2019年10月18日金曜日

物語(ストーリー)を媒介にして人生を深く認識する!?


  『理解するってどういうこと?』の167ページには、読み・書きを学ぶ際の「深い認識方法」の一領域「優れた読み手・書き手になる領域」が「読んだり学んだりしたさまざまなアイディアに伴う多彩な経験。意味の共有と応用。話したり、書いたり、描いたり、演じたりといった手段を通して意味を組み立てること。特定の目的と聴き手・読み手に向けて書く。他の人とやりとりしながら考えたことを修正する。優れた読み手と書き手の習慣を使ってみる」ことだと説明されています。読むときに「書き手」のことを思い浮かべることは、本や文章の読みを主体的にします。書くときに「読み手」のことを思い浮かべると、書くことがおざなりではなくなり、相手に届くような言葉を選び、心に届く述べ方を工夫することになります。仲間とやりとりしながら考えることで、自分一人では気づかなかったことに気づかされます。そして、自分と対話することになります。それが「深い認識」を促すと言うことでしょう。
  マーティン・プフナー(塩原通緒・田沢恭子訳)『物語創世―聖書から〈ハリー・ポッター〉まで、文学の偉大なる力―』(早川書房、2019年)の原題はWritten World。「書かれた世界」あるいは「文字の世界」ということになります。アポロ8号の宇宙飛行士たちが、地球を眺めながら宇宙から地球の姿を中継したときに「創世記」の言葉を選んで音読したというエピソードから始まります。

ホメロス『オデュッセイア』、『ギルガメシュ叙事詩』、『聖書』、仏典、『論語』、ソクラテス、『源氏物語』、『千夜一夜物語』、『ドン・キホーテ』、『共産党宣言』、ハリーポッター・シリーズ・・・多種多様な物語について、現地踏査も含めて、プフナーはそれらがどのようにして人の理解の窓になっていったかということを考証するのです。プフナーの言葉を少し追ってみましょう。



・話されるだけの言語は、話し手がいなくなれば消滅してしまう。しかし物語を粘土板に文字で固定すれば、古い言語も生き残ることができる。(中略)書き留められたことにより、読者が過去に触れることが可能になっただけでなく、文学が生き延びて未来に伝えられる可能性を想像させ、まだまれていない読者の心を動かすことも可能になった。(8081ページ)

・文学の歴史は焚書の歴史でもある。本が燃やされるのは、書かれた物語に威力があることの証なのだ。(229ページ)

・マルクスは、ヘーゲルの語るプロイセン国家と現状維持にとって都合のいい歴史が気に入らなかったが、それでも物語を語るという新しい哲学の力には、やはり引き込まれた。(315ページ)



  書き留められることによって「物語」は、人間を動かしてきた、それは口承の文芸とは異なる「威力」を持つに至ったということが本書におけるプフナーの主張の中心です。そしてそうした「物語」はこれからどのようになっていくのかということも、最後に考察していますが、そこでプフナーは次のように言っています。「存続を保証する唯一の方法は、それを使いつづけることなのだ。テキストが時代を超えて生き残るには、それがつねに現役であることが必要だ。そうすれば必ずそのテキストは翻訳され、複写され、コード変換されて、各世代に読み継がれていくだろう。文学の未来を確保するのは技術ではない、教育なのだ」(416ページ)。「使いつづける」ことで「読み継がれていく」というきわめてシンプルなことが述べられています。しかし、そのことによって、「物語」を通じた書き手・読み手の「理解」が営まれるのだと、言っているようです。

  この本の「訳者あとがき」のなかで、テレビ番組でのプフナーが発した「物語の行く末」についての発言が引用されていますが、彼はそこで「多くの物語は過去を見据えながら同時に未来にも目を向けるという二つの視点を兼ね備えているのだと思います」と言っています。この「二つの視点」の指摘は、読み・書きが分かちがたく切り結ばれているということ、そして理解行為が過去のことがらを受け止めるだけではなくて、それを手がかりとして未来のヴィジョンを切り開く営みであるということを示唆していると思われます。
  本や文章を深く認識し、深く理解するためにはこのような意味での「優れた読み手になる」ことが必要になります。その「優れた読み手」になることのなかにはキーンさんが書いているように多くのことが含まれますが、プフナーの言うように、過去の物語を使って自分の見方や考え方をあらわすということも含まれるのではないでしょうか。
  ジェニファー・ニーヴン(石崎比呂美訳)『僕の心がずっと求めていた最高に素晴らしいこと』(辰巳出版、2016年)は、高校3年生のセオドア・フィンチとヴァイオレット・マーキーの男女二人が交互に語り手となって、二人の心の動きを物語るYA小説です。せつない青春の物語ですが、セオドアとヴァイオレットの心の通い合う部分で、ドクター・スースの『きみの行く道』やヴァージニア・ウルフの『波』のなかの言葉が大切な役割を果たしています。言葉が遺されるということは、その言葉を遺したひとがたとえいなくなっても、幾度もその言葉をおとずれることができる、そのことの比類のない輝きを読者の心に伝えます。プフナー流に言えば、「文字の世界(written world)」(=「物語」)が理解の窓となりうることをあらわした小説ではないかと思います(あっさりしとすぎた紹介ですみません。ちなみに、私は思いがけず大きな感動を得ることができました) 。
  「物語」を媒介にして、私たちは自分のなかにある未知の部分を、自分にも他人にもわかりやすい言葉に「翻訳」し、共有しているのかもしれません。もしもそれが果たされるのなら、今までになくお互いを理解することができます。そのきっかけになる言葉を「物語」=「文字の世界」に見つけることができれば、それを繰り返し分かち合うことで、他人や自分についても、そして人生について、深い理解に至ることができるのかもしれません。


2019年10月11日金曜日

ストーリーテリングという人間関係・信頼関係づくりの方法


 いま、『生徒指導をハックする』という本の翻訳準備作業を進めています。
 その中のやり取りで、メンバーの一人が15年前に調査した研究を紹介してくれました。
 その中には、次の質問項目が含まれていました。「従来、問題行動を起こす生徒に対して、教師と生徒との人間関係・信頼関係を構築する様々な教育実践が行われてきました。しかし、荒れている学校においては従来型の方法では限界があるとの論もあります。こうした見解についてどう思われますか。」
これに対する回答者の9割が「従来型の方法には限界がある」と答えていました。しかし、私の興味関心は①「教師と生徒と(および生徒同士)の人間関係・信頼関係を構築する様々な教育実践」とはどんなものがあるのか? ②先生たちが「教師と生徒と(および生徒同士)の人間関係・信頼関係を構築する」方法を知らないという問題があるということか? という方向に向きました。それが、際限のない問題行動や生徒指導をうみ出している背景にあるのか、と?

その時、ちょうどいま読んでいる『Beat Boredom(退屈な授業を葬り去れ!)』の中の以下のような一節を思い出しました。

ストーリーテリングは内容を学ばせるだけではなく、人間関係を作り上げるものでもある。私は教員1年目のとき、生徒たちと人間関係を作りたいと願っていた。しかし、今振り返ってみると、どのようにすれば良いかほとんど知らなかった。(このあと、数人の生徒のこだわり、興味関心、趣味について紹介されていますが、それはほんの一握りの生徒についてのごく一部の情報でしかありませんでした。)自分自身の人生に何を期待するか、何を恐れるか、誰を信頼しているかなどについては十分に話すことができなかった。
ストーリーを共有すると、それが変わる。学校で、生徒たちに私の子どもが生まれて始めて発した言葉や飼い犬の滑稽な仕草、旅行中のちょっとした事件などについて話をした。高校時代にスポーツチームのトライアウトで何度も落とされたこと。初めて新聞社にインターンシップの申し込みをして65回も断りの手紙をもらったこと。両親を認知症で亡くしたこと、その時感じたことや自分自身の変容などについても語った。
それに対して、生徒たちも面白い経験や日々抱えるストレス、家族との休日、兄弟のこと、スポーツでの実績、大好きな映画などについて語ってくれた。中にはかなり個人的な話を、クラス全体や私と共有してくれた生徒もいた。人種や性別に基づいた虐待などについて話してくれたこともあった。暴力事件が家族にどのような影響を与えたか、あるいは、自殺や麻薬の過剰摂取で親を亡くした話などもあった。
いつも物知り顔で横柄な態度の生徒がいた。私たちが、「人権擁護」の授業で、医師自殺幇助や病状末期の親の看護など、患者の死ぬ権利について話していた時、彼は急におとなしくなったのだ。驚いたことに、彼は放課後私の所に来て、この問題についてもっと話したいと言ってきた。彼は、自分自身が体の自由がきかなくなったり、病気の末期の状態になったとしたら、彼の両親にどんな影響を与えるのかを知りたがった。この会話の後、彼は態度を改め、真面目に授業に参加するようになった。
10代の若者(著者は高校で教えています。10代前の小学生も!)は、話を聞いてもらいたいし、認めてもらいたいと思っている。難しい生徒であっても(いや、そのような生徒こそ)そうした思いを持っている。私たちが聞こうとすれば、生徒たちの授業に取り組む姿勢が変わるはずなのである。 Beat Boredom、44~45ページより)

 私たちは原始時代から数万年もストーリーを語り合うことで生きながらえてきました。それこそが人類の99%の歴史の主なコミュニケーションの手段でした。読み書きに移行したのは、ほんの1%にすぎません。
 お互いのストーリーを紹介し合う時間を、ぜひつくってみてください。もちろん、それは口頭だけの必要はありません。「ライティング・ワークショップ/作家の時間」をすでに実践している方は、すでにストーリーを表現することのパワーを体験済みのはずです!
 ストーリーテリングのエピソードを紹介してもいいという方は、pro.workshop@gmail.com宛にぜひお送りください。

2019年10月5日土曜日

自分の立ち位置を「読み手」にする

 9月14日の投稿では、自分の立ち位置を「書き手」にすることについて書きましたが、今日は、自分の立ち位置を「読み手」にすることを考えます。

 ライティング/リーディング・ワークショップでは、「教師が先輩の書き手/読み手の役割を担い、子どもたちを若い書き手、読み手として育てよう」、ということをよく耳にします。「子どもたちを優れた書き手・読み手にしましょう」と言うのは簡単ですが、でも、「優れた書き手・読み手」の定義次第で、見えてくる風景が異なってきそうです。 

 先日、読みについての本★を読み直していました。「読むとは?」や「優れた読み手は。。。」という文が並んでいます。読むとは、「意味をつくりだすこと」「優れた読み手は必要に応じて問題解決のための効果的な方法を使えること」等々は、これまでもよく耳にしてきたことでしたので、あまり気にせずにどんどん読んでいました。

 ところが、優れた読み手について説明している引用があり、ここで思わず立ち止まってしまいました。

・「 優れた読み手とは、学校で課題として出されたから読む人ではなく、読むことを好むようになり、生涯を通して読み続けるような人である」

 「これを学校教育で目指すとどうなるの?」と思って読み直すと、この一つ前の文もチャレンジを感じる文です。

・「優れた読み手とは、短い文章を読み、表面的な解釈の質問に答えられる人ではなく、むしろ多様なトピックについて、よりまとまった量の、より複雑な、教材ではないテキストを読み、それらに対して、思慮深く、批判的に反応できる人である」

 ➡ この2項目のような「優れた読み手」を育てることを「授業の」目標にしようとすると、自分の授業観や「(学習者や自分に)期待すること」を、根本的に見直さざるをえません。

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 『イン・ザ・ミドル』(三省堂)の「少し長めの訳者前書き」中に、「教師が読むことについて伝えている21のこと」について言及している箇所があります(9ページ)。これは、『イン・ザ・ミドル』の著者のアトウェルが、1998年に出版した In the Middle 第2版のなかで、教師が行っていることから、読むことについて生徒に伝えていることを21項目も挙げていることを紹介している箇所です。その中には、例えば、以下のようなものがあります。

1.読むということは難しくて真面目な作業だ。
2.文学は、なおさら難しくて真面目で退屈なものだ。
3.読むというパーフォーマンスは、たった一人の観客に向かってなされる。それは教師だ。
4.文章の解釈には正解がある。それは教師の解釈だ。
5.理解や解釈の「間違い」は許容されない。 
6.生徒たちは、自分で読むべき本を決めることができるほどには、賢くないし、信頼もできない。

*****

 クラスの人数、教室の図書コーナーの本不足、共通テスト等々、リーディング・ワークショップを実施するのに困難が多いクラスもあると思います。困難が多いときほど、自分が教えていることが、読むことについてどういうメッセージを子どもたちに伝えているのかを、時には書き出して見るのも必要な気がします。
 
 自分の立ち位置を「読み手」にすると、良くも悪くも(?)、自分が読み手として行っていることと、実際に授業で行っていることのギャップが見えやすくなるようにも感じています。

 そして、 制約(やギャップ)が大きいクラスほど、いろいろな制約の中で、自分の立ち位置を「読み手」にして、ギャップに目を向け、それを少しでも埋めれるようにしていく。リーディング・ワークショップはそんな連続の延長線上にあるのかもしれません。

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★Constance Weaver 著の Understanding Whole Language: From Principles to Practice (Heinemann, 1990, 201ページです。201ページの最初は、「読むとは」「優れた読み手とは」という説明が8つ並んでいます。その下に、Sheila Valencia他の書いた Theory and practice in statewide reading assessment: Closing the gap (Educational Leadership 46: 57-63, April 1989) の58ページから引用がされていて、その中に上のの項目も含まれています。

2019年9月27日金曜日

作文大嫌いだった私が、いまは書くのを教えることが大好きに!


「小さい頃から作文が大嫌いでした。何をどう書いていいかわからなかったからです。教員になってあの時の授業を再現している自分が嫌で、“作家の時間”を始めようと思いました」という高橋優さん(東京都)に「作家の時間」についてのインタビューをしました。(・が質問。→が回答、です。)

・ライティング・ワークショップ/作家の時間(どちらの名称で実践されていました?)を、実践してみようと思ったきっかけを教えてください。
→「作家の時間」でやっていました。
 教員仲間と「せーので始めてみよう」と決めて、それぞれのクラスで始めたのが「作家の時間」を始めたきっかけです。
 『作家の時間』の本自体を知ったのは、学生時代、ある塾で講師をしていた時です。教室の本棚にその本があり、当時「こんな面白い実践があるんだ」と感じたのを覚えています。
 その後、横浜市の教員となり、西多摩PACEの勉強会で「作家の時間」の実践を聞きました。
・西多摩PACE行くきっかけは? どうして勉強会に参加してみようと思ったのですか?→元々は、体験学習法という学び方を知って、それを学びたかったので西多摩PACEに参加していました。その後、「作家の時間」の講座を開催すると聞いたので、元々興味がありその講座に参加しました。その講座を受けた後は、「自分もやってみたいけど、自分なんかにできるわけない。」と考えていました。
・どうしてですか?
→自分にそんな力はないと思っていたからです。今思い返すと「作家の時間」だけを別個にやろうとしていたように思います。他のどの授業とも関連性がないと思い込んでいました。
 それから何年か経って、同世代の教員仲間ができ、「作家の時間』が気になってるよね~という話をしていたところに、西多摩PACEで再び「作家の時間」の実践を聞く機会がありました。そんな感じで、教員5年目の20175月から実践を始めました。
・優さんが作家の時間の実践を「面白い」「気になる」と思われた理由や要素を教えてください。
→当時は、「自分が書きたいことを書きたいように書く」ことに面白さを感じていました。今は、作家のサイクルの中でたくさんの自己選択・自己決定があることにも大きな魅力を感じています。
・実践する際に、『ライティング・ワークショップ』と『作家の時間』の本はどのように参考になりましたか?
→一通り読んで、手探りでやりながらその都度いろんなところを読みました。
付録もコピーして使いました。振り返りシートとか、作品シートとか。
・これまでの国語の作文の授業と「作家の時間」の違いを教えてください。
→楽しい。私自身が一番楽しんでいるかもしれません。これに尽きます。
・実際に実践していた「作家の時間」の進め方を教えてください。
→基本的には、本の通りです。
・子どもたちをよりよい書き手にするためのコツは何だと思いますか?
→待つことです。
・他には?
→その子の書いた作品に興味をもつこと。クラスの子達が相互に相手の作品に興味をもつこと。お家の人にも自分の子どもが書いたその作品を丸ごと愛してもらうこと。
・「作家の時間」を体験した子どもたちの反応を教えてください。
→「作文が楽しい(または、そんなにイヤじゃなく、普通に書ける)」と書くことに前向きになれる子どもが多かったです。
・「作家の時間」を通して子どもたちが身につける力にはどんなものがありますか?
→自己選択・自己決定する力。「次はこんな作品を書こうかな?」と想像していることを想像で終わらせずに、実際に形にしてみる力。試行錯誤し続ける体力養えると思っています。★
・これから「作家の時間」を実践したいと思っている先生たちへのアドバイスをお願いします。
→自分のできるところから少しずつ始めることで、次が見えてきます。

●以下は、これから「作家の時間」に取り組んでみたいと思っている先生たちから出された質問に答えてもらいました。

・「何を書いてもいいんだよ」は慣れてくればいいと思いますが、最初はどうしているのですか?
→遠くから見守ります。「作家の時間」を始めた頃は、待てなくて子どもにいろいろ言っていましたが、あまり効果がありませんでした。
・効果的な導入の仕方(書くことへの意欲づけをどのようにしているのか)を教えてください。
→書くネタを一緒に見つけて、一作品書き上げてしまうことが大事かも、と思っています。あとは、時々声をかけながら待ちます。
・本当に書けない子へのフォローの仕方を教えてください/どうしても書かない子の指導や教室内にいる多様な子の指導について、学級経営の考え方を教えてください。
→その子の好きなものやことを聞いて、詩にします。信頼ベースの学級ファシリテーションのペアトークで使う「質問の技」でオープンクエスチョンをして深掘りしていきます。ひらがなが書けない子には、別の紙に書いて、それを原稿用紙に写せるようにしたこともあります。友達と合作したり、翻作(首藤先生)という作品の作り方をミニ・レッスンに取り入れたりしました。
・国語の単元で「作家の時間」を組み込むのは難しいですか? 定期的に時間をとらないとダメなのですか?
→国語の「書くこと」の単元を「作家の時間」と位置付けて、指導事項をミニ・レッスン化していくことで、テーマ固定の「作家の時間」ができるようになります。また、本にもありますが、可能なら週2で定期的に「作家の時間」を設定すると効果が出ます。高学年はそもそも国語の時間が少ないので週1が限界だなあと感じています。
・教科書も教えているのですか/教科書とは対応しているのですか?
→上記と重なりますが、教科書を生かして「作家の時間」を作っていくという感じです。
・「書き手を育てる」という発想はとてもいいと思いますが、出版しない子、作品を完成しない子の評価はどうしているのですか?
→テーマフリーの作家は、評価に入れていませんでした。テーマ固定の作品は教科書を使って指導しているのでいわゆる作文という扱いで評価に入れました。
・年間を通した子どもの成長はどのような形で明らかにしているのですか? また、それを達成するために、具体的にどのようなことをしているのですか?
→出版をしていう時には、前書きをつけて成長しているところを可視化しました。同時に保護者にも伝わるように意識して前書きを書いていました。学校事情により、実際に出版までできたのは1校のみです。その後は、個人で作品ファイルを作ってためていく、個人出版に変えました。
・学年の歩調のそろえ方や、管理職に理解してもらえる方法について何かいいアイディアがあったら教えてください。
→横浜時代には、自己観察面談で校長に話しました。話す必要が出てきたので話した、という少し後ろ向きな感じですが、保護者に理解してもらえるのであればOKという、教員の実践の多様性が認められている職場でした。その後は、国語の発展的学習という位置付けで学級だよりに書きました。
・「作家の時間」に対する保護者の反応があったら、教えてください。
→「自分の娘がこんなことを考えていたんだ。」「得意げにHave Fun(出版物の名前)を見せてくれました。」「最初は自分の子供の名前がなくて焦りましたけど、聞いたら何を書こうか考えているんだと言っていて……ようやく自分で作品が書けたんだと安心しました。」「国語の力が伸びました。」などですね。いわゆるクレームというものはありませんでした。
・45分の中で、書く時間を30分とると、ミニ・レッスンや共有の時間が少ないです。
→ミニ・レッスンの時間を極力減らせるように努力しました。また、共有の時間を取らない日もありました。
・子ども一人ひとり書くことに対する課題が違う中、どのようにミニ・レッスンの内容を決め、どう子どもたちに提示したらいいのでしょうか?
→作家のサイクル、作家ノートの使い方、書けそうなことリストなどの書くための最低限のミニ・レッスン以外は、子ども達の様子を見てミニ・レッスンを組みます。また、教科書の指導事項を入れたミニ・レッスンも行います。
・書く内容や文章表記の仕方をどこまで自由にさせていいのでしょうか?
→出版を個人でする場合は、ほとんどのことを認めています。ただ、「作品には読んでもらいたい読者がいる」という、他者の目も意識できるように個別に声かけしています。
・子どもたちは自分の作品をどのようにして修正できるようになっていくのでしょうか?
→出版されて再度自分の作品を読むと、「あ!」とよく言っています。そうやって客観的に自分の作品を見たり、合作で複数の友達と共同して書いたりすることを重ねていくと、自然と良くなっていきます。
気をつけなければならないなあと私が個人的に思っていることは、「私たち大人の基準(または私個人の価値観)でその作品の良し悪しを決めないようにすること」です。
・子どもが自分や友だちと修正・校正していた文に、教師が踏み込むタイミングがとても難しいです。
→本当に正しい介入は、実は存在しないかも、と思います。
・校正は、出版の前に指導するのですか? 間違ったまま出版しても、クレームはでないんですか?
→出版物の前書きに書いたりします。大人が書く文章でさえ、誤字脱字や文章のクセがあります。それを他の同僚に見てもらって修正しながら仕事をしています。子どもにだけ「完璧な清書や間違いのない作品を求めるってナンセンスだな」と思っています。もしかしたら、誤字脱字がない完璧な文章を大人が要求するから書けなくなっているのかな、とも思います。
いくつかの間違いをとても気にしている保護者の方はいませんでした。それよりも書くのが楽しい、学校の勉強が楽しいと言って、毎日学校に笑顔で言って元気に帰宅することの方を望んでいるような気がします。
・インタビューへの回答、ありがとうございました。

●尋ねてみたい質問がある方は、コメント欄か、pro.workshop@gmail.comへどうぞ。

これを「デザイン思考」といいます。
知識をたくさん暗記していい点を取るよりも(これらはほぼすべて、スマホが答えを出してくれるので)、人生ではるかに役立つスキルです(こちらは、スマホは教えてくれません!)。
デザイン思考は、来春出版予定の『教育のプロがすすめるエンパワーメント』の中のキーワードの一つですので、お楽しみに!

2019年9月21日土曜日

「対話」する意味-未知の自分を発見する旅


   『理解するってどういうこと?』の第8章では「夢中で対話すること」という「理解の種類」について次のように定義されています。「アイディアについての集中した対話に取り組み、これまで考えていた以上に言うべきことを自分が持っていたことに気づく。自分や他の人たちの意見やその根拠を理解するまで、他の人たちの考え方を考慮したり、疑問を投げ掛けたりする。自分の思考が思いのほかはっきりすることに驚くこともある。」(294ページ)

いろいろなことを話して、その中身はあまり覚えていないけれども言いたいことは出しつくしてて充実していたと感じる時もあります。しかし、まったく人と言葉を交わさなかった一日だったけれども、アートに触れたり、いい音楽に耳を傾けて聴き浸ったり、本や文章をじっくり読んで満ち足りた気分になる時もあります。これらに共通していることも「これまで考えた以上に言うべきことを自分が持っていた」とか「自分の思考が思いのほかはっきり」してきたという発見が自分のなかで起こったということのようです。

最近読んだ細川英雄さんの『対話をデザインする―伝わるとはどういうことか』(ちくま新書、2019年)には、この「夢中で対話する」という「理解の種類」に非常に近いことが書かれていました。



「自己の内部での思考と表現の往還と同時に、自分と相手との間で起こる相互理解、すなわち、相手の表現を受け止め、それを解釈して、自分の考えを述べる。そうして、自分の表現したことが相手に伝わったか、伝わらないかを自らが確かめることによって、自分の「言いたいこと」「考えていること」がようやく見えてくるということなのです。/しかも、このとき見えてきたものは必ずしも当初自分が言おうとしていたものとは同じではないことに気づくでしょう。というよりも、当初の自らの思考がどのようなものであるかはだれにもわからず、この自己と他者の間の理解と表現のプロセスの中で次第に形成されるものと考える方が適切でしょう。つまり、自分の「言いたいこと」というものは、そんなにすぐはっきりと相手に伝えられるようなかたちでは、ことばとして取り出すことがむずかしいということでもあります。/このように考えると、「私」は個人のなかにあるというよりもむしろ、他者とのやりとりの過程にあるというべきかもしれません。」(『対話をデザインする』32ページ)



細川さんが問題にしているのは、「自己と他者の相互理解のプロセス」のことです。おもに人と人とが言葉を交わす「対話」のことを言っているのですが、エリンさんが「夢中で痴話すること」の定義のなかで述べていることときわめて近い。話し合いやアートの鑑賞や本や文章をじっくり読んでいるときに起こる「理解」を丁寧に説明しています。

いま引用した文章の最後の部分で「「私」は個人のなかにあるというよりもむしろ、他者とのやりとりの過程にある」と書かれているくだりが、私にはとくに大切に思われました。これが「理解する」という営みの核心を言い当てていて、エリンさんの言う「これまで以上に言うべきことを自分がもっていた」「自分の思考が思いのほかはっきりすることに驚く」ということが起こるいわれを説明しているように思われるからです。「夢中で対話すること」が重要な「理解の種類」となる根拠を言い当てていると思われるからです。

相手が話していることや本に書かれていることの内容がわかるということは、半分以上「自分の言いたいこと」がかたちをとってあらわれることだということでもあります。そうでなければおそらく人の言ったことが「腑に落ちる」ということはありません。

翻って、「自分の言いたいこと」を人にことばで伝えるということは「自分に向き合う」ことだと細川さんは言います。そして「自分に向き合う」とは「このテーマと自分との関係、すなわち、自分自身の立てたテーマが、自分の本来の興味・関心とどのようにつながっているかを通して、自らを相対化し、自らが何者であるかを自覚すること」だと言うのです(『対話をデザインする』39ページ)。これは「理解する」ことで人が何を学ぶのかということ、あるいは「学び」にとって一番大切なことはどういうことなのかを示した言葉でもあります。これが起こるかどうかが「理解する」行為が成り立つかどうかの分かれ目だと思いますし、「本物の学び」となるかどうかの分かれ目だと考えます。

では「対話」を通して理解するためには何が必要か。細川さんが言うのは「ひたすら相手の話を聴きながら考えること」であり、その上で「物語を聴く」ことです。「物語を聴く」とはどういうことか。



「どんな相手にもまた、自分と同じ毎日の生活があり、そこには、さまざまな物語があることを受け止めるということが意味を持ってきます。この場合の物語というのは、その人個人の内部にある、さまざまな経験とその記憶です。/相手のことばに耳を傾けることは、相手の言いたいことの背景や事情の中に、必ずやその人固有の経験とその記憶としての物語のあることを知ることになります。/相手の中の物語を知ることは、たとえその人とは立場や考え方・価値観は違っていても、その人も同じ人間であるという思いを強くします。よりいっそう相手の話を聞こうという気になりますし、それはおのずと相手への共感へと結びつきます。」(『対話をデザインする』124125ページ)



細川さんは「物語を聴く」ことによって「自分の中の物語にも意識的になれる」と言います。「共感」とは、相手の「物語」を知るにとどまらず、「これまで以上に言うべきことを自分がもっていた」ことに気づくことであり、「自分の思考が思いのほかはっきりすることに驚く」こと、すなわち相手の「物語を聴く」ことによって「自分の中の物語」を発見して、それまでとは違う新しい自分と出会うことでもあります。私にとっては、この文章を書きながら、エリンさんの「夢中で対話すること」と細川さんの『対話のデザイン』がこのように重なってきたことが思いがけない喜びでもあり、発見でもありました。それは、他ならぬ私自身が二人の文章に「共感」を覚えている証なのかもしれません。

2019年9月14日土曜日

自分の立ち位置を「書き手」にする

 前回の詩のワークショップについての記事を読みながら、「プロの詩人や作家が各ワークショップのチューターを務めていることも特徴的」と読み、「書き手」が教えてくれるワークショップであることの魅力を感じました。

 ライティング・ワークショップでは、「教師はモデル」で、「書き手が、書き手を教える/育てる場だ」と、よく言われます。しかし、そのためには、教師は「自分が書き手だ」というところに立つ必要がでてきます。

 教員経験も長く、教員の指導も行っているレジー・ラウトマン(Regie Routman)には、(直訳すると)『子どもの詩~小学校3,4年生に、詩を書くのが大好きになるのを教えよう』という書名の本があります。(これはシリーズで「幼稚園用、小学校1年生用、小学校2年生用」も出ています。)★ 

 題名どおり、子どもが詩を書くのが大好きになるような本ですが、この本の中でも、教師が書き手になることが奨励されています。ラウトマンも、自ら、生徒の前で、考え聞かせをしながら、詩に取り組むところを見せたりもしています。

 生徒に教える自由詩を今までに書いたことのない、4年生担当の先生も登場します。もちろん、生徒の前で考え聞かせをしながら詩を書いた経験も、生徒に見える場所で詩を書いた経験もありません。

 この先生は、生徒の書く時間に、生徒が見える場所で自由詩を書くことにトライします。この先生の下書きは、線でいっぱい消したり、書き込みがたくさんあったりします。また、自分がキックボールのメンバーに呼ばれるかどうか、不安も感じながら待っていた時間についての詩だったので、こういう時間も、詩の題材になることを生徒も学び、自分にとって、ちょっと困難な時間を詩の題材に選ぶ子もでてきたそうです。その詩を書くプロセスと詩が、生徒に好影響を与えているのがわかります(24ページ)。

 教師が書くプロセスを見せたり、段階を追った下書きを見せたりすることが、いかに効果的かは、『イン・ザ・ミドル』の「教師が書くプロセスを見せる」166―168ページ、「教師が自分の書いた詩を使って教える」168―174ページにも、詳しい具体例が載っていますので、ご参照ください。

 長年、よりよい授業を追及してきた実践者アトウェルであれば、「ワークショップでの私は、経験豊かな書き手・読み手です。どうすればいいかを生徒に示し、役立つ助言を与え、自分がしっかり理解した上で生徒に伝えています」(『イン・ザ・ミドル』36ページ)と言い切れます。でも、自分を「経験豊かな書き手・読み手」と認識できるまでには時間も労力もかかりそうに思えます。

 時間も労力もかかるからこそ、上の4年生担当の先生のように、まずは、自分を「書き手」の立ち位置に置くこと、そして、そこに留まり続けることが必要なのかもしれません。

 アトウェルは、書き手として、あまり自信のない教員に対して、以下のようにも書いています。

 「もし、あなたが、書き手としての経験に乏しく、自分の書くプロセスがどのようなものかを実感できていないならば、1行ずつ空けて書いたり、メモ書きを使ったりという方法を、実験的に試してみる機会だと考えてください。生徒たちに、こういう方法をやってみたところ、こんな結果を出せたのだと伝えればよいのです。生徒たちにとって大切なのは、生徒たちよりも、ほんの少しだけであっても先輩の書き手が、紙を目の前にして考え、その考えを変えたり、どんなふうにすればよい文になるのかに思いを巡らしたり、自分らしい文や内容をつくり出そうとしている、その実際の姿を見ることなのです」(『イン・ザ・ミドル』167―168ページ)

*****

 実はアトウェルも、「1980年3月の朝、初めてライティング・ワークショップを行った日には、ワークショップに、私自身に、そして生徒に何を期待できるのか、まったくの未知数」(『イン・ザ・ミドル』92ページ)だったとのことです。

 アトウェルの場合は、ライティング・ワークショップを行いながら、基本的な原則をつくり始めます。半年後には「ワークショップで期待すること」という、以下のような短いリストができたそうです。

 ・自分で取り組む題材を決めて発展させること
 ・毎日のワークショップに「執筆中ファイル」を持ってくること
 ・他の人のフィードバックをもらうまえに、自分の書いたものを批評家のような目で読み直すこと
 ・たくさん書くこと
 ・書くプロセスを試してみること

                   (『イン・ザ・ミドル』92ページと94ページ)

 未知数で始めたライティング・ワークショップ。そして、その半年後にできた上記のリストを見ると、「期待すること」は、教師が「書き手としての立ち位置」にいるからできたリストのように思います。「書き手」として必要だと思うことから、生徒ができそうなこと・必要なことを、具体化したリストのように思えます。

 授業に「期待していること」を具体的に書き出してみる、それが「優れた書き手(あるいは、優れた読み手・優れた学び手)」が行っていることかどうか、を考えてみる、そんなところから、「書き手として、書き手を教える」という目標への道筋が見えてくるのかもしれません。

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★Regie Routman著 Kid's Poems: Teaching Third and Fourth Graders to Love Writing Poetry (Scholastic, 2000). タイトルの副題の3,4年生(Third and Fourth Graders)のところが、幼稚園 (Kindergarten)、1年生 (First Graders)、2年生 (Second Graders) になっている本も同じ著者、同じ出版社から刊行されています。

2019年9月6日金曜日

イギリスにおける詩創作ワークショップ


 島根県立大学の中井悠加さんが、とても面白い(教師対象のライティング・ワークショップの研修と捉えられる)コースを紹介してくれたので、そのまま以下に掲載します。

イギリスのArvon Foundation(アーヴォン・ファンデーション)は、全ての「書く人」を対象に様々なクリエイティブ・ライティング(例えば、詩、小説、テレビ番組の脚本、コメディー、グラフィックノベル、児童文学、フィクションなど)のワークショップを提供している基金団体です。
アーヴォンでは、4つのライターズ・ハウスと呼ばれるイギリスの伝統家屋を地方にかまえ、毎年5日間の宿泊講座を年間で約100回開いています。アーヴォンと契約したプロの詩人や作家が各ワークショップのチューターを務めていることも特徴的です
 20119月に、デヴォン州に建つTotleigh Barton(トートレイ・バートン)というアーヴォンの中でも最も古いライターズ・ハウスで開かれた「詩を書き始める(STARTING TO WRITE POETRY)」というワークショップに参加しました。
 「初心者の書き手や、何か新しいものを試してみたいと思っている人に向いた講座です」という説明に強く惹かれ、その頃はまだ海外に出たことも無いのを忘れて思わず申し込んでしまったのを覚えています。
 チューターはAntony Dunn(アントニー・ダン)とCatherine Smith(キャサリン・スミス)という2人の詩人。参加者は私を含めて14人の、高校生から退職後の方々まで様々な年齢層が集まりました。
 トートレイ・バートンは、わらぶき屋根の2階建て家屋です。1階には、食卓としても使用するワークショップの作業ホールが1つ、「シッティング・ルーム」と呼ばれる大きな部屋が1つ用意されていました。2階には個人部屋と図書室が設けられており、図書室には詩集や小説などが保管されています。毎日の夕食はグループ当番制で、配られたレシピをもとに相談しながら料理をします。
             写真① トートレイ・バートンの概観    


                 写真② 入り口の階段
 
               写真③ 2階の図書室    

          写真④ 食卓でもありワークショップの作業ホールにて

5日間の基本的な日程は全ての講座に共通しており、朝に書く時間、昼に個人指導、夜に朗読の時間が設定されています。下の表に、5日間のおおまかな活動の内容を示しました。1から14の番号を振ったものが書く活動です。
                 スケジュールの表

朝は、それぞれの活動につき1つの詩を書くことを中心としながら、【】で示したように詩を読む場面もたくさん設けられています。朝の書く活動については次回以降でもう少し詳しく取り上げます。
お昼の個人指導では、これまでのワークショップの中で書いた詩について、チューターと1対1のカンファランスが20分ずつ行われます。

         写真⑤ カンファランスの時間割を決めるメモ。
        それぞれが好きなところに自分の名前を書いて決めます

小さな文法の誤り(冠詞や時制など)を訂正したり、翻訳間違いと思われるような箇所に代わりの単語を提案したりはしましたが、その他大きな修正を加えられることはありませんでした。書いたことそのものを尊重してくれながら、その後も再び書き直すことを励ましてくれるような肯定的な声かけをたくさんいただきました。

● あなたは力強い想像力を持っている。このアイディアは他の誰も持っていない、本当に〈あなたの詩〉を書いたんだよ。
● とても美しい。この2行目がとても好きだ。
● あなたの詩には短い言葉を使うという規律があるようだ。それがとても読みやすくしているし、簡単な詩の中に大きなアイディアが詰まっている。
● もっと(言葉の壁に)苦悩しているのではないかと不安だったんだ。ワークショップのアイディアを良い詩にしてくれた。とても嬉しい。よくやった。素晴らしい。

これらの言葉は、私の詩を読んだチューターのアントニーがカンファランス中にかけてくれたものです。ExcellentBrilliantGreatGoodBeautiful…と、「ほめる言葉」と辞書で引いたら出てきそうなポジティブな言葉を浴びるように受けた20分の間に、詩を書くことに対する不安は「書いて良かった」という心の底からの充実感にすっかり変わっていきました。
夜には、前半は2人のチューターやゲスト詩人によって自作の詩の読み聞かせが行われます。ゲストで作家が来ることも全ての講座の特徴で、この時はJohn MacCllough(ジョン・マカロー)がやって来ました。

  写真⑥ ゲスト詩人の朗読会は庭に設置されているテントの中で行われました。
朗読会後の雑談の様子。

後半はシッティング・ルームで参加者自身が詩を朗読する会が開かれます。「詩の朗読会①」では図書室から気に入った詩作品を2編選んで、全員の前で1人ずつ朗読します。
私は日本の詩や俳句を他のメンバーに聞いていただく良い機会だと思い、日本から持参した鈴木寿雄『はいくのえほん』(2009年復刻版、足立美術館)と、まどみちお/美智子訳『THE ANIMALS』(1992年、すえもりブックス)から2編を選んで読みました。

 

          写真⑦と写真⑧ シッティングルームでの朗読会の様子。

朗読会では、それぞれの詩の詳しい解釈について話し合ったりすることはなく、口頭で読まれたものを全員で共有するだけで次々に読んでいきます。この活動によって、自分の好きな詩を紹介できるだけでなく、チューターを含めた他の参加者が選んだ様々な詩にたくさん触れることができました。
金曜日の午後までに、チューターと参加者はワークショップにおいて自分が書いた詩の中から2編選び、それらを一冊の詩集にまとめます。上の表にある「詩の朗読会②」において、それぞれが選んだ詩を朗読するのです。

            写真⑨ 詩集のタイトル候補と投票の様子  


            写真⑩ 完成した詩集「Swallow This

詩集の作成とその朗読に向けて詩を選んだり書き直したりするために、私たちはたくさんのことを求められました。まとめると、次の3つになると思いますが、5日間で一番苦労した時間だったと感じます。
1 朗読会という場や詩集という、発表の場、読み手や聞き手に対する意識
2 5日間の中で自分が取り組んできたことへの振り返り
3 自分が書いたものに対する自己評価

以上のように、書く時間(詩をうみだす時間)と読む・聞く時間(詩にふれる時間)が交互になるように設定されています。そして最終的に、自分たちの詩集の刊行と朗読という形による発表の場によって締めくくられています。
チューターのアントニーは、初めに全員で顔合わせをした時に、私たちに次のように言いました。

(講座名の)「書き始める」というのは「読み始める」ということも意味する。読むことを続けること、自分たちの読みを深めること、などにもつながる。とても重要なことは、私たちは書くことと同様に読むことについてもたくさん考えるということだ。読むことや読むことを学ぶことは、確実に書くことに対して不可欠だと思っている。”

この発言からも、うみだす時間・ふれる時間が交互に設けられていることを大切にしていることが分かります。それぞれの時間に行う活動が有機的に作用しあって、参加者の表現する力と読む力が相互に高められるような構成になっています。
次回は、朝の「書く活動」からいくつか取り上げてご紹介します ★★

Arvon Foundationのウェブサイトでライターズ・ハウスの様子や今年のワークショップ一覧を見ることができます。講座の予約もウェブ上で可能です。https://www.arvon.org
★★ また、このワークショップについての論文も書いています。中井悠加(2016)「ワークショップ型詩創作指導による学びの形成—Arvon Foundationの取り組みの検討から」『学校教育実践学研究』第22巻、pp.65-77