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2025年3月28日金曜日

作家の時間を通じて、子どもを見る

(全ての人物の名前は仮名です。障害特性や学習場面等にも、ある程度のフィクションが入っています)



作家の時間を通じて成長した夏彦くんと同級生たち

 卒業式が無事に終わりました。卒業生の夏彦くんが学んだ特別支援学級の黒板に、43センチに切ったリボンをさも意味ありげに貼り付けておきました。夏彦くんの最後の身体測定の身長から、1年生の4月に計測した身長を引き算した長さです。それを自分のおでこに貼り付けて下級生とふざけて遊ぶお兄さんは、卒業式でも普段通りに笑って教室の扉から旅立っていきました。卒業式が終わり夏彦くんがいない教室は、残った後輩が何事もなかったように朝の会を送っています。夏彦くんの机には、彼の幾つもの忘れ物が彼の代わりに座っています。


 前回、作家の時間の閉じ方で紹介した夏彦くんに贈る言葉は、卒業式を迎える教室の掲示物として、素晴らしいものになりました。一人ひとりの言葉と写真は、夏彦くんの目に映る学校の風景を想像したものになりました。特別支援学級の子どもたちは他者視点が苦手ですが、彼らなりに十分に活用して作られているように思います。ちょっとズレた感じもまた、彼らの持ち味が生かされた作品になりました。普段、自己表現の場として作家の時間を大切にしてきましたが、明確な相手のいる作家の時間もまた、子どもたちの個性が光る素敵な時間になりました。

https://wwletter.blogspot.com/2025/03/blog-post.html


 夏彦くん自身は、豊かな書き手として成長し、卒業していきました。夏彦くんは、「名探偵シリーズ」のようなタッチの推理小説が好きで、ミルキー杉山のような登場人物が出てきて、謎を解決する物語を自分でもよく書いていました。また、自動車が好きで、好きな車種などを紹介する作品も書きました。後輩やその保護者からファンレターをもらったり、学校司書の先生から褒めてもらったりして喜び、自分の可能性を探究してきました。作家の時間は、確実に彼を成長させてきました。読み書きを教える一教師として、本当に嬉しいことです。


作家の時間を通じて、子どもを見る


 さて、今回は、作家の時間で大切になる「子どもを見る」という視点について書こうと思います。私はこのテーマが好きです。作家の時間を続けている理由は、まさに「子どもをもっと知ることができるから」という点に尽きると思います。


作家の時間と箱庭療法


 私は学生時代に箱庭について学んだことがありました。箱庭とは、砂の入った箱に人形や動植物、建物などを自由に配置して、無意識の表現を通じて自己理解を深めたり、心理的な安定を図ったりする、心理療法の一つです。子どもたちは楽しそうに気持ち良い砂の感触を味わったり、好きなように人形や家具を並べて、子どもたちなりの物語を作り始めたりします。やっぱり、なかなか作り出せない子がいたり、ずっと砂の感触を味わうだけの活動になったりする子もいて、ただ、それを別に否定するわけでもなく、カウンセラー(私のゼミの先生)は一緒に同じようなことをしたり、言語化したりしていたことを思い出します。


 私は作家の時間に箱庭療法と似た感覚を覚えます。


 多くの子どもたちは、お話作りやお絵描きが大好きです。原稿用紙や自由帳、今はタブレットかもしれませんが、そこに人形や建物を配置していくかのように、思いつくままに物語を紡ぎ出していきます。中には、箱庭の砂の感触を楽しむ行動と同じように、鉛筆が白紙に美しく線を描く感触を体で味わう子もいます。書いては消して、書いては消してを繰り返す子や、まったく書かずに何かを考えて時間を過ごす子もいます。それでも、何かを作り出そうと悩んだり困ったりします。そうやって、自分と向き合おうとがんばります。

 箱庭と原稿用紙の違いはいろいろあるでしょうが、言葉を基本にして表現することや、箱庭よりも微調整や修正に手間がかかることが挙げられます。今はタブレットを使って作家の時間を行うことも多いでしょう。言葉の補助的な機能として絵や写真を活用しやすくなり、また、修正校正もしやすくなりました。より、箱庭の特徴に近い状況になっていると思います。(触感などの感覚を充足させることができるという点では、タブレットの作家の時間は劣っていると思います。大きな紙に自由に線を引いていく感覚はかけがえのない体験です)

 箱庭は支援者との信頼関係の上で成り立つものです。安心で安全な場であることを証明する存在が支援者であり、作った子どもの自己理解や気づきを、子どもに合うように言語化してあげたり、子ども自身が言語化できるように促したりする役割を果たします。

 同じように、作家の時間における先生の役割も、その役割を多分に担っていることだと思います。いきいきと表現する子どもたちだけでなく、悩みながら表現する子や表現しようとして消してしまう子でも、先生はしっかり見てあげたい。自分らしく完成できた子どもには、あなたの表現に心が動いたことを伝え、感謝し、一緒に祝えるような、そんな温かい関わりができたらと思います。また、いろいろな困難にぶつかってしまった子どもにも、次の表現活動のステップになるような励ましや、考え続けていた姿勢自体を認められたらと思います。

 たしかに、文章が誰かに伝わるように、目的や様式を理解し、きちんと書ける技術を指導することはもちろん大切です。国語という教科の上で実践している以上、適切に表現し正確に理解することは欠かせないことです。ですから、作家の時間を行う私を含めた全ての先生は、国語という教科への理解を深めていかなければなりません。

 しかし、技術の指導と同時に、子どもの表現を通じて子どもを認めるという視点を忘れてはいけません。かつての時代の先生が、それでも十分子どもとの関係作りができたのは、子どもたちの生活の中での他者との関係作りが多様で、先生以外の大人や社会との関係が十分に存在したからだと思います。家族や画面越しの他者との関係作りに終始してしまっている現代では、先生はもしかしたら唯一の社会との窓口となっている可能性があります。ともすれば、家族との愛着形成でさえ未熟な子どもも多くいるでしょうから、先生と子どもの関係作りはとても難しい時代になっているように思います。


自分を見られたくない子ども


 一方で実際に小学校高学年にもなると、「自分を見られたくない子ども」が確実に存在することも事実です。おそらくそれは、昔からそうでした。けれど、それがより早い時期に、顕著になっているように思います。もちろん、私自身もどうしたらよいか悩みながら、そのような子どもにも自己表現できる機会を作り続けていくようにしています。


 以前、ブログに書いた篤くんは、その一人だと思います。

https://wwletter.blogspot.com/2024/03/blog-post_22.html

 手先が不器用で鉛筆やタブレットを操作するのもどうしても乱雑になってしまいます。そのような理由から、創作すること自体は大好きなのですが、自分の不器用さを隠すようにしてわざと乱雑に書いたり、文章をぐちゃぐちゃにしました。それを誰かに伝わるように整った文章にしてあげようとすると、とても嫌がりました。

 一時期、先生に見られることを非常に嫌がり、書くことをやめてしまったことがありました。振り返ると、確実に私の関わり方の悪いところが出てしまったように思います。彼が表現したいことと、私が表現させたいことの溝が気になり、それを埋めようとして、強引な働きかけになってしまったことが原因だったように思います。「どうせおれは書けない。書きたいものがない」と繰り返しました。

 特別支援学級は特別ではありません。本来どの子も特別であり、一般学級の子どもも自分の特別さを隠すようにして学習することができ、ことなきを得ています。そうすることができない子どもたちが、もしも不適応をおこしたとすれば、もしかしたら一つの手段として特別支援学級で学ぶようになることもあります。一般学級であっても、篤くんのような子どもはどこにでも存在し、できるだけ見られないように息を潜めているか、または、注目を浴びるような行動を意図的に取ろうとしてしまうことでしょう。


「自分を見られたくない子ども」の不安な気持ち


 子どもたちは、小学校高学年よりも前にたくさんの大人に認められ励まされ、そして叱られて、有能感や劣等感と出会います。エリクソンのライフサイクル論にもある通り、昔からそうだったように思います。しかし、他者や世間に適合した体験ばかりが、成功体験であることを学びとって育っている子どもが多くなっているように思います。保護者の思い、先生の意図、友達の雰囲気に自分を適応できたことが、子どもたちにとっての成功体験で、逆に自分勝手に行った活動や冒険(探索活動)、遊びの経験は少なく、基本的自尊感情や探究的な意欲が減退しています。いや、非常に格差が開いているという表現の方が適切かもしれません。

 「見られても大丈夫な子ども」と「見られるのがダメな子ども」の二極化は開く一方です。見られても大丈夫な子どもは、これまで認められてきた体験のおかげで、誰しもが自然に持っている「見られることへの不安」をコントロールすることができます。「見られるのがダメな子ども」は高学年になって、不安をコントロールすることができず、自己表現しないという選択になりがちです。他者の価値観に適合させることに失敗してきた経験などから、不安感情をコントロールする力が未発達なままになっているのかもしれません。人に見られることを避けるようにマスクやフードをしたり、逆に自分も他者を見ないようにスマホに集中したり、「自分を見られたくない子ども」は困難さに直面しています。


作家の時間は、「見られたくない子ども」が自分を見せるチャンスをつくる


 でも、私は「自分を見られたくない子ども」が不安をコントロールする力を成長させるチャンスはまだまだ学校の中に作れるように思います。作家の時間は、「見られたくない子ども」が出せたほんの少しの自分を、先生が認めてあげられるチャンスです。教科書や学校の狙いが強すぎる学習になると、それは他者の価値観に適合した自分になってしまいます。それができなくて失敗経験を積んだ子どもなのですから、同じことの繰り返しになってしまうでしょう。

 そうではなく、作家の時間の作品作りのように、自分の窓をわずかではあるけれど一生懸命開けるきっかけを、学習の中で作りたい。もしかしたらそれは本当の自分が無意識にさまざまに防衛を働かせて変化した姿かもしれません。もしそうであったとしても、子ども自身の表現として自分を見せられたことを、先生は認めて(ときとして遠くから見つめて)、感謝して、一緒に祝うことが、「見られたくない子ども」が自分を見られる不安と向き合い、それと上手に付き合えるきっかけになるかもしれません。

 作家の時間には、子どもたちの多様性を内包する仕組みが備わっています。自分だけでなく、クラスの友達が自分の個性を活かした表現を行うことができるので、自分の表現が他の友達の表現と逸脱して不安になってしまう経験は少なくてすみます。他の友達がその子らしい表現をしていることも、自己表現を促すきっかけになることでしょう。

 また、作家の時間に、表現しない自由を認めることは、そういった意味でも大切なことであるように思います。「見られたくない子ども」が強制的に何もかも見せなければならないのなら、それはハラスメントに近い行為のように思います。もちろん、それが教師という仕事が行う指導と紙一重であることは重々承知しています。私たちの仕事は、平均台の上をゆらゆら歩くような非常に難しい仕事なのだと思います。


 篤くんの自己表現


 篤くんは作家の時間を続けています、今でもわざと意味不明な文字列を書いたりして私は「それは出版できません!」と押し返すのですが、それでも自分の作品を出版したいという気持ちは復活して、テレビ画面に自分の書いたイラスト(かなり個性的)を映して、口頭で伝えています。「モンスターハンター」というゲームの敵キャラについてやりとりしたことをきっかけに、それを説明するような作品を作りました。(彼が口頭で話したことを私が代わりにタイプしてあげる方法で作りました)

 篤くんが「見られたくない」理由は、他の人と同じように綺麗に書けないし、それをやろうとすると自分の自分のできなさが形になって現れてしまい、自分の気持ちがそれに耐えられないからです。だから、故意に意味不明な文字列にしたり、過剰にぐちゃぐちゃなイラストを描いたりします。篤くんが変わっていくためには、まず最初にその表現方法を認めていくことだと思います。

 篤くんがそれでも自己表現を続けていることを、私たちは大切にしていこうと思っています。篤くんを社会が求める言葉が使えるように正そうと指導することは簡単ですが、それは今の彼にとっては残酷なことであり、篤くんの自分を表現する機会を実質的に奪うことなります。篤くんが自立的な学び手として豊かに生きるためには、自分を表現することが楽しい、他者と共有して嬉しいという感情を、大切に大切に育てていくことが必要となります。彼がいくら他者との関係を作ることが苦手だとしても、社会的な様式を習得させるという押し付けの善意で、自己表現を通じて相手と繋がる喜びを奪ってはいけません。学校という場であれば彼を社会の圧力から守ることもできます。私たちは、篤くんが一生懸命書いた作品を通じて彼を理解し、どんな作品でも認め(そして部分的には押し返し)感謝し、一緒に祝っていくことでしょう。篤くんの学ぼうとする気持ちを育んでいこうと思います。




(生成AIを使って、うちの子どもの写真をイラストにしてみました。おもしろいですね!)


2024年11月22日金曜日

窓に詩を書く 〜特別支援学級の「作家の時間」〜


(全ての人物の名前は仮名です。障害特性や学習場面等にも、ある程度のフィクションが入っています)


 秋も深まり、最近、学校の敷地内の樹木が大胆に剪定されています。冬に向けて樹木は力を蓄えるそうで、冬の前の剪定は次の春に芽吹き、剪定のダメージを乗り越えて成長を促進する効果があるとか。それでも、あまりに大胆に切ってしまうので、葉が落ちる様子を見続けてきた私にとっては、寒々しく感じてしまいます。


成長が目覚ましい浩一郎くんの作品 


 特別支援学級の「作家の時間」では、剪定された樹木とは逆に、最近、4年生の浩一郎くんの成長が目覚ましいです。浩一郎くんの語彙が増え、目的をもって行動ができるようになっているなあと、一連のやり取りをした後にふと気が付くことがあります。彼のことは彼が小学校1年生の頃から見ているので、じんわり嬉しくなります。

 これまでの作家の時間では、ショッピングセンターのフロアーマップなどを画用紙やタブレットに表現していました。文章を書くのではなく、「クリーニング」や「エレベーター」などの単語を横から見た建物の絵に表現していたのですが、ここにきて、彼に変化が生まれています。

 浩一郎くんのタブレットを覗き込もうとすると、いつものように「やめてー」「みないでー」と隠されてしまいます。出版原稿の締切日が近づき、提出ボックス(タブレットで作った原稿を提出するためのアイコン)を開いている状態でした。授業後に提出ボックスを確認すると、浩一郎くんのファイルが提出されていました。見ると、「アンパンマン」がショッピングセンターのエレベーターに乗ったり、買い物をしたりする流れのある文章がテキストで書かれていました。

 驚きました。私は、浩一郎くんが画面上のひらがな50音のキーボードを使って、自分の入力したい言葉を入力しているのを見ています。彼が書く姿を直接は見られないのでこれは推測ですが、きっと予測変換機能を活用しているのだと思われます。予測変換を使っても、浩一郎くんが表現したい言葉を選択しているのは事実です。おそらく、タブレットを使っている小学生でも、予測変換を活用して文章を書くことができるようになっている児童は、一定数いるように思います。それが、効果的か、それとも成長を阻害しているかは、判断が分かれるところですが、成長が目覚ましい浩一郎くんにとっては、本当にジャストフィットの支援になったと思います。


 私は、作家の椅子(自分の作品を発表する場)で浩一郎くんの作品を代読しました。彼はこういうときに、とても恥ずかしがって廊下に逃げてしまうのですが、わざと聞こえるように、「本当に素晴らしい作品だ! 拍手!!」と叫んで、みんなの思いを届けるようにしました。彼は恥ずかしい気持ちを椅子の上で丸まるという行為で示しましたが、荒れることはありませんでした。


新しい技術がその子にどのような影響を与えているか


 1ヶ月前のブログで、生成AIについて否定的な意見を書きましたが、浩一郎くんは確かに、予測変換という彼にとってちょうど良い支援を生かして、文章を完成させることができました。文章で自分の思いを表現するというすばらしい体験をすることができたように思います。「生成AIが良い・悪い」「予測変換が良い・悪い」の議論ではなく、その子が書き手として成長できる支援として、生成AIや予測変換が適切だったか、そのような議論が必要なのだと思います。使い古された表現ですが、やはり、その子どもを中心に考えなければなりません。


「窓に詩を書く」実践

 

 風越学園の澤田さんが行なっていた実践で、「窓に詩を書く」というものがあります。軽井沢の美しい自然が見えるいつもの学校の窓に、先生や子どもたちが紹介したい詩が窓に書かれています。

https://askoma.info/2023/09/02/9836


 澤田さんの実践は詩を紹介する場として窓を選んでいますが、私の場合は子どもたちの作品の出版の場として窓を使っています。タブレットで撮影した景色や植物などの写真に、言葉を添え、季節の詩を書いています。今回は、写真ではなく、窓にしてみたわけです。

 窓は写真と同じように風景を切り取ることができますが、写真と違って静止画にすることはできません。秋が深まれば風景は変化し、天気によっても見え方が異なります。窓に書かれた詩は、見る人の心情だけでなく、窓から見える今日の景色によっても変化して見えることでしょう。詩と読み手の心情、それから窓から見える風景で、その一瞬が特別なものになるかもしれません。窓の景色が仲介となって、書く人と読む人とを繋げる営みも、とても情緒深いものだと思います。


浩一郎くんと窓


 浩一郎くんにとって、窓は特別な存在でした。彼は「収まるべき状態に収める」ことが好きなのです。例えば、水道の蛇口が上向きになっていることに納得がいかず、目についた全ての蛇口を下向きにします。たくさんの靴を片方だけひっくり返す(彼にとっては収まりがよく感じられるのかな?)ということもやっていました。そして、窓も例外ではありません。最近では帰り際に、廊下のすべての窓がしまっているかを確認し、その鍵を固定するロックも確認します。彼にとって窓を閉めるという行為には、「また明日来る学校を、そのままの状態にとっておく」という意味があるのかもしれません。


 浩一郎くんはまず、学校の窓から好きな窓の写真を撮ってきました。そして、そこにテキストボックスで好きな言葉を書きました。そこには、小さな文字で「窓。」と書かれていました。句点の「。」も大切なようです。私が黒板に「窓」とだけ写すと、「丸(。)も書きます!!」としっかり要求してきました。

 タイトルは決まりましたが、しかし、それ以降どう進めるのか決まらず、私が「窓から何が見える?」と聞いても、「嫌だ!」と言われ、良い反応はありませんでした。どうやら窓越しに見える季節の移り変わりや人々には興味がない様子です。浩一郎くんは、私の質問や提案に「違う!!」とか「嫌だ!!」とか言いながら、鍵を開けたり閉めたりしています。そこで、私は、「鍵を閉めますか?」と聞きました。すると、「鍵を閉めます!」という返事。ああ、そうかと思いました。浩一郎くんは景色ではなく、窓そのものが好きなんだと。そしてだからこそ、タイトルも「窓。」だったんだと。


 私自身が、彼の思考を思い浮かべながら、予測変換のように、候補になりそうな言葉を挙げていきます。子どもと生活をともにしているので、浩一郎くんにとって最適な予測変換は、コンピューターにも負けない精度です。しかも、意図的に浩一郎くんが考えていないような言葉を挙げて、彼の反応を確かめるようなアセスメントも行うことができます。

「鍵をかける?」と聞くと、考えています。あまり返事がないのは、彼が「ちょっといいかも」と思っているサインです。「透明は?」「違う!!」と明確に返してきます。そして完成した詩が、こちらです。


窓。 浩一郎

鍵かけた?

ロックをしましたか?

また明日。


 棚によじ登って、一生懸命に書く浩一郎くんは、新鮮でした。この詩は、教室で生活する子どもだけでなく、大人にも読まれることでしょう。そして、夕暮れに校内を見回りする教頭先生もこの詩と出会うことでしょう。「窓。」が、学校で生活する誰かの、一期一会になるといいなと願っています。



 実践されたい方へのTIPS


  • 事前にこのような実践を行うと、校内に周知する方が良いでしょう。「『窓ガラスに詩を書こう』の掲示中」などの小さな張り紙があると、より丁寧です。
  • 「今日は曇りだけど、晴れたら何が見える?」「朝の光と帰りの光は何か違う?」「秋が深まれば、この木はどうなる?」など、窓の景色は変化をすることを意識できるようにします。
  • 窓ガラス用のペンを使うべきです。時間が経っても、布で拭き取ることができます。
  • 窓ガラスをきれいにした後、よく乾燥させてから書きます。
  • 窓は高いので台を使いました。安全にかけるように配慮してください。
  • 写真を撮っておいて、紙の出版に使ってもいいよと伝えました。


2024年9月28日土曜日

新ルール「会話文だけはだめ!地の文を」はどうなる? 特別支援学級での作家の時間

(全ての人物の名前は仮名です。障害特性や学習場面等にも、ある程度のフィクションが入っています)

気だるい篤くんとひまわり



 学校の花壇に伸びる背の高いひまわりが、頭を垂れて疲れているように見えます。9月、一向におさまらない暑さの中で、何だか立ち尽くしているようです。クーラーのよく効いた教室から、ガラス窓を隔てて灼熱の外、熱気で蒸し上がる頭を垂れたひまわりを眺めていると、どこか罪悪感すら感じてしまいます。


 作家の時間で夏の詩を作っている6年生の篤くん。普段通り、身体中から一生懸命に「一生懸命ではない様子」を表現しています。私たちのチームもこの様子には慣れたもので、篤くんの背中を突いて、なんとか姿勢を保てるように意識を促しています。

 そんな彼が夏の詩に添える写真を撮影する時、暑くて外に出たくないことから、教室の中から頭を垂れるひまわりの写真を撮影しました。

 こうやって、頭を垂れるひまわりを写真に撮影して眺めてみると、余計につらそうに見えてきます。篤くんに、「このひまわりに合う言葉ある?」と聞いたところ、「目の検査の時に使う欠けた環のことなんていうか知っている? ランドルト環」と話すので、そのまま写真の側のテキストボックスに入力してあげました。最近、雑学本を読んだらしく、いくつか雑学を披露したので、それもそのまま入力してあげました。

「ひまわり、何だか暑そうだなあ。」と話しかけると、篤くんは、「おれも暑い」と答え、それもテキストボックスに添えました。こうして「ひまわり」という篤くんの詩が完成しました。1枚10円以上もかかるカラーレーザープリンターで画用紙に印刷し、廊下にきらびやかに飾りました。


 篤くんは優しい子です。ただ、自己肯定感がとても低く、自分は何をやってもうまくいかないと考えがちです。本当は、四六時中(もちろん授業中も…)本を読んでいるので、とても博学です。でも、「受け身」や「やらされ感」に耐えることや、体を器用に動かすことも苦手なので、話をよく聞いて字を書いたり、タイピングしたりすることは、こちらが思う以上に精神的負荷が高いのかもしれません。


 調べてみると、ひまわりが下を向くのは、雨水で種を腐らせないようにしたり、鳥などから種を守るためにしているそうです。学校や社会から、彼が蓄えた豊富な知識を守っているとするならば、ひまわりは篤くんそのものなのかもしれません。

 わたしたちが篤くんの今とこれからのために、どのように関わっていくべきなのか、みんなで模索しているところです。


篤くんはこちらにも登場しています

特別支援学級の作家の時間で子どもたちのベースキャンプを守る〜弘前大学の先生方の訪問記より〜https://wwletter.blogspot.com/2024/03/blog-post_22.html



新ルール「会話文だけで書かない。地の文を作る」


 夏の詩作りが終わり、特別支援学級の作家の時間は、フィクション作品作りの期間に入っています。10月終わり頃まで行って、いろいろな作品作りを楽しんだ後、自分のお気に入りの作品1つを出版したいと考えています。11月から個人面談も始まるので、そこで保護者の皆さんにファンレターを依頼し、作家たちのモチベーションを高めていこうと思います。

 今回、私にはねらいがありました。会話文と地の文を書き分けられるようになることです。どうしても、アニメや漫画の影響なのか、地の文がまったくなく会話文だけで進んでいってしまう物語を書く子が何人かいました。作家として新しいステージに上って欲しいと思っていた私は、昨年度は半ば諦めましたが、もう一度この部分に言及することにしました。物語を描き始めてしまうと、子どもたちにとっては折角書いたのに…と直すモチベーションが下がります。今年は、ユニット冒頭のミニ・レッスンで、「ルール」として打ち出したのです。


新ルールがうまく重なる子と重ならない子


 この新ルール「会話文だけで書かない。地の文を作る」で、自分のスタイルを修正できる子もいました。この子にとっては、このミニ・レッスンは成果があったように思います。この子の作家としてのステージとミニ・レッスンがうまく重なり合う結果になったわけです。

 けれど、カギカッコが取れただけで、結局文章の内容は会話文という子が、どうしてもいます。「先生、『〇〇は言いました』ばっかりになってしまうからいやだー」という声もありました。どうしてそのような「会話文だけの文章」から抜け出せないのか、私は迷うことになりました。


 一つ目に、絵が好きな子が絵を描くことによって登場人物の行動や表情などを表現してしまうことが挙げられます。「絵を見れば分かるでしょ」というわけです。自分の考えたことを伝えたい欲求も、絵を描くことによって満足してしまうのだと思います。しかし、その絵で伝えたかったことが読者であるクラスメイトに伝わっていないことが多いのです。特別支援学級の児童は、非常に独特で個性的な絵を描くので、その絵を見る人に伝わっていないことがよくあります。しかし、相手に伝わるか伝わらないかよりも、自分自身の表現をしたいという気持ちの方が勝り、相手に伝わっているかどうかにあまり関心がないように見えます。

 二つ目に、子どもたちは作家の椅子で発表することを日常的な共有としています。絵を大型テレビに映して発表するのですが、そこで子どもたちは自由に解説をすることができるのです。それでクラスメイトには雰囲気で伝わってしまうことで、問題意識が芽生えないこともあります。出版したものは、クラスメイト以外にも保護者やお世話になっている先生方も読む機会があるのですが、結局はそのような紙面からしか物語を楽しめない読者のことは、あまり想定に入っていないようです。


地の文を「心の理論」で考える


 そして、一つ目や二つ目とも重複する三つ目の問題ですが、そもそも、自閉傾向のある子どもたちは、目で見たこと、耳で聞いたことの情報処理には問題がない子が多い一方で、目や耳で確認できないこと、たとえば、登場人物の感情や読む人の気持ち、人によって受け取り方が違うことなど、情報として現れていないことを推測するのが苦手なのです。そういった理由からか、自分がイメージした情報を全て登場人物の会話文として目に見えるようにしたり、耳で聞こえるようにすることで、見えにくい情報を可視化して整理しようとしているのかもしれません。

 また、三人称視点の地の文のような俯瞰してものを見る見方は、特性のある子には苦手なのだと思います。これで思い返されるのが、「サリーとアン課題」や「アイスクリーム屋課題」と言われる心の理論課題です。詳しい内容については、私も専門家ではないので検索していただきたいのですが、自閉症などの発達障害をもつ児童は、正解率が一般的な児童よりも低くなる傾向があるそうです。

サイト「脳科学辞典」へのリンク」

https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E5%BF%83%E3%81%AE%E7%90%86%E8%AB%96#%E5%BF%83%E3%81%AE%E7%90%86%E8%AB%96%E3%81%A8%E8%87%AA%E9%96%89%E7%97%87%E5%85%90%E3%83%BB%E8%80%85

自閉傾向のある児童が、他者の意図や心の状態を推測することが苦手であることから、第三者視点の地の文のように、そこに登場していない俯瞰的な語りを描写することは、難しいのではないかと予想しています。



新ルールは「いい塩梅」にしよう


 そのような子達に、「これ地の文ではないよね」と指摘しても良いことがないのは明らかです。結局表現自体を止めてしまうのではないかと私たちは心配しました。私たちが一番大切にしていることは、その子がのびのびと自分を表現できることであり、良い書き手として自分のペースで成長していけることです。決して「良い作品を作らせること」を目標にしていません。

 私たちは、新ルールを作ったのはいいものの、それを「いい塩梅」で曖昧にすることにしました。つまり、子どもたち一人ひとりを、障害特性や現段階での書く力からもういちどアセスメントを行い、その子が「地の文と会話文をかき分ける指導」に相応しい段階にいるかを再考することにしました。そして、今必要なアプローチが、地の文の指導ではなく他の支援になるのであれば、そちらを優先するようにしたのです。


一人称視点の地の文ミニ・レッスン


「ルールをいい塩梅にする」以外にも行ったことがあります。一人称視点の地の文のミニ・レッスンを行い、子どもたちの地の文の幅を広げました。これまで、全てが人物の会話文になってしまい、一人称視点の物語を書く子はあまりいなかったので、主人公の視点で語る地の文はイメージがしやすく、反応が良かったように思います。実際に話した部分だけカギカッコをつけるというルールも明確で、これからの作品作りに応用してくれる子が出てくれるのではないかと期待しています。『桃太郎が語る桃太郎』(文:クゲ ユウジ、絵:岡村 優太 高陵社書店 2017年)などの「1人称童話」シリーズというものもあり、読み聞かせをしようと思っています。


 それでも、新ルールは時折、ミニ・レッスンの中で触れています。意識できた子にとっては、成長のまたとない機会であるので、より強く意識できるようにし、それでもミニ・レッスンだけにしぼり、いたずらに地の文ができていないと指摘はしないようにしています。




それでもアセスメントは尊い


 冒頭に登場した篤くんの場合、言葉を巧みに扱うことはできる一方で、手指の巧緻性は課題で、鉛筆やタイピングなどは精神的負荷が高い作業になっていました。さらに、自己肯定感が低く、修正したり、やり直したりするような、「否定」につながるような活動には取り組めないという性質もあります。そこに、教師や支援員が入って篤くんが生み出した言葉をタブレットにタイピングする支援を継続し、新ルールは曖昧にすることにしました。

 ところが一緒にタイピングをしていると、思った以上に篤くんは理解しルールを受け入れようとしていて、「ここにはカギカッコを入れて!」など、支援者にお願いすることもありました。本当にアセスメントは難しいです。ただ、夏休み前の篤くんは、バトルイラストと作家の椅子での解説ばかりの作家の時間を続けてきていたので、この篤くんの感じは良い傾向の兆しであるように思います。ここは臨機応変に様子を見ながら、地の文の理解が篤くんにどこまで可能か、もう少しよくアセスメントしていこうと思っています。


継続的なアセスメントで指導・支援を調整する


 今回の新ルール「会話文だけで書かない。地の文を作る」を振り返ると、当然のことながら、この段階などとっくに超えている子どもと、ちょうどこの段階にいる子どもと、この段階を迎える前にもっと会話文だけのお話作りに没頭するべき子どもと、さまざまな段階にいる子どもが私たちの教室にはいることが分かりました。この3段階の子どもたちを一直線上に並べてアセスメントをするのは、児童の実態を読み誤る危険もあることは承知の上ですが、会話文主体の物語を味わい尽くした次のステップとして、第三者視点が加わる地の文という段階があり、地の文に引き上げたいからといって、会話文物語を味わおうとしている子どもを無理くりに引き上げることは、最も大切な表現しようとする意欲を削ぐことになるかもしれません。

「表現したい気持ち」「表現しようとする意欲」は、特別支援学級で作家の時間を行う私たちにとって、もっとも大切にしていることです。そして、地の文を書く技能は、今回ばっちりミニ・レッスンが重なり合った子どものように、タイミングがくれば向上させるのは簡単なことですが、篤くんのようなケースでは、意欲や自尊心を向上させる支援は本当に根気のいる難しいものになります。目の前の子どもを性急に伸ばそうとしない私たちは、もしかしたら悠長なのかもしれません。それでも、新ルールを全員に厳格に当てはめることは、やはり断念しました。

 新ルールを設定することによって、子どもたちに刺激を与えたことは事実です。私たちは、チームでアセスメントを行うことによって、新ルールが子どもたちにどのように作用しているかの情報を集め続け、それをカンファランスによって調整することにより、「いい塩梅」に納めることに成功しました。新ルールを設定したこと自体は失敗とは考えていません。ただそれ以上に、アセスメントを続けて、支援を調整することが本当に大切だと再確認する機会になりました。

オオシロカラカサタケかなあ?
ゴルフボールみたいでした。


2024年6月28日金曜日

「子ども研究」のすすめ 特別支援学級の作家の時間より

(全ての人物の名前は仮名です。障害特性や学習場面等にも、ある程度のフィクションが入っています)


4・5月は子どものアセスメントがしやすい学習を行う


 今年度も特別支援学級の作家の時間は緩やかに続いています。去年の卒業生が抜け、中学年の新しいメンバーも加わって、新しい体制で進んでいます。メンバーが変わると、また新しい発見や課題と出会い、その年その年で違った様相を見せるのが、作家の時間のおもしろいところです。


 今年は、4月は子どもの様子を把握するために、春の季節の写真に載せて詩を作りました。子どもたちの好きなものやこだわりのポイント、認知特性をよく見てアセスメントする期間としました。5月の半ばから6月の半ばは、作家の時間の楽しさを知るために、自由に書きながら、その子の強みと課題を掴んでいきました。どんなジャンルが書きやすいのか、どんな媒体なら書けるのか、試していきます。特別支援学級の子どもは、認知的にも情緒的にも、凹凸のある子どもが多いです。どんな環境ならば、自分らしく表現できるのかをアセスメントしていきます。本校は春に運動会を行うので、運動会が終わるまでは子どもをしっかり見ることに時間を使ったように思います。


「良樹くん研究」想像を膨らますのは気持ちが悪い?


 今年も個性的でユニークな作品を作ることのできる子どもたちが集まっています。4月に行った詩の単元ですが、児童詩というと、よくあるのが自然物や身近なものが、擬人化して話したり動いたりするような物語性のあるものが書かれます。僕自身も、いつもながらの工藤直子の『のはらうた』からあまり考えもなく紹介してしまうのですが、今年はこのような子がいました。


 3年生の良樹くんは、学級園でだんだんと茎が伸びてきたトマトの苗を写真に撮ってきました。同じように植物の写真を撮ってきた子どもには、「この花はどんなことを言っていると思う?」とか、「この花は何をしたいのかな?」なんて、想像を膨らませることで、詩のイメージの土台を作っていくのですが、良樹くんには、この手法は全く通じませんでした。

「えっ、そんなの分からない」「うーん、難しい」という言葉を繰り返すばかり。しまいには、「そんなことできないよぉ」とうずくまってしまいました。良樹くんは、目に映るもの以上に想像を膨らますことが、自分の感覚とは合わないどころか、気持ちが悪いという感覚なのかもしれません。

 この方法では良樹くんには逆効果なので、作戦変更。

 私「どうしてトマト撮ってきたの?」

良樹「僕のトマトだから」

 私「良樹のトマトは元気?」

良樹「今日の気温は28℃で暑いから、トマトは元気だよ」

 良樹くんは外に吊るしてあるWBGT計の気温が大好きで、一日に何度も見にいきます。「良樹のトマト、28℃、暑い、元気」この言葉を使って、詩を書いてみよう」と誘ったら、良樹くんは、その言葉を聞くや否や、タブレットのトマトの写真の上に、「よしきのトマト」「28℃」「あつい」「げんき」と4つの言葉を指で書き入れました。これはこれで、なんだかストレートで素敵な詩です。「良樹しか書けない詩ができたね!」と声をかけました。

 そして、この良樹くん。ノンフィクション作品で非常に自信をつけていきます。良樹くんが習っているスイミング教室のコーチや練習の様子などを、タブレットに絵と文字で表現していきます。作家の時間を始めると、物語を書くことに喜びを見出す子どもが多い中、良樹くんの日常の出来事や好きなものを切り取って自己表現を始めたのです。「ノンフィクションの良樹だね」「ノンフィクションの魅力をみんなに伝えてくれているね」と、大袈裟ですがたくさん褒めました。




「浩一郎くん研究」そのまま繰り返す言葉を作品に


 6年生の浩一郎くんは、光るものが大好き。学校中の警備センサーや火災報知器の点滅を眺めたり、校庭から見える信号機をゆっくり見て楽しんでいます。4月、僕も陽だまりに一緒に座り込みながら、校庭から信号機をぼんやりと眺めて、「もうすぐ春だね」と季節の移り変わりを感じることもありました。浩一郎くんは、肌からの感覚を楽しむ子なので、学校の気持ちの良い場所ですぐに寝っ転がってしまいます。床の冷たさ、マットのザラザラとした感覚、そういう皮膚からの感覚を楽しんでいるのだと思います。校庭で遊んでいる子どもたちには、不自然に寝っ転がった姿勢に見えてしまうので、僕も傍で地面にあぐらをかいて座り、一緒に信号機を眺めると、子どもたちは関わろうとしてきます。1年生が「何をしているの?」と尋ねてくるので、僕が代わって「信号機を見ているんだよ。綺麗だよね」と返します。そんなのんびりとした関わり方で、浩一郎くんとの関係を作っています。

 さて、浩一郎くんが支援員さんと一緒に撮ってきた春の写真は、やっぱり信号機でした。さすが、ベテラン支援員さん、ナイスチョイスです。どのように浩一郎くんらしい言葉を引き出そうかと考えながら、教室に浩一郎くんを誘い入れました。彼は寝っ転がって床の冷たさを楽しみながら、僕のカンファランスに反応しようとしています。

 僕はまず、「浩一郎くん!(写真を撮ってきてくれて)ありがとう」と声をかけました。浩一郎くんはよく先生の言葉をそっくりそのまま繰り返します。浩一郎くんもこのとき、「ありがとう!」と大きな声で答えました。支援員さんが、「浩一郎くん!春だね!」と言うと(一応、詩のテーマは春でしたから)「春だね!」と返しました。僕は「あーこれは使えるかもなあ」と思い、タブレットの音声入力を起動させて自動で音声を文字に変換するようにセットしました。彼の耳元で「ありがとう!」というと「ありがとう!」と返し、「春だね!」というと、「春だね!春だね!春だね!」と3回繰り返しました。こうして、浩一郎くんの信号機の写真に、「ありがとう!」「春だね、春だね、春だね」の言葉が添えられることになりました。

 この浩一郎くんの詩も廊下に掲示しました。先生方や放課後デイサービスの先生に大変好評で、浩一郎くんらしさが出ていてすばらしいと絶賛されました。また、友達の前でも発表しました。写真をテレビ画面に映し、浩一郎くんが「ありがとう!春だね、春だね、春だねーーーー!!」と堂々と読み上げました。聞いている友達も、「浩一郎くんは信号機が大好きなことが分かりました」と反応します。浩一郎くんは、褒められるのがまんざらでもない様子。浩一郎くんも作家の時間が大好きになりました。浩一郎くんの今書いている作品は、近くのショッピングセンターの各階に何のお店があるか、フロアマップを作って説明してくれようとしています。こちらも私がそのショッピングセンターの写真を出してあげて、支援員さんと会話をしながら、タブレットに書き進めています。




「子どもらしい」という架空の子ども


 僕は、もしかしたら、「子どもらしい」詩のようなイメージを定型化・一般化して、子どもたちに安易に被せていたのかもしれません。二人のような子どもはそれほど多くはないと思いますが、似たような特性を持った子どもは支援級にも一般級にも在籍するでしょう。子どもが詩を描くならば、こんな詩がよいなあとイメージを持つことはもちろん大切ですが、その子がその子らしい自己表現を行うときに、その教師のイメージが学習を阻害してしまうこともあります。そうであれば、そのイメージは手放さなければならないこともあるでしょう。僕の作家の時間の場合、「どんな力を育てるか」ということよりも、「〇〇さんの自己表現をよりよいものにするためには」「〇〇さんの学習体験をもっと豊かにするためには」ということの方が、大切なのだと思います。

 僕は良樹くんのように、目の前に見えている事実とは違うことを表現することに、これほど苦痛を感じてしまう子を初めて見ました。きっとこれまで、僕はこのような子をきっと受け持ったこともあったのだと思います。けれど、その子の個性に気づかずに、「想像を膨らませて書こう」と、良い方法と思われている指導法を当てはめていたのかもしれません。その子は、そういう対応ができてしまう子だったので、きっとあまり望まない「トマトがあいさつをしているよ」っぽい詩を作らせてしまっていたのかもしれません。良樹くんが、しっかり想像を膨らませることを拒絶してくれたので、「よしきのトマト」「28℃」「あつい」「げんき」の詩が完成しました。良樹くんの目の前の事実を書きたいと言う気持ちを、少し理解するきっかけになりました。

 また、浩一郎くんのように、文字や言葉を書くことが難しい子どもが、ストレートに自分の好きなものを表現し、その楽しさを友達や先生と一緒に共有できることも学びました。自分を表現することは、だれにとっても楽しく喜びに溢れるものです。浩一郎くんにその機会を作ることができたことが、彼の成長のきっかけになりました。浩一郎くんは、自分の好きなものをもっと伝えたいと、彼のペースではありますが作家の時間でゆっくりと書き進めています。


他者の靴を履く「To put yourself in someone's shoes」


 ブレイディみかこさんは、『他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ』(文藝春秋 2021年)という本の中で、エンパシーの力について言及しています。「他者の靴を履く」とは「To put yourself in someone's shoes」の日本語訳ですが、自分とは違った立場にいる他者の靴(それがたとえ、自分の好みに合わない靴であったとしても)を履いて、その景色をイメージするエンパシーの力について様々な角度から論じています。つまるところ、僕は作家の時間という時間を通じて、子どもの靴を履いてみることで、「子ども研究」をしているのだと思います。良樹くんや浩一郎くんは、その瞳からどんな風景を見て、何を感じているのか、想像してみようと試みています。もちろんそれは、完璧にはできません。どれほどできているのかも、証拠があるわけでもありません。けれども、良樹くんや浩一郎くんが、今より少しでもよりよく自己表現をするためには、どのような学習環境を用意したら良いのか、子どもの姿を追い続けることで研究をしているのだと思います。特別支援学級の作家の時間を行うことで、子どもが自己表現を楽しむとはどのようなことなのか、試行錯誤しています。

 「子ども研究」とか「アセスメント」とか表現すると、格好の良い響きに聞こえるかもしれませんが、まったく効率的でスマートなことではありません。子どもと喧嘩したり、泣いたり、紙をぐちゃぐちゃにしてしまうことも多々あります。本当に泥臭くて、時間もかかり、煩雑なことがアセスメントであり、子ども研究です。けれど、やっぱり学校という場所は、子どものことを考えて動いてくれる大人が、「ああでもない、こうでもない」と子どものために思い悩んで、少しずつ進んでいくところなのだと思います。そういう学校が、自分は好きなのだと思います。


(写真は『本当にヘビが食べるの?』 この近くに本当にヘビがいました。)

2024年3月22日金曜日

特別支援学級の作家の時間で子どもたちのベースキャンプを守る〜弘前大学の先生方の訪問記より〜

(全ての人物の名前は仮名です。障害特性や学習場面等にも、ある程度のフィクションが入っています)


特別支援学級から見る卒業式の景色


 先日、春の風が吹く中で、本校でも6年生が笑顔で証書を受け取り、笑顔で卒業していきました。

 実は、心の中は笑顔と言い切れるものではありません。特別支援学級の子どもたちに限らず、中学校への進学というものは、強い不安を感じるものです。中学校ではどんな環境が待っているのか見通しが持てず、「先生は厳しいかもしれない」「勉強は難しいかもしれない」と憶測だけの噂話に翻弄されます。小学校でも、3月は卒業式の練習が立て続けに入り、何をするにも「小学校生活最後」という言葉で終わりを意識させられます。私が受け持っている子どもたちも、不安を強く表してしまう子がいました。学校では気丈に振る舞えるのですが、その反動で家で感情的な行動をとってしまうのです。ひときわ感受性の高い子どももいて、卒業に漂う寂寞とした空気を敏感に感じとってしまいます。

 特別支援学級は、家庭との情報共有も通常学級と比べて丁寧に行いますので、学校での「がんばり」が子どもの生活のどこで新たな歪みを生じさせているのかも把握し、「がんばり」の程度を調整していきます。「今回は1時間だけにしようか」と卒業式の練習を短く切り上げるような支援を行っていきます。例えばある子は、卒業式の練習に参加できてしまうからこそ、あとで精神的疲労の蓄積で爆発してしまうため、教師の支援の下、「がんばり」の程度を調整するということです。一方で、卒業という時期だからこそ積める経験や得られる感情もあり、それらが子どもたちを育てるまたとない機会にもなります。ですから、その子にあった取り組み方への調整を支援者は行っていくことになります。

 そんなこんなで、かれらは無事に卒業していきました。


 特別支援学級に在籍する子どもたちが卒業していく姿は、その子のこれまでの物語が凝縮されています。特別支援に在籍はしているが、交流級担任が呼名をする子ども。支援級担任が入退場に寄り添い、けれども、証書授与は(ステージの陰でサポートされながら)自分の力で受け取る子ども。このような卒業式へのそれぞれの向き合い方は、これまでの支援者がどのようにその子どもの支援を行ってきたのか、そのスタンスが顕在化しています。特別支援学級在籍児童のなかでも、それぞれに適した形で卒業していき、良い卒業式だと思いました。


弘前大学付属小学校の先生方の「作家の時間」授業参観


 卒業式よりも前の2月某日、弘前大学付属小学校の先生方が授業の参観に来てくださいました。弘前大学の宮﨑充治先生とは、以前お勤めされていた桐朋小学校で行われていたブッククラブで幾度かお会いし、久しぶりの再会となりました。また、同付属小学校の今先生と小田桐先生は、校内でも作家の時間や読書家の時間を導入しようとしてくださっているそうです。学力差のある複式学級で作家の時間にチャレンジしてくださっていて、私が行っている4年生・6年生の特別支援学級での作家の時間と教室の実態が似ています。何か学びの種がお互いに共有できたら良いと思い、ご見学していただくことになりました。


 この日の作家の時間で、子どもたちは最終出版に向けて原稿を完成させたいと思っています。本当は2月が最後の出版の予定だったのですが、大介くん(以前のブログにも登場しています)が「自分の作品をもっと出版したい!!」と懇願し、私の方が折れたので、目まぐるしい3月にも出版することにしました。年間4回の出版が5回になりました。

 出版はその頻度が多ければ多いほど、原稿が書けていないことに対する子どもの不安や、原稿を全員揃えなければならない支援者の圧力を、軽減することができます。1年に1回の出版でしたら、「〇〇さんが提出していない!!提出させなくちゃ!!」といったことを心配してしまいますが、月に1回程度出版していると、特に全員揃っていなくても、今回できた作品を紹介するスタンスになるので、提出できていない子に無理に催促する必要がなくなります。ですから、その分手間はかかってしまいますが、支援者にも子どもにも安心な作家の時間をつくることができます。


すべて会話文と擬音語の作品


 ミニ・レッスンは、私が前から気になっていた地の文と会話文の書き分けです。動画の影響が大きくて、どうしても会話文だけの物語展開になってしまう子どもが何人かいます。もともと自分以外の視点に立つことに困難さのある子どもたちですから、以前にも取り扱ったことがあるのですが、なかなか身につきません。

 エリック・カールの『はらぺこあおむし』と同氏といわむらかずおさんとのコラボ作品『どこへいくの? To See My Friend!』を用意しました。前者はもちろん地の文と会話文の両方が書かれています。後者は会話文だけで進んでいく絵本です。6年生は地の文と会話文をかき分けることができるので、こちらも教材として用意しました。

 ミニ・レッスンの内容は、宮﨑先生が書いてくださった訪問記が詳しいので、引用します。


宮﨑先生の「学級訪問記」より


 はじめは「ミニ・レッスン」だ。教室の前にはモニターがあり、そこの箱状のベンチに座ってみんなが集まる。この日のミニ・レッスンは会話文と地の文について、2冊の絵本と子どもたちのこれまでの作品を使って、「だれが、なにを言ったのか」ということに焦点づけて行われた。子どもたちの作品はロイロノートに納められ、それがモニターに映し出される。

 その中で、篤くんの作品に焦点があてられた。篤くんの作品は絵と文で構成されているが、一部は先生と一緒に文章化していっている。その物語の中に登場人物たちが武器で闘うシーンがあった。篤くんはそのシーンを「バシッ、ぎゃー、ドス」といったように擬音語だけで表現する。先生はそのページに対して、「これはだれが何でどうしたの?」といったように、動作主とその擬音を結び付けようとしている。篤くんに先生は「このまえ、だれが何をしたって書いたら、みんなから分かりやすくなったって、言われたよね」と誘いかけるが、篤くんはそうした表現方法になかなか同意していないようだった。しかし、篤くんが語り始めるとどの擬音がだれが、どの武器をつかった時の音なのか。彼の頭の中には物語のすべてが入っている。

 先生が用意した2冊の絵本の一つは、エリック‧カールの『はらぺこあおむし』。こちらには語り手がいて、(子どもたちから「ナレーター」という言葉でした。)はらぺこあおむしの行動をその視点から語っていく。もうひとつの絵本は「 」はついていないものの、会話文で物語がすすんでいくものであった。(注 『どこへいくの? To See My Friend!』です。) 先生は後のふりかえりで、どちらの表現方法もいいんだよということを伝えるために、この2冊を用意していたという。

 私は、篤くんはあえて「擬音語」だけで表現しているのかもしれないと感じた。地の文が入ると、スピード感が落ちるからだ。一方、先生は主語をいれることによって、文章技法としての「ナレーター」による語りを教えているというよりも、ナレーター=語り手という物語を俯瞰して語る人という認識の仕方を提示しているように思えた。物語と小説の違いはこうした語り手、客観的に自己を対象化する存在の有無にある。このレッスンは文章技法のレッスンのようだが、認識方法のレッスンなのではないだろうか。

 ここで、ミニ・レッスンは公開カンファランスのように映る。つまり、篤くんの作品をとりあげ、それを直接の指導の対象にしているかのように見えるがそうではない。篤くんの作品を通して、全員に先生は語りかけている。そして、ミニ・レッスンにおいて、教師は提示するが技法の選択は子どもに委ねられる。先生が2冊の本を用意したのはその配慮だろう



子どもが今味わっている技法を楽しむことができる時間を十分につくる


 非常に深い分析でありがたいことです。

 篤くんは十分に能力はありますが、自分の表現とは違う技法を習得するレディネスはできていません。篤くん自身の特性もありますし、篤くんのこだわりでもあります。宮﨑先生の推察の通り、篤くんはこの表現方法ができる喜びを感じとっている最中なのかもしれません。

 たとえば、幼児期の絵画表現において、スクリブルや頭足人などの特有の表現がありますが、それが稚拙だからといってスクリブルや頭足人を書く喜びを味わう時間を十分に設けず、学童期の技法を教え込むことで作品の質を引き上げようとする指導行為は、子どもに関わる専門家として間違った指導であるように思います。大きな白紙に、クレパスやサインペンで自分の腕の動きと呼応した美しい線を走らせるスクリブルは、心の解放や能動的に環境に働きかける楽しさなど、様々なよい影響があるでしょう。その子の発達段階はスクリブルを求めている可能性があります。決して良い作品を生み出したいわけではなく、良い描き手を育てたいのです。それと同じような状況が、擬音語だけの文章を書く篤くんの中にある可能性を私は見ていました。

 けれども、篤くんの書き手としての成長を俯瞰して見た時、その種は蒔いておきたいところです。そこで今回のミニ・レッスンを用意しました。篤くんが強制と感じてしまうと、大変貴重な学習意欲が減退してしまう可能性があるので、無理強いはしないようにしました。その匙加減は、篤くんと私たち支援者のこれまでの経緯により調整をしています。



大介くんの目覚ましい成長



 この後、「ひたすら書く」の中での私のカンファランス、大介くんの作家の椅子による共有がありました。


「大介くんが自分の意思で書き始めるまで 特別支援学級の作家の時間」へのリンク

https://wwletter.blogspot.com/2023/12/blog-post_22.html


 以前上記の投稿で記した大介くんは、目覚ましい成長を遂げ、今では6年生の友達に自分の作品を音読してもらって作家の椅子を行うまでになりました。大介くんが友達に読んでもらう理由は、彼が極度に「表現することへの不安」「他者評価への不安」を感じやすいということが挙げられます。それでも、友達が読んでくれている声や友達が自分の作品を楽しみ声を上げる様を、廊下から教室を覗くことで楽しんでいるという、一風変わった共有の状況が生まれています。こちらについては、またいつかどこかでまとめたいと思っています。



「避難所から、居場所へ。居場所から、ベースキャンプへ」


 その後、宮崎先生、今先生、小田桐先生とで、作家の時間のベースにあるものをご説明したり、弘前大学付属小で行われている作家の時間の様子などを伺ったりするような、ワークショップの学習会を開きました。

 その中で、宮﨑先生は次のように振り返ってくださいました。


宮﨑先生の「学級訪問記」より


 竹内常一は、「避難所から、居場所へ。居場所から、ベースキャンプへ」と、子どもの居場所の在り方の変遷について述べているが、学級は傷付き注 そういった子もいれば、そうではない子もいます。)をもった、人からの否定的な視線にさらされ、自分を肯定的にとらえることができない彼らを受容するという機能、つまりは避難所としての機能を持ち、ここに居ていいんだという心理的安全性を確保される。その上で、表現を通じて、相互に承認される。承認されることで子どもはそこを居場所だと感じる。承認をされて、ここが居場所だという「オーナーシップ」がもてると、子どもたちは「集団で」、あるいは「個々に」企みはじめる。教室は企みのためのベースキャンプとなるのである。

 一般級では「評価」が求められ、「計画的」な授業が求められる。特別支援学級はそういう意味では今の教育の「エアポケット」なのかもしれない。

 しかし、先生が「評価」していないのではない。「評価」は一般的に、子どもを数値化、ないしは文章の中に押し込める。それは子どもや教師のためではなく、第三者のために「客観的」(ほんとうに客観的かどうかは問われず)に評価するのである。

 先生は子どもに沿いながら、多面的に、多様に、「アセスメント」をしている。本来、教育的な評価とは子どもを励まし、どこにいるかを示し、自分自身が自分のことを評価できるようにするものであろう。

 先生は、アセスメントを通して、その子にそって「計画」をさぐっている。こうした力はおそらく「単元開発」の中で培われた教材=教育内容、あるいはそれを支える学問‧文化への深い洞察もあるだろう。また、特別支援で求められる障害理解や認知の理論も支えになっているのではないかと推察する。しかし、それよりも、目の前にいる子どもの「現し」をどう読みとるか、それをおもしろがっている先生がいて、それが子どもたちを自立的な学習者になるよう励ましているように感じた。



コンフォートゾーンとなる「ベースキャンプ」をつくる


 過分な言葉を頂き恐縮ですが、評価(アセスメント)をして子どもの「居場所」をつくることについて言及してくださり、その部分を引用しました。


 自尊感情を回復させることも私たちの大きな役割の一つです。系統主義的に教科書会社や教師が立案した計画通りに資質、能力を身につけさせていく動線に乗ることができなかった子どもたちが、より経験主義に寄った学習環境に身を置くことで、基本的自尊感情を回復させていくことができるのが、特別な教育課程を編成することができる特別支援学級の強みであるように思います。

 しかし、ご存知の通り、子どもたちは、評価の刃にさらされることが多く、それにより傷ついています。数字はもちろんのこと、文章でもその可能性があることは宮﨑先生のご指摘のとおりです。

 一方で、数字や記号では測れない人間味のある学習評価を行えば、子どもは、嬉しくなり、やる気になり、次のマイルストーンを見つけることができるものです。適切な自己評価、温かな他者評価、心理的安全のもとで交わされる相互評価で、自分の表現を受容し、自分のペースでさらに高みを目指すことができるはずなのです。わたしたち支援者は、子どもを傷つける評価を、子ども理解から次の成長へつなげる評価へと取り戻さなければなりません。


 「避難所から、居場所へ。居場所から、ベースキャンプへ」という言葉を教わりました。少しずつ、自分の身を守る役割から、冒険へ旅立つ前の準備を整える役割へと、教師の役割が変化しています。コンフォートゾーンがあってこそ、つぎのストレッチゾーンにチャレンジすることができるということでしょう。その子なりの自己実現への旅へと踏み出せるように、私たち特別支援の教師は、子どもたちの「ベースキャンプ」を刃のような評価などから守らなければならないのかもしれません。



 文章が長くなってしまい、弘前大学付属小の今先生や小田桐先生のご感想を紹介することができませんでした。また、次の機会にご紹介できればと思います。


新江ノ島水族館のサカサクラゲ



2023年12月22日金曜日

大介くんが自分の意思で書き始めるまで 特別支援学級の作家の時間

 最近とても良いことが、ゆっくりと時間が流れる特別支援学級の教室で起きています。

 あの大介くんが、自分の意思で作文を書いているのです。これほど嬉しいことはありません。


大介くんに関する記事

https://wwletter.blogspot.com/search/label/%E7%89%B9%E5%88%A5%E6%94%AF%E6%8F%B4


(すべての子どもの名前は仮名です。エピソードや児童の特性などにも、ある程度の加工を加えています)


⚪︎作家の時間で何も書けない大介くん


 3年生の 大介くんは作家の時間で何も書けない子でした。

 大介くんは、答えを間違えてしまったり、どうしていいか分からないことに、強い不安を感じてしまう子でした。うまくいかない自分を他人に見られることもとても嫌がり、自分を認めることができずにいました。

 私が彼と出会ったのは、私が特別支援学級を受け持ち始めたときで、それと同時に、彼が1年生で入学してきたときでした。私たちは同じ時に入学した同学年ということになります。低学年の頃はまだ良かったのですが、中学年にもなると客観的な視点も芽生え、自分が生み出したあらゆるものに自信を持つことができないようでした。


 作家の時間が始まっても、長い間、本当に書きませんでした。もし、書いたとしても、ホワイトボードに自分の好きな絵を描く程度。紙に何かを描いても、それを他の人に見られないように机の中にずっと持っていたり、ぐちゃぐちゃに丸めて細切れに破き、捨ててしまったりを繰り返しました。書く様子も見せたくないので、彼の机だけをパーテーションで囲い、安全地帯をつくりました。

 おそらく、自分の理想がとても高いのだとおもいます。すぐに100%を求めてしまう。消しゴムで紙が汚れてしまうことも、とても嫌がり、反発してしまう。まさにガラスの心をもった完璧主義者なのです。

 本当はとても器用なのです。図工でも、自分の作りたいものが定まればすごい緻密なものを作ることができます。彼のアイロンビーズの作品がそれを物語ります。また運動会の表現運動もずっと友達のダンスを見て、いつの間にか見ただけで覚えてしまう。体を動かして練習する気は毛頭ないのですが、ただ自分の納得がいくまで見ていました。完璧にマスターすると自分の体をやっと動かし始める学習スタイルです。

 もともと文字の読み書きは大変苦手です。発語もなかなか即時に出すことができない。友達とのコミニケーションもフラストレーションが溜まってしまい、ついつい拳を振り上げてしまう。作家の時間で自分の良さを活かすことができず、1年間以上が経過しました。

 作家の時間で、文字を書けるのに何もせず、漫画ばかりを描いていると、やっぱり戸惑います。指導者として心の中がざわざわしてしまう。何もやらない、取り組まないことを放置しておくことで、教育としてこれで良いのだろうかと、私自身が不安になりました。強い指導をして無理矢理に文字を書かせたこともありました。しかし、私たちの特別支援学級のあり方として、そんな強い指導を継続させることはできません。本当にこれでいいのか、迷いを秘めておくことができず、一緒に教室運営している大橋先生に打ち明けました。大介くんがその気になるタイミングはいつか来ると話し、彼が好きな絵を描くという姿を、担任二人でずっと様子を見ていました。


⚪️私たちは大介くんに何をしたか


 あるとき、その大橋先生の支援によって、タブレットを使って作品作りをすすめると、紙で書くよりもずっとハードルが低いということが分かりました。消し跡も残らないし、やり直しもすぐにできます。例えば、タブレットで日記のようなワークシートを作って、そこに彼にとって印象深かった学校生活の写真を入れておき、その中に自分がやったことをキーボード入力できるようにしていく。その支援で、一枚の作品であれば、なんとか作ることができるということが分かりました。ただそれが大介くんが本当に表現したいものかは、私たちにも捉えることができず、どうしても無理矢理に場を設定して、何とかワークシートを作らせるような作品づくりの強要になっている可能性もありました。まあ、何もないよりはいいかと。それでも、作品集に大介くんの作品が掲載されるので、友達や保護者からファンレターをもらうことができました。

 もしかしたら、大介くんは長い時間をかけて、書くことは自分にとってどんな楽しさがあるのか、友達や保護者に作品を見てもらうことで、どういう気持ちになるのかと言うことをゆっくりゆっくり理解していって自分のものにしていったんじゃないかなと思います。

 振り返ると、このタブレットを使った日記形式への支援は、大介くんが自ら書けるようになるための継続的な支援とはならなかったのですが、それに至るためには良い支援になったのではないかと考えています。自分から書くまで何もしないでとことん待つことが得策とは思えません。大切な時間がどんどん少なくなってしまいます。いくら「信じて待つ」ことが大切とはいえ、それを全ての状況に当てはめるのであれば、教師という仕事は必要なくなってしまいます。やはり、具体的な支援とそのタイミングを考えなければなりこません。

 けれども、強引な指導や強い制限をかけることで大介くんの人格を否定するような教え方は、あってはなりません。無理に支援を行えば二次障害を誘発してしまうことも考えられます。特別支援学級に在籍する子どもは、周りの環境に適応することが難しい子や二次障害に苦しむ子も多く、絶対に避けなければなりません。そうなると、熱すぎず、ぬるすぎない、ちょうど良い支援を行うためには、私たちが日頃から大介くんの様子をアセスメントし、対話をしていたからできたのだと思っています。


⚪︎自分の意思で鉛筆を動かし始めた大介くん


 9・10月のブログにも書きましたが、オリジナルキャラクター「大チュウ」との出会いが本当に大きいと思います。大チュウが大介くんの分身となって、冒険をしたり、仲間を作ったり、ホワイトボードや紙の上で大活躍するようになったのです。時間があれば、大介くんは大チュウを描き、周りの友達もおもしろがって、自分の自由帳に大チュウを描きました。大チュウを通じて、仲間とのコミュニケーション量が増大していきました。

 コミュニティの力は大きいです。教師の直接的支援の重要性もさることながら、コミュニティは子どもにとって空気のような存在です。その空気が持つ属性によって、自分の力が十分に発揮できるかが左右されてしまいます。温かさに満ちた仲間とのコミュニケーションの量と質が、大介くんの安心して学習に臨む姿勢を生み出していきました。もしかしたらそれは、教師と大介くんとの関係だけでは成立できなかったかもしれません。しかし、その空気を作り出すことは、教師の大切な仕事であると考えています。教師にとっても、教室の空気作りに成功メソッドはなく、大変難しい仕事ではありますが、子どもたちの力を引き出す重要なファクターであることは否めません。そして、その空気を生み出す一番の存在が、教師に他なりません。

 最初、日記形式のワークシートに大チュウを載せても、大介くんはあまり喜びませんでした。大チュウの日記を出版することを拒み、普通の学習の場面の日記を出版しました。ところが、この後から次第に自分から原稿用紙に手を伸ばしていきます。きっと、自分の納得のいく大チュウを描いてみたいという気持ちになったのかもしれません。休み時間も家でも、大チュウを描き続けました。そして、原稿用紙にまで手を伸ばし、ついに、字を書き始めるようになったのです。大介くんが、こんなにも字を書けるという事実に気づいたのは、最近のことかもしれません。彼が運動会の表現運動もずっと傍から友達のダンスを見続け、当日の2・3日前から踊れるようになる学び方と同じことが、今回の作家の時間でも起きているのだろうと思いました。

 今回、彼が本心で出版したいと決意し、自分の力で書き切った作品『大チュウの大冒険』を私も読み終えて、20年も仕事を続けてきましたが、改めて子どもの成長に携わることができてよかったという思いでいっぱいです。大チュウが仲間に後押しされながら、冒険の旅に出発するところで終わっていて、「つづく」と書かれています。大介くんの不器用ながら成長したいという気持ちが現れた良い作品だと思い、私もファンレターを送りました。もう彼に強引な指導をしなくても、鉛筆を動かし続けています。ファンのために、続きを書き始めているからです。大介くんが本当に表現したいことを失敗や恥ずかしさに負けることなく表現できる喜び、そんな学習の真の楽しさを感じていることは、彼がいきいきと書く姿を見れば、誰にでも分かることであると思います。




2023年10月28日土曜日

教室に本物の編集者さんがやってきた 特別支援学級の作家の時間

(すべての子どもの名前は仮名です。エピソードや児童の特性などにも、ある程度の加工を加えています)

 あまり季節の変化を感じさせないTシャツばかりの子どもたちでも、上着を羽織って登校する姿が多くなってきました。私が担任する特別支援学級の子どもたちは、一部の活発なアウトドア派を除き、まったりと教室で「作家の時間」をしたり、教室のテーブルコーナーでおしゃべりをしたり、休み時間はインドア志向が強いのですが、それぞれの過ごし方で休み時間を過ごしています。

 先日、図書文化社の渡辺さんと村田さんが「作家の時間」で学ぶ子どもたちの様子を参観しにきて下さいました。お二人は、「作家の時間」と「特別支援」の両方に興味を持っていただき、ご連絡をいただきました。教育に関する発信をしていただいていますが、お話によると、なかなか現場を直接ご覧になる機会も少ないとのこと。それではということで、都内からはるばる横浜の郊外までご来校いただきました。

 今、ノンフィクションのユニットをひとまず区切り(ノンフィクションを書き終えたい子はまだ書いています)、フィクション作品の制作に取り組んでいます。ご見学いただいた日のミニ・レッスンは、「ファンタジーの入り口」の話。『めっきらもっきらどおんどん』(長谷川摂子作 ふりやなな画 福音館書店)を題材に、現実の世界から突然ファンタジーの世界に切り替わる時のポイントについて、考えました。千と千尋の神隠しの「トンネル」と同じという話も出て、よく理解できている子もいます。まだ子どもたちは、フィクションを書き始めたばかり。構想を練っている段階で、物語の概略を作るために有効な作家のテクニックだと思い、取り上げてみました。

作品作りは一進一退の大介くん

 今年度が始まって半年ほどの間、イラストしか描かなかったり、描いても恥ずかしくてすぐに捨ててしまう3年生の大介くん。失敗やうまくいかないことへの不安から、人の目を気にしすぎたり、少しうまくいかなかっただけで捨ててしまったり、なかなか継続できませんでしたが、オリジナルキャラクターの「大チュウ」を創作したことで、彼の中で少しずつ変化が生まれていました。(2023年9月22日の投稿にも登場)

 なんと、タブレットで描いた「大チュウ」を印刷して欲しいと、私に頼んできたのです。これは、前回もらったクラスメイトの保護者からのファンレターがもう効果を発揮したのでしょうか。 私は早速、カラーで3枚印刷しました。1枚は家庭用、もう1枚はお気に入りファイル用(自分の好きなものを蓄積できるポートフォリオ リンク先の生活科ワークショップのお宝ポートフォリを参照)、そして、それとなく教室の壁面掲示板に貼っておく用の3枚です。

 今日はなんと、文字とイラストの両方が書ける原稿用紙に絵と字を描いているではありませか!!もう3年様子を見ている私からすると、これは奇跡です。大介くん自身が決めたものを、誰からも指示をされずに取り組んでいるなんて。しかも、字も絵も書いています。本当に素晴らしいことです。私は、「大介くんの作品、楽しみにしているよ」と声をかけるだけで、特に何も支援をせずに、自分の作品作りをすることにしました。あまり大袈裟に褒めて、プレッシャーになってしまうことを避けたかったからです。

 しかし、授業後、これまで以上にしっかり書けている大介くんの原稿用紙の束が捨てられていることに気がつきました。ショック…。やはり、理想が高すぎるのか、人の目を気にしすぎているのか、難しい局面です。一応、ゴミ箱からこっそりその束を拾っておきました。

 子どもの成長は一進一退。また、ゆっくり慌てずに、文字で自分を表現する楽しさを味わえるように、あの手この手で促していこうと思います。

ここぞとばかりに自分の作品をPRする康太くん

 5年生の康太くん(2023年8月26日の投稿にも登場)は、動画クリエイターやイラストレーターのような仕事に就きたいと考えています。今日は雑誌のプロの編集者さんである渡辺さんと村田さんが来ると聞いて、朝から自分の作品のPRをしたいと気合いが入りっぱなしです。お二人が教室に入るや否や、テーブルコーナーに誘い込み、自分のこれまでの動画作品や作家の作品を見せ、将来のために自分を売り込んでいます。素晴らしい行動力!! これは将来、本当に大物になりそうですね。

 もちろん、この日の作家の椅子は、康太くんが名乗り出ました。康太くんは、アニメや漫画のように人物のセリフや行動のみの記述になってしまい、場面の設定への記述や情景の描写を書き込むことができずにいましたが、前回のカンファランスで「天気」「風」「温度」などで、人物の心情を表現するテクニックを教えました。「任せといて!!」という感じだったので、康太くんならやってくれると思っていましたが、本当に恐ろしいほど理解が早いです。お城に他国の兵隊が攻め込んで、王子様が亡くなり、ペットが飼い主を亡くして途方にくれる様子を、セリフを少なくして表現し、ショート・ストーリーに仕立て上げました。康太くんはこれを、2日間ほどで仕上げてしまうので、すごいです。(気分屋で多動傾向が強く、かつては教室で学ぶことができませんでした。一つのことを熟考することは苦手で、インスピレーションと瞬発力で、一瞬にして作品を形にします。余った時間は好きなことをしています。)

 編集者のお二人にもしっかりPRできて大満足の康太くん。将来本当にお仕事をすることがあるかもしれません。

時間割変更してでも作家の時間を欲しがる紀之くん

 この日の作家の時間も、「ミニ・レッスン」「ひたすら書く」「作家の椅子」と進み、授業が終わって帰りの支度を始めています。3年生の紀之くんは将来、作家になりたいそうです。独特の世界観をもち、これまで読んだことのないストーリーを作ります。今は、2時間後、4時間後、8時間後の未来から来た主人公と現在の主人公が一緒に難しい宿題を協力して行う長編作品(100ページ以上に及びます)を執筆中です。

 その紀之くんが時間割ボードのところに来て、もう一人の担任の高木先生に、文字通り口角泡を飛ばして訴えています。「明日の国語を4時間目にズラしてください!!交流があって、作家ができません!!」私と高木先生は目配せをして、国語の時間を移動させることにしました。

 紀之くんは普段はとても穏やかですが、一つにこだわると頑固な職人さんのようにとことん突き詰めるタイプです。もうこうなると、紀之くんを説得するのは困難であることは、私たち担任には分かっていました。同時に、私たちは嬉しくもありました。一人ひとりの興味関心に寄り添える特別支援学級の学習といっても、これほど子どもたちが自分で設定した目標を達成したいという意欲に溢れる姿を見られるのは、それほど多くないものです。紀之くんの自分らしく学びたいという気持ちを発露させたこの行動は、私たちにとっても嬉しいものでありました。

編集者から見たライティング・ワークショップの感想

 さて、昼休みから5時間目の作家の時間、帰りの会の様子を見ていただいた渡辺さんと村田さんには、この子どもたちの姿はどのように映ったのでしょうか? 後日感想をいただくことができました。

村田さんからいただいた感想

 今回、特別支援学級でのライティング・ワークショップの授業を1時間見学しました。この実践の教育的考察は私にはできませんが、取り組みをみた感想を述べたいと思います。私は編集者をしていますが、この仕事のなかでいちばんの苦難は原稿がこないことです。ただしこれも避けては通れない生みの苦しみ、きっと寝る間も惜しんで原稿と向き合っているのだろう、とこれまで自分を納得させてきましたが、実はそうでもなかったのかも知れません。

 ライティング・ワークショップをみてみると、子どもたちは自分からあれを書きたい、これを書きたいと手を挙げます。書いているあいだはもの凄い集中力で、見学者には見向きもしません。できあがったら発表して友だちに感想を聞き、「おもしろかった」と答えると「どこが? 具体的には?」と聞き返すのです。書くことへの強い意欲、そしてよりよい作品づくりへの貪欲さを感じました。授業のおわりには、「もっと書く時間をくれ」と先生に時間割変更の交渉までこなしてしまいます。

 自分が抱いていた作文授業のイメージとはあまりにも違っていて戸惑いっぱなしの1時間でしたが、ものを書くという知的活動を子どもたちが存分に楽しんでいる姿が印象的で、いまも目に焼き付いています。これが「生みの喜び」なのだと思い知られました。私がお願いしている原稿が待てど暮らせどこないのは、そういうことかと反省した次第です。

 最近は出版界隈にも生成AI旋風が巻き起こっていますが、これからは文章作成も校正もなんでもAIがやってくれるそうです。子どもたちが大人になる頃には、人間が文章を書く必要がない時代になっているかも知れません。だからこそ、喜びであれ苦しみであれ、知的な生産活動をこれからも全力で楽しんでいってほしいと思いました。(村田さん、ありがとうございました)

渡辺さんからいただいた感想

 いつ授業が始まるのかな? 作文の授業とうかがっていたのに,子どもたちがまずは自由にお絵かきするところから始まったことに,戸惑いを感じました。しかし,そのうちに子どもたちは,絵に合わせて,ぐんぐんとストーリーを書き始めました。

「これは,いわゆる読解や作文の学習とはまったく異なるぞ」ということが,だんだん感覚を通して私にも理解されはじめました。

「好きなことだから,楽しかったことだから,そのことを自分は書きたい」「一生懸命書いたから,それがみんなにも伝わっているかを確かめたい」「書くのが好きだから,もっと上手くなるための意見やリクエストがほしい」,こういったシンプルな願いが原動力になって子どもたちの活動が進んでいくのです。そして,読み手の「もっと続きが読みたいな」「○○さんの世界をもっと知りたいな」という反応が,さらに書き手を鼓舞していきます。

「真正の学習」とはこういうことか,と頭で考えるよりも先に納得が生じました。本の編集を仕事にしている端くれとしても,この活動には「ものを書くということの本質」がたくさん詰まっていることを感じました。

 特別支援教育の教室で実践されているということで,ひとりひとりの子どもの様子にあわせた学習上の工夫もたくさんありましたが,私がいちばん感動したのは上記の点です。「好きなことだから,楽しかったことだから,そのことを自分は書きたいのだ」という自分中心の原動力からスタートした子どもたちが,これからどのように他者の視点を意識したり,社会のニーズに応える文章の書き方を獲得していくのか,そのプロセスについて,次はまたお話をうかがってみたいと感じています。(渡辺さん、ありがとうございました)

感想を頂いて

 村田さんの「生みの喜び」は、私たち大人が忘れかけている感覚かもしれません。「プレイフル」「メイカー」「ティンカリング」など、学習者中心の学び方と根底を同じくする大切な感覚なのだと思います。これを投げ出してしまっては、学ぶことは「よくできた偽物」にすり替わってしまうかもしれません。

 渡辺さんの「社会のニーズ」についての投げかけは、私自身も自ずと思考を巡らせてしまうような問いを頂いたと思っています。特別支援学級の子どもたちにとって、「社会のニーズ」とはどのような形に見えているのか。また、私たち特別支援学級の教師にとって「社会のニーズ」に応える国語とは何なのか、そもそも、学校とは「社会のニーズ」とどのように相対して行けば良いのか。これについては、またの機会に考えていきたいと思います。

(写真は雲取山への登山道で見つけた巨大なカラカサタケ)



2023年9月22日金曜日

特別支援学級の作家の時間 〜出版と作家の椅子〜


 今、特別支援学級の作家の時間の出版準備をしているところです。夏休み前に出版をしておきたかったのですが、いろいろなドタバタで原稿の整理ができず、夏休みが終わってから原稿を整理して、成績処理などの大体を終えてからということで、この時期の印刷になってしまいました。教務主任と兼務しているので、なかなか隙間を見つけるのが大変です。

 目の前には、子どもたちの原稿がたくさん積み重なっています。今一度確認すると、やっぱり、名前がなかったり、題名が判読できなかったり、週明けに確認をする必要がある原稿用紙もあり、付箋をつけて置いてあります。子どもたちの作品には、必ず表紙をつけるようにお願いしています。表紙には、題名、作家の名前、作品を表すイラストが描かれています。これは必ずつけるようにいつも言っていますが、それでも忘れてしまう子がいます。(僕もチェックを忘れてしまいます。)

 今回は、5・6月の「フィクション編」と7月の「詩・言葉遊び編」の作品が掲載されます。9月はもうすでに「ノンフィクション編」がスタートしていますので、これらの作品は、11月ぐらいの出版を目指しています。


作家の時間の出版原稿


 僕の場合は、A4のコピー用紙に表に4枚、裏に4枚の子どもたちのA4の原稿用紙を割り付け印刷します。なので、A4に合計8枚の原稿が載ります。そして、表紙は色上質紙で華やかにし、表紙か、またはその裏に目次を載せるようにしています。ちなみに、ほとんどの号に自分の作品も入れています。この装丁は一般級担任時代から紆余曲折して、今はこの形に落ち着いています。

 今、一人一台のタブレットがあるので、もしかしたらPDFにして配信した方が楽なんではないかと何度か思いましたが、やっぱり印刷してホチキスで留めた紙で出版をすることにしています。子どもたちの出版のイメージが、やっぱり「本づくり」としているように紙であることや、手に持ってめくることのできる実物の感覚、お家の方に自分で手渡す情景などを想像すると、やっぱり紙に印刷したものがいいのではないかと考えています。


作家の椅子と出版を主なアウトプットの場にする


 今年度は年3回を目標に出版をしています。10年前くらい一般級担任時代には、月に1回のペースで出版をしていたので、相当量の紙を消費していましたが、今は時間がなくてそのペースで印刷をすることができません。現在の特別支援学級の作家の時間では、作家の椅子(原稿をテレビに映し、口頭で読み上げて発表する形式。友達から即コメントがもらえる)を頻繁に使っているので、印刷しての出版はそれほど多くなくてもいいと思っています。

 作家の椅子は出来立てほやほやの作品を発表してフィードバックをもらう方法なのに対し、出版は完成原稿ファイルの中からベスト作品を1・2点選んで印刷するアウトプットの方法です。作家の椅子で発表をした作品を出版する子もいますし、口頭での発表が苦手な子は、作家の椅子をしなくても出版を活用すれば、多くのフィードバックがもらえるような仕組みになっています。

 作家の椅子の発表をたくさん活用できるということは、たくさんのメリットがあります。即時性があり、自分の学習にすぐにポジティブなフィードバックが返ってくるので、見通しを持つことが苦手なADHD傾向の児童でも成果をすぐに実感することができます。また、文字だけでなく、動画を加えたり、書いていないことを口頭で補うこともでき、複数のメディアを融合して発表することもできます。また、出版作品が厳選されるので、教師にとっても無理のない仕事の仕方にすることができます。

 やはり作家の椅子の一番のメリットは、読者(読者や先生)から直接声で笑顔で感想をもらえるということです。子どもの達成感ややる気に直結します。私が「〇〇さんの次の作品は、どんなものを書いて欲しい?」と聞くと、発表者の子どもは読んでくれる相手がいること(自閉的傾向のあるお子さんは相手意識を持ちづらい子どももいます)と、自分も友達の作品の読者であることを意識しますから、お互いに学習を高めあう小さなコミュニティが生まれます。作家の椅子はシンプルですばらしい手法です。


教師も自分の作品を開示して、モデルを示す


 教師の作品も出版します。僕の作品も子どもたちと同じように文集に並びます。僕は授業時間の半分くらいはカンファランス、もう半分は自分の作品を子どもたちの前で書くことに時間を使っています。最近では子どもと同じように、紙と鉛筆で書くことが多いです。(最近、特別支援学級の子どもたちの中には、タブレットで作品を作る子もいるので、「同じように」とは言い切れなくなってしまいましたが…)僕の場合は、大型テレビの実物投影機に自分の原稿用紙を映しているので、僕の作品がどうやって描かれていって、どうやって鉛筆が止まって、どうやって悩んで、それでまたどうやってまた鉛筆が動き始めたのかが、リアルタイムに分かるようにしています。

 これを『作家の時間』では「モデルを示す」と表現します。教師も書き手の一人であり、子どもたちと一緒に、作品作りを楽しみ、苦悩し、立ち止まって、みんなから意見をもらって進んでいく、同じ空間にいる書き手であることを示します。唯一の違いは、教師の書く姿が、テレビに映っていて、いつでも確認できるということです。子どもたちは、「先生の作品の『しっぽのながいカバ』の続きは終わったの?」と、聞いてくれます。僕が、悩み楽しみ書いている様子を子どもたちが見ることで、書くという学習が、子どもだけが行う「勉強」なのではなく、大人も子どもも取り組んでいて楽しい「遊び」であるというメッセージが込められています。


作家たちの原動力、ファンレターとファンレターへのお返し


 作家の時間の作品集と同時に配られるのは保護者用のファンレター用紙です。これが子どもたちの表現する喜びをリアルで確かなものにしてくれる、素晴らしいツールになります。子どもたちの作品を読んだ保護者が、ファンレターを書いて子どもたちに贈ってくれるのです。A4の紙に8人分書くことができるようなメモサイズの用紙になっていて、「〇〇さんへ」と「〇〇より」と記入できる枠を用意しています。これぐらいの大きさの方が、保護者にとっても気軽に書けるサイズのようですし、匿名のファンレターは味気ないですから、お名前を書いてもらっています。中には知っている子どもだけでなく、全員に一言ずつ書いてくれる保護者もいますし、綺麗な便箋に書いてくれる保護者もいます。作家の椅子では、先生や友達から声が届いて、こちらも子どもたちは喜ぶのですが、ファンレターは紙で届くので、何度も読み返すことができます。一般級での実践では、ファンレターは作家ノートに貼り付けて、何度も読み返せるようにしていました。随分前にもらったファンレターを読み返している子もいて、作家というのは、読者がいて初めて仕事ができるのだと私も知ることができました。先生でも友達でもない他者が、自分の作品を読んでメッセージを送ってくれるのですから、喜びもひとしおです。

 ファンレターが届いたら、ファンレターを書いてくれた保護者に向けて、お返事を書きます。ファンレターを書いてくれたことへの感謝の気持ちや、「次の作品も楽しみにしてください」などの、次回作への抱負などを書き表す子が多いです。「作家はファンを大切にする」と伝えています。


大介くんへのファンレター


 3年生の大介くん(仮名です。学習状況や児童の特性などにも、ある程度の加工を加えています。)は、失敗やうまくいかないことへの不安をとても恐れてしまう子です。うまくいかない自分自身を受け入れることができないですし、友達や先生がそれを見ていることなんてもっと嫌な気持ちになってしまいます。それなら、やらない方がマシ。おしゃべりも得意でないので、先生に助けを求めることも面倒。やりたくないとみんなのいる10m離れたところから見つめるだけの学習になってしまい、先生が誘っても怒り出してしまいます。大介くんは、みんなの前で行う学習に取り組むことが本当に苦手なお子さんです。

 そんな大介くんは休み時間にイラストを描くのが大好きなので、僕の勧めで作家の時間にイラストを描くようにしました。最初は誰かがそれを見るのをとても嫌がっていましたが(パーテーションで覆い、人の目を気にしないでいられるようにすることもあります)、同じ教室にいる女性の大橋先生が「ねぇ、大介くんの作品も出版しようよー」としつこく誘うと、渋々一枚の絵を差し出してくれました。それが「大チュウ」のはじまりです。

「大チュウ」は、ピカチュウの顔に、大介くんの名前の「大」の字がついているキャラクターです。大介くんはピカチュウが大好きなので、大好きすぎて自分がピカチュウになった「大チュウ」が生まれたのだと思います。大橋先生が苦心の末に手に入れたその作品(もちろん文字は「大」だけです)を裏表紙の写真に載せて出版することにしました。

 刷り上がった本が配られて、大介くんは最初は怒っていましたが(渋々了承したのに)、周りの友達が「大チュウだー」「大チュウがいるー」と喜ぶのを見て、ちょっとだけいい気持ちになり、唇をとんがらせながら振り上げた拳をゆっくりと下ろしました。

 その後、保護者の方から何枚かファンレターをいただきました。『かわいいピカチュウですね』『他にはどんな友達がいるのですか?』大介くんは、「ピカチュウじゃねえよ」とツッコミを入れながら、ファンレターのお返しに、普段は文字を書くことを嫌うのに「ファンレター、ありがとうございました」「大チュウと犬チュウがいます」と書きました。

 今回の出版にも大介くんの作品が載っています。また、大橋先生がゲットしてくれました。夏野菜が収穫できたときの写真と、野菜の名前をタブレットで描いた日記のようなものです。大介くんは、作家の椅子はできませんでしたが、出版をすることでファンレターが友達、先生、保護者などから届くことがきっと分かっています。僕はこれから、大介くんの交流級の先生などからファンレターを書いてくれるように頼むのだろうと思いますが、そんなことをしなくても、誰かがファンレターを書いてくれるのではないかと考えています。大介くんのとんがり唇をしながらまんざらでもない様子を見るのが、教師としても嬉しい瞬間です。



2023年8月26日土曜日

特別支援学級の「作家の時間」で輝く子どもたち

翔くんへのカンファランス

 ここに翔くん(全ての人物の名前は仮名です。障害特性や学習場面等にも、ある程度のフィクションが入っています)がいます。翔くんは特別支援学級に在籍しています。6年生ですが知的障害と半身に軽度の麻痺があり、学校では1年生程度の学習をゆっくりと学んでいます。ひらがなの練習を続けていますが、まだまだ書けない字も多く、支援者が寄り添いながら、練習を続けています。視知覚に特性があり、文章のようにたくさんの文字が並んでいると、どの文字に注意を向けたら良いかが難しく、また、注意を向け続けることも難しいです。けれど、どの文字もちゃんと読むことができます。そして、言葉も多く知っていて、生活語彙もたくさんもっています。どの子よりも先んじて英単語を発表し、大活躍することもあります。翔くんのすばらしいところは、コミュニケーションを楽しんで行うことができることです。愛嬌があり、いろいろな人と仲良くしたいという気持ちに溢れています。

 翔くんは作家の時間が大好きです。
私「翔くん、今日は何を書く?」
翔「名前を書く」(翔くんは自分の名前を書くのが得意で自信を持っています)
私「よし、じゃあ名前を書いてごらん!」
翔「し・ょ・う」
私「ょのクルッとなる所も上手に書けたね。じゃあ、うのつくものは?」
翔「うー・・・ うさぎ?」
私「うなぎ? うなぎおいしいよねー」
翔「うさぎだよー! うさぎは食べちゃダメー」
私「そっかー、うさぎかー。じゃあ、うさぎを書いてみよう。絵も描いてみよう」

私は、薄墨のサインペンでうさぎの絵を描き、ひらがなの練習と一緒に、なぞり書きの練習も同時にできるようにしました。そして、支援員の高木先生に目配せをして、支援のバトンタッチをします。高木先生もよく分かっていて、翔くんとやりとりをしながら、ひらがなを書いたり、なぞり書きをしたり、または絵を描いたりすることを、彼の思いに応じて寄り添ってくれます。

 これは、翔くんへのカンファランスです。一般的な作家の時間のカンファランスとは大きく違いますが、個別最適な支援が行える作家の時間の枠組みで学習することで、彼もまた、自分の良さを発揮することができます。今日は、翔くん以外にも作家の時間に参加した児童は、6人いました。交流で一般級に学びに行った子もいるので、今日はこの人数です。6人とも、学年はばらばら(4年生4人、5年生2人)、習熟度もばらばら、特性もばらばら。私はもはや、この子たちに「国語」を教えることができる枠組みは、作家の時間と読書家の時間以外にはないのではないかとも考えています。

特別支援×作家の時間


 特別支援の教室においても、作家の時間はとても力強いプラットフォームを提供します。下の箇条書きの順で、説明をしていこうと思います。
  • その子のこだわりや学び方に柔軟に応じられる
  • その子の発達や学力に最適な支援を届けられる
  • 欠席しても、交流で抜けても、スムーズに学習に合流できる
  • 多様な他者がその子の「よさ」に気付き、認めることができる

その子のこだわりや学び方に柔軟に応じられる

 作家の時間はもともと、自由度の高い学習の枠組みなので、その子が書きたいものを自分で決めて、表現することができます。自閉的傾向の高い子どもは、自分の内的な世界を豊かに持っていることが多いですが、他者が設定した課題に自分を適応させることが難しく、教室で苦しい思いをする子が多くいます。他者がたとえ大好きな先生だったとしても、不安定な先生の課題に身を委ねるのがとても怖く、それだけで苦しく感じてしまうのです。そのようなこだわりの強い子どもであっても、作家の時間は安心して学ぶことができます。私の場合は、子どもたちも作家の時間に慣れてきた(制限のない作家の時間を1年ぐらい続けました)ので、緩い制限をかけてユニットを構成することも少しずつ出てきましたが、それでも、子どもたちが自分の安心できる内容を選ぶことができるのは、変わらず続けています。

 たとえば、「バトルもの」を書くことが好きな子、決まった想像上のキャラクターが出てくる子、建物の見取り図やマークが好きな子、全ての子の安心を確保することができます。何かを教えるにしても、まずはその子が安心して学べる環境を作り上げることを最優先にし、その子が学びをスタートすることができてから初めて、その子に何を教えるかを考えていきます。その子が学びのサイクルを回し始めないと、その子の見取りは難しいからです。その子の好きなもの、学び方の特性、こだわり、認知や発達の偏り、コミュニケーションの特徴、注意の持続力、その日の気分など、いろいろな角度からその子のアセスメントを行い、作家の時間という自由度の高いプラットフォームで走り始めたその子に、適切な支援を考えていきます。その子が学び始めてから、指導の手立てを考えることができるのです。

その子の発達や学力に最適な支援を届けられる

 カンファランスの最大のメリットは、一人ひとりの子どもをしっかり見ることができるところです。反対に、支援者が子どもの見取りのできない(しない)授業は、子どもに恐怖を与えることに他ならないことを、子どもと関わる大人全員が知っておくべきでしょう。それは特別支援の教室では、なおさら顕著です。外部の環境に適応できなくて苦しい思いをすることが多いので、その子が自分の身を守ろうとしなくても学べる方法をアセスメントし、カンファランスによって個別最適な支援を届けています。もちろん、一回で最適なものを届けられるわけでもないので、支援や環境を調整しながら、最適な学習を再考し続けます。

 翔くんのエピソードにもある通り、ひらがなを書くのが難しくても、こだわりが強くて絵しか描けなくても、作家の時間を通じて、その子の安心は広がっていきます。私たちは在籍する全ての子に一律の能力を身につけさせようと思っていませんし、無論、それを一定の基準と照らし合わせて評価しようとも思っていません。翔くんは書くことを通じて、表現する喜びを体感し、艶のある自尊感情のまま、ひらがなの練習をすることができます。また、同じクラスの康太くんは、短い集中時間でありながら、すごい熱量で作品を短時間で仕上げ、文章構造も修辞技法も多彩。康太くん自身のスピード感で学ばないと、イライラしてしまいます。二人とも、学力や習熟度はまったくちがう次元にいるので、比較のしようもありません。だからこそ、安心して学べる状況は異なります。けれども、作家の時間というプラットフォームであれば、良い具合に関わり合いながら学ぶことができるのです。どんな支援や指導を行うかは、安心して学ぶことができてから、支援者がじっくり考えていけば良いように思います。

欠席しても、交流で抜けても、スムーズに学習に合流できる

 特別支援学級あるあるなのが、一つの単元を続けて学んでもらいたいのに、欠席が多かったり、一般級への交流があったりして、流れが途切れてしまいがちであるということです。どうしても、単発型の授業やプリントを使った学習が多くなってしまうのも、このようなことが原因にあります。しかし、作家の時間は、一度や二度、授業を抜けたとしても、全く問題がありません。その子の学びはしっかり保管されていますし、同じ学習のサイクルで淡々と進んでいきますから、複雑な説明を聞いていなくても、枠組みを理解できていればいつでも合流できるのです。これは、私も特別支援学級で作家の時間を始めてみて、非常にメリットであると感じています。

多様な他者がその子の「よさ」に気付き、認めることができる

 完成した作品を色々な人に見てもらえることも、その子の心を豊かにしていきます。美穂さんは、特別支援学級の担任だけでなく、自分から学校中の先生に見せて回り、コメントを聞いてまわる子です。康太くんは、作品を動画にアレンジして、一般級で披露することができます。他の子も出版をすれば、保護者の方々がファンレターを届けてくださいます。もっともっと広げられれば、地域の方々や他校の子どもたちにも届けることができるかもしれません。自分の分身である作品が認められるということは、自分の世界の輪郭が広がって、安心できる世界が広がることになります。温かいつながりが、心を耕してくれると思います。

翔くんの作家の椅子


私「では、あと発表の時間にしましょう。今日発表したい人はいますか?」
翔「はーい」

 この日、翔くんは、絵を描きながらしりとりを続けました。薄墨サインペンの線をたどたどしくなぞったウサギや、「ぎたー」も書かれています。翔くんは自分の書いた紙を書画カメラからテレビに写し、「えへん!」と言わんばかりです。

私「何を書いたの?」
翔「しょう」
私「これは?」
翔「うさぎ!」
私「これは?」
翔「ギター」
康太「あーわかった、しりとりだ! 次のこの点みたいなのは何?」
翔「なんだっけ? 高木先生・・・ あっそっか! アブラムシ」
一同「笑」
私「感想教えて」
美穂「おもしろかったです!! アブラムシがおもしろかった!!」
康太「このしりとりに出てきた物を推理小説みたいにアレンジして、読んだ人が後からしりとりだったことに気づくようにしたら面白いよね。やってみようかな」
私「はい、じゃあ翔くんの原稿は完成原稿ファイルに閉じておくね。次の出版は来月だからお楽しみに」

 こんな感じで、特別支援学級の作家の時間は続いていきます。

(写真は、新屋島水族館のフロリダマナティー「ニール」です)