』の後半には次のような文章もあります。

 〈言っても無駄、声を上げても何も変わらない――、これは、子どもだけではなく、実は、大人でも思うことです。小さな自分の言葉ではどこにも何も届かない。そんな気持ちになった時、心は考えることをやめてしまう。それは心が死んでしまうことと一緒だと思います。

 子ども時代、そんな私の気持ちを救ってくれたのが、本や映画、ドラマやアニメ、物語の世界でした。そこで描かれる主人公たちの「言葉」には説得力があります。あなたの言葉には意味や価値があるということがたくましく示されたストーリーを追うことで、私は自分自身の考えを言葉にしてまとめることができるようになっていきました。本を読む、物語の世界に浸る、というのは、そうやって、知らないうちに、心のなかに「自分の言葉」を育てる手伝いをしてくれるものなのかもしれません。

 今年、私が作詞した曲が課題曲★となった合唱コンクールがありました。私が作詞したのは二〇二〇年の高校の部ですが、会場で響き渡る歌声を聞いて涙が出ました。新型コロナウイルスの影響で、去年は中止になってしまったコンクール。だけど、先輩たちから曲を引き継いで、歌うことを「諦めなかった」歌声の美しさと、その後ろに同じく諦めずに支えたたくさんの大人たちの存在が見えて、歌詞を書かせてもらったことを光栄に感じました。

私は、「あなたの言葉には力がある」と子どもに言える大人になりたいです。自分の小説の中で、また社会の中で生きる一人の人間として。〉(『あなたの言葉を』188-189ページ)

こうした辻村さんの一つひとつの言葉が、子どもたちに大切なことをどのように伝えるのかということを、読者の私にモデルで示してくれます。それは「さまざまな本や考えに自分たちを変える力があることを、私たちは子どもたちにはっきりと伝えているでしょうか? 自分がこれまでもっていた考えを修正し、新しい考えを受け入れた大切なプロセスを、子どもたちのためにはっきりとモデルとして示せているでしょうか?」というエリンさんの問いかけに対してどのように応答するのかということを私に伝えてくれる言葉でもあります。

 

★「彼方のノック」(作詞:辻村深月、作曲:土田豊貴)という曲です。NHK全国学校音楽コンクール課題曲です。インターネットで検索して、高校生の合唱を聴くことができますが、それを聞きながら、私も、コロナ禍での日常で感じたこと、考えたことを思い出しました。

2024年7月12日金曜日

身のまわりにある自然を観察して書く・描くネイチャー・ジャーナリング

チャールズ・ダーウィンが種の多様性の謎に思いを巡らせながら1830年代に書いた観察ジャーナルには、自然現象の綿密な観察と、鳥、亀、化石の詳細なスケッチが混ざっていました(その数世紀前には、レオナルド・ダ・ヴィンチも同じようなことをしていました!https://wwletter.blogspot.com/2022/04/blog-post.html)。これとは対照的に、現在の学校や大学の生徒たちは、ほとんどの時間を室内で過ごし、実際の葉っぱに触れることなく光合成のようなトピックを勉強しています。(国語でも、自然に触れることなく俳句や詩を書かせていませんか?)

ネイチャー・ジャーナリングは、綿密な観察力、一目で分かりやすい図解力、細部への注意力、クリティカルな思考力★、情報を整理・分類する能力など、重要な認知・処理能力も養うという学問的なメリットだけでなく(このなかには、国語の時間に俳句や詩を書くのに必要な能力も含まれています!)、創造性を育み、ストレスや不安を軽減するという非学問的なメリットをもたらすことも証明されています。 

生徒がジャーナルを書く際の最初のハードルを乗り越えるのを助けるために、

「あれ? 気づいたことは・・・」

「おや? 不思議だな・・・」

「そういえば、連想するのは・・・」

のような簡単なプロンプト(観察を深めるきっかけづくりのフレーズ)から始めることができます。

庭や草むらに咲いている小さな花や、普段は見過ごされがちな自然のかけらなど、身の回りの些細なことに目を配るように促しながら、素早く絵を描いたり、細かい観察をしたりするのです。<この辺の描き方や具体的な方法について詳しくは、『見て、考えて、描く自然探究ノート=ネイチャー・ジャーナリング』(ジョン・ミューア・ロウズ著、築地書館)をご覧ください。)ダーウィンにとって、この活動が時代を画する大発見につながりました。

 

 生徒を一般的なものからより具体的なものへと誘導するため、高校で英語(日本の国語)を教えるタナー・ジョーンズ先生は、生徒たちに、今注目している自然物(葉っぱ)を表現する形容詞やフレーズを20個書き出すよう求めました。最初は、多くの生徒が「葉っぱは黄色い」というような大雑把な感想から出し始めます。しかし、時間が経ち、明白なことが言い尽くされると、観察はよりニュアンス豊かになり、「葉脈が中心の茎から後退していく心臓のようだ」といった詩の美しささえ感じられるようなものも出てきました。時間が経つにつれて、生徒たちは観察力と分析力を磨き、「なぜ秋になると葉っぱは黄色くなるの?」「雪が降った後、この葉っぱはどうなるの?」といった複雑な疑問への扉を開くのです。

 生徒たちは、一昔前に比べて、外で遊んだり、過ごしたり時間が大幅に短くなっています。その結果、生徒たちは自然から切り離され、自然や生態系に対して無関心になりがちです。ネイチャー・ジャーナリングは「身近に生息する動植物に親しみ、それらに対する好奇心を高めるきっかけ」になります。

小学校教師のサラ・キール先生にとって、ネイチャー・ジャーナリングは生徒と自然をつなぐものです。「ネイチャー・ジャーナリングをすることは、生徒たちの自然に対する意識を高め、自分たちの世界における居場所を感じさせ、将来の自然保護行動を促すので、生徒たちに元気を与えることができます」と彼女は言っています。ネイチャー・ジャーナルを書く活動では、キール先生は生徒たちに、学校の庭、運動場、自宅の裏庭、身近にある公園など、屋外の「座る場所」を見つけ、2030分かけて観察するよう求めます。「何が見えるか、何が聞こえるか、何が匂うか」、「植物と動物の相互作用は観察できたか」など、生徒が始めやすいように促します。(下のイラストは、キール先生のクラスの一人(小学生)が、ネイチャー・ジャーナルに気づいたことを書き留めた1ページです)。

 さて、ネイチャー・ジャーナリングがどのように始められるでしょうか? 大がかりな探検をする必要はないし、野生動物の専門家である必要もありません。身近にある木や岩や茂みには生命があふれていますから。「カエルを見つけたり、蝶と並走したり、丸太の下にカブトムシを見つけたり。生徒たちにチャンスを与えれば、すべての学年で、すぐにその魅力に取りつかれることでしょう」とキール先生は言っています。 

 みなさんも、ぜひ試してみてください。

 これは、夏休みの間に子どもたちが学校に来なくてもできることでもあります!

 

参考:https://www.edutopia.org/article/benefits-nature-journaling

   https://nebg.org/2020/04/09/5-benefits-nature-journaling/

★「批判的思考」ではなく、「大切なものと大切でないものを見極め、その判断に基づいて行動できる」ことという意味です。

2024年7月5日金曜日

「主体的・対話的で深い学び」と「個別最適と協働的な学び」を実現するための関連情報

 https://wwletter.blogspot.com/2024/06/blog-post_07.htmlでは、ライティングとリーディング・ワークショップ(作家の時間と読書家の時間)が、いかに「主体的・対話的で深い学び」と「個別最適と協働的な学び」を満たしている教え方かということを紹介しました。

 今回も、「主体的・対話的で深い学び」と「個別最適と協働的な学び」を国語で実現するための関連情報を、このブログおよび3つの姉妹ブログでこれまでの紹介してきたなかから下にリストアップしますので、興味のもてそうなものを読んで/読み直してみてください。

https://projectbetterschool.blogspot.com/search?q=ZPD の3つの記事(大切なポイントは、ZPDは一人ひとりの子どもにとって微妙に異なり、同じではないということです。)

https://wwletter.blogspot.com/search?q=%E5%AD%A6%E7%BF%92%E4%BC%9A%E8%A9%B1(特に、最初の2つの記事)

https://wwletter.blogspot.com/2021/02/blog-post_12.html

https://selnewsletter.blogspot.com/2023/10/eq.html

https://wwletter.blogspot.com/2023/02/sel.html

https://wwletter.blogspot.com/search?q=%E6%80%9D%E8%80%83%E3%81%AE%E7%BF%92%E6%85%A3(1番目と3番目の記事)

 ほかにも紹介したい記事はたくさんありますが、このぐらいにしておきます。

 

 それでは、「主体的・対話的で深い学び」や「個別最適と協働的な学び」が授業で展開している状態とはどんな状態でしょうか? 

 あるいは、どんなことが身についていたら「主体的・対話的で深い学び」や「個別最適と協働的な学び」を生徒たち対象に実践できていると言えるでしょうか?

 別な言葉で言うと、「主体的・対話的で深い学び」や「個別最適と協働的な学び」が実践できている評価基準は何か、です。

 これら3つについて、文科省は納得できる情報を提供してくれているでしょうか? あるいは、「主体的・対話的で深い学び」や「個別最適と協働的な学び」をタイトルに含めた本や各種情報ではどうでしょうか? もし、ご存じでしたら、pro.workshop@gmail.com宛にぜひ教えてください。

2024年6月28日金曜日

「子ども研究」のすすめ 特別支援学級の作家の時間より

(全ての人物の名前は仮名です。障害特性や学習場面等にも、ある程度のフィクションが入っています)


4・5月は子どものアセスメントがしやすい学習を行う


 今年度も特別支援学級の作家の時間は緩やかに続いています。去年の卒業生が抜け、中学年の新しいメンバーも加わって、新しい体制で進んでいます。メンバーが変わると、また新しい発見や課題と出会い、その年その年で違った様相を見せるのが、作家の時間のおもしろいところです。


 今年は、4月は子どもの様子を把握するために、春の季節の写真に載せて詩を作りました。子どもたちの好きなものやこだわりのポイント、認知特性をよく見てアセスメントする期間としました。5月の半ばから6月の半ばは、作家の時間の楽しさを知るために、自由に書きながら、その子の強みと課題を掴んでいきました。どんなジャンルが書きやすいのか、どんな媒体なら書けるのか、試していきます。特別支援学級の子どもは、認知的にも情緒的にも、凹凸のある子どもが多いです。どんな環境ならば、自分らしく表現できるのかをアセスメントしていきます。本校は春に運動会を行うので、運動会が終わるまでは子どもをしっかり見ることに時間を使ったように思います。


「良樹くん研究」想像を膨らますのは気持ちが悪い?


 今年も個性的でユニークな作品を作ることのできる子どもたちが集まっています。4月に行った詩の単元ですが、児童詩というと、よくあるのが自然物や身近なものが、擬人化して話したり動いたりするような物語性のあるものが書かれます。僕自身も、いつもながらの工藤直子の『のはらうた』からあまり考えもなく紹介してしまうのですが、今年はこのような子がいました。


 3年生の良樹くんは、学級園でだんだんと茎が伸びてきたトマトの苗を写真に撮ってきました。同じように植物の写真を撮ってきた子どもには、「この花はどんなことを言っていると思う?」とか、「この花は何をしたいのかな?」なんて、想像を膨らませることで、詩のイメージの土台を作っていくのですが、良樹くんには、この手法は全く通じませんでした。

「えっ、そんなの分からない」「うーん、難しい」という言葉を繰り返すばかり。しまいには、「そんなことできないよぉ」とうずくまってしまいました。良樹くんは、目に映るもの以上に想像を膨らますことが、自分の感覚とは合わないどころか、気持ちが悪いという感覚なのかもしれません。

 この方法では良樹くんには逆効果なので、作戦変更。

 私「どうしてトマト撮ってきたの?」

良樹「僕のトマトだから」

 私「良樹のトマトは元気?」

良樹「今日の気温は28℃で暑いから、トマトは元気だよ」

 良樹くんは外に吊るしてあるWBGT計の気温が大好きで、一日に何度も見にいきます。「良樹のトマト、28℃、暑い、元気」この言葉を使って、詩を書いてみよう」と誘ったら、良樹くんは、その言葉を聞くや否や、タブレットのトマトの写真の上に、「よしきのトマト」「28℃」「あつい」「げんき」と4つの言葉を指で書き入れました。これはこれで、なんだかストレートで素敵な詩です。「良樹しか書けない詩ができたね!」と声をかけました。

 そして、この良樹くん。ノンフィクション作品で非常に自信をつけていきます。良樹くんが習っているスイミング教室のコーチや練習の様子などを、タブレットに絵と文字で表現していきます。作家の時間を始めると、物語を書くことに喜びを見出す子どもが多い中、良樹くんの日常の出来事や好きなものを切り取って自己表現を始めたのです。「ノンフィクションの良樹だね」「ノンフィクションの魅力をみんなに伝えてくれているね」と、大袈裟ですがたくさん褒めました。




「浩一郎くん研究」そのまま繰り返す言葉を作品に


 6年生の浩一郎くんは、光るものが大好き。学校中の警備センサーや火災報知器の点滅を眺めたり、校庭から見える信号機をゆっくり見て楽しんでいます。4月、僕も陽だまりに一緒に座り込みながら、校庭から信号機をぼんやりと眺めて、「もうすぐ春だね」と季節の移り変わりを感じることもありました。浩一郎くんは、肌からの感覚を楽しむ子なので、学校の気持ちの良い場所ですぐに寝っ転がってしまいます。床の冷たさ、マットのザラザラとした感覚、そういう皮膚からの感覚を楽しんでいるのだと思います。校庭で遊んでいる子どもたちには、不自然に寝っ転がった姿勢に見えてしまうので、僕も傍で地面にあぐらをかいて座り、一緒に信号機を眺めると、子どもたちは関わろうとしてきます。1年生が「何をしているの?」と尋ねてくるので、僕が代わって「信号機を見ているんだよ。綺麗だよね」と返します。そんなのんびりとした関わり方で、浩一郎くんとの関係を作っています。

 さて、浩一郎くんが支援員さんと一緒に撮ってきた春の写真は、やっぱり信号機でした。さすが、ベテラン支援員さん、ナイスチョイスです。どのように浩一郎くんらしい言葉を引き出そうかと考えながら、教室に浩一郎くんを誘い入れました。彼は寝っ転がって床の冷たさを楽しみながら、僕のカンファランスに反応しようとしています。

 僕はまず、「浩一郎くん!(写真を撮ってきてくれて)ありがとう」と声をかけました。浩一郎くんはよく先生の言葉をそっくりそのまま繰り返します。浩一郎くんもこのとき、「ありがとう!」と大きな声で答えました。支援員さんが、「浩一郎くん!春だね!」と言うと(一応、詩のテーマは春でしたから)「春だね!」と返しました。僕は「あーこれは使えるかもなあ」と思い、タブレットの音声入力を起動させて自動で音声を文字に変換するようにセットしました。彼の耳元で「ありがとう!」というと「ありがとう!」と返し、「春だね!」というと、「春だね!春だね!春だね!」と3回繰り返しました。こうして、浩一郎くんの信号機の写真に、「ありがとう!」「春だね、春だね、春だね」の言葉が添えられることになりました。

 この浩一郎くんの詩も廊下に掲示しました。先生方や放課後デイサービスの先生に大変好評で、浩一郎くんらしさが出ていてすばらしいと絶賛されました。また、友達の前でも発表しました。写真をテレビ画面に映し、浩一郎くんが「ありがとう!春だね、春だね、春だねーーーー!!」と堂々と読み上げました。聞いている友達も、「浩一郎くんは信号機が大好きなことが分かりました」と反応します。浩一郎くんは、褒められるのがまんざらでもない様子。浩一郎くんも作家の時間が大好きになりました。浩一郎くんの今書いている作品は、近くのショッピングセンターの各階に何のお店があるか、フロアマップを作って説明してくれようとしています。こちらも私がそのショッピングセンターの写真を出してあげて、支援員さんと会話をしながら、タブレットに書き進めています。




「子どもらしい」という架空の子ども


 僕は、もしかしたら、「子どもらしい」詩のようなイメージを定型化・一般化して、子どもたちに安易に被せていたのかもしれません。二人のような子どもはそれほど多くはないと思いますが、似たような特性を持った子どもは支援級にも一般級にも在籍するでしょう。子どもが詩を描くならば、こんな詩がよいなあとイメージを持つことはもちろん大切ですが、その子がその子らしい自己表現を行うときに、その教師のイメージが学習を阻害してしまうこともあります。そうであれば、そのイメージは手放さなければならないこともあるでしょう。僕の作家の時間の場合、「どんな力を育てるか」ということよりも、「〇〇さんの自己表現をよりよいものにするためには」「〇〇さんの学習体験をもっと豊かにするためには」ということの方が、大切なのだと思います。

 僕は良樹くんのように、目の前に見えている事実とは違うことを表現することに、これほど苦痛を感じてしまう子を初めて見ました。きっとこれまで、僕はこのような子をきっと受け持ったこともあったのだと思います。けれど、その子の個性に気づかずに、「想像を膨らませて書こう」と、良い方法と思われている指導法を当てはめていたのかもしれません。その子は、そういう対応ができてしまう子だったので、きっとあまり望まない「トマトがあいさつをしているよ」っぽい詩を作らせてしまっていたのかもしれません。良樹くんが、しっかり想像を膨らませることを拒絶してくれたので、「よしきのトマト」「28℃」「あつい」「げんき」の詩が完成しました。良樹くんの目の前の事実を書きたいと言う気持ちを、少し理解するきっかけになりました。

 また、浩一郎くんのように、文字や言葉を書くことが難しい子どもが、ストレートに自分の好きなものを表現し、その楽しさを友達や先生と一緒に共有できることも学びました。自分を表現することは、だれにとっても楽しく喜びに溢れるものです。浩一郎くんにその機会を作ることができたことが、彼の成長のきっかけになりました。浩一郎くんは、自分の好きなものをもっと伝えたいと、彼のペースではありますが作家の時間でゆっくりと書き進めています。


他者の靴を履く「To put yourself in someone's shoes」


 ブレイディみかこさんは、『他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ』(文藝春秋 2021年)という本の中で、エンパシーの力について言及しています。「他者の靴を履く」とは「To put yourself in someone's shoes」の日本語訳ですが、自分とは違った立場にいる他者の靴(それがたとえ、自分の好みに合わない靴であったとしても)を履いて、その景色をイメージするエンパシーの力について様々な角度から論じています。つまるところ、僕は作家の時間という時間を通じて、子どもの靴を履いてみることで、「子ども研究」をしているのだと思います。良樹くんや浩一郎くんは、その瞳からどんな風景を見て、何を感じているのか、想像してみようと試みています。もちろんそれは、完璧にはできません。どれほどできているのかも、証拠があるわけでもありません。けれども、良樹くんや浩一郎くんが、今より少しでもよりよく自己表現をするためには、どのような学習環境を用意したら良いのか、子どもの姿を追い続けることで研究をしているのだと思います。特別支援学級の作家の時間を行うことで、子どもが自己表現を楽しむとはどのようなことなのか、試行錯誤しています。

 「子ども研究」とか「アセスメント」とか表現すると、格好の良い響きに聞こえるかもしれませんが、まったく効率的でスマートなことではありません。子どもと喧嘩したり、泣いたり、紙をぐちゃぐちゃにしてしまうことも多々あります。本当に泥臭くて、時間もかかり、煩雑なことがアセスメントであり、子ども研究です。けれど、やっぱり学校という場所は、子どものことを考えて動いてくれる大人が、「ああでもない、こうでもない」と子どものために思い悩んで、少しずつ進んでいくところなのだと思います。そういう学校が、自分は好きなのだと思います。


(写真は『本当にヘビが食べるの?』 この近くに本当にヘビがいました。)

2024年6月22日土曜日

「読書のノイズ性」との出会いをアシストする

 働き始めると時間がなくなるから学生時代の時間のあるうちに本を読んでおいたほうがいい、とよく言われます。また、読みたい本はたくさんあるけれども忙しくて時間がなくて読めないという言葉もよく聞きます。SNSやインターネットがあるのだから、もう本を読まなくてもいいのではないかという言葉も聞くことがあります。

 この4月に刊行された三宅香帆著『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書、2024年)は、労働と読書との関係について、克明な調査に基づいて書かれた本です。明治以来の日本社会での読書と読者の歴史を踏まえて立論されているので、説得力があります。もともと読書家だった三宅さんも、会社員として勤め始めた頃、仕事は面白かったけれども忙しくて気がつけばしばらく本を読んでいないことに気づくことがあったそうです。しかし、仕事を辞めてからは再び読むことができるようになり、本を書くまでに至ったといことです。それだけなら、仕事が忙しくなければ読めるということになりますけれども、「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」という問いに対する答えはそういうことではないと三宅さんは考察を進めます。
なぜなら「読む」ことであれば、どんなに忙しくても通勤電車のなかでスマホを取り出して、あるいは自宅のパソコンの前で皆頻りにやっていることだからです。また自己啓発本や読書術の本はよく売れています。読むことそのものがなくなっているわけではないのに、働いていると本は読めなくなっている。これをどういうふうに考えればいいのでしょう。三宅さんは、ある現代映画の登場人物が「パズドラ」をしても読書はあまりしないということを取り上げて、次のように言っています(引用文中の「麦」はその人物名)。

 本を読むことは、働くことの、ノイズになる。
 読書のノイズ性――それこそが90年代以降の労働と読書の関係ではなかっただろうか。(中略)麦が「パズドラ」ならできるのは、コントローラブルな娯楽だからだ。スマホゲームという名の、既知の体験の踏襲は、むしろ頭をクリアにすらするかもしれない。知らないノイズが入ってこないからだ。
 対して読書は、何が向こうからやってくるのか分からない、知らないものを取り入れる、アンコントローラブルなエンターテインメントである。そのノイズ性こそが、麦が読書を手放した原因ではなかっただろうか。(『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』182~183ページ)

 「読書のノイズ性」を消去することで成り立つのが「スマホゲーム」という「コントローラブル」(制御可能)な娯楽だということです。それに対して「読書」は「ノイズ性」を帯びるがゆえに「アンコントローラブル」(制御不能)な「エンターテインメント」であるというわけです。また、「読書のノイズ性」に応じるとは、自らの知らない「文脈」に向かい合い、それを取り入れることでもあります。

 1冊の本のなかにはさまざまな「文脈」が収められている。だとすれば、ある本を読んだことがきっかけで、好きな作家という文脈を見つけたり、好きなジャンルという新しい文脈を見つけるかもしれない。たった1冊の読書であっても、その本のなかには、作者が生きてきた文脈が詰まっている。
 本のなかには、私たちが欲望していることを知らない知が存在している。
 知は常に未知であり、私たちは「何を知りたいのか」を知らない。何を読みたいのか、私たちは分かっていない。何を欲望しているのか、私たちは分かっていないのだ。
 だからこそ本を読むと、他者の文脈に触れることができる。
 自分から遠く離れた文脈に触れること――それが読書なのである。
 そして、本が読めない状況とは、新しい文脈をつくる余裕がない、ということだ。自分から離れたところにある文脈を、ノイズだと思ってしまう。そのノイズを頭に入れる余裕がない。自分に関係のあるものばかりを求めてしまう。それは、余裕のなさゆえである。だから私たちは、働いていると、本が読めない。
 仕事以外の文脈を、取り入れる余裕がないのだ。(『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』233~234ページ)

 ではどういう社会にすれば働きながら読むことができるようになるのかということについての三宅さんの結論は、是非この本を手に取って読んでください。「他者の文脈」を知り、「読書のノイズ性」を取り入れるためにどうすればいいのか。『理解するってどういうこと?』のはじめの方にあるエピソードを紹介します。テキサス州アリーフでの教員研修の日、学校のプールで泳いでいた小学校高学年の子供たちをそのままカフェテリアに連れ出して、そこで一冊の絵本を使って行われたモデル授業です。

 私はジャクリーン・ウッドソンの『むこうがわのあのこ』を読んでいる間、はじめのうち子どもたちに見られた緊張感が消えていくのがわかりました。そして、モデル授業の前に私が教えた理解のための方法を使って、今まで想像もしなかったような、この本に盛り込まれている深い意味を考えさせるいくつかの質問をしてくれたのです。私はもう少し子どもたちに迫って、自分たちの出したさまざまな質問がどのようにその絵本を理解する手助けになったのか説明するように求めました。すると、当初はバラバラだった反応が活発な話し合いへと発展していったのです。(中略)他にもたくさんの、それもすべての学年で体験した多数の経験のおかげで、理解することの指導を通して子どもたちを考える生活に誘い入れることが、未開拓だけれどもゆたかな原野のようなものであると私は考えるようになったのです。知的なレベルで参加することを可能にし、深く理解するとはどういうことなのかを話し合うことによって、子どもたちがさまざまな考えを身につけ、そして活用できるようになると、私は気づいたのです。(『理解するってどういうこと?』14~15ページ)

 この子どもたちは、三宅さんの言葉を借りれば、「読書のノイズ性」を自分のうちに取り入れて、「他者の文脈に触れる」経験をしたわけです。「理解するための方法」の「質問する」を使って語り合うことが、「読書のノイズ性」を消去するのではなく、むしろそれをいかして深く考えるためのサポートになったのです。「読書のノイズ性」との出会いをアシストすることになったのです。

2024年6月15日土曜日

詩を読み解く 〜背景的知識を踏まえて〜

  時々投稿をお願いしている吉沢先生に以下を書いていただきました。書き出しの「ホッパー」と言うことばを見た途端、「???」の私でした(汗)。ですから、以下を読みながら、ことばを見たときにイメージできる背景知識が、私一人では読めなかった詩の扉を、次から次へと開いてくれるのを実感しています。

*****

 詩の読み取りにおいて、モチーフとなっている事柄についての知識を踏まえたうえで、語句の意味を知り、何を象徴しているのかを考える。そのような作業が読み取りを深くする。そんな作品があります。今回は、そのような視点から、1編の詩を取り上げます。郷武夫さんという方の「背広の坑夫」という作品です。★1


[第1連の書き出し]

背広の坑夫

郷 武夫

ホッパーは止まった

斜坑の巻き上げ機の

鋼鉄ロープが錆にくるまる


 「ホッパー」とは、炭鉱で採掘した石炭を、出荷・積込みまで貯めておく貯炭槽のことです。四角い箱の形をしたコンクリートの建造物で、巨大なものもあります。ホッパーは積み出し設備でもあるため、貨物の引込み線や運搬用の道路上に作られていることが多いです。

 「斜坑」とは、地面から斜めに掘られた坑道です。「巻き上げ機」が、地下へ資材や人を送ったり、掘り出した石炭を地上に運ぶトロッコを引っ張り上げます。

 「ホッパーが止まった」というのは、単に停止したのではなく、炭鉱の営みが終わった、ということを象徴しています。ボタ山と同様に、ホッパーは炭鉱地域を象徴する存在でした。その稼働音、石炭を積み込む音、貨物列車の汽笛、積み込まれる石炭の音。作業する人たちの声。そのような日常。それが終わったのです。静寂が訪れます。そして、「鋼鉄ロープが錆にくるまる」ほどの時間が過ぎたのです。


 [第1連のつづき]

光におびえて眠った坑夫たちの

(三○年だよ三○年)

筋肉はすき透っていた

くらやみでこそ見えたくらやみの色の石

そんなにも慣らした眼を 就寝前に

黄色い三○ワットの台所で

洗いたてる日課があった

今日 歯みがきの香りたつ朝にぬぐうと

汗だくの夢を溶かす洗面器に

硼酸液が浮く(ああ まだぼんやりだ)


 暗い坑内で働く坑夫にとって、外界の光は眩しいだけでなく、怖いくらいのものだったのでしょう。そんな暗闇の中ではものが見えない、と嘆きたくなるのが普通かもしれませんが、「くらやみでこそ見えたくらやみの色の石」と表現されていることに、私は注目します。暗闇で仕事を続けた坑夫たちの誇りを感じます。「黒い石炭や岩石」を、「くらやみの色の石」と表現するところが、この詩人の技であるといえます。

 暗い中での仕事は目に負担をかけます。そして、坑内には石炭の粉塵が大量に漂っていて、それが目に入ると目の健康を害します。ですから、家に帰ってくると目を洗うのが日課になっていたのでしょう。単に「洗う」ではなく「洗いたてる」という表現に、目をしっかりと洗う坑夫の姿が感じられます。「硼酸液」は、目の洗浄に使われた薬品です。毎晩、目を洗っても視力は衰えたのでしょう。(ああ まだぼんやりだ)という坑夫はつぶやきます。


[第2連]

ブラックフレームと清潔な襟首とおろしたての革靴

キュッとしめあげても

みんな少しずつ大きすぎた

くつずれの予感が熱く戻ってくる


 それでも、男は身なりを整えて出かける準備をします。「ブラックフレーム」のメガネをかけ、「清潔な襟首」のシャツを着て、「革靴」を履く。どれも、坑夫には縁の遠いものでした。それを身につけて、どこへ出かけるのでしょうか。「くつずれの予感」を感じる男にとって、それは心踊るようなことではなさそうです。


[第3連]

数える指をなくしてから曜日を忘れる

ゆるいたたみに発破のこだまごと身を置いて

枕元に動かぬ若かった妻の膝頭が

とても丸くて白かった

(おぼえている おぼえているとも)

ますいがきれた朝

切断されて

ないはずの指先から

生えてくる爪の痛みに 泣いた


 回想シーンです。炭鉱事故で指をなくしたことが想像できます。炭鉱は危険を伴う職場であり、多くの事故がおきました。私が子供の頃、落盤で大勢の死者が出たというニュースをテレビで見たことを覚えています。

 出かけようとしている男の心に浮かんだのは、炭鉱事故で指を失ったことでした。

「若かった妻」とありますから、それから年月が経ち、今は夫婦とも若いとは言えない年齢になっていることが分かります。妻は、怪我をして寝ている男の枕元でじっとしている。その妻の白い膝頭が、男の目に入る。その時の光景が男の心に焼き付いています。「おぼえているとも」と心の中でつぶやく男の、妻に対する思いが伝わってきます。


[第4連]

亀の尾 千代鶴 竜ヶ沢 そして浅貝

これら多湿の坑夫街 柱の暦一枚めくれば

せり上がる水位(血ではないな)

時代に沈んだ軒下の表札跡を読みながら

これからはしばらく

こうして貨幣の街へ出かけて行くのだ


 男は集落を通っていきます。歩き始めます。「亀の尾、千代鶴、竜ヶ沢、浅貝」は福島県の常磐炭田があった地域に実在する地名です。古めかしい時代を感じさせるその地名から、都会と対比される集落の雰囲気が感じられます。

 「柱の暦一枚めくれば/せり上がる水位(血ではないな)」という表現は私には難解な感じがします。「暦をめくる」という表現は、時間の経過を表しているでしょう。

「水位」というのは何でしょうか。炭鉱では、水が侵入することで水位が上がることがありました。炭鉱内に水が留まることは、作業に支障をきたすだけでなく、そこで働く坑夫の死につながります。私が想像したのは、一日が過ぎるたびに、「ああ、また水位が上がった。・・でもまだ死者は出ていないな。(=血ではないな。)だが、明日はわからない・・」といった不安が男の心によぎった、というものです。

 「時代に沈んだ軒下」とあります。石炭産業はかつて時代の花形でした。それが凋落し、時代の中に沈み、忘れられていく。

「表札跡」とありますから、その住人は家を離れて(おそらく村を出て)行ったことを暗示しています。そのような家の佇まいを見ながら、「ああ、ここは確か○○の家だったはずだ」と男は感じているのかもしれません。

 「貨幣の街」とは何でしょうか。かつて男の仕事は石炭を採取することでした。それが閉山になって、男は職を求めて街にいきます。そこは、何かを採取したり生産したりするよりも、流通や販売や事務といったサービスに対してお金が支払われる世界です。


[第5連]

職安の若い役人に

どこから話そう

引き金は引けまいが

かせぎなら握れることを

妻に話した様に

言わねばならない

手を見せて


 「職安」は「公共職業安定所」の略です。そこに向かいながら男は「どこから話そう」とつぶやきます。指をなくした自分に何ができるだろう、仕事が見つかるだろうか、という戸惑いがあるのかもしれません。

「引き金は引けまいが/かせぎなら握れる」とはどういうことでしょうか。「引き金を引く」ということは、銃を撃つ動作を意味します。男は直接、銃を撃つ仕事をしてきたわけではありませんから、象徴的な意味で使われていることが分かります。例えば、強さとか攻撃性の象徴かもしれません。炭鉱で働くということは、肉体的に過酷な、強さや忍耐力が求められる仕事でした。それができなくなったわけです。あるいは、レバーを引いたりして機械操作する、といった引き金に類する動作ができない、そのような仕事ができない、ということの象徴かもしれません。しかし、「かせぎなら握れる」のです。これも象徴的な意味合いで使われいます。自分の限界を認識しつつも、何とかして仕事を見つけて、家族を支えていきたい。そのような意志を私は感じます。

 男は、手を見せて言わねばならない、とつぶやきます。この最後のフレーズがこの詩作品のピークであり、私は読むたびに感動します。普通であれば、人前に晒したくない自分の姿。それをまず見せて、そのことから話を始めなければならない、と男は考えます。私が感動するのは、「事故で指をなくしていますが、そんな私でも何かできることはありませんか?」と聞いているのではなく、「指をなくしているが、私にもできることはある」と言い切っていることです。決意と意思表示。それは、妻に言った言葉でもありました。自分を支えてくれている妻への思いも込められています。

  これは、一人の男の物語として描かれていますが、第一連で「坑夫たち」とあるように、時代の中で懸命に生きてきた、そして今は底辺に追いやられたけれども、しっかりと生きていこうとしている人たちがいるのですよ、ということを詩人は言おうとしているのだと思います。

 もう一度、最初から詩を読んでみて下さい。言葉のひだに込められた、繊細なイメージや感情の動きを味わってみましょう。あなたは、どの言葉に惹かれますか。それを仲間で出し合って、分かち合ってみて下さい。



★1 郷武夫『背広の坑夫』紫陽社, 1979. 

★2 平成の時代になって、「ハローワーク」という言葉が使われるようになりました。