2021年12月31日金曜日

「ことばで描く」ということ 〜子どもの詩を読む〜

 (時々、投稿をお願いしている吉沢先生に、以下を書いていただきました。)

 私は、作者の気持ちが伝わってくる文章を読むと、そこに魅力を感じます。ところが、生徒たちに自分の気持ちのこもったエッセイを書かせようとしても、なかなか思うように行きません。「修学旅行で長崎に行ってどうだったの?」「面白かった」、「試合に負けてどんな気持ちだったの?」「くやしかった」、それで終わりです。もっと色々な気持ちがあるはずなのに、いざ文章に書くとなると難しい。

 そんなことを考えている時に、小学生の書いた詩を読む機会がありました。小学生の詩を集めた『小さな目』という本です。50年以上に発行された古い本で、時代を感じさせるものもありますが、時代を越えて伝わるものがあり、思わず笑ってしまったり、感心したりしました。今回は、そんな作品のいくつかを紹介し、「作者の気持ちが伝わる」とはどういうことかを考えてみたいと思います。

▷次の詩は、小学校1年生の作品です。最終行を予想してみてください。

テレビ★1

            高山もとひで

おとうさんが 8にせえといった

ぼくは てつわんアトムを

みたいと いうた

はやく 8にせんと

あとからおこるぞというた

ぼくは なきそうになって

8に まわした

(          )

 テレビ放送が始まったのが1953年で、一般の家庭に普及し始めたのが1960年代半ばです。手塚治虫原作の「鉄腕アトム」がテレビアニメ化されたのが1963年。そんな時代に、父親とのチャンネル争いで負けてしまった作者。内容はシンプルです。

 最終行は、「ボクシングをやっていた」です。「くやしかった」という言葉かな、と思われた方もいるかもしれませんが、ここで「くやしかった」と書かないところが、この作品の良いところです。

 もちろん、作者はくやしかったことでしょう。しかし、それを「くやしかった」と書いてしまうと単なる説明になってしまいます。作者がくやしかったことぐらい、書かれていなくても読者は分かります。それよりも、「なきそうになって/8に まわした/ボクシングをやっていた」という場面がそのまま描写されることで、泣きそうな作者、見たくもないボクシングの画面、それに見入る父親の姿が目に見えるようです。

 また、「8にせえ(8チャンネルにしろ)」など、関西弁で書かれていることも、臨場感を高めているでしょう。


▷次の詩は、小学校3年生のものです。最終部分を予想してみて下さい。

母の日★2

        竹内由美子

母の日なので

プレゼントをしてあげた

おかあさんは

だまって

なきそうなかおで

わたしをみた

わたしは

(       )

(       )

 小学校3年生の娘からプレゼントを受け取った母親は、「だまって泣きそうな顔」をしていたのです。それを見た「私」(作者)はどうしたのか。最終部分は次の3行です。

スカートで

かおを

かくしてしまった

 作者はうれしかったのでしょうか。恥ずかしかったのでしょうか。そのように考えて、気持ちを表すことばを当てはめようとしても、どれもフィットしません。作者自身うまくことばで説明できなかったのでしょう。でもとても心が動いていて、スカートで顔を隠したのです。それをそのまま書いています。そこがこの作品の魅力になっています。


▷次の詩も、小学校3年生のものです。詩の後半4行に書かれている内容を予想してみて下さい。

ほうたい★3

        江頭雅之

先生の足に ほうたいが

まいてあった

ぼくは

「そのけが どうしたの」

と きこうと思った

でも いわなかった

(        )

 )

 )

 )

 作者は、包帯が巻かれた先生の足に着目します。どうしたんだろう、という疑問が湧きますが、口に出すことはしません。そのように考えると、後半部分は、例えば、「ぼくは/しんぱいだった/でも/なぜか きけなかった」というふうにも予想できます。

 実際は以下のようになっています。

「先生 そのけが どうしたの」

ぼくは

心のなかで

そっと きいた

 これを「ぼくは/しんぱいだった/でも/なぜか きけなかった」と書いたのでは、説明にすぎません。しかも、そのようなことは、前半部分で読み手はすでに想像できています。読み手が知りたいのは、作者の心の動きです。作者は、そんな自分の心の動きをそのままことばにして描いています。

*ここまでの3つの詩に共通するのは、「くやしかった」とか「しんぱいだった」といった、感情を表すことばを使っていないということです。そして、自分のとった行動や、自分が見たもの、自分の心の状態をそのまま書いていることです。


▷次の詩を読んでみて下さい。小学校2年生の作品です。

せんとう★4

        白石良盛

ぼくは 二十ばん

おとうとは 十八ばん

ふくぬぎのきょうそうをした

いつも おとうとにまける

さきにはいったおとうとは かならず

ゆぶねのところでまっている

「はいっとけばいいのに」と

ぼくは おとうとのせなかに

ゆをかけてやる

 この詩には、感情を表すことばは一つも使われていません。しかし、作者と弟の間の細やかな心の動きが伝わってきます。3行目の「ふくぬぎのきょうそうをした」があるために、冒頭の2行からも、二人が先を競って、下足箱に靴を入れている情景が目に浮かびます。そして、競いあいながらも、兄を気づかっている弟。それに応えて、お湯を体にかけてあげる作者。何とも微笑ましい情景です。良い作品だと思います。


▷次の詩は、小学校5年生の作品です。

はくさい取り★5

        千葉好美

うらのだんだん畑で

かあちゃんとはくさい取りだ

風がビューとわたしのかおにつきささる

遠くの畑の上を

ほこりがほばしらのようにとんで行く

かあちゃんとならんで

かれたはくさいのかわをむいたら

こおりのかたまりのようにつめたい

かじけた手をこすりながら

ぼんぼんかごにほおりこんだ

かあちゃんのかみの毛に

はくさいのくずがついている

 この詩にも、感情を表すことばは使われていません。その代わりに、作者の目に映ったものや体で経験したものが書かれています。だんだん畑、風、畑の上を飛ぶほこり、枯れた白菜の皮、かご、母親の髪の毛、白菜のくず。

 想像してみてください。もしこの作品に、「わたしもがんばる」とか「かあちゃんといっしょでうれしい」、「かあちゃんは働きものだ」とか「長生きしてほしい」といったことばが書かれていたらどうでしょう。途端に、作品が陳腐なものに感じられないでしょうか。

 そのような言葉を排除し、作者は心に残った経験をそのまま言葉で描写しています。私はこの詩を読んで、ああ、白菜は寒い時期が旬の野菜だ、と思い起こしました。こうして寒い中で収穫されたものが、お店に並んでいるのか、とも思いました。母親と一緒に生き生きとして仕事をしている作者の姿が目に浮かぶようです。

*愉快な経験をすれば、「楽しかった」「うれしかった」、つらい経験をすれば、「悲しかった」「苦しかった」という表現をします。このようなことばによる表現は、正直といえば正直なのですが、実際にその人が経験した気持ちの機微、心の動きのひだを素通りしているのです。そして、喜怒哀楽の大まかな分類のことばで済ませているのです。

 しかし、上に掲げた小学生の詩では、そのようなことばを使わずに、見たもの、行ったこと、心に浮かんだことをそのまま描いています。そのことで、読み手はその情景が目に見えるような経験をし、作者の気持ちへと思いをはせます。そこに共感が生まれます。

 ことばによる描写の本質について、梅田卓夫ほか『高校生のための文章読本』は、次のように述べています。★6

「描写とは、作者の抱いた気持ちを伝えるのではなく、その気持ちを起こさせられた状況そのものを再現し、伝達するものである。つまり感情は、作者でなく、読者が用意するものであり、作者は読者に自分と同じ感情を引き起こすために描写を与えるのである。見たものを目に見えるように言葉で描くこと、読者に自分と同じ経験を追体験させ、読者を感化すること、これが描写の本質的な役割である。」

 私が読んだ『小さな目』という本は、1962年から朝日新聞紙上に掲載された詩を集めたものです。「児童詩コンクール」や「詩の教室」といったねらいからではなく、子どもたちが感じたままを率直に表現した内容に重点を置いて選ばれたものだそうです。★7 

 ここに引用した作品も、荒削りだったり、整っていないものも含まれているかもしれません。しかし、それ以上に、このような作品にふれて楽しむことで、見たままをことばで描くということについて多くを学ぶことができると思います。

 

★1 ★4 朝日新聞社編『ぼくらの詩集 小さな目 1・2ねん』あかね書房, 1964年

★2 ★3 朝日新聞社編『ぼくらの詩集 小さな目 3・4ねん』あかね書房, 1964年

★5 朝日新聞社編『ぼくらの詩集 小さな目 5・6ねん』あかね書房, 1964年

★6 梅田卓夫ほか『高校生のための文章読本 付録「表現への扉」』筑摩書房, 1986年, 77ページ

★7『小さな目』の巻頭にある「編者のことば」による。



2021年12月23日木曜日

『質問・発問をハックするー眠っている生徒の思考を掘り起こす』の紹介

 


 長年、高校で国語を教えた後、現在は大学で教員養成に関わっている佐藤広子先生(本の協力者の一人)が、紹介文を書いてくれました。

*****

この本は冒頭からいきなり、教師自身が自分の授業を振り返らざるを得ない問いかけで始まります。

授業において、あなたは生徒に対してどのような意図をもって質問をしていますか? 使う言葉に気をつけていますか? 質問するタイミングは? 質問の順番は? どのような種類の質問をしていますか? 生徒はあなたからの質問に対して、どの程度集中して取り組んでいますか? 生徒自身が、しっかりと質問について考えていますか?」

 このような質問リストが全編にちりばめられており、読むと同時に自分の授業について見直し、考え続けることができます。毎回の授業で「どのような質問を、いつ、なぜ、どのように」行うのか、改めて考えたいという先生にお薦めの一冊です。

 著者は自身も教師として、何百人もの教師と「授業研鑽チーム」のセッションを行っています。セッションは次のように進められます。

簡潔な事前説明――ホスト役の教師が授業内容を説明し、授業の進め方に関する質問に答える。②観察――ホスト役が授業をするとき、授業研鑽チームのメンバーに授業に関するさまざまなデータを収集するように依頼する。③振り返り――授業後に、授業研鑽チーム全員が授業を振り返り、ホスト役へのフィードバックを準備する。ホスト役は、まず何がうまくいって、何を変更すべきか説明したあとに具体的なフィードバックを求める。

この本は、著者が参加した300以上のセッションの記録を分析し、質問・発問の普遍的な要素を11のハック(改善点)にまとめたものです。11のハック毎に問題提起、解決のためにすぐにできること、解決までのステップ、留意点、課題の乗り越え方、実際にハックが行われている事例の順で提示されています。生徒主体の授業を作るために大切なのは生徒たち自身に考えさせることであり、教師は生徒の思考のプロセスに寄り添い、思考を活性化するための質問を適時投げかける必要があります。この本は、どのタイミングでどういう種類の質問をすればいいのか、授業者が読んで応用できるよう、わかりやすく示すための工夫が施されています。

例えば、ハック1「質問に対して全員の手が挙がると想定する――すべての生徒が学習に参加することを期待しよう」は、数名の生徒を指名して答えさせ、教師が補足説明をして終わるような授業を再考するきっかけになります。生徒主体の授業にするためには、今目の前にいる生徒は皆考える力を持っている、授業は教師の意図した答えを探る時間ではなく、生徒全員が自ら考える時間であるという認識がまず必要です。生徒全員の可能性を信じる教師の姿勢は、生徒を勇気づけます。認識を新たにした教師は、全員の可能性を引き出すにはどういう方法でどう質問すれば良いか、ハック1から多くのヒントを得られるはずです。

次のハック2「『分かりません』とは言わせない――自立的に考えるバトンを生徒にもたせ続ける」は、さらに踏み込んで「分かりません」といって生徒が考えることから逃げるのを阻止します。そこには、授業は「正解当てっこゲーム」をする場ではなく、時にはもがき苦しみながらも思考する場であるという前提があります。生徒が「分かりません」というのは、思考プロセスのスタート地点にすぎません。「分かりません」の理由は様々です。ここではその理由に応じて、どのように思考を続けさせることができるのか、対応策が提示されています。

 

このようなハックが系統性を持ちながら全部で11提示されています。11のハックに共通して言えるのは、生徒に考えさせるには、教師がどう質問で生徒の思考を引き出せるかを考え続けることが必要だということです。考え続けている教師の下で、主体的に考え続けようとしている生徒のいる教室の実例もハックごとに紹介されています。これらの実例を通して、ハックは決して理想論ではなく、実現可能であることを読者はイメージできると思います。

 

こういうハックを重ねていくと、生徒主体の学習が活性化し、教師の存在は見えなくなっていきます。生徒の可能性を信じるところから出発して、徐々に教師が前に出なくとも生徒同士で学び合い、思考を深めていける自立した学習者の教室ができていきます。最後のハック11「学びの安全地帯をつくる――生徒が挑戦できる環境を提供する」でh、生徒が安心して学べる安全な学習空間がどうやってできるのか、具体的に書かれています。その根底には信頼があるというメッセージでハックは閉じられます。

 

この本には、授業中に生徒が示した反応を読み解き、次の授業でどういう質問をすればいいか、考える材料がふんだんに提供されています。今まで行っていた質問の質は意識しなければ変わらないものです。本書をすぐに手に取れる場所に置いて、折に触れハックの質問リストに目を通してみてはいかがでしょうか。

 

◆本ブログ読者への割引情報◆

1冊(書店およびネット価格)2750円のところ、

WW&RW便り割引だと  1冊=2500円(送料・税込み)です。

5冊以上の注文は    1冊=2400円(送料・税込み)です。


ご希望の方は、①書名と冊数、②名前、③住所(〒)、④電話番号を 

pro.workshop@gmail.com  にお知らせください。

※ なお、送料を抑えるために割安宅配便を使っているため、到着に若干の遅れが出ることがありますので、予めご理解ください。また、本が届いたら、代金が記載してある郵便振替用紙で振り込んでください。

2021年12月18日土曜日

思考を変えるレンズ

 ずいぶん前に読んだはずなのにその内容がさっぱり思い出せない本というものがいくつかあるものです。私にとっては、トーマス・C・フォースター著 矢倉尚子訳『増補新版 大学教授のように小説を読む方法』(白水社、2021年)がそれです。翻訳初版は2009年で、著者はミシガン大学フリント校の教授。たぶん、大学教授が文学作品の解釈法について手際よくまとめた本だ、という不遜な感想しかもてなかったのでしょうか。読んだ記憶がありません。本棚のどこかに押し込んでそのまま…だったようです。ところが、『増補新版』を書店で立ち読みしてみると、ついつい引き込まれてしまいました。こんなことが書いてあったからです。

「素人読者は小説のテクストに向き合うとき、当然ながらストーリーと登場人物に着目する。これはどういう人間だろう。何をしていて、どんな幸運または不幸がふりかかろうとしているのだろう。こうした読者は最初のうち、あるいは最後まで、感情のレベルでしか作品に反応しようとしない。作品に喜びや反発を感じ、笑ったり泣いたり、不安になったり高揚したりする。つまり、感情と直感で作品世界に没入するのだ。これこそまさに、ペンを握った、あるいはキーボードを叩いたことなる作家が、祈りの言葉を唱えつつ作品を出版社に送るときに念じている読者の反応である。ところが英文学教授が小説を読むときは、感情レベルの反応も受け入れはするものの(中略)、主たる関心は小説のほかの要素に向けられてしまう。この効果はどこから来ているのか? この人物は誰に似ている? これに似た状況設定をどこで見たのだったのだろう? (中略) もしこんな質問ができるようになれば、こんなレンズを通して文学テクストを見る方法が身につけば、あなたの読みと理解はがらりと変わる。読書はさらに実り多く楽しいものになるはずだ。」(『増補新版 大学教授のように小説を読む方法』2324ページ)

  この引用の前半に書いてあるように、私たちは小説を読む時最初は「ストーリーと登場人物に着目」して、「感情のレベル」で作品に取り組むものです。「感情と直感で作品世界に没入」します。いま私は佐藤究『テスカトリポカ』(角川書店、2021年)をまさにそのようにして「通勤読書」しているところです。直木賞作家の描き出す世界に「没入」しています。引用後半に述べられている「英文学教授が小説を読むとき」のようには読んでいません。ですが、ここにあげられている「質問」すなわち「レンズ」を通して読もうとすれば、たとえば以前読んだことのあるラス・カサス神父の『インディアスの破壊についての簡潔な報告』(染田秀藤訳、岩波文庫)のことを思い出さずにはいられません(実際に『テスカトリポカ』の参考文献にはこの本もあげられていました)。アステカ文明についての関連本のことも。この小説について振り返り、考えて、意味づけようとすればそういうことが必要になることもわかります。ノーベル賞作家オルハン・パムクが『パムクの文学講義』(岩波書店、2021年)で使っている用語で言えば、前半で述べられているのは「直感」の読みで、後半で述べられているのは「自意識」の読みということになるでしょう。フォースターが示してくれたのは「自意識」的な読者の読み方ということになります。

 何を野暮なことを書いている本だ、小説は直感的に感じ取ってその描き出す世界に没入すればそれでいいではないか、という声が聞こえてきそうです。確かにそうですね。野暮ったいと言えば野暮ったい。しかし小説を面白く読み終えた後には、心地よい疲労感とともに一抹の寂しさとたくさんの時間を費やしてしまったというむなしさのようなものも覚えるものです。この引用の後半に書かれているような一種「自意識」的な読者になって、考えたことを書き付けたりするとずいぶん違うのです。意味をつくり出すことになりますから。フォースターの本はそのための手がかりをずいぶんたくさんもたらしてくれます。

 エリンさんも『理解するってどういうこと?』第7章「変わり続けること以上に確実なことはない」で次のように書いています。

 「小説やエッセイなどを読むのを中断して、それまで自分がもっていた考えや価値観を転換してくれたことについて書き出すとき、そういう中断なしに読んでしまう場合よりもずっと深いレベルの理解に入っていくのです。こういう振り返りのなかで、学びのプロセス、とりわけ私がこの章で論じてきた理解の種類の、時間と共に思考がいかに変わるかについて考える、貴重な機会をもつのです。もし自分の学びのプロセスについての気づきを振り返り、それを記録することができたなら、学ぶことの面白さを満喫しているというだけでなく、子どもたちの学びをどう展開したらいいのかというヒントも提供してくれることになります。これ以上に価値のある時間の使い方はおそらく考えられないでしょう。」(『理解するってどういうこと?』282ページ)

  エリンさんの言う「時間と共に思考がいかに変わるかについて考える」という「理解の種類」は、フォースターの言う「英文学教授が小説を読むとき」のような「質問」や「レンズ」を通して実現されると言ってもいいのではないでしょうか。それは「自意識」的な読者になることでもあります。確かに『テスカトリポカ』を読んだ後に、『インディアスの破壊についての簡潔な報告』やアステカ・マヤ・インカ文明について書かれた本を読んで、佐藤究の描いた世界を意味づけようとすれば、時間をかけてその世界に没入したその読む行為を意味づけることができます。明らかに私という読者の人生が拡張されることは確かなことです。未知の文献や映像作品に出会うきっかけも生まれますし、『テスカトリポカ』では「心臓」が小説の中心ですから、私の頭には夏目漱石『こころ』のことも浮かびました。

 エリンさんの言う「学ぶことの面白さ」とは、フォースターが「大学教授のように」読むために必須だという「記憶」「シンボル」「パターン」について気づくこと、そして本と本、文章と文章、テクストとテクストとの相互関連性に気づくことによって生まれるものなのかもしれません。単独で読んでいるときには思いもしないことがそういう相互関連性によって呼び起こされるのです。『理解するってどういうこと?』を知ったあとに私がフォースターの本の面白さに気づいたように。そう、私もまた「時間と共に思考がいかに変わるかについて考える、貴重な機会」をもつことができたわけです。

 

2021年12月10日金曜日

『学習会話を育む』を読んで

 


 佐賀県の小学校の先生・脇山真優さんが本の紹介文を書いてくれました。

****

国語でも算数・数学でもそのほかの様々な授業でも、教師側は必ず「お隣さんとお話してごらん」という言葉を口にすると思います。このときの教師側のねらいとしては、生徒が自ら進んで学びを深めること、そして自分の考えをより深めたり広げたりすることだと思います。しかし、今の「学習会話」は、生徒たちの学習のためになる会話になっているでしょうか。ただ意見の発表をするだけの場となっていないでしょうか。

この「学習会話」をよりレベルアップさせるため方法を『学習会話を育む 誰かに伝えるために』が教えてくれます。

「生徒たち同士の会話はどのようにさせたらいいの?」

「学習会話を始めるための問いかけはどのようなものがいいの?」

「会話をさせるにあたって教師側はどのような手立てをしたらいいの?」

「会話を評価するにはどうしたらいい?」

 このような疑問を持っている方こそ、ぜひ本書を読んでほしいです。

 「会話は、学び手としての自覚を高めることに影響します。協力して考えをつくりあげる自由と考えを表現する方法が与えられれば、生徒は意識して学習におけるエイジェンシー(主体性)に取り組むようになります。」(「第1章 学習会話とは何か?」―7ページ)

目次を見てみると、その方法が「アクティビティー」という形でたくさん掲載されています。どれも生徒たちがわくわくするような仕掛けがたくさんあり、明日実践してみたいものばかりです。時間のない教師が、授業の引き出しを増やすのにもってこいの本だともいえるでしょう。

また、生徒たちの会話実例も多く掲載されており、生徒が会話によって考えを練り上げていく様子が手に取るようにわかります。生徒に繰り広げてほしい会話の例がそこにはあり、教師側も生徒の目指すべき会話のレベルが一目でわかるでしょう。

 グループワークやペアワークには、生徒たちの思考の過程が詰まっています。これを評価に活用していくことも教師側は大切です。その評価方法や生徒への働きかけ方、評価ツールの例などが本書の第五章に記されています。会話を評価することへチャレンジしている人や、その方法に困っている人はこの章から読んでみるのもおすすめです。

 現在、教育界で重要視されている「主体的・対話的で深い学び」を実現するためには、「学習会話」をすることが大切です。

お互い(会話に参加するすべてのパートナー)の頭の中にしっかりとした考えがつくりあげられるような手助けをすれば、生徒たちに自信とエイジェンシーの感覚が育まれます。つまり、自分がつくりだしたものを誇りに思い、自分のものだと思う感覚です。(「第2章 考えをつくりあげるための会話スキル」―102ページ)

本書を読むことで、生徒たちの会話を実りのある、意味のあるものにできるのではないかと考えます。そして、会話を通して生徒がつくりだしたものに誇りを持ち、自信を持ってもらえるような手助けをしたいものです。

****

エイジェンシーは、学習会話でもキーワードです。

エイジェンシーに興味をもたれた方は、この姉妹プログで再三紹介してきました。https://projectbetterschool.blogspot.com/search?q=agency

そして、もう一つのブログでも・・・

https://thegiverisreborn.blogspot.com/search?q=%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%82%92%E3%81%99%E3%82%8B

エイジェンシー抜きの教育(それは、生徒のエイジェンシーだけでなく、教師自身のエイジェンシーも)はあり得ません!

 

2021年12月4日土曜日

チョコレート・ムースと星空

   通勤の途中で、ふと、私にとっての詩は、空にある星なのかもしれない、と思いました。みなさんにとっては、詩はどんな存在でしょうか。

 ラィティング/リーディング・ワークショップの優れた実践者アトウェルは、詩を読むことをチョコレート・ムースを食することに喩えています。アトウェルはチョコレートが大好きだそうですが、次から次へと食べると、過剰摂取で味覚も麻痺し、甘美で深い味わいに辟易してしまう。詩も同じで、詩のアンソロジーを最初から最後まで読むことはできない、一度に読めるのはせいぜい6篇か7篇の詩で、それが限界だと書いています。★ 

 小さいときから本が大好きだったものの、後年になるまで詩を読む経験がほとんどなかった私は、最初、詩を読む時も、続きが気になる本のページをどんどんめくっていくような読み方でアプローチしてしまい、詩の美味しさがわかりませんでした。

 そんな私でしたので、詩を前にすると、「詩は極上のチョコレート、一気にたくさん食べることはできない、そういう読み方で」と、自分に言い聞かせることが時々あります。(アトウェルの喩えは、私の記憶の中では、いつの間にか「チョコレート・ムース」から「極上のチョコレート」になっていました。チョコレート・ムースは自分ではあまり食べないからかもしれません。)

 チョコレート・ムースにしろ、極上のチョコレートにしろ、詩の美味しさを知っている人の「詩の味わいかた」としては、(自分にはうまく味わえないことが多いものの)私にはしっくりきます。

 でも、食べてしまうと無くなってしまうことがちょっと残念でした。

*****

 通勤の途中に「詩は、私にとっては空の星だ」と思ったのは、私には折にふれて読み返す詩がいくつかあり、つい先日、そのうちの一つ★★を読み直したからです。詩を読み直すことで、自分を見直したり、自分にとっての土台の一つに戻れたり、進む方向がかすかに見えたり、励まされたりします。詩によって様々な光を投げかけてくれます。

 そのような詩たちは、存在しているものの、時には忘れてしまう、でも、読み直すと、道しるべになったり、明るく照らしてくれたりします。食べても無くなってしまうわけではありません。

 たくさんの詩に出合うと、空の星が増えてきて、星がいっぱいの夜空になるかもしれません。星によって明るさも、輝き方も、それぞれに異なります。日中や天気の悪い日は星は見えないかもしれませんが、見えなくても、ちゃんとそこに存在していることには変わりはありません。そんなイメージです。

*****

 星が目印や道しるべになると言うイメージは、私の中では、19世紀、アメリカで奴隷たちが北部州を経てカナダまで逃亡するのを手助けした組織があり、その逃亡の過程で北極星が目印にされていたこと、また、「ここからはじまる」で終わる、ピーター・レイノルズの絵本『ほしをめざして』を思い出したことなどもかかわっています。

 ******

 私は詩を書けませんが、もし、私が詩を書けることがあり、もし、その中で「詩は空の星」と言う喩えを使ったとすると、その5文字の中に、上にだらだらと書いたような思いが詰まっていることになります。

 アトウェルは、詩を教えるときに、詩を「ひらく(unpack)ように読む」★★★と言います。上のようなことを考えたときに「ひらく/詰め込んだ荷物をほどく」と言うイメージが少しだけ実感できるような気がしました。素晴らしい詩人たちは、無駄な言葉を削ぎ落とし、選りすぐった言葉で綴っています。それをひらく楽しみ、これはまさにチョコレート・ムースをじっくり味わう楽しみなんだろうと思います。

*****

★ Nancie Atwell著の Naming the World: A Year of Poems and Lessons (Heinemann, 2006) とセットの A Poem a Day: A Guide to Naming the World の27ページに書かれています。

★★『ハビービー 私のパレスチナ』(北星堂書店、2008年)という本が邦訳されているネオミ・シーハブ・ナイ(Naomi Shihab Nye)の Famous という詩です。アトウェルが生徒たちに紹介する詩の一つでもあります。この詩は Poetry Foundation のウェブサイト(https://www.poetryfoundation.org/)で読めます。https://www.poetryfoundation.org/poems/47993/famous

なお、このサイトではネオミ・シーハブ・ナイ氏が自身の詩を朗読している動画などもあります。(例えば https://www.poetryfoundation.org/video/154493/naomi-shihab-nye-reads-separation-wall)。インターネットに関わる技術の進歩で、詩人や著者が自分の作品を読み上げる動画を多く目にするようになりました。

★★★ 『イン・ザ・ミドル』(三省堂、2018年)67〜68ページ、112〜115ページをご参照ください。

2021年11月26日金曜日

新刊『学校のリーダーシップをハックする』

 訳者の一人の公立中学校の国語教師の飯村さんが、本の紹介文を書いてくれました(飯村さんは、『私にも言いたいことがあります!』も訳しています)。

   ******

教育業界でときどき耳にする言葉の中に「不易流行」があります。最新のトレンドを追い求める(=流行)だけでなく、これまで先人の培ってきた伝統や教育文化(=不易)を見つめ直し、その良さを次につなげなくてはならない、といったニュアンスで、戒めとして使われることが多いです。

しかし、なぜか、逆の論法で使われることは少ないと思います。つまり、「これまでの伝統や教育文化だけでなく、最新の情報や時代に合わせて変えていかなければならない」という意味です。なぜか、日本における学校という場所は保守的な色合いが強く、変化を避ける傾向があるのです。

現在、働き方改革が叫ばれ、コロナ禍のなかで様々な変化が要求されています。その答えは、ただ現在の状況のように一人一台端末を準備すれば叶うというような単純なものではありません(http://wwletter.blogspot.com/2021/09/blog-post.html)。また、教育に対する政治的なメッセージや世論を忖度し、その意の通りに実践することでもありません。学校のリーダーが自分の学校の実態、生徒・保護者のニーズを把握し、教師の成長を促し、主体的な変化を求める必要があると思います。

本書はその具体的な考え方と手立てが書かれています。こちらの「RW/WW便り」を読まれている方ならきっと共感できると思います。RW/WWは、従来の国語のあり方から転じ、子ども一人ひとりのニーズと、その進み具合に合わせていく方法です。こうした考えを学校経営全体に広げて考えたのが本書であると言えるでしょう。

また、RW/WWを学校の事情でなかなか実践できない方もいると思います。教科書を使い、テストを使う、という学校の枠組みの制限を受けているから、チャレンジできない部分もあるでしょう。学校が変われば、可能性も大きくなるかもしれません。学校リーダーが柔軟になり、教師のチャレンジを推進できるような学校づくりをすることも書かれているのです。もし、自分がそのポジションにある方、あるいはこれから学校リーダーを目指そうという方に読んでいただきたい本です。

「不易流行」は、本来、「不易」も「流行」もどちらも大切で、その良さがあるものです。本書を読むことで、改めて、あなたなりの学校に必要な「不易」と「流行」がきっと見えてくると思います。

本の内容構成(目次)は、以下のようになっています。

 

はじめに より良い方法

問題 学校はリーダーではなく、管理者によって運営されている。          

ハック 1 校長は、もっと教職員の中に分け入り、学び続けるモデルとしての姿を見せよう――学びのフロントラーナーである校長は、誰の目にも明らかである

問題 学校のリーダーは自分の影響力を過小評価している

ハック2 C.U.L.T.U.R.E(文化)をつくりだすー―リーダーが率先してはじめましょう

問題 リーダーは関係構築を意図的に行っていない。

ハック3  関係を構築する――意図的に関係をもとう

問題 知識がなければ、人は自分の中で「真実」をつくろうとしてしまう

ハック4 学校の壁を取り払う—―コミュニティーとパートナーになろう

問題 学校は、後手後手になりがちである

ハック5 生徒の声を利用して拡散しよう—―声を見える化し、周囲の人の支持を高めよう

問題 私たちは、子どものためではなく、大人のために学校をつくっている

ハック6 生徒を学校の中心に据える—―子どものための学校をつくろう

問題 教師不足は現実の問題である

ハック7 スーパー教師を見いだす—―スペシャリストのチームを育てよう

問題 教員には専門性を高めるための時間が必要である

ハック8 大人も情熱を注げるプロジェクトをつくる—―教師を励まして学びと成長を推進しよう

問題:教員には協働して学ぶ機会がほとんどない

ハック9 協働して学ぶ――仲間とともに成長しよう

問題 教師はネガティブ思考に陥りがち

ハック10 マインドセットを変える—―ネガティブ思考をやめよう

おわりに 水のように

 

 以上から、これまでとは違う可能性が少しは見えてきそうでしょうか?

 

◆本ブログ読者への割引情報◆

1冊(書店およびネット価格)2420円のところ、

WW&RW便り割引だと  1冊=2200円(送料・税込み)です。

5冊以上の注文は    1冊=2100円(送料・税込み)です。


ご希望の方は、①書名と冊数、②名前、③住所(〒)、④電話番号を 

pro.workshop@gmail.com  にお知らせください。

※ なお、送料を抑えるために割安宅配便を使っているため、到着に若干の遅れが出ることがありますので、予めご理解ください。また、本が届いたら、代金が記載してある郵便振替用紙で振り込んでください。

 


2021年11月20日土曜日

つながりあう世界で「ルネサンスの思考」を築く

  『理解するってどういうこと?』の第6章「理解のルネサンス」では「ルネサンスの思考」という「理解の種類」が取り上げれています。「ルネサンスの思考」とは、エリンさんによれば、「幅広いテーマや興味・関心やジャンルの本や文章を探究することに駆り立てられ」「複数の考えが相互に関連するのを理解したり、パターンを認識したり」「特定のテーマや作家に熱烈な興味を抱くようになり、それらを理解するためなら、たくさんの時間とエネルギーを惜しげもなく使おうと」して、「考えを掘り下げることで、今まで知らなかった側面を発見する」ような「学習者」になるということです。「ルネサンスの思考」を促す教室の条件は『理解するってどういうこと?』の206ページに示されています。どうすればこの「理解の種類」とその成果を分かち合うことができるのでしょうか。

 「デジタルな遊びもそれ以外の遊びも大事。遊びは子どもの仕事である」という立場から書かれたジョーダン・シャピロ(関美和・村瀬隆宗訳)『ニュー・チャイルドフッドーつながりあった世界で生きる知恵を育む教育ー』(NTT出版、2021年)という本の第8章「新しい読み書き」にそのヒントになる一節がありました。シャピロさんは「リテラシー教育」の歴史を概観しながら、「テクノロジー」(技術)と「エピステーメー」(認識)の関連づけを重視して、次のような二つの問いを立てます。

今日、書面でのコミュニケーションはあらゆる職業で行われています。もちろん、私たちは葦のペンで粘土板を彫ることはなく、古代ギリシャ人のように動物の皮をなめし、軽石でこすって羊皮紙をつくることもありません。中世の修道士が使っていたインクの調合法も僕は知りません。そうしたリテラシーの訓練をしても、もはや無駄です。一方で、今の子どもが学ぶべき新技術はたくさんあります。ですから、私たちは古代シュメール人に学び、学校を「コンピュータハウス」と考えるべきなのかもしれません。そうすることで、次のような重要な問いと真剣に向き合うことができるのです。子どもたちは新しいテクノロジー環境で充実した人生を送れるように、十分に準備できているか? 新しい時代の道具を利用しながら、これまで人類に大きく貢献してきた価値観、智恵、独創性をうまく生かせる世界を築き上げられるか? (シャピロ『ニュー・チャイルドフッド』187ページ)

 この引用の最後の二つの問い(とくに最後の問いはこれからの教育を考えるために極めて重要です)を考えるために、シャピロさんは自分の息子が小学校3、4年で学んだ「説得的ライティング」の学習を取り上げて考察します。「説得術の伝統的ルール」を教えるために、プレゼンテーションソフトを使った「プレゼンテーション資料の作成」が宿題として課されていたそうです。シャピロさんの見立てによると、この学習は「プロセスライティング」の考え方に立つものでした。「プロセスライティング」が、着想、校正・編集、そして成果物の作成と共有のそれぞれのステップで「新しいテクノロジー」が十分に機能することを述べた後で、シャピロさんは次のような重要な指摘をしています。

先生がその宿題で育てようとしたスキルは、ごっこ遊びを通して育まれるのと同じものでした。プロジェクトの狙いは、息子が自分の中に強い自己感を見出す手助けをし、自信をもって、自分の価値を順序立てて表明できるように導くことにありました。(中略―引用者)今の子どもは、伝統的な装置とデジタルな装置を組み合わせて意思疎通ができるようになることを求められています。なぜなら、自己表現のプロセスは、そのために使う道具から切り離せないからです。マーシャル・マクルーハンは「メディアはメッセージである」と言いました。現代のテクノロジーを意図的に学習体験に取り入れようとする教師の存在なしには、子どもはつながりあう世界に合った創造的な表現スキルを磨くことはできません。(シャピロ『ニュー・チャイルドフッド』192ページ)

 そして、「新しい時代の道具を利用しながら、これまで人類に大きく貢献してきた価値観、智恵、独創性をうまく生かせる世界を築き上げ」るための方法を、シーモア・パパートの「コンピュータは二の次で、知識が第一」という考えや、ミッチェル・レズニックの「子どもはものを構築するとき、頭の中で新しいアイデアを組み立てている。そしてそのアイデアを原動力として、新しいものをこの世界で構築する。この終わりのないスパイラルが延々と続いていく」という言葉などを手がかりに考察しています。そのうえで、コンピュータースキルを子どもが身につける学習は、「つながりあう世界で貢献する方法を、十分な情報をもとに選択できるようになるため」であるという重要な見解を導くのです。「新しい産業革命」に貢献することがけっしてその目的ではないということを指摘することも忘れずに。
 「つながりあう世界で貢献する方法を、十分な情報をもとに選択できる」ということは「ルネサンスの学習者」の重要な属性にほかなりません。加えて、シャピロさんは「新しいテクノロジー」の時代の「ルネサンスの学習者」のリテラシーにとって重要な問題をもう一つ指摘しています。

ひとつだけ確かなことは、僕の息子の世代が大人になったとき、日常的な読む行為のほとんどがスクリーンデバイス上で行われるということです。テクノロジー恐怖症の人たちがどう考えようと、スクリーンデバイスは書き言葉の敵ではありません。むしろその逆で、スマホのおかげで今日の社会はかつてなく文字への依存度が高まっています。読む人の数も読む量も、頻度も増えています。ただし、読まれているのは本ではありません。ウェブ上の文字との関わりは極めて軽薄で、重厚な文学は滅びかけていると考える人もいますが、そうした見方のもとにあるのは過去へのロマンにすぎません。そういう人が思い描いているのは、誰もがプラトンを読み重厚な散文を書いていたような古き良き時代です。
しかし、実際には、そんな時代は存在しませんでした。そもそも大半の人は読み書きができず、たとえできたとしても、多くが大衆的な読み物を楽しんでいました。(中略―引用者)しかし何を読んでも、誰も痛い目にはあっておらず、それから(引用者注―『源氏物語』や『ドン・キホーテ』が書かれた時代から)数百年たった今も、文字を読めるひとはかつてなく増え、「良い」読み物も「悪い」読み物も入手しやすくなっています。これがデジタルテクノロジーの功績です。(シャピロ『ニュー・チャイルドフッド』201~202ページ)

 この考え方は読者史・読者論史でこれまでも言われてきたこと★の延長線上にあり、「デジタルか紙か」という問いは核心的な問いでないことがよくわかります。読み書きのツールの転換をわたくしたちは歴史のなかで何度も経験し、その都度それらのツールの「上手な」使い方を開発し、共有してきました。「デジタルデバイスを使った上手な読み方」を教え、読み書きの文化を共有するコミュニティをつくっていくことができるかどうかということを真剣に考えていくことこそ、これからの教育・文化・社会の重要な課題です。そのようなコミュニティが形成されてこそ「ルネサンスの学習者」を育てることが可能になるからです。『理解するってどういうこと?』206ページに示された「表6・1 ルネサンス的思考を促進する教室」の諸条件を満たすために「新しいテクノロジー」が強力なツールとなりうることを、シャピロさんの『ニュー・チャイルドフッド』は教えてくれます。それが、子どもたちに提供された「タブレット」を前にわたくしたちが考えていかなければならない大切なことの一つなのかもしれません。

★たとえば、カヴァッロとシャルチエ『読むことの歴史』(東京大学出版会)や、永峯重敏『雑誌と読者の近代』(日本エディタースクール出版部)など。

2021年11月13日土曜日

批評と反応

 「生徒は、書かれていることを根拠にしてどんなふうに文学を読み解き批評するのかを学ばなくてはいけません。ですから、私は、生徒に文学を批評するための用語や視点を教えます」

「でも、私は同時に、生徒の個人的な反応、ある特定の書き手が特定の作品を書く個人的な文脈、そしてその作品が読者に与える個人的な影響も大切にしています」

 上記の引用は、どちらも『イン・ザ・ミドル』(アトウェル、三省堂、2018年)の233ページからです。

 文学を読み解き批評するための用語や視点という時間をかけて蓄積された知識と、ある特定の読者にしかできない反応。アトウェルの『イン・ザ・ミドル』を見ていると、「個々の読み手の外の世界で積み上げられた知識」と「個々の読み手が築く本との個別な関係」、この二つが並行して存在し、生徒たちはこの二つを、教師のサポートも得ながら、自分なりに、かなり自由に行ったり来たりしている印象があります。

 この両方が必要であることを、10月16日の投稿「読む行為の『当たり前』を疑う」で紹介されていた『嗅ぐ文学、動く言葉、感じる読書―自閉症者と小説を読む―』(岩坂彰訳、みすず書房、2021年)を読み始めたことがきっかけで、考えました。

 この本は、私にはほとんど読んだことのない分野の本でしたし、サカサカと早く読める本でもありません(まだ読んでいる途中です)。通勤で読み始め、ページを開くと、その中に引き込まれて行きます。

 「個々の読み手の外の世界で積み上げられた知識」と「個々の読み手が築く本との個別な関係」という観点から考えると、私は後者についてはたくさん語れそうです。

 例えば。。。

 著者と文学の関係について「弁護士の息子で経済学を専攻していた学生が本の虫になった」(Kindle の位置No.299-301)等の著者の個人的な情報が出てきたり、また、養子にした自閉症の息子DJとの詳細なやりとりが紹介されていたりで、著者の息遣い?というか著者という生身の人間がいることを随所に感じます。著者自身やその立ち位置にも興味が湧きます。

 「そして最後に、本書は文学への愛ーーいわば真の愛、狂おしい愛、奥深い愛ーーについての物語である。せめてこの愛の一片でも読者に受け取っていただけたらと願う」(Kindle の位置No.459-461)という文を見ると、本好きの私は嬉しくなります。

 また、作家であり英文学の教授でもある著者が、自閉症の人たちとの読書を通じて、「ときとして、熟知した文学作品の中身に改めて気づかされ愕然とすることがある」(Kindle の位置No.4475−4476)と読むと、少し前に読んだ『未来のきみを変える読書術』苫野一徳、筑摩書房(ちくまQブックス)2021年で、以下のように書いていることを思い出したりもします。

「でも、著者が「言いたいこと」以上のもの、もっと言えば【著者が気づいていなかったことさえも、わたしたちは読み取ることだってできる】のです」(94ページ)

(*この本は2色刷りで、上記の【 】の部分は原文では赤色で印刷されていました。)

 こんな感じで、この本への反応や読んで思い出したことはいくらでも書けそうです。

 しかし、自閉症、認知のプロセス、文学など、この本を批評するために必要な、これまで積み上げられてきた知見や語彙は、私の中にはほぼ皆無ですから、「個々の読み手の外の世界で積み上げられた知識」を使って、この本を論じることはできないのがわかります。この本の外側にいて、この本に反応しているようにも感じますし、「批評できること」と「反応できること」の違いが実感としてわかります。

******

 『イン・ザ・ミドル』の第5章の扉には、「よい読者がいなければ、よい本も存在しない」というラルフ・ワルド・エマーソンの言葉が引用されています(203ページ)。

 個人的に反応するだけでは、その本を十分に良い本として、存在させることができないようにも思います(本は、それでも、そういう読者に文句を言うこともなく、許容してくれています。考えてみると、これもすごいことかもしれません)。

 そんなことから、「よい本を存在させるよい読者とは?」が少し気になりました。

 そこで、まずは、『イン・ザ・ミドル』から考えると、どんなことが出てくるのか、少し探してみました。

 例えば、読み手として生徒に求める目標として、アトウェルは以下のように記しています。

「それは、本に浸り、読むスタミナを培い、多様なジャンルや作家を読むこと。読んでいるものに対して書き手の視点から学ぶこと。自分の好みをつくりあげながら、はっきりとした言葉で、よいものはよいと言えること。鑑賞力のしっかりとした批評家となり、自分の考えを練り上げて表現する的確な語彙をもつこと。本に書かれていることを根拠とした判断ができること。詩や小説を読み、引き込まれ、そして自分の人生のなかに取り込むことで、より良い、より賢明な人間になっていくこと」(204ページ)

 また、関連して、読み書きのつながりについては、次のように述べています。

「書き手が使う技についての語彙に親しむこと。それによって、生徒は、優れた書き手や読み手としての視点をもてるようになってきます。教師が生徒に有益な語彙を譲り渡すこと。そして、生徒たちが自分の読む経験をベースに自分自身の文学を書いていく場を与えること。そうして初めて、生徒は文学作品に対して、この作品は作家の多くの選択が結集したものだという見方ができるようになるのです。これこそが、読むことと書くことの本質的なつながりです」(221ページ)

 『イン・ザ・ミドル』で登場する生徒は、中学生の年代です。中学生が学ぶこの教室では「蓄積された知識」と「個別の反応」がつながっているだけでなく、「読み」「書き」もつながっているように思います。このつながりを自分の読書生活の中で意識できると、私も、もう少しよい読者になれるのかもしれません。引き続き、よい本を存在させるよい読者とは?を、ほかの文献や視点からも考えていきたいです。


2021年11月5日金曜日

新刊『国語の未来は「本づくり」』

協力者の一人の都丸先生が、新刊の紹介文を書いてくれましたので、掲載します。

20年間の教員生活の中で、1年生を担任したのは一度だけです。

国語の授業では、ライティング・ワークショップやリーディング・ワークショップの学び方を実践しました。クラスの子は、「書きたいこと」を自ら見つけ、「書くこと」を楽しむようになりました。また、「読むこと」においては、時間が経つのも忘れるくらい夢中になって本を読むようになりました。学年が終わる頃には400冊以上の本を読んだ子もいたほどです。

私にとってはたった一度の1年生の担任でしたが、子どもたちの読み書きのへの意欲や成長に驚かされた1年間になりました。

まだ下訳の段階であった『国語の未来は「本づくり」』の原稿を読ませてもらったとき、自分の想像をはるかに上回る子どもたちの姿に圧倒されました。

この本で紹介されている子どもたち(5歳~8歳)の「読み書き」の成長には目を見張るものがあります。彼らは知っています。「書くこと」が自分の中だけで完結するものではないことを。書いたものが読者に届くことによって、自分をとりまく周囲の人々に影響を与えることを。

「本づくり」は子どもたちが「読み書き」を夢中になって学び合い、互いに高め合えるコミュニティーの形成につながっています。

私たち教師は日々、子どもたちに読み書きを教えています。

そして、悩んでいます。

どうしたら子どもたちが読み書きに夢中になれる学び方ができるのでしょう?

どうしたら読み書きを楽しむコミュニティーをつくることができるのでしょう?

同じような悩みをもつ先生方に、ぜひこの本を手に取って欲しいと思います。

この本は、小学校に入学したばかりの1年生に「文字が書けないから」と、書く機会をつくらないのはもったいないことに気づかせくれます。たとえ線一本でも、紙の上に何かを書けるのであれば、それは本の始まりです。

この本を書いた先生たちは教えてくれます。「書き手」の視点から本を読む機会があれば、たとえ未就学児であっても何かを書くためのヒントを得られることを。(絵を描くことも「本づくり」には含まれています)

この本は、「書くことが見つからない」と嘆く子どもたちに読み書きを教える際に役立つ多くの事例が紹介されています。それだけではありません。教師が一方的に教えるだけでなく、教室の子どもたちが考えた「書けない状態」を脱するためのアイディアの共有の仕方まで得ることができます。

もう一度1年生を担任する機会があるならば、私は「本づくり」を4月から行います。子どもたちは、過去のクラス以上に、読み書きが好きになることでしょう。

*****

 都丸先生の紹介では、この実践、あたかも小学1年生でしかできないように書かれていますが、本の中では小2でも小3でも、幼稚園でもできることが紹介されています。そして、若干の応用で、小4以上や、中学・高校でもできます(そうした方が、生徒たちは国語が好きになりますし、国語のスキルを確実に身につけます!)し、英語等の他教科で実践することも可能です。(教科書をカバーするという、決して効果的ではない教え方から逃れることができれば! それは、教師が教科書にお付き合いする見本を示し続けることにしかなりませんから、生徒たちは「勉強がお付き合いでするもの」という捉え方を上塗りするだけで、主体的に学びに取り組む選択肢を奪われたままになります。そんなこと、やりつづけていいのでしょうか? もちろん、教科書を無視する必要はありません。選択肢として生徒に提供すればいいのですから。選ぶ生徒は、ほとんどいないと思いますが・・・)

◆本ブログ読者への割引情報◆

1冊(書店およびネット価格)2640円のところ、

WW&RW便り割引だと    1冊=2400円(送料・税込み)です。

5冊以上の注文は     1冊=2300円(送料・税込み)です。


ご希望の方は、①書名と冊数、②名前、③住所(〒)、④電話番号を 

pro.workshop@gmail.com  にお知らせください。

※ なお、送料を抑えるために割安宅配便を使っているため、到着に若干の遅れが出ることがありますので、予めご理解ください。また、本が届いたら、代金が記載してある郵便振替用紙で振り込んでください。




2021年10月29日金曜日

文字のない絵本を楽しむ

(時々、投稿をお願いしている吉沢先生に、今回の投稿をお願いしました。)

文字がないのに、そこに言葉を感じさせるものがある。その絵本について語りたくなる。疑問が湧いてくる。そのような魅力のある絵本があります。今回は、そのような文字のない絵本のいくつかを紹介します。



安野光雅『旅の絵本』(福音館書店, 19771


 物語は、小さな舟に乗った一人の男が岸に着くところから始まります。次の場面で、男は土地の人から馬を借ります。その馬に乗って旅をしていくのです。

旅人の訪れる先々の集落、街並み、広場に、さまざまな人、家、動物、木々、乗り物、道具が描かれています。そこには英雄とか偉大な人とかは登場しません。日々の暮らしを営む人たちばかりです。

巻末の解説の中で、作者はこの絵本に込めた思いを次のように語っています。


旅人は、その人々の暮らしとは全く別の世界から来て通り過ぎ

ていくのです。何かしたいと思っても、旅人はあまり関わるこ

ともできないのですが、そこには、人の数だけ、物語があるはずです。わたしは、それを描きたいと思いました。「旅の絵本」はそうして生まれました。


初版が発行されて間もない時期に、国語教師の大村はまはこの本に出会い、早速中学1年生の授業でこの本を使ったそうです。その時の様子を、苅谷夏子が次のように書いています。


本が配られると、あっちでもこっちでも頭を本に埋めるようにして覗き込む。全てのページに数えきれないほどある、人の一瞬の姿や意外な表情、出来事や物音、生活の断片など、生徒たちは夢中になって見つけていって、気づいたことを一つひとつはまに言わずにはいられなかった。★2


人の数だけある、そのような物語の一つひとつに、私もまた思いを寄せたくなります。



ショーン・タン『アライバル』(河出書房新社, 20113


 最初のページを開くと、部屋の中のものを描いた9つの絵があります。紙で折った鳥。置き時計。フックに掛けられた帽子。鍋とスプーン。

小さな子供が描いた絵。ひびの入ったティー・ポット。飲みかけのコーヒー(?)の入ったカップ。ふたの開いたスーツケース。そして、男の人、女の人、女の子の3人の肖像。裕福な家ではなさそうです。

 その3人は家族なのです。家族の写った写真を大事にスーツケースにしまいます。ふたを閉じた手にもう一人の手が重なります。

 ようやく次のページで、部屋の全体の光景が描かれ、男が妻と娘を置いて、一人、旅に出ようとしていることがはっきり分かります。手と手を合わせる二人の姿から、二人の間に流れる愛情と別れの悲しみが伝わってきます。

 家族3人は家を出て、駅に向かいます。3人の歩く街は、巨大なしっぽのような影で覆われています。何の影か分かりませんが、不気味で不安な雰囲気が漂います。

男は職を求めて移民船に乗って、別の国へ向かうのです。着いたところは、言葉の通じない、見たこともない動物、乗り物、食べ物、システムのある世界です。何とか宿にたどり着き、職を求め、さまざまな人に出会って、その人たちの過去を知り、残る家族に仕送りをして----というふうに物語は続いていきます。


見たこともない動物や食べ物など、西洋でも東洋でもない、とても不思議な世界です。ファンタジーを感じさせる一方で、現実にある移民の人たちの思いに通じるものも感じられます。

 モノトーンで描かれた一つひとつの絵が続いて、まるでサイレント映画を見ているような感覚にとらわれます。どんな会話をしているのだろう? どんな気持ちなのだろう? というふうに、一つひとつの絵に立ち止まって考えているうちに、私はいつの間にかこの本の世界に引き込まれました。

ショーン・タンはオーストラリア生まれで、父はマレーシアから西オーストラリアに移住してきました。その父の経歴も作風に影響しているでしょう。6章からなる長大な絵本です。



ニコライ・ポポフ『なぜあらそうの?』(BL出版, 20004


白い花の咲く草地。1匹のカエルが1本の花を手にしているところから物語が始まります。

そこへ1匹のネズミが地面から飛び出してきて、花を持ったカエルに気づきます。突然、ネズミはそのカエルに飛びかかり、花を奪います。カエルは驚くばかり。

そこへ、2匹の大きなカエルが飛び込んできて、ネズミに襲いかかります。花を持って逃げるネズミ。カエルたちは、花を奪い返し、そこらじゅうの花を摘んで、大はしゃぎします。ところがネズミは黙って引き下がっていません。長靴の戦車に乗って近づいてきます。

ネズミはカエルたちを撃ちます。すると、カエルたちは、ネズミの乗った長靴戦車が橋を渡るところを狙って、橋を壊します。大勢のカエルたちが加わり、靴の戦車2台で反撃に出ます。

こんなふうにそて争いはエスカレートしていきます。仲直りとか和解とかは望めない展開になってきます。ひたすら、「最後はどうなるの?」という気持ちでページをめくることになります。


 それにしても、なぜでしょう。なぜ、ネズミは最初、カエルに飛びかかったのでしょう。「見せて。きれいだね。」と言っても良かったのに。

周囲には、花がいっぱいあるのです。自分も1本、花を手にして一緒にお話ししてもよかったのです。でも、カエルの持っている花を奪うのはなぜなのか。

 また、なぜ、当事者でない2匹のカエルが飛び込んできて、仕返しをするのでしょう。その挙句、花のことは吹っ飛んでしまい、相手をやっつけることが目的になっています。なぜそうなるのか?

 こんなふうに問いかけていくと、「これって、人間のことじゃない?」というふうに思えてきます。そう、人間のことです。そんな思いを痛切に感じる一冊です。



姉崎一馬『はるにれ』(福音館書店, 1979


「はるにれ」とは、ニレ科の落葉高木の名前です。山地に生え、高さ約30メートルにもなるそうです。その木を写真に写した一冊です。

最初のページを開くと、広々とした草地に生える1本の木が目に入ります。枯れた草色が目立ち、秋に向かう気配が感じられます。

ページをめくると、空は灰色に曇っています。時刻は夕方でしょうか。

次のページ。横なぐりの雨(雪のようにも見えます)の中の木の枝がズームアップされています。

次のページ。再び木の全景に戻り、きは雪原に立っています。冬です。

次のページ。夜に向かっています。景色全体が深い青みを帯びています。

次のページ。光が差してきました。朝日でしょうか。地平線に近い空が淡いオレンジ色を帯びています。地面は雪です。

次のページ。日が昇ってきました。木の真ん中、枝越しに太陽が見えます。空が明るくなってきました。

 

 見開き2ページの中央またはほぼ中央に木を配した構図です。木が主人公ですが、地面や草、空や雲、太陽や月、遠景の山々にも目が向きます。時刻や季節、天候によって変化する風景の美しい瞬間がとらえられています。

 木は何も言いません。ただそこに在るだけです。それだけで感動させるものがあります。この木を実際に見に行ってみたい。そんな気にさせる本です。



Paul Fleischman & Kevin Hawkes, Sidewalk Circus, Candlewick Press, 2004


 ポスター貼りのおじいさんが、何やら叫んでいますが、その後ろの壁に映る大きな影は、メガホンを持ち山高帽をかぶった呼び込みの人のよう。そんな表紙から、もうすでに物語は始まっています。

商店の並ぶ街中の電光掲示板に、「ガリバルディ・サーカスがもうすぐ始まるよ」という掲示が出ます。歩道にはベンチが一つ。座っている人、立っている人が数人。サーカスって、どこで?と思いながら、ページをめくると、工事中の梁の上を両手にバケツを持って歩く男の人が目に入ります。「おっとっと」とバランスを崩しそうになるその男の姿は、まるで綱渡り。コックさんが両手に持つフライパンでパンケーキをひっくり返している様は、まるでジャグリング。

さまざまな光景が、通りのあちこちで繰り広げられます。ハラハラしたり、微笑ましく思ったりしながら、次は何?と思ってページをめくりたくなります。

*****


 文字がないことによって、読み手の心に生まれでる言葉があるのだ、という思いを強くします。そして、誰かに語りたくなる、聞いてほしくなります。文字のない絵本を通して、たくさんの人たちと語り合いたい。私はそんな気持ちになります。


*****


1 『旅の絵本』シリーズは8巻まで刊行されています。ここで取り上げているのは、第1巻目です。

2 苅谷夏子『評伝 大村はま』(小学館, 2020495ページ

3 原作は、Shaun Tan, The Arrival, Arthur A. Levine Books, 2007.

4 原作は、Nikolai Popov, Why?, North-South Books, 1996.