2021年10月16日土曜日

読む行為の「当たり前」を疑う

 子どもたちが私の想定する範囲をはるかに超えた理解のレベルのしっかり考えて発見したことや見解を見せてくれた何度もの機会を、記録に取っていたらと思います。そういう経験を何度も経たことで、とうとう私は、その子たちの理解を高めたのは、単に理解のための方法を使ったおかげだとばかりは言えないのではないかと思い至りました。それは、こうした理解のための方法を用いることで子どもたちに可能になったことを明らかにし、説明することだったのです。(『理解するってどういうこと?』248ページ)

 ハーマン・メルヴィルの『白鯨』、レスリー・マーモン・シルコウの『儀式』、フィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢をみるか?』、マッカラーズの『心は孤独な狩人』・・・いずれも多くの読者を得ている小説です。そこに登場する個性的な登場人物たちに魅了される経験をした人も少なくないでしょう。それらを誰かと一緒に読んだとしたら「魅了される」だけでは済まされないことが起こるのではないか。しかもそれが自分とは違う感覚を持つ読者だったとしたら。詩人で作家のラルフ・ジェームズ・サヴァリースのやったことです。その『嗅ぐ文学、動く言葉、感じる読書―自閉症者と小説を読む―』(岩坂彰訳、みすず書房、2021年)冒頭の「本書に寄せて」のなかで、盲目の作家スティーヴン・クーシストは次のように言っています。
 本書は読書についての本だが、私がこれまで出会ったどんな本とも違う。自閉症者は心の理論を持たない、言語障害を患っている、想像による遊びができない、といった有害な先入観やステレオタイプを脇に置き、テキサス州オースティンに住む言葉を話さない男性が『白鯨』の中を泳ぎつつ自分の感覚の物語を語るのに耳を傾けるといい、あるいはオレゴン州ポートランドに住むサイバーパンクのさっかにしてコンピューター・プログラマーでもある女性が『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を読み、六人のアンドロイドを「廃棄」する賞金稼ぎ、リック・デッカードの共感面での弱点を追究するようすを見てみよう。自閉症者はここに出てくるアンドロイドと同じように共感力を欠くと言われているのだが。
 神経学的に多様な心は、読書に何をもたらすのだろうか。得られることは多い。よく言われる「絵で考える」才能は、文学が映し出す「感情の映画」のいては有利でさえあるかもしれない。(『嗅ぐ文学、動く言葉、感じる読書』v~viページ)
 サヴァリースのやったことを、強いて短く言えば、読んだり、批評したりすることについての自分の見方や感覚の狭さに、自閉症者との読書会を通じて思い至ったということになります。その手法は、1970年代から1980年代にかけて、自分とは異なる読者反応を手がかりにして,自身の文芸批評のありようを押し広げ、自明とされた解釈を問い直した、デヴィッド・ブライヒの『主観批評』や『ダブル・パースペクティブ』(いずれも未邦訳)といった著作と共通しています。サヴァリースの試みは自閉症者の読む行為に対する姿勢や見解を観察するばかりでなく、そのことによって自らの読む行為を揺さぶられ、内省を繰り返していくところに特徴があります。「ニューロティピカル」(神経学的な定型発達者)としての自身の読む行為が、実はかえってテクストへの特殊な関わり方の一つなのだということを、サヴァリースの言葉に導かれながら、本書の読者としての私自身が強く思わざるをえませんでした。文学研究者であるサヴァリースは、終始分析的な精読にこだわっていますが、彼が読書パートナーとして選んだ人々は例外なく彼の分析的精読の「死角」を浮き彫りにしていきます。
たとえば『白鯨』を一緒に読んだティトの読み方について。
実際ティトは小説が終わりに近づいたころ「あと何週間か、二章ずつ進んだり戻ったり泳ぎ進めよう。ゆっくりと料理するほうが鯨の風味を引き出せるから」と書いてよこした。文学の教授が「精読」と呼ぶ読み方は「自閉症的読み方」と言い換えていいだろうと思う。ティトが示したような注意深く濃密な読み方こそが文学にふさわしいのである。(『嗅ぐ文学、動く言葉、感じる読書』85ページ)
次にシルコウの『儀式』を読んだジェイミーの読み方について。
ニューロティピカルの読者は小説のいくつものイメージをつなぎ合わせる際に、素朴なパラパラ漫画のようなことをしているのに対して、ジェイミーは映画賞を受賞するハリウッドのプロデューサーのようなつなぎ合わせをしているのだ。言葉を肉付けするだけでなく、動きをさらに加えることで「言語パターンの解釈のプロセスを強化する」のだと彼は言う。(『嗅ぐ文学、動く言葉、感じる読書』111ページ)
「ニューロティピカルの読者」よりも、ティトやジェイミーのような読者の方が、「注意深く濃密な読み方」をし、「つなぎ合わせ」に長けているというのです。同じ小説を読み合うなかで、読む行為についてのこのような発見の連続が起こったことをサヴァリーズは克明に記述していきます。この本は「理解する」ことの新たな次元を教えてくれます。
本書の最終章「当たり前を疑うために」のなかで、読む行為の認知科学的研究を進め、「感情の統合力」を考察するデヴィッド・マイアルの論文を引きながら、サヴァリースは次のように言っています。
マイアルによれば、文学は「誘発、越境、修正」を引き起こすきかっけになるという。誘発とは、感情に満ちた個人的経験を単純に思い起こすこと、越境は、そうした記憶とテキスト内の出来事とが一時的につながること、修正は、最初の感情を考えなおすことである。マイアルにとり、文学は「感情を呼び覚まし、その意味合いを修正するための効果的な手段」となるものである。(『嗅ぐ文学、動く言葉、感じる読書』278~280ページ)
こうした「誘発」「越境」「修正」は、読者とテクストとの個人的なやりとりで生じるのでしょうか、それとも、読者相互のやりとりの過程で引き起こされるものなのでしょうか。『嗅ぐ文学、動く言葉、感じる読書』の著者は、自閉症者とともに小説を読むなかで「誘発」「越境」「修正」を繰り返しています。
冒頭に引用した箇所でエリンさんが「記録にとっていたら」と思ったこととは、読む子どもの変容というだけでなく、エリンさんの「想定する範囲をはるかに超えた理解のレベルのしっかり考えて発見したことや見解」を目の当たりにして揺さぶられた自身の「誘発」「越境」「修正」の過程そのものだったと言えるのではないでしょうか。それは、サヴァリーズが実践したようにして読む行為の「当たり前」を疑ってみることでもあります。

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