2021年10月29日金曜日

文字のない絵本を楽しむ

(時々、投稿をお願いしている吉沢先生に、今回の投稿をお願いしました。)

文字がないのに、そこに言葉を感じさせるものがある。その絵本について語りたくなる。疑問が湧いてくる。そのような魅力のある絵本があります。今回は、そのような文字のない絵本のいくつかを紹介します。



安野光雅『旅の絵本』(福音館書店, 19771


 物語は、小さな舟に乗った一人の男が岸に着くところから始まります。次の場面で、男は土地の人から馬を借ります。その馬に乗って旅をしていくのです。

旅人の訪れる先々の集落、街並み、広場に、さまざまな人、家、動物、木々、乗り物、道具が描かれています。そこには英雄とか偉大な人とかは登場しません。日々の暮らしを営む人たちばかりです。

巻末の解説の中で、作者はこの絵本に込めた思いを次のように語っています。


旅人は、その人々の暮らしとは全く別の世界から来て通り過ぎ

ていくのです。何かしたいと思っても、旅人はあまり関わるこ

ともできないのですが、そこには、人の数だけ、物語があるはずです。わたしは、それを描きたいと思いました。「旅の絵本」はそうして生まれました。


初版が発行されて間もない時期に、国語教師の大村はまはこの本に出会い、早速中学1年生の授業でこの本を使ったそうです。その時の様子を、苅谷夏子が次のように書いています。


本が配られると、あっちでもこっちでも頭を本に埋めるようにして覗き込む。全てのページに数えきれないほどある、人の一瞬の姿や意外な表情、出来事や物音、生活の断片など、生徒たちは夢中になって見つけていって、気づいたことを一つひとつはまに言わずにはいられなかった。★2


人の数だけある、そのような物語の一つひとつに、私もまた思いを寄せたくなります。



ショーン・タン『アライバル』(河出書房新社, 20113


 最初のページを開くと、部屋の中のものを描いた9つの絵があります。紙で折った鳥。置き時計。フックに掛けられた帽子。鍋とスプーン。

小さな子供が描いた絵。ひびの入ったティー・ポット。飲みかけのコーヒー(?)の入ったカップ。ふたの開いたスーツケース。そして、男の人、女の人、女の子の3人の肖像。裕福な家ではなさそうです。

 その3人は家族なのです。家族の写った写真を大事にスーツケースにしまいます。ふたを閉じた手にもう一人の手が重なります。

 ようやく次のページで、部屋の全体の光景が描かれ、男が妻と娘を置いて、一人、旅に出ようとしていることがはっきり分かります。手と手を合わせる二人の姿から、二人の間に流れる愛情と別れの悲しみが伝わってきます。

 家族3人は家を出て、駅に向かいます。3人の歩く街は、巨大なしっぽのような影で覆われています。何の影か分かりませんが、不気味で不安な雰囲気が漂います。

男は職を求めて移民船に乗って、別の国へ向かうのです。着いたところは、言葉の通じない、見たこともない動物、乗り物、食べ物、システムのある世界です。何とか宿にたどり着き、職を求め、さまざまな人に出会って、その人たちの過去を知り、残る家族に仕送りをして----というふうに物語は続いていきます。


見たこともない動物や食べ物など、西洋でも東洋でもない、とても不思議な世界です。ファンタジーを感じさせる一方で、現実にある移民の人たちの思いに通じるものも感じられます。

 モノトーンで描かれた一つひとつの絵が続いて、まるでサイレント映画を見ているような感覚にとらわれます。どんな会話をしているのだろう? どんな気持ちなのだろう? というふうに、一つひとつの絵に立ち止まって考えているうちに、私はいつの間にかこの本の世界に引き込まれました。

ショーン・タンはオーストラリア生まれで、父はマレーシアから西オーストラリアに移住してきました。その父の経歴も作風に影響しているでしょう。6章からなる長大な絵本です。



ニコライ・ポポフ『なぜあらそうの?』(BL出版, 20004


白い花の咲く草地。1匹のカエルが1本の花を手にしているところから物語が始まります。

そこへ1匹のネズミが地面から飛び出してきて、花を持ったカエルに気づきます。突然、ネズミはそのカエルに飛びかかり、花を奪います。カエルは驚くばかり。

そこへ、2匹の大きなカエルが飛び込んできて、ネズミに襲いかかります。花を持って逃げるネズミ。カエルたちは、花を奪い返し、そこらじゅうの花を摘んで、大はしゃぎします。ところがネズミは黙って引き下がっていません。長靴の戦車に乗って近づいてきます。

ネズミはカエルたちを撃ちます。すると、カエルたちは、ネズミの乗った長靴戦車が橋を渡るところを狙って、橋を壊します。大勢のカエルたちが加わり、靴の戦車2台で反撃に出ます。

こんなふうにそて争いはエスカレートしていきます。仲直りとか和解とかは望めない展開になってきます。ひたすら、「最後はどうなるの?」という気持ちでページをめくることになります。


 それにしても、なぜでしょう。なぜ、ネズミは最初、カエルに飛びかかったのでしょう。「見せて。きれいだね。」と言っても良かったのに。

周囲には、花がいっぱいあるのです。自分も1本、花を手にして一緒にお話ししてもよかったのです。でも、カエルの持っている花を奪うのはなぜなのか。

 また、なぜ、当事者でない2匹のカエルが飛び込んできて、仕返しをするのでしょう。その挙句、花のことは吹っ飛んでしまい、相手をやっつけることが目的になっています。なぜそうなるのか?

 こんなふうに問いかけていくと、「これって、人間のことじゃない?」というふうに思えてきます。そう、人間のことです。そんな思いを痛切に感じる一冊です。



姉崎一馬『はるにれ』(福音館書店, 1979


「はるにれ」とは、ニレ科の落葉高木の名前です。山地に生え、高さ約30メートルにもなるそうです。その木を写真に写した一冊です。

最初のページを開くと、広々とした草地に生える1本の木が目に入ります。枯れた草色が目立ち、秋に向かう気配が感じられます。

ページをめくると、空は灰色に曇っています。時刻は夕方でしょうか。

次のページ。横なぐりの雨(雪のようにも見えます)の中の木の枝がズームアップされています。

次のページ。再び木の全景に戻り、きは雪原に立っています。冬です。

次のページ。夜に向かっています。景色全体が深い青みを帯びています。

次のページ。光が差してきました。朝日でしょうか。地平線に近い空が淡いオレンジ色を帯びています。地面は雪です。

次のページ。日が昇ってきました。木の真ん中、枝越しに太陽が見えます。空が明るくなってきました。

 

 見開き2ページの中央またはほぼ中央に木を配した構図です。木が主人公ですが、地面や草、空や雲、太陽や月、遠景の山々にも目が向きます。時刻や季節、天候によって変化する風景の美しい瞬間がとらえられています。

 木は何も言いません。ただそこに在るだけです。それだけで感動させるものがあります。この木を実際に見に行ってみたい。そんな気にさせる本です。



Paul Fleischman & Kevin Hawkes, Sidewalk Circus, Candlewick Press, 2004


 ポスター貼りのおじいさんが、何やら叫んでいますが、その後ろの壁に映る大きな影は、メガホンを持ち山高帽をかぶった呼び込みの人のよう。そんな表紙から、もうすでに物語は始まっています。

商店の並ぶ街中の電光掲示板に、「ガリバルディ・サーカスがもうすぐ始まるよ」という掲示が出ます。歩道にはベンチが一つ。座っている人、立っている人が数人。サーカスって、どこで?と思いながら、ページをめくると、工事中の梁の上を両手にバケツを持って歩く男の人が目に入ります。「おっとっと」とバランスを崩しそうになるその男の姿は、まるで綱渡り。コックさんが両手に持つフライパンでパンケーキをひっくり返している様は、まるでジャグリング。

さまざまな光景が、通りのあちこちで繰り広げられます。ハラハラしたり、微笑ましく思ったりしながら、次は何?と思ってページをめくりたくなります。

*****


 文字がないことによって、読み手の心に生まれでる言葉があるのだ、という思いを強くします。そして、誰かに語りたくなる、聞いてほしくなります。文字のない絵本を通して、たくさんの人たちと語り合いたい。私はそんな気持ちになります。


*****


1 『旅の絵本』シリーズは8巻まで刊行されています。ここで取り上げているのは、第1巻目です。

2 苅谷夏子『評伝 大村はま』(小学館, 2020495ページ

3 原作は、Shaun Tan, The Arrival, Arthur A. Levine Books, 2007.

4 原作は、Nikolai Popov, Why?, North-South Books, 1996.

2021年10月22日金曜日

新刊『学習会話を育む ~誰かに伝えるために』

 かえつ有明中・高等学校の大木理恵子先生(国語科)が、書評を書いてくれたので紹介します。

「会話は創造的な作業空間である」

  “対話的で深い学び”という言葉がアクティヴラーニングの代名詞のように使われるようになり、日本でも多くの教室の風景が変わってきたように思います。知識伝達を軸とする講義式授業からの脱却を図り、生徒たちが学びのオゥナーシップを持って、学習感を拡充しながら生き生きと取り組む授業をどうデザインしていったらよいのか?

そんな意識を持っていらっしゃる先生方が増える一方で、その具体的な進め方についてはあまり語られておらず、手探り状態で苦戦されている方も多いのではないでしょうか。実は私もその一人です。国語科の教員として、「会話」という体験を通して豊かな言語力と複雑な思考を楽しむことのできる力を手にいれてほしい、自分の学びに自信と誇りを持てるような、真実と成長のある教室を創りたい!という思いを抱きつつ道なき道を進んだあげく、ついに迷子状態に…。そんな私にとってタイムリーに現れた『学習会話を育む』というタイトルの本は垂涎(すいぜん)ものでした。

本書はさまざまなアプローチ(マインドセット、場づくり、具体的な実践方法、実践実例、学習会話を促進させるカードなどのツールやアクティビティの紹介、評価の方法等)から、「学習会話」の実践に挑戦する私たちへのパワフルな提案(サジェスチョン)がちりばめられています。道に迷っていた私にとって、まさに必要なポイントごとに具体的で明確な目印がうたれた地図そのもので、読めば読むほど「すごいアイテムを手にしてしまった!」と感動しきりでした。

 「学習会話」は日本では耳慣れない言葉ですが、 “生徒が学習内容の理解を深め、思考力や言語能力を高める上でとても有効な手段”と紹介されています。また、会話を価値づけることで、「いかに学び、生きるかについての生徒たちの見方が育ち、他者と話すことによって学ぶこと、考えをつくること、意思決定をすることの価値を理解した時、生徒たちの学習感は拡充される」とも言っており、「学習会話」のスキルを身に着けることが生徒たちのエージェンシー(主体者意識)を高めるために必須な力であることは間違いないようです。

 とは言っても、「このテーマについて話し合って」というファシリテーションだけでは、生徒たちは自分たちの「会話」を「学習会話」へと深めていくことはできません。

ただの「おしゃべり」を「学習理解を深め、学習感を深める会話」へと質を高めていくために、どのような手立てが必要なのでしょうか。

 この問いに本書は余すところなく、直球で答えてくれます。

「…それだけに、考えをつくりだす意義を生徒に理解させることは、根本的なことであり刺激的な挑戦ともなります。私たちは、生徒が考えをつくりだす習慣と、それを可能にするスキルの育成をもっと重視しなければなりません。そのために本章では、考えをつくりだすのに必要とされる会話スキルを身につけるための実践的な方法を紹介していきます(51~52ページより抜粋 )」

とあり、実際の生徒の学習会話の記録をもとに、“明日から使える”具体的な手法がたくさん紹介されています。カードや天秤などのアイテム、三連続ペアトークやテキスト・ウォーキングなど、思わず使ってみたくなるアイディアに刺激され、授業の組み立てのイメージが次々と湧いてきます。

特に第4章は「国語科での学習会話」の実践について詳しく述べられており、文学の解釈の授業を通して人間であることの意味をより深く理解してほしいと考えている国語科の先生方にはぜひ読んでほしいチャプターです。

少しだけ紹介すると、

4.1のモデルを見ると、本や文章についての会話には豊富な内容があることがわかります。他の人は自分とは異なる理解をもっており、新しい発見、質問、回答、説明議論を提供してくれます。二人の生徒が一つの文章について話せば、その文章の可能性は大きく広がるのです。……生徒に、理解に重点を置いた長く豊かな会話を展開できる力を身に着けさせるには、粘り強く指導していくことが大切になります。(149~150ページより抜粋) 


   おまけですが、本書全体を通して「会話は創造的な作業空間である」というメッセージが織り込まれており、これは生徒たちの前に、まず大人である我々が理解しなければならないスタンスだと感じました。たとえば「会議」などのシーン。それぞれの立場からの意見をただぶつけあうだけのコンフリクトな状況がしばしば生じますが、「会議という会話の場」は「新しいものを創り上げる、“考え”を練り上げる場」であると捉えれば、その時間がまったく異なる表情を見せるのではないでしょうか。 本書でも「生徒が会話をすることに開放的な場所、生徒の声を大切にする場所、生徒が考えをつくり上げることを許可する場所では、有意義で永続的な学びが起こります。」(239ページ)「学ぶことにより興奮し、クラスメイトとよりよい関係を築き、より確かで永続的な方法を使って学習内容を学び、他の人とつながりながら生きることの価値を認識した人間へと成長していく生徒の姿を見ていると、この努力や挑戦には価値があることがわかります。」(284ページ)と書かれています。これを我々大人にもそっくりあてはめて考えることができれば、私たちの職場も未知の可能性が広がるすてきな空間になり得る、そんな心境にまで導いてくれた、大切な一冊です。

 興味を持たれた方はぜひ、本書を手に取っていただき、会話から生み出される創造的な学びの空間の魅力に触れてみてください。

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2021年10月16日土曜日

読む行為の「当たり前」を疑う

 子どもたちが私の想定する範囲をはるかに超えた理解のレベルのしっかり考えて発見したことや見解を見せてくれた何度もの機会を、記録に取っていたらと思います。そういう経験を何度も経たことで、とうとう私は、その子たちの理解を高めたのは、単に理解のための方法を使ったおかげだとばかりは言えないのではないかと思い至りました。それは、こうした理解のための方法を用いることで子どもたちに可能になったことを明らかにし、説明することだったのです。(『理解するってどういうこと?』248ページ)

 ハーマン・メルヴィルの『白鯨』、レスリー・マーモン・シルコウの『儀式』、フィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢をみるか?』、マッカラーズの『心は孤独な狩人』・・・いずれも多くの読者を得ている小説です。そこに登場する個性的な登場人物たちに魅了される経験をした人も少なくないでしょう。それらを誰かと一緒に読んだとしたら「魅了される」だけでは済まされないことが起こるのではないか。しかもそれが自分とは違う感覚を持つ読者だったとしたら。詩人で作家のラルフ・ジェームズ・サヴァリースのやったことです。その『嗅ぐ文学、動く言葉、感じる読書―自閉症者と小説を読む―』(岩坂彰訳、みすず書房、2021年)冒頭の「本書に寄せて」のなかで、盲目の作家スティーヴン・クーシストは次のように言っています。
 本書は読書についての本だが、私がこれまで出会ったどんな本とも違う。自閉症者は心の理論を持たない、言語障害を患っている、想像による遊びができない、といった有害な先入観やステレオタイプを脇に置き、テキサス州オースティンに住む言葉を話さない男性が『白鯨』の中を泳ぎつつ自分の感覚の物語を語るのに耳を傾けるといい、あるいはオレゴン州ポートランドに住むサイバーパンクのさっかにしてコンピューター・プログラマーでもある女性が『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を読み、六人のアンドロイドを「廃棄」する賞金稼ぎ、リック・デッカードの共感面での弱点を追究するようすを見てみよう。自閉症者はここに出てくるアンドロイドと同じように共感力を欠くと言われているのだが。
 神経学的に多様な心は、読書に何をもたらすのだろうか。得られることは多い。よく言われる「絵で考える」才能は、文学が映し出す「感情の映画」のいては有利でさえあるかもしれない。(『嗅ぐ文学、動く言葉、感じる読書』v~viページ)
 サヴァリースのやったことを、強いて短く言えば、読んだり、批評したりすることについての自分の見方や感覚の狭さに、自閉症者との読書会を通じて思い至ったということになります。その手法は、1970年代から1980年代にかけて、自分とは異なる読者反応を手がかりにして,自身の文芸批評のありようを押し広げ、自明とされた解釈を問い直した、デヴィッド・ブライヒの『主観批評』や『ダブル・パースペクティブ』(いずれも未邦訳)といった著作と共通しています。サヴァリースの試みは自閉症者の読む行為に対する姿勢や見解を観察するばかりでなく、そのことによって自らの読む行為を揺さぶられ、内省を繰り返していくところに特徴があります。「ニューロティピカル」(神経学的な定型発達者)としての自身の読む行為が、実はかえってテクストへの特殊な関わり方の一つなのだということを、サヴァリースの言葉に導かれながら、本書の読者としての私自身が強く思わざるをえませんでした。文学研究者であるサヴァリースは、終始分析的な精読にこだわっていますが、彼が読書パートナーとして選んだ人々は例外なく彼の分析的精読の「死角」を浮き彫りにしていきます。
たとえば『白鯨』を一緒に読んだティトの読み方について。
実際ティトは小説が終わりに近づいたころ「あと何週間か、二章ずつ進んだり戻ったり泳ぎ進めよう。ゆっくりと料理するほうが鯨の風味を引き出せるから」と書いてよこした。文学の教授が「精読」と呼ぶ読み方は「自閉症的読み方」と言い換えていいだろうと思う。ティトが示したような注意深く濃密な読み方こそが文学にふさわしいのである。(『嗅ぐ文学、動く言葉、感じる読書』85ページ)
次にシルコウの『儀式』を読んだジェイミーの読み方について。
ニューロティピカルの読者は小説のいくつものイメージをつなぎ合わせる際に、素朴なパラパラ漫画のようなことをしているのに対して、ジェイミーは映画賞を受賞するハリウッドのプロデューサーのようなつなぎ合わせをしているのだ。言葉を肉付けするだけでなく、動きをさらに加えることで「言語パターンの解釈のプロセスを強化する」のだと彼は言う。(『嗅ぐ文学、動く言葉、感じる読書』111ページ)
「ニューロティピカルの読者」よりも、ティトやジェイミーのような読者の方が、「注意深く濃密な読み方」をし、「つなぎ合わせ」に長けているというのです。同じ小説を読み合うなかで、読む行為についてのこのような発見の連続が起こったことをサヴァリーズは克明に記述していきます。この本は「理解する」ことの新たな次元を教えてくれます。
本書の最終章「当たり前を疑うために」のなかで、読む行為の認知科学的研究を進め、「感情の統合力」を考察するデヴィッド・マイアルの論文を引きながら、サヴァリースは次のように言っています。
マイアルによれば、文学は「誘発、越境、修正」を引き起こすきかっけになるという。誘発とは、感情に満ちた個人的経験を単純に思い起こすこと、越境は、そうした記憶とテキスト内の出来事とが一時的につながること、修正は、最初の感情を考えなおすことである。マイアルにとり、文学は「感情を呼び覚まし、その意味合いを修正するための効果的な手段」となるものである。(『嗅ぐ文学、動く言葉、感じる読書』278~280ページ)
こうした「誘発」「越境」「修正」は、読者とテクストとの個人的なやりとりで生じるのでしょうか、それとも、読者相互のやりとりの過程で引き起こされるものなのでしょうか。『嗅ぐ文学、動く言葉、感じる読書』の著者は、自閉症者とともに小説を読むなかで「誘発」「越境」「修正」を繰り返しています。
冒頭に引用した箇所でエリンさんが「記録にとっていたら」と思ったこととは、読む子どもの変容というだけでなく、エリンさんの「想定する範囲をはるかに超えた理解のレベルのしっかり考えて発見したことや見解」を目の当たりにして揺さぶられた自身の「誘発」「越境」「修正」の過程そのものだったと言えるのではないでしょうか。それは、サヴァリーズが実践したようにして読む行為の「当たり前」を疑ってみることでもあります。

2021年10月9日土曜日

著者の意図?

  「※ここまでの『すてきな三にんぐみ』の読み解きは、作者の意図とは無関係な私の解釈です」

 上の文章は、9月25日の投稿で紹介した『新・絵本はこころの処方箋 〜絵本セラピーってなんだろう』(岡田達信著、瑞雲舎、2021年)の中に出てきます(20ページ)。その前の数ページを割いて、岡田氏が『すてきな三にんぐみ』を、何度も何度も読み直す中で考え続ける様子が描かれています(14〜20ページ)。そして、考える中で、「ここまで想像したときに私は初めてこの絵本が本当に理解できたような気がしました」(19ページ)という思いになれたそうです。私は「本との対話」ってこんな感じなんだと思いながら、興味深く読みました。

 岡田氏は自分の読み解きを「作者の意図とは無関係な私の解釈」と書かれています。そして、「他にもさまざまな解釈があるので、ご興味のある方はどうぞ」ということで、『すてきな三にんぐみ』にかかわる数冊の書名も提示されています(20ページ)。

 考えてみると、誰かに自分の読んだ本の反応を伝える時に、私も時々「これは全体のテーマには関わらないのですが」とか「著者の意図とは違うと思いますが」と前置きをすることがあります。ある場面が心に残り、その場面について語りたい、でも「作者の意図」とは外れているのだろう、とどこかで思っています。なんだか不自由な感じですね。

 『新・絵本はこころの処方箋 〜絵本セラピーってなんだろう』では、研修やセミナーで絵本を使っていた岡田氏が、『ぐるんばのようちえん』に対して大人たちがそれぞれ解釈・反応している例も紹介しています。第3章「絵本に何を見ていたのか」の「3-1 大人の絵本トークバトル」(28〜34ページ)から、『ぐるんばのようちえん』に対する大人たちの反応を少し抜粋します。

・新卒採用の社員から「分かりました、仕事が合わなければどんどん転職したほうがいいんですね」(30ページ)

・会社の経営者から「ぐるんばには顧客視点が抜けています」(31ページ)

・会社役員から「ぐるんばは悪くないと思います。悪いのは管理職です」(33ページ)

 大人たちがぐるんばの幼稚園に様々に反応する様子は、その理由も書かれていて、なるほどと思います。この大人たちも「作者の意図」とは異なるところで、それぞれに反応しているのでしょうか?

 また、先日、別件で、大草原の小さな家シリーズの著者ローラ・インガルス・ワイルダーの検索をしていたときに、「米国の西部開拓時代の生活を描いたワイルダーの作品は、米先住民や有色人種を非人間的に描く表現が使われていると批判」されてきて、「ローラ・インガルス・ワイルダー賞」を「児童文学遺産賞」に変更することが決まったという記事を見つけました。https://www.bbc.com/japanese/44610932

「米先住民や有色人種を非人間的な存在である」ことを著者が伝えている(意図している?)と判断されたことで、賞の名前が変更になっています。最初に賞の名前が決まった時とは異なる視点で著者の意図が捉え直されているのかもしれません。

*****

 そんなことを考えているときに、少し古い本ですが、Constance Weaverの本★の中に「読むことは意味をつくり出していく能動的なプロセスだ」(201ページ)と書かれていること、 そしてそのプロセスに影響を与える多くの様々な要素が記された後に、「したがって、意味はテキストの中にあるのではない。意味は一人ひとりの読み手によって、ある程度まで、ユニークにつくりだされる。著者と読者のコミュニケーションが完全に一致することは決してない」(201ページ)と説明されていることを思い出しました。(★Constance Weaver, Understanding Whole Language: From Principles to Practice, Heinemann, 1990)

 上記から考えると、教室にいる子どもたちの経験がそれぞれに異なるので、読むことから得られる(つくりだす)意味もそれぞれに異なるので、それぞれが自分の思ったことを「比較的自由に」話す場合、出てくる反応は多様で予想外なのだろうと思います。でも、それぞれにユニークにつくり出していく意味は、もしかすると「著者の意図」や「著者の言いたいこと」という、フレーズの中で消えていったり、横に押しやられることもあるのかもしれないとも思いました。

 ある本のさまざまな解釈は、おそらく著者に詳しい人、著者の生きた時代や社会背景に詳しい人などが、それぞれの知見を駆使して提供されていることと思います。それらからは、優れた読者の読み方の一つを学ぶ学ぶこともできそうです。とはいえ、程度の差はあれ、それらも、やはり個々の読者がそれぞれにテキストやその他の文献等と対話しながら、つくりあげていくものになります。そう思うと、「著者の意図」は私がこれまで考えてきたよりも、緩やかに?捉えることができるものなのかもしれません。

 より深く理解できるような効果的な読み方を知ることは大切、考え聞かせ等で優れた読み手がどうやって読み取っていくのかを見せることも効果的、本に書かれていることを根拠にして論じることも大切、でも、そこから先に生まれること、つくりだされる意味は、それぞれにユニークであり、広い世界がある。その広がりを、私は「著者の意図」というフレーズで、無自覚に狭めてきたのかもしれません。

2021年10月2日土曜日

新刊案内『ピア・フィードバック』

新潟の国語教師・佐藤先生が、本の紹介文を書いてくれました。


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国語の授業(や学級活動)で「振り返り」や「フィードバック」を書かせたとき、子どもたちが「○○ができていないので○○したい」「きれいにできてよかったです」「○○さんがさぼっていたのでやめてほしいです」「自分なりに頑張りました」「改善できました」「これからの生活にいかしたいです」のようなコメントを書いているとしたら、大人の顔色を伺う子どもを育ててしまっているかもしれません。

本書のタイトルは『ピア・フィードバック ICTも活用した生徒主体の学び方』です。

フィードバックが機能するための環境づくりと、様々な手法を教えてくれます。

「フィードバックってコメントを返すことじゃないの?」

「ピアってことは子ども同士でフィードバックをさせるということ? どうやって?」

そんなふうに思われる方こそ、ぜひ本書を読んでほしいです。

近年、「フィードバック」という言葉がビジネスでも教育でも使われるようになりました。

学校で言えば、教員対象に行われている「教員評価」、児童生徒に配られる「通知表」がイメージしやすいと思います。「反省」「振り返り」「リフレクション」は自分主体ですが、フィードバックは相手、他者の目線が送られてきます。一定の成果を前にして「素晴らしい」「改善できました」「努力が必要です」と反応が伝えられてきます。

しかし、よくあるフィードバックは「空虚な決まり文句」の伝達で、これをやり取りする行為や時間が役に立つことは、ほぼありません。時期の問題もありますが、通知表の所見に至ってはクレーム回避のためにほぼ定型であり、例文の本まで出版されている始末です。本書では、こうした言葉を「空虚な決まり文句」「聞き心地のよい言葉」「真実から目をそらすためのもの」と表現しています。人を育てることに資さない内実のない言葉がばらまかれているだけだからです。

そもそも私たち大人ですら、受けたフィードバックを忘れてしまいます。校長室を出たとたん、教室を出たとたん、授業終わりのチャイムが鳴ったとたん、休日が来たとたん、忘れてしまうのです。ですが、今日も多くの教室では「空虚な決まり文句」が飛び交っています。

なぜなのでしょう。

本書は明快に答えています。

P77L1~「私たちには、生まれながらにして身につけていると思い込んでいるスキルや、生徒どこかで身につけたはずだと思い込んでしまって、あえて教えていないというスキルがあるように思えます。フィードバックを適切に(送ったり-評者追加)受け取り、それを活用することは、まさにそのようなスキルだと言えます。」

つまり「習っていないから、送ることも、受け止めることも活用もできないのだ」ということです。

思い返せば、「反省」「振り返り」ですら、しっかり教わったでしょうか。教師になって理論的に教えたでしょうか。清掃の反省会では「きれいにできました」、失敗を咎められて「反省してます」と言いさえすれば、その場から解放してもらえると思っている子どもが多くいます(同じことは、家庭でも訓練されています!)。形式的な反省と振り返りが生活の中にはびこっているのです。「フィードバック」で他者目線をったとしても、受け止めて活用する術を知らないので、空虚な「反省」「振り返り」と同様に空気に流されて消えてしまうのです。

「フィードバック」は単純な評価活動ではありません。児童生徒の出来栄えを賞賛したり、弱点を指摘したり、教師の自己評価を肯定的に語って勇気づけたり、たった一回のやりとりで人を変えられたりする取り組みではないのです。

絶対に必要なのが子どもたちの聞く力を育てること。そして、たくさんの練習をさせること。P98L11「フィードバックと修正は継続的なプロセス」なのです。「フィードバック」を使いこなすようになることは、教師から正解を与えられることを待つのではなく、自ら学びのハンドルを握って、学びに立ち向かう力をもつことになるのです。「主体性(エイジェンシー)」「オウナーシップ(自分事という意識がもてること)」「エンパワーメント(自分が本来もっている力を引き出せること)」は、身に付けなさいと言われて身につくものではなく、継続的なプロセスを教室で経験する必要があるのです。

本書に書かれている全てをいっぺんに実現することはできません。私たち大人の多くが「フィードバック」を理解できていないからです。

では、どこから始めたらいいでしょう。

・教師の態度を変える

・教室の環境、雰囲気を調整する

・具体的でタイミングの良いフィードバックを試す

・フィードバックの受け取り方を学ぶ

・生徒の聞く力を育てる

・ルーブリックを生徒と作る

Googleドキュメントを使う

など、本書では様々な考え方や方法が紹介されています。

関係づくりに興味がある方は第2章から、ICTが得意な方は第7章から、フィードバックを生徒に教える方法を学んでみたい方は第4章から、というように、興味を惹かれたところから手を出してみてください。

疑問に思うところ、難しいと感じるところ、現実的じゃないと思うところがありましたら、ぜひメール、Googleドキュメント、Twitterなどで一緒に読書会―ブッククラブ―をしませんか。きっと「フィードバック」の体験ができると思います。

 

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