2021年11月13日土曜日

批評と反応

 「生徒は、書かれていることを根拠にしてどんなふうに文学を読み解き批評するのかを学ばなくてはいけません。ですから、私は、生徒に文学を批評するための用語や視点を教えます」

「でも、私は同時に、生徒の個人的な反応、ある特定の書き手が特定の作品を書く個人的な文脈、そしてその作品が読者に与える個人的な影響も大切にしています」

 上記の引用は、どちらも『イン・ザ・ミドル』(アトウェル、三省堂、2018年)の233ページからです。

 文学を読み解き批評するための用語や視点という時間をかけて蓄積された知識と、ある特定の読者にしかできない反応。アトウェルの『イン・ザ・ミドル』を見ていると、「個々の読み手の外の世界で積み上げられた知識」と「個々の読み手が築く本との個別な関係」、この二つが並行して存在し、生徒たちはこの二つを、教師のサポートも得ながら、自分なりに、かなり自由に行ったり来たりしている印象があります。

 この両方が必要であることを、10月16日の投稿「読む行為の『当たり前』を疑う」で紹介されていた『嗅ぐ文学、動く言葉、感じる読書―自閉症者と小説を読む―』(岩坂彰訳、みすず書房、2021年)を読み始めたことがきっかけで、考えました。

 この本は、私にはほとんど読んだことのない分野の本でしたし、サカサカと早く読める本でもありません(まだ読んでいる途中です)。通勤で読み始め、ページを開くと、その中に引き込まれて行きます。

 「個々の読み手の外の世界で積み上げられた知識」と「個々の読み手が築く本との個別な関係」という観点から考えると、私は後者についてはたくさん語れそうです。

 例えば。。。

 著者と文学の関係について「弁護士の息子で経済学を専攻していた学生が本の虫になった」(Kindle の位置No.299-301)等の著者の個人的な情報が出てきたり、また、養子にした自閉症の息子DJとの詳細なやりとりが紹介されていたりで、著者の息遣い?というか著者という生身の人間がいることを随所に感じます。著者自身やその立ち位置にも興味が湧きます。

 「そして最後に、本書は文学への愛ーーいわば真の愛、狂おしい愛、奥深い愛ーーについての物語である。せめてこの愛の一片でも読者に受け取っていただけたらと願う」(Kindle の位置No.459-461)という文を見ると、本好きの私は嬉しくなります。

 また、作家であり英文学の教授でもある著者が、自閉症の人たちとの読書を通じて、「ときとして、熟知した文学作品の中身に改めて気づかされ愕然とすることがある」(Kindle の位置No.4475−4476)と読むと、少し前に読んだ『未来のきみを変える読書術』苫野一徳、筑摩書房(ちくまQブックス)2021年で、以下のように書いていることを思い出したりもします。

「でも、著者が「言いたいこと」以上のもの、もっと言えば【著者が気づいていなかったことさえも、わたしたちは読み取ることだってできる】のです」(94ページ)

(*この本は2色刷りで、上記の【 】の部分は原文では赤色で印刷されていました。)

 こんな感じで、この本への反応や読んで思い出したことはいくらでも書けそうです。

 しかし、自閉症、認知のプロセス、文学など、この本を批評するために必要な、これまで積み上げられてきた知見や語彙は、私の中にはほぼ皆無ですから、「個々の読み手の外の世界で積み上げられた知識」を使って、この本を論じることはできないのがわかります。この本の外側にいて、この本に反応しているようにも感じますし、「批評できること」と「反応できること」の違いが実感としてわかります。

******

 『イン・ザ・ミドル』の第5章の扉には、「よい読者がいなければ、よい本も存在しない」というラルフ・ワルド・エマーソンの言葉が引用されています(203ページ)。

 個人的に反応するだけでは、その本を十分に良い本として、存在させることができないようにも思います(本は、それでも、そういう読者に文句を言うこともなく、許容してくれています。考えてみると、これもすごいことかもしれません)。

 そんなことから、「よい本を存在させるよい読者とは?」が少し気になりました。

 そこで、まずは、『イン・ザ・ミドル』から考えると、どんなことが出てくるのか、少し探してみました。

 例えば、読み手として生徒に求める目標として、アトウェルは以下のように記しています。

「それは、本に浸り、読むスタミナを培い、多様なジャンルや作家を読むこと。読んでいるものに対して書き手の視点から学ぶこと。自分の好みをつくりあげながら、はっきりとした言葉で、よいものはよいと言えること。鑑賞力のしっかりとした批評家となり、自分の考えを練り上げて表現する的確な語彙をもつこと。本に書かれていることを根拠とした判断ができること。詩や小説を読み、引き込まれ、そして自分の人生のなかに取り込むことで、より良い、より賢明な人間になっていくこと」(204ページ)

 また、関連して、読み書きのつながりについては、次のように述べています。

「書き手が使う技についての語彙に親しむこと。それによって、生徒は、優れた書き手や読み手としての視点をもてるようになってきます。教師が生徒に有益な語彙を譲り渡すこと。そして、生徒たちが自分の読む経験をベースに自分自身の文学を書いていく場を与えること。そうして初めて、生徒は文学作品に対して、この作品は作家の多くの選択が結集したものだという見方ができるようになるのです。これこそが、読むことと書くことの本質的なつながりです」(221ページ)

 『イン・ザ・ミドル』で登場する生徒は、中学生の年代です。中学生が学ぶこの教室では「蓄積された知識」と「個別の反応」がつながっているだけでなく、「読み」「書き」もつながっているように思います。このつながりを自分の読書生活の中で意識できると、私も、もう少しよい読者になれるのかもしれません。引き続き、よい本を存在させるよい読者とは?を、ほかの文献や視点からも考えていきたいです。


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