2021年6月26日土曜日

教室「外」の書くことを、教室「内」で実現するライティング・ワークショップ

 ここ数ヶ月、心の片隅に残っているTEDトークのうちの一つが、作家であり、編集者でもあるデイブ・エガーズの、「デイブ・エガーズのTED wish: ある学校で」です。これを見ていて、「ライティング・ワークショップで教える先生は、デイブ・エガーズの素敵な学校の体現者みたい!」と思いました。

(https://www.ted.com/talks/dave_eggers_my_wish_once_upon_a_school)(日本語字幕でも視聴できます)

 エガーズは、「毎日やりたいと思っていたことは マンツーマンの指導です ゴールは生徒みんなに1対1で向き合うこと」だと言っています。そして、1対1で生徒に向き合うには、「仕事の時間を何倍にも増やして、先生のコピーを作らないと無理」、つまり学校では人手が足りないと思ったエガーズは、自分で学校外にそういう場を作ってしまいます。

 「本当に必要なのは多くの人の手だ。もっと人数がいる。1対1で、時間をかけて、専門知識を持って、生徒たちと向き合える、英語のスキルのある人が要るのだ」という考えたエガーズは、「物書きや編集者、ジャーナリストや大学院生、助教授など、日中は比較的自由な時間があって、言葉としての英語について興味がある人」と、指導を必要としている生徒をつなぐ場を作ろうと決めたのです。

 最初は、「何週間待っても誰も来ない」ところからスタートし、やがて、「学習センターであり出版センターであり、我々が執筆センターとも呼ぶもの」ができ、それが軌道に乗り、さらに発展していくところまで、ユーモアたっぷりに語られます。

 「学習センターであり出版センターであり、我々が執筆センターと呼ぶもの」の中で行われていることと、ライティング・ワークショップの教室で行われていることには、以下のように、かなりの部分で共通点があるように思いました。

・個別指導の実施、つまり、それぞれの子どもにとって必要なサポートが個別に提供される

・教えるのは先輩の書き手(物書きや編集者、ジャーナリストや大学院生、助教授など)

・本当の読者に向けた出版の機会もある。 → エガーズは、「今では本作りに夢中といったところです。ずっと残るものを作ると知ったとき、本屋の棚に置かれると知ったとき、生徒たちはこれまでにないほど熱心に取り組みます」と語り、何百時間もかけて第5稿 第6稿まで作ること、そして「一旦そのレベルに到達して、そのレベルで書けるようになると、もはや後戻りすることはありません。完全に変化します」とも述べています。

 エガーズの取り組みとライティング・ワークショップの相違点は、クラス全体を対象としたミニ・レッスンがないこと、また「教師」の役割を多くのボランティアで担っていること(このTEDトークによると、登録ボランティはどんどん増えて、1400名)などが考えられます。

 このTEDトークを視聴しながら、ライティング・ワークショップを実施する、ということは、(学校内では不可能だと思われていた)「学習センターであり出版センターであり、我々が執筆センターと呼ぶもの」を、ある意味、教室内に作り出していることに近いように感じました。

 子どもたちが、学校「外」で夢中に取り組む読み書き、それを教室内で実現し、しかもそれを一人の教師で運営やサポートしている、と思うと、すごいことなんだと思います。ライティング・ワークショップに取り組むことは、今まで教室内で不可能だと思われていたことを実現していることでもあるのかもしれません。

*****

 このTEDトークや絵本その他から、デイブ・エガーズに興味を持ち始め、私はここしばらく、時々、彼の絵本や小説(ネット社会のディストピア?小説『ザ・サークル』や、『かいじゅうたちのいるところ』←同名の有名な絵本の、エガーズ版小説)などを読んでいます。デイブ・エガーズは、私のミニ・プロジェクト?の一つになりつつあり、かなり先になりそうですが、ミニ・プロジェクトとして、改めて報告できればと思います。

2021年6月19日土曜日

書き手と読み手は表裏一体

小川哲さんの『ゲームの王国』(ハヤカワ文庫, 2019年:早川書房から2017年に刊行された単行本の文庫化)の上巻を読み終えて、下巻を読み始めたとき、きっとこの小説の下巻は面白くなる、一気に読み終えることができるかもしれないという予感がありました。もちろん、上下巻ともに400ページ超。上巻を読むのには骨が折れて一週間かかりました。にもかかわらず下巻はわずか半日で読み終えることができたのです。しかも、時間を忘れて。

 なぜこのようなことが起きてしまうのかということが謎でした。
 電車の待ち時間で入った書店で平積みになっていた、新井久幸『書きたい人のためのミステリ入門』(新潮選書、2020年)という本を手に取りました。「小説新潮」の編集長をなさっていた人の手によるミステリの「作家の技」についての本。冒頭に「読むと書くとは表裏一体。書き手が特に意識したり、苦労したりするポイントを知れば、読書は飛躍的に楽しくなる」(『書きたい人のためのミステリ入門』5ページ)とありました。「読むと書くとは表裏一体」というフレーズに魅力を覚え、購入して電車のなかで読み始めました。
 もちろん、ミステリを書くつもりでこの本を手にしたわけではありません。ミステリを書かない、いやそもそも小説を書かない人にとっても、意味づけのための発見法をもたらしてくれる本らしいので、読み手として意味をつくり出すためのきっかけを与えてくれるだろうし、『ゲームの王国』を読むなかで抱いたささやかな「謎」についても何かを教えてくれるのではないかという予感がありました。
 新井さんは次のように言っています。
普段の読書の際、「自分だったらこの謎をどう処理するか」と考えてみるのは大事な訓練だ。もっと面白くする方法を思い付いたら、アレンジを加えれば、いつか使える時がくるかもしれない。そうでなくとも、どこが面白くて、どうして物足りないと感じたのか分析することは、作品作りに大いに役立つ。/これは書き手だけでなく、編集者に代表されるような読み手にも言える。(『書きたい人のためのミステリ入門』38ページ)
 『書きたい人のためのミステリ入門』は、さすがにベテランの編集者の手によるものであるだけに、夥しい数のミステリのじつに的確な道案内になっていて、この本とカゴを手にして図書館や書店の書棚をチェックしてまわりたくなるような思いに駆られます。そのところは我慢しながら読み進めると、終わり近くに次のような一節がありました。
およそどんな小説にも、大なり小なり「謎」の要素がある。殺人事件ではなくとも、「あの人はなぜあんなことを言うんだろう」とか「彼女はどうして、他でもないあの男が好きなんだろう」とか、物語を牽引する力は、「なぜ」「どうして」であることが多い。その答えを知りたいと思う気持ちが、ページをめくらせるのだ。/また、物語を盛り上げるには、クライマックスに何らかのカタルシスがあった方が良い。バラバラに思えていたエピソードが呼応して、「そうだったのか!」と組み上がった時の快感はひとしおだ。驚きや発見と一緒になることで、感情や感動は幾重にも増幅する。/これらはすべて、ミステリでは絶対的に必要とされるものだ。物語を貫く大きく明確な謎と、ラストでの伏線の回収の論理的な解決。ミステリを書き切るには、最後にすべての辻褄を合わせる、高い抽象論理構築能力が要求される。(『書きたい人のためのミステリ入門』, 210~211ページ)
 なるほどわたくしは『ゲームの王国』の下巻に入ったところで「「そうだったのか!」と組み上がった時の快感」を覚えていたのです。そして、下巻を読み進めながら、幾度もこのような「快感」を覚え続けたわけでした。
「読むと書くとは表裏一体」として、新井さんがミステリについて述べたことは、『理解するってどういうこと?』のなかでエリンさんが「家屋建築」の比喩を使って「作品構造」や「作家の技」を知ることに触れた次の一節と重なって見えます。
実際に自分が読んでいる作品の構造を「見る」ことはできませんが、構造はその本の輪郭をかたちづくっていきます。優れた読者たちは、作品を読み進むにしたがってその構造を感じ取り、そうして得た感覚をもとに効果的な予測を立てることができます。再び家屋建築の例を使って言うなら、ダイニングルームから別の部屋へと歩いている人がいたとすれば、典型的な家のレイアウトからすると、その向かう先は寝室よりもキッチンである確立が高いでしょう。フィクションでは、登場人物や舞台設定について書いてあることから、当然その後には何らかの対立や衝突があらわれるだろうと予測することができます。読者がその作品構造を「見る」ことはありませんが、それを感じることはできます。「聞く」と言えるかもしれません。作品構造の指導とは、この見えないものを見えるようにして、読者がその文章自体の内容と構造をツールとして、理解を深め、自らの思考を変更し、これまで持っていた知識や考えや感じたことを修正するために使うことができるようにすることです。(『理解するってどういうこと?』261~263ページ)
 もしかすると私は『ゲームの王国』の「作品構造」と小川さんの「作家の技」を「見る」「聞く」ことが可能になり、そのことで書き手への信をこしらえて、「見えないものを見えるようにして」彼の小説を読み進め、この小説の後半に没頭することになるかもしれないという予感をつくってしまったのかもしれません。『ゲームの王国』上巻では書き手の立場から読む読み手にはとてもなれずにもがいていたわたくしが、下巻に入ったところで、おそらく書き手の立場から読む読み手(authorial readerというのでしょうか?)になり、作品構造を感じ、「聞く」ことができ、それを「ツール」にして読み進めることができるようになったのではないかと思われます。
 ちなみに、小川哲さん自身による『ゲームの王国』「あとがき」には、次のようなことが書かれていて、読み手として励まされました。
本書の節々に、まだアマチュアだった僕が、暗闇の中で何かを見つけようと格闘した痕跡が残っていました。そしてその格闘は、登場人物たちや物語の力を借り、時として僕の実力を超えた次元に到達していました。そういった意味で、本書にはかけがえのない価値があります。一人の人間が、その瞬間にしか想像しえない物語を、その瞬間を逃せば二度と語られることがないであろう物語を、全身全霊を尽くして書き残すこと。世界のどこかに現れた一瞬の光を紙に焼きつけて、永遠に保存すること。小説における一番の奇跡とは、そういうものだと思っています。(『ゲームの王国』下, 422ページ)
 「読むと書くとは表裏一体」という新井さんの言葉を裏づける一節でもあります。小川さんの言う「格闘」は、最後まで読み終えた一人の読み手であるわたくしのものでもあったと思うからです。「世界のどこかに現れた一瞬の光」をわたくしも内面に刻むことができたと思えたからです。

2021年6月11日金曜日

絵本を日本語と英語で楽しむ

 ★ 時々、投稿をお願いしている吉沢先生に、今回の投稿をお願いしました。吉沢先生は、「へー、こんな日本語に翻訳するのか」と何度も驚いたとのことですが、私も以下を読み、相当なビックリでした。

*****

私は英語の教員をしていて、授業で使えそうな絵本はないかと常日頃、絵本をさがしています。今回は、そんな中で出会った1冊を紹介します。トッド・パールの『しっぱい! とおもったけど』です。★1

原題は It’s Okay to Make Mistakes です。★2 

私は、知人の紹介でこの本を知り、まず原作を読んでみました。その後、邦訳を読みました。邦訳は、各ページ、日本語文の脇に、元の英文も小さく書かれています。ですから、日本語文と元の英文とを比べるのに、とても便利です。

私は読みながら、「へー、こんな日本語に翻訳するのか」と何度も驚きました。そして、元の英文とのギャップについて考えてみました。

内容はいたってシンプル。タイトルの示すように、「人って誰でも失敗したり間違えたりする。でも大丈夫だよ。○○のようにすればいい。」というメッセージを、さまざまな場面での失敗や間違いをユーモラスを例にして伝えようとしています。


ミルクをこぼしてしまったら・・・

まず、冒頭の場面。

ミルク こぼしてしもた

ミルクが すきな ともだちと あっというまの おかたづけ

これを読むと、ミルクをこぼした失敗を、友達と協力して、きれいにする光景が目に浮かびます。大丈夫、一人で悩まなくてもいい、友達が助けてくれるよ、と小さな子どもに向けて語りかけている感じです。

原文(英語)はどうなっているでしょうか。

It’s okay if you spilt your milk.

You can always clean it up.

直訳すると、「あなたがミルクをこぼしてしまっても大丈夫。あなたは、いつだって、それをきれいに片付けることができるんだよ。」というふうになります。邦訳にある「友だちと」という部分は、原文にはありません。

原文は “ You can 〜 ” という表現になっています。あなたは、きれいに片付けることができる、言い換えれば、その能力があるんだよ、というメッセージとして受け取れます。

邦訳はどうか。訳者は、そこに「ともだち」という言葉を登場させます。人とのつながりで乗り越えていけるというメッセージを私は感じます。


サッカーをしているときに・・・

次は、サッカーボールを蹴りそこねた場面です。

おっと すべってしもた

ちから ぬいて もういっかい

蹴りそこねても大丈夫。落ち着いて、またやればいい、というメッセージが伝わります。

原文はどうなっているでしょう。

It’s okay to get upset.

Your friends are there to cheer you on.

直訳すると、「取り乱しても大丈夫。君の友達がいて、励ましてくれるよ。」といったところでしょう。

これは、かなり原文と日本語文とで開きがあります。その場面は、サッカーゴールの前でボールを蹴りそこねた男の子の絵です。それを、そのまま日本語で表した感じです。

先の場面では、「ともだち」という言葉をあえて日本語文に取り入れているのに対し、ここでは、原文に friends という語があるにもかかわらず、日本語文では省いた表現を採用しています。 


馬から落ちたらどうする?

乗馬の場面です。

なんかい おちても やりなおし

ほらみて めっちゃ じょうずに なったやろ

原文は次のようになっています。

It’s okay to fall down.

You can always get back up.

これを比べると、日本語訳の1行目が、原文の2つの文の内容を取り込んでいることがわかります。そして、日本語訳では、「じょうずになったやろ」と友達に話しかけています。原文にはまったく書かれていない内容です。何度もやり直すことでどうなっていくか。訳者の想像力は、そうやって乗馬が上手くなっていく姿に向かいます。それが上のような日本語訳につながったのでしょう。


泥んこ遊びのあとは・・・

泥んこ遊びの場面です。

あめふりの どろんこあそび やめられへんな

しゃぼんの おふろで こんどは すっきり

原文はどうなっているでしょう。

It’s okay to get dirty.

A bubble bath is lots of fun.

原文の前半では、絵の力も借りて、泥んこ遊びが好きな子どもの様子が表されています。後半では、お風呂で、泡だててて遊ぶ子どもの姿が表されています。どちらも、子どもが面白がっている姿が伝わってきます。

それに対し、日本語訳の後半は、「おふろで こんどは すっきり」となっています。

「すっきり」というのは原文にはありません。訳者は、泥んこで遊ぶ快感に対して、おお風呂に入って清潔になる快感を対比させています。この対比を私は面白く感じます。


「しっぱい!」とおもったとき・・・

こんな感じで13の場面が取り上げられています。そして、次の場面に続きます。

うわぁ やってしもたって おもうこと

ある ある

この原文はどうなっているでしょうか。

Everyone has “uh-oh” moments.

That’s how you learn!

原文を直訳すると、「誰だって、『しまった!』という瞬間がある。そうやって、君たちは(物事を)学んでいくんだよ。」というふうになります。

日本語訳と原文はかなり離れています。何よりも、原文の “learn”(学ぶ、習う)という英語に対応する日本語がありません。

そこまでに出てきた失敗の数々に対して、「うん、そういうことって、ある、ある」と言いたくなるような読み手の心をつかむような表現だな、と感じます。


▶︎ 日本語訳が関西弁であること

さて、この本の邦訳は、関西弁になっています。なぜ? 関西弁を広めたいから? 

関西弁に思い入れがあるから? 訳者の真意はわかりませんが、関西弁にすることによって、話し言葉であることが、強く印象づけられます。つまり、絵本の中で、失敗ばかりする男の子自身が口にすることばづかいになっているのです。読み聞かせてもらっている子どもは、絵本の中の男の子に自分を重ねやすくなります。「うん、そういうことってある、ある」と思いながら聞くことでしょう。

原文はどうでしょう。もちろん、男の子自身が口にする言葉として読むこともできますが、男の子に向かって話しかけている年長者のことばのようにも読めます。あるいは、客観的な説明のようにも読めます。どのように読むかは、読者にまかされている、と言ってよいでしょう。

日本語訳の本に、原文も載せてあることで、さまざまな楽しみ方ができます。絵本としては、小さな子ども向けの体裁になっていますが、大人であっても十分に楽しめる、そんな絵本です。そんな絵本に出会えたことで、トッド・パールという作者の絵本をもっと読んでみようと思います。


★1  つだゆうこ訳、解放出版社刊、2014年

★2  Todd Parr, It’s Okay to Make Mistakes, Little Brown and Company, 2014.


2021年6月6日日曜日

プロジェクト/探究学習のなかの国語の役割

 『プロジェクト学習とは』の訳者の池田匡史さん(兵庫教育大学大学院)が、以下の紹介文を書いてくれました。

 *****


 教科横断的な学びの必要性が訴えられたり、実際に展開されたりしている際、国語科を専門にする立場から不安になることがあります。それは、「生徒が言語活動の経験をしているから、国語科の要素が入っているだろう」という認識が広がってしまわないかということです。これはたとえば、学校全体の取り組みのなかで、なにかを追究するというとき、「プレゼンテーションをしているから国語科の要素がある」というような認識のことを意味しています。プレゼンテーションの場が設定されること自体はよいことです。しかし、その言語行為そのものを教える場や、うまく行うための支援の機会や場が担保されていることは重要なことです。このことを考慮に入れないと、過去(このばあい、とくに戦後初期)の過ちを繰り返すだけの営みとなってしまいます。現代における教科横断的な学びといえる『プロジェクト学習(以下、PBL)』でも、それは考慮しなければならない事柄です。ただ、この問題は意外に難しい面もあります。

 たとえば「○○の歴史」といった学習テーマの追究をしようとするPBLを想定してみましょう。生徒が、その歴史を明らかにすることに集中している過程において、読み書きそのものを教えようとすることは、生徒の思考過程をずらしてしまう恐れがあることは否めません。せっかく、生徒が歴史を解き明かすことに集中しているときに、別のことに目を向けさせることになるのですから、無理もないでしょう。その一方で、読み書きそのものを教える機会を担保することも、また重要です。このバランスをいかにとるのかということが、重要になってきます。

 本書で紹介されている事例では、その工夫も垣間見えます。プロジェクトの初期段階で、読み手としての能力が異なる生徒たちが一緒に読み聞かせをし合ったり、先生がすぐれた読み手のモデルとして音読をしたりする場面を組み込んでいることが窺えます。

 また、同じ学習テーマを扱いつつも、その教材として難易度別にアレンジされた文章を生徒に応じて用いるという手立ても採用されています。これは生徒一人ひとりをいかす教材選択であり、支援ということができるでしょう。難易度別になっているため別々の教材を用いているものの、ある学習テーマを追究するというめあてはクラスで共通しているため、PBLの活動として、誰一人学習のめあてから逸れてしまうということがないのです。このような教材選択が可能となるのは、学習テーマがはっきりとしているPBLという学習方法だからこそといえるでしょう。(PBL特有ということではなく、PBLを念頭にしない場でも学習テーマを設定することの価値が見えてきますね。)

 PBLという枠組みのなかに、国語科の要素がどのように捉えられているのか、また自分だったら何をどう組み込んでいくのか。本書をそのような目で見ることで、読み書きを教えるということへの自らの思考を活性化させてくれます。


*****


 世の中は、教科でブツ切りになっていません。教科で区切られているのは学校の中だけです。教えやすさではなく、学びやすさの観点から考えたら、教科横断/プロジェクト(探究)学習の方がはるかに身につく学びが実現します。(教科ベースでは、暗記と覚えたことを忘れる悪循環が繰り返されるだけかも!? 「学校ごっこ」=「正解あてっこゲーム」をやり続けるだけですから。)

 その意味でも、早くRWWWへの移行(まさに、国語科の中でのプロジェクト/探究学習といえます)や、『教科書をハックする』に書かれている「テキストセット」「学ぶために読む」「学ぶために書く」や、生徒一人ひとりをいかす教え方(『ようこそ、一人ひとりをいかす教室へ』で紹介されている)や、『あなたの授業が子どもと世界を変える』で紹介されている実践を日本でもはやく実現したいです。(それらが実現できずに、教科書をカバーする授業が続くことは、学びの質と量が極めて低調な状態が続くことを意味しますから!)


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