2024年4月26日金曜日

今年から作家の時間を始めたい先生へ



 4月から、作家の時間に新しく挑戦したいという先生方がいらっしゃるのではないかと思います。子どもたちが自分を表現することや本を作ることに夢中になれる教え方・学び方です。ぜひとも挑戦してほしいのですが、これまでの教科書主導の国語とは大きくスタンスが異なる学び方であることは事実。始めることに躊躇される先生方も多くいらっしゃることと思います。今回は、そんな方達を少し後押しできることを願って、アイデアを捻り出し、さいごに、そんな先生方にあるお誘いをしたいと思います。


ますます多様な子どもたちが学ぶ教室のために


 作家の時間を選ぶメリットの一つに、習熟の差があっても自分らしくいきいきと学べることが挙げられます。先月号でもご紹介しました弘前大学教育学部附属小学校では、二つの学年が同じ教室で学ぶ複式学級を行っていて、習熟に差がある児童が学ぶ教室をどのように作れば良いか、ヒントをみつけに本校に先生方が来てくださいました。複式学級でなくても、どの学校の学級でも、相当に習熟に差がある児童が集まって学んでいる状況があります。配慮が必要な児童ばかりではなく、生活経験、家庭での経済状況や学習文化など、子どもたち一人ひとりの多様化は進み、複式学級の先生方の悩みは、決して特別なものではありません。作家の時間は多様な子どもたちが、ときに個別的に、ときに協働的に学ぶ、土台(プラットフォーム)になります。しかし、作家の時間で学び始めることへの逆風もあることは事実です。


作家の時間の逆風はたしかにある


 例えば、教師の働き方改革に伴う年間授業時間数の削減です。いわゆる「余剰」と言われていた標準授業時数以外の時間が大幅にカットされています。学習指導書などで示した時数通りに学習を行っているのだとすれば、作家の時間を行う時数どころか、担任の特色や児童の意見を取り入れた開発単元などは、諦めた方がよいでしょう。

 また、教科担任制というのも一人ひとりの教師の裁量をへらしてしまう要因の一つです。一人の担任がほぼ全ての教科を担任していた頃は、社会や理科で学んだことを表現する作家の時間のユニットなどを行っていたこともありました。けれども、今では、教科担任制では各教科を担当する教師同士の調整が難しく、行うことが難しいユニットかもしれません。また、書写や小単元だけを切り分けて、担任ではない教師が担当する教科分担も見受けられます。効率的ではあるでしょうが、教科だけでなく、内容までも切り分けてしまっては、子どもの学びの文脈を生かしたダイナミックな学習はどんどん端へ追いやられてしまいます。

 上のようなことは、効率的に教科書を消化していくという発想を、より絶対化させてしまいます。子どもの学びにはそれ以外にももっと多様な側面があることを、忘れ去られていってしまうのです。少ない時間で、遅れなく、教科書を履修させていく教師が、良い教師ということになっていくでしょう。

 私たちは、そのような人間味を欠いた学習観には違和感を感じています。学習とは、切り分けて網羅的に履修するものではなく、もっと丸のまま、生のまま、楽しむものであると考えています。きっと、作家の時間のようなワークショップの学び方に共感してくださる読者の方も、同じ思いでいらっしゃるのではないでしょうか?



作家の時間を後押しする風が吹いている


 作家の時間を後押しする風も吹いています。「学習の個性化・指導の個別化」と「協働的な学び」による「主体的・対話的で深い学び」の推進です。子どもたち一人ひとりが、自分の個性や特性を生かした学びを自己選択し、自己の可能性を最大限に発揮できるよう、教師は学習環境を作り出していかなければなりません。また、一人ひとり固有の学習を行った子どもたちが、それぞれの持ち味を生かして協働的に学びます。協働的な学びには、子ども個人としての成長が不可欠です。当然ながら、既存の一斉的な学習だけでは、この目標は達成できません。作家の時間のプラットフォームを活用して、国語の書くこと・読むことだけでなく、他教科などでも応用していく必要があります。

 また、「生徒指導提要」には、学習指導と生徒指導を切り分けて学ぶのではなく、一体のものとして学習していくべきであることを明確に打ち出しています(『生徒指導提要』 第2章参照)。日常の学習指導の中に、子どもとの対話の時間を設けたり、子どもたちの個性の伸長を支える関わりを行っていかなければなりません。作家の時間のように、子どもたちがテーマを自己決定する機会をつくり、その問題解決や自己実現を教師が支える関わりは、「発達支持的生徒指導」と呼ばれ、注目度がますます高まっています。

 このように、制度面としては、作家の時間を行うには十分な裏付けが揃っています。しかし、教師の心に潜む新しい学びへの不安は、逆風ばかりをクローズアップさせ、後押しする風を感じなくさせてしまい、私たちが本当に目指したいものを曇らせてしまいます。私たちもそうでした。では、どのようにして、今年度から作家の時間を始めていったらよいのでしょうか?


作家の時間を回し始めるアイデア


1、小さく始める


 まずは、いきなり大きく始めないで、自分が把握できる小さなことから始めてみるのはどうでしょうか? 作家の時間の魅力が子どもに伝わり、先生も子どもたちの姿が変わることを確認することができれば、実践への逆風も小さく感じられるかもしれません。

 たとえば、小さな単元として始める、帯単元としてゆっくり始める、などはいかがでしょうか? 子どもたちが小さな作家のサイクルを回すことができれば、自由に書く楽しさを感じられる子どもは増えていきます。また、定期的に表現できる場があることを知れば、次に何を書きたいかを考えることができます。自由に書くことの楽しさを教師も子どもも、まずは体験してみることが大切です。『作家の時間』の文中に「週に2〜3時間の確保が必要」と説明されていますが、小さく始めてエンジンをかけることは、無駄にはなりません。


2、全体に、個別に、ユニットを調整する


 全てが自由であると、不安を感じる児童がいることも事実です。また、制限がないことで、とてつもない量を書く児童もいます。書いたものを大切にしてあげたい教師のスタンスもあるので、仕事量が多くなってしまうことへのハードルもあるかもしれません。不安を感じやすい子がいる場合は、テーマに悩む児童の好きなことやしたことをベースに、教師が一緒にテーマを考えてあげることも効果的です。また、全体にある程度自由度を制限したテーマを設定することもよいかもしれません。あえて最初は時数を制限して、簡潔に書けるようにすることも可能です。子どもたちの実態に応じて、個別的に、全体的に、ユニットの調整をしていきます。作家の時間は、子どもたちの自主性に全てを任せると誤解している先生方を見かけますが、それは、作家の時間に熟達した子どもか、または最初にフリー・ライティングで書く喜びを感じるために行うユニットであって、自主性に任せるばかりが作家の時間のユニットではありません。その子が学ぶに相応しいユニットを、全体に、または個別に設定することが、作家の時間を自由放任の放ったらかしワークショップにしない鍵になります。(『社会科ワークショップ』の第6章「ユニットづくり」参照)


3、隣の先生と一緒に実践する


 ちょっと勇気が必要ですが、隣のクラスの先生に声をかけて、やってみたいことや実現したいクラスの姿を共有し、一緒に実践してみるというのはいかがでしょうか? 実践仲間が隣にいれば、格段に取り組みやすくなります。 学年の先生方の関わり方は、子どもたち同士の関わり方に反映をしていきます。先生同士の関わりが薄かったり、攻撃的な関わり方であれば、学年経営は絶対にうまくいきません。先生の不安は、無意識的にも非言語的にも、子どもたちへと向かいます。不必要に不安が前面に出た関わりになったり、先生が攻撃的に出て自分自身の不安を覆い隠そうとしたりします。そんな状況で作家の時間を実践しようとすると、子どもたちの表現を認める余裕がなくなったり、子どもたちが書くときに味わう「産みの苦しみ」に寄り添うことができなくなります。

 教科書主導の学習は、先生が公権力に寄りかかることができるので、教師が安心できる学び方ではあります。一方で、児童生徒中心の学習は、子どもたちを大切にすればするほど、教師はマニュアルから離れることになり、心のどこかに不安を常に抱きながら学習を運営することになります。その際、近くの先生が一緒に実践していれば、こんなに心強いことはありません。今日の子どもへの関わりについて相談に乗ってもらったり、一緒に教室の雰囲気をみてもらうことは、作家の時間だけでなく、日常の学習文化を形成していく上でも、大きな力になるでしょう。


4、保護者に作家の時間を理解してもらう


 隣の先生以外にも、保護者を巻き込むと、実践のハードルは下がります。私は、いつも最初の懇談会で、自分が「自立的な学習者を育てること」を大切にしていると保護者に説明していました。書くことで言えば、「良い作品」よりも、「良い書き手への成長」を大切にしたいということです。たとえ、稚拙で小さな一歩でも、それが自分の意思で踏み出した一歩であれば、やらされた一歩よりも何倍も価値があると伝えていました。点数、評価、作品の出来不出来など、一見わかりやすい指標は、子どもたちの本質を隠してしまいます。私たち教育の専門家は、保護者には見えにくい価値や大切にすべき視点を、しっかり伝えていかなければなりません。作家の時間で子どもが生き生きと学ぶためには、下地が必要であるように思います。



作家の時間の先生として、書くことを大切にした生き方へのお誘い


 最後に、弘前大学教育学部附属小学校の小田桐先生が私に送ってくださったフィードバックの一部を紹介します。


 まずは、読書の時間、休み時間、私も本を読むようにし始めました。子ども達は,「何読んでるの?」とまずは本を読み始めた私に興味をもってくれています。読んでいる本を一緒に読みながら楽しんだり、思ったことを話したりしています。そして、一人一人がリーディングログを付け始めました。「記録していくのってなんかおもしろそう!」と、すきま時間にはいつもタブレットを触っていた子も、本を読み始めました。次は、お互いに読んだ本を紹介し合う時間をとってみようと思います。


 以上のように、作家の時間や読書家の時間を始めた先生に見られる変化の一つに、ご自身も一人の作家として、読書家として、一歩を踏み出し始めたことが挙げられます。先生自身が書く楽しさを感じていないと、作家の時間はウソを並べるだけの学習になってしまいます。先生自身も、書くことで何かを生み出し、自分を振り返り、書けなくて苦しんで、良い言葉を見つけて喜び、新しい自分を発見し、古い自分を綴じ込んでいく営みを続けていきます。書くことがライフワークのひとつになるのです。作家の時間で学ぶ教師としての生き方を踏み出すことになります。これほどワクワクすることはありません。

 今年から作家の時間を始める先生たちには、実践がうまくいくかいかないかは脇に置いて、私たちと一緒に書くことを大切にする生き方に挑戦し、子どもたちと一緒に自分自身も、「書くことへの旅路」を楽しんでみませんか? ライティング・ワークショップを始めることの本当の意味は、実はそこにあるのかもしれません。


新鮮な気持ちを忘れないように





2024年4月20日土曜日

生きた果実をそっと取り出すために

  管啓次郎さんの『本は読めないものだから心配するな』(左右社、2011年;ちくま文庫、2021年)という本を読んで救われた思いになったことがあります。〈読める〉とは、つまりすっかり理解することができるということ。その書き手が述べていることについて、わからないと思える部分がいつも残ることにずいぶん頭を悩ませることが幾度もあったからです。

 その管さんの最新の書評集『本と貝殻』(コトニ社、2023年)を最近読みました。最初の章「読むことに向かって」の冒頭の「立ち話、かち渡り」のなかで『本は読めないものだから心配するな』で彼が書きたかったことが二つあったと書かれています。一つは「本に冊という単位はない」ということ、もう一つは「人はそのときの自分が読めるだけのことしか読めない読まない読みそこなう読もうとしない読むことを知らない」ということ。

 読書とはいわゆる足し算ではありません。管さんの言うように本は「読めない」ものだとすれば、では、本が「わかる」とは何か? 何か自分にとってのそのときそのときの中心に、読み取ったことを関連づけることに他ならないのではないでしょうか。「わからない」とは、その関連づけができなかったということになるように思われます。

 ジャミカの「理解するってどういうこと?」という問いに対するエリンさんの答えは『理解するってどういうこと?』の359ページから358ページにかけて、この本に書かれたことをまとめるようなかたちで記されています。その上で「本書の読者たちに私が望むのは、自分の教えている子どもたちに寄り添いながら、ジャミカの質問に対する自分の答えを考えていただきたいということです」(『理解するってどういうこと?』358ページ)とエリンさんは言っています。

 ジャミカの質問に対して答えるヒントが『本と貝殻』の「立ち話、かち渡り」には書かれています。「立ち話」?「かち渡り」?管さんの言葉を引きましょう。

 

「立ち話について。本を冊という単位で考えるな、本を擬人化するなとは何度となくくりかえしてきたぼくの基本的な考え方だが、ここではそれをあえて裏切る。知らない本たちのことを知らない人間のごとくに考えてみるのだ。未知の人は多い。だが生活空間で何度もすれちがううちに顔見知りになったり時には言葉を交わすようになったりした相手もそれなりに多いだろう。本についてもまったくおなじことがいえる。はじめは噂話で名前を聞く。ついで背表紙や表紙を見かけ、存在を認識するようになる。あるとき偶然に話をすることになる。街角や駅での立ち話。時間は三分でも十分でも、現実生活において、そんな経験はないだろうか。毎日のように顔を合わせていても、何を話したかまるで覚えていない相手もいる。逆に数年前、駅の雑踏でばったり合い、三分間だけ橘差異をしたその内容が強烈に記憶に残っているのみならず、その後の考えや行動に影響を与えた人もいる。」(『本と貝殻』22ページ)

 

 本と「立ち話」するとはどういうことなのでしょう。管さんは本を手に取ってランダムに開いて「一瞬の閃光のような『閃き読み』をする」ことだと言っています。その部分だけで十分わからなければページをさかのぼることで、もう少しわかるようになるかもしれません。本屋さんや図書館で、結構やっていることだと思います。自分に既知のことがらと思いがけず結びつくこともあるでしょう。

 「かち渡り」の方はどうでしょうか。「かち渡り」とは「徒歩で渡る」ことです。この本については何かを学びたい、何かをつかみとりたいときにやることだと管さんは言います。

 

「前後なく脈絡なくページを開いて、少しでも飲みこめるところがないかを探す。囓ってみる。そこに踏み石を投げ込む、ひとつの踏み石の大きさは1センテンスでも半パラグラフでもいい。大小があっていい。ぐらぐらしていてもいい。300ページの本なら、そんな石を百個も投げこめば、いよいよ頭から通読する準備が整ったといっていい。目標は、あくまでも向こう岸にわたること。途中の流れや水音やそこに住む生物やあたりの景色や空の色まで楽しむ余裕はないだろう。それでいい、とくかくわたってみること、するとわたり終えたときに、自分が既に不可逆な変化を経験したことがはっきりとわかり、たったいま決行したばかりのわたりを今後何度でも必要があるだけ/心ゆくまでくりかえしていいことも自覚できる。」(『本と貝殻』24ページ)

 

 「立ち話」にしろ、「かち渡り」にしろ、管さんが言っているのは本との付き合い方の基本形です。自分の中心と本に書かれてあることを関連づけるための方法だと言ってもいいでしょう。「読めない」し、そのままくりかえすこともできないのだとすれば、私たちのやるべきは、自分の既知のことや関心の中心と関連づけることしかない、と言っているようでもあります。

 「かち渡り」については私にも思い当たることがあります。ヴォルフガング・イーザーの『行為としての読書』(轡田収訳、岩波書店、1982年)は、学生時代から繰り返し読んできた本です。いまでも「読めた」という自身はありません。この本について書いたことは幾度かありますが、いずれも「そのときの自分に読めるだけ」のことでしかありませんでした。そのときそのときに、管さんの言う「踏み石」(足場や手がかりのこと)を、『行為としての読書』の難解な記述のなかに見つけて、それについて考えたことをノートしていきました。偶然にも300ページほどの本です。最初は書かれていたことをまとめたようなノートになりましたが、そのノートを手元に置きながら何度か再読するなかで、本に書かれていることを自分の関心と関連づけていきました。「わたり」を繰り返すことで、この本を「読めた」とは思えませんでしたが、貧しいながらも自分の読書行為観をつくることにはなりました。私のばあい、それが『行為としての読書』を理解するということだったと思います。自分のそのときの主題に関連づけて何らかのことをうみだしていく以上のことはないかもしれませんが、それが「わかること」「理解すること」だという実感を持つことはできました。

 『本と貝殻』はおびただたしい数の本についての書評集ですが、その序にあたる部分に著者による一編の詩が置かれています。そのうつくしい一節を引いて終わることにします。

 きみが読むことで

本はその殻からそっと出てくる

きみが心で呼びかけたとき

生身の貝が蓋を開けるように

どちらも生きた果実だ

どちらも生きた知識だ

どちらもひとりひとりの人間を

はるかに大きなものへとつなげてくれる 

(『本と貝殻』より)

 

2024年4月13日土曜日

書いている作品を途中でやめる

 「うまくいかない下書きをやめることは、なぜそれがうまくいかないのかを、書き手が認識することである。それは書き手にとって、成果であり、学びのプロセスの一部だ」  

                         ーーLynne R. Dorfman

 書いている途中の作品について、「書き続ける/完成させるのをやめる」ことが必要な時もある。そんなトピックの記事(★1)を見つけました。メンター・テキストなどに関わる著書もあるドーフマン氏(Lynne R. Dorfman)が書いています。上の引用も、その記事の中の文章です。

 これを読みながら、「いつ、どのように」書き続けることをやめるのかという判断は、書き手に必要なスキルの一つだと実感しました。

→ リーディング・ワークショップで、「自分に合わない、楽しめない本をやめる」ことは、ミニ・レッスンやカンファランスでよく取り上げられています。リーディング・ワークショップの場合は、選書を教える際、「自分にピッタリの本とは」を考える中で、「自分に合わない本」や「こういうときには、その本を読むことをやめる」というトピックを考えて、クラスでリストをつくるようなこともあります。

→ この流れで考えると、ライティング・ワークショップでは、「自分にピッタリの題材を見つける」ことを教える中で、「書き続けられない」時は「やめる」という判断をする、というミニ・レッスンを入れても良いのかもしれません。

 ドーフマン氏もこの記事の中で、まずは「自分の書く題材をどうやって上手に選ぶのかや、書くジャンルや構成を決めること、そして、書きたいと思うことを友だちに話してみる(あるいは声に出して自分に話してみる)などを、まず押さえています。

(→ 取り組む題材を注意深く選択しても、時には、暗礁に乗り上げることもあります。私自身、書いている間に、最初に書き始めたものの焦点が変わり、それまでに書いた部分を大きく削除😢することもありますし、どんどん書きたい内容が増えてきて、収拾がつかなくなるように感じることもあります。)

 ドーフマン氏は、6年生の生徒たちに「いつ、現在、書いているものをやめて、新しい作品に移るか」というトピックで対話し、子供たちは、ペア等で話して、出てきたものを作家ノートにメモし、それをクラス全体で共有しています。

 その共有されたもの(ブレインストーミングの結果)は11項目紹介されています。(下にURLを記した、この記事では、このリストをワードファイルでダウンロードできます。)

 そしてそれを大きな紙に書き出し、その横に該当する生徒たちのイニシャルを書き込むようにしたそうです。それを見ると、一番多くの子どもたち(20名)がイニシャルを書いたのは、「作品に取り組むことがストレスで、書き続け、推敲するのが苦痛」というものです。その次(17名)は、「焦点がわからなくなって、多くのものを詰め込みすぎて、中心となるものが見つからない」です。

 こういう対話からクラスリストを作成することも、一つのスタートポイントになりそうです。

*****

 面白いなと思ったのは、書き続けることをやめた下書きで、その時点までにつくりだしたものが、「後日、使える可能性がある」ということです。

 ドーフマン氏は、例えば興味深い登場人物、すごい場面、会話で進める等のスキルが、後日、そこから刺激を受けて新しい作品につながるかもしれないと言っています。教師が自分の実例から、こういう例を出せると、子どもたちが、書くのをやめた、その時点までの下書きを保管しておこうと思うきっかけになるようにも思います。

 また、少し脱線しますが、「書き続けることをやめる」という、上で紹介した2項目だけ見ても、以下のように、リーディング・ワークショップでの「今読んでいる本をやめる時」と裏表の印象を受けました。

・ライティング・ワークショップ「作品に取り組むことがストレスで、書き続け、推敲するのが苦痛」

→ リーディング・ワークショップ「読むのが苦痛の本を読み続けるのはやめる」

・ライティング・ワークショップ「焦点がわからなくなって、多くのものを詰め込みすぎて、中心となるものが見つからない」

→ リーディング・ワークショップ「情報が多すぎて、読んでいる本の焦点がわからない」

 このように共通点が見えてくると、読み書きを統合したリテラシー・ワークショップのデモンストレーション・レッスン(ミニ・レッスンのようなもの)のトピックになるかもしれません。リテラシー・ワークショップについては2021年9月11日の投稿「読み書きを統合する時間を設定する」をご参照ください。

https://wwletter.blogspot.com/2021/09/blog-post_11.html

★1 

https://www.middleweb.com/45365/teaching-kids-when-to-let-go-of-a-writing-idea/

Teaching Kids When to Let Go of a Writing Idea

By Lynne R. Dorfman


2024年4月5日金曜日

生徒に読む力と書く力をつけるのに、教科書をカバーする授業でいいのか?

  多くの先生にとって、学校で教えるということは「教科書をしっかりカバーする授業」を指しています。そして、ごく少数の教科書をカバーすることを良しとしない先生は「変わった先生」扱いをされることでしょう★。他のみんなが、教科書をカバーして、それとセットになっている業者テストを生徒たちにやらせることで一つの単元を終わらせ、次の単元に移っていくのに合わせませんから。

 この学校で主流であり続けている授業は、保護者も管理職も体験し、慣れ親しんでいるので(というか、それ以外の方法があり得るのか、とさえ思っていることでしょう!)安心できる方法ではあります。しかし、それは、生徒たちが書くこと、読むこと、聞く・話すこと(+学ぶこと、考えること、問題解決することなど)を好きになり、かつそれらの力をつける方法としては適しているでしょうか?

 そうした授業に対する生徒たちの反応は、「好きになれない」や「退屈」です。教師は教えたと思えても(教えた後にすぐ行われるテストで、それなりの点数は取れたとしても)、身につかない問題を抱えます。結果的に、教師も生徒たちも無駄な時間を過ごしているのではないのか、という違和感をもつことになります。あなたは、もったことはありませんか?

 それを払しょくする教え方の一つが、ライティングとリーディング・ワークショップ(作家の時間と読書家の時間)の実践です。

 生徒たちが書くこと、読むこと、聞く・話すこと(+学ぶこと、考えること、問題解決することなど)を好きになり、かつそれらの力をつける方法として開発されましたので、教科書をカバーしてテストをする授業の課題は簡単に克服されます。

 しかも、日本での10年以上の実践を通して、学習指導要領をはるかに超える力を発揮することも証明されています★。それほど、学習指導要領は生徒の能力を過小評価している、ということです! 学習指導要領とライティングとリーディング・ワークショップ(作家の時間と読書家の時間)を比較した表をつくっていますので、ご希望の方はpro.workshop@gmail.com宛に資料請求してください。

 

 それだけではありません。

SELのスキル(https://wwletter.blogspot.com/2023/02/sel.html および https://selnewsletter.blogspot.com/2023/03/)やEQのスキル多く(https://docs.google.com/document/d/1OcT73YJAurfvj0f09dJ5PaWUGHRsJno_YPfjw83g8sw/edit)が身につきます。

・「思考の習慣」が身につきます(https://bit.ly/3XZmfbh)。

・4Cと言われるクリティカルな思考、創造的な思考力、協働する力、そしてコミュニケーション能力の「21世紀スキル」(や非認知スキルないしソフトスキルのほとんど)が身につきます。

・「社会人基礎力」のほとんどが身につきます。

 

 従来の教科書をカバーする読解と作文の授業をしていて、これらの大切なスキルのどれだけが身につけられるでしょうか?

 その意味でも、ライティングとリーディング・ワークショップ(作家の時間と読書家の時間)の魅力は絶大です。

 

 なお、これまでも教科書の弱点については、繰り返し指摘してきましたので、ぜひ以下の2つの情報をご覧ください。

https://wwletter.blogspot.com/search?q=%E6%95%99%E7%A7%91%E6%9B%B8

https://projectbetterschool.blogspot.com/search?q=%E6%95%99%E7%A7%91%E6%9B%B8

 

 まだ取り組み始めていない方は、今年度こそは、教科書をカバーする国語の授業の代わりに、ライティングとリーディング・ワークショップ(作家の時間と読書家の時間)に挑戦してみてください★★。生徒たちが待っています!

 

★だからといって、ライティングとリーディング・ワークショップ(作家の時間と読書家の時間)が学習指導要領や教科書を無視しているわけではありません。目の前の生徒たちを無視して、学習指導要領や教科書に引っ張られ過ぎた教え方をするのではなく、目の前のいる一人ひとりの生徒たちを中心に据えて、学習指導要領や教科書にも配慮しつつ、結果的に1年の最後にすべてを押さえている教え方をしているのです。

これは、「教科書をカバーcoverするよりも、生徒たちがアンカバーuncoverする教え方の方が、教え方としてはレベルがはるかに上である」からきています。単に教師が提示するのではなく、生徒自身が明らかにする、見つけ出す、発見する、覆っていたものを取り除く教え方です。シュタイナー教育が注目されたり、最近では探究学習が注目されるのは、そのためです。

 

★★上で紹介した以外にも、ライティングとリーディング・ワークショップ(作家の時間と読書家の時間)が、教科書をカバーする国語の授業よりも優れている理由がいくつかあります。

・一人ひとりの生徒がもっている「発達の最近接領域(ZPD)」を反映した形での授業が可能。ZPDについて詳しくは、https://projectbetterschool.blogspot.com/search?q=ZPDを参照してください。それに対して、教科書(ないし一つの教材)しか扱わない授業は、生徒一人ひとりがもっている微妙に異なるZPDを無視した教え方しかできませんから、教師は「教えた」と言えますが、生徒サイドは「学んだ記憶にない」ということが起こりがちです。

ZPDの捉え方と似ていますが、教師は一人ひとりの生徒がもっている知識、情報、学習履歴、レディネス、性格や取り組みの姿勢、対人関係のつくり方、学び方、学ぶスピード、興味関心、こだわりなど微妙に違うことを知っています。そうしたものを考慮に入れた教え方をしようというのが「一人ひとりをいかす教え方」です。逆に、それらをあたかも同じと仮定して教えるのが教科書(ないし一つの教材)しか扱わない授業です。結果的に、生徒が夢中で取り組める割合は、極めて低いことになります。『ようこそ、一人ひとりをいかす教室へ』と『一斉授業をハックする』を参照ください。

「見取りは大事」とは、多くの教師が口を揃えて言いますが、その実践となるととても寂しい現状があります。その理由は、教科書をカバーする(教師が一人がんばり、生徒たちはお客さんであり続ける)一斉授業は見取りととても相性が悪いことにあります。それに対して、ライティングとリーディング・ワークショップ(作家の時間と読書家の時間)では教師が一斉に教える割合(=教師がミニ・レッスンで教える時間)は5分の1とか6分の1ぐらいに限定しているので、残りの時間は生徒を観察したり、カンファランスをしたりして見取りができ(=形成的評価に費やせ)ます。ライティングとリーディング・ワークショップ以上に、「指導と評価の一体化」を実現した教え方はないぐらいです!

・この最後の点は、教科書をカバーする授業とセットになっているテストという評価の仕方のおかしさにつながります。ここでは、二つの風刺画を紹介する形で紹介します。一つ目は、https://projectbetterschool.blogspot.com/search?q=%E5%B9%B3%E7%AD%89で読める上の2つの記事をお読みください。もう一つは、以下のイラストです(教育の世界でも、このようなユーモアのセンスが使われるようにならないと、日本の教科書問題やテスト問題も改善しないのかもしれないと思わされます)。