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2025年3月28日金曜日

作家の時間を通じて、子どもを見る

(全ての人物の名前は仮名です。障害特性や学習場面等にも、ある程度のフィクションが入っています)



作家の時間を通じて成長した夏彦くんと同級生たち

 卒業式が無事に終わりました。卒業生の夏彦くんが学んだ特別支援学級の黒板に、43センチに切ったリボンをさも意味ありげに貼り付けておきました。夏彦くんの最後の身体測定の身長から、1年生の4月に計測した身長を引き算した長さです。それを自分のおでこに貼り付けて下級生とふざけて遊ぶお兄さんは、卒業式でも普段通りに笑って教室の扉から旅立っていきました。卒業式が終わり夏彦くんがいない教室は、残った後輩が何事もなかったように朝の会を送っています。夏彦くんの机には、彼の幾つもの忘れ物が彼の代わりに座っています。


 前回、作家の時間の閉じ方で紹介した夏彦くんに贈る言葉は、卒業式を迎える教室の掲示物として、素晴らしいものになりました。一人ひとりの言葉と写真は、夏彦くんの目に映る学校の風景を想像したものになりました。特別支援学級の子どもたちは他者視点が苦手ですが、彼らなりに十分に活用して作られているように思います。ちょっとズレた感じもまた、彼らの持ち味が生かされた作品になりました。普段、自己表現の場として作家の時間を大切にしてきましたが、明確な相手のいる作家の時間もまた、子どもたちの個性が光る素敵な時間になりました。

https://wwletter.blogspot.com/2025/03/blog-post.html


 夏彦くん自身は、豊かな書き手として成長し、卒業していきました。夏彦くんは、「名探偵シリーズ」のようなタッチの推理小説が好きで、ミルキー杉山のような登場人物が出てきて、謎を解決する物語を自分でもよく書いていました。また、自動車が好きで、好きな車種などを紹介する作品も書きました。後輩やその保護者からファンレターをもらったり、学校司書の先生から褒めてもらったりして喜び、自分の可能性を探究してきました。作家の時間は、確実に彼を成長させてきました。読み書きを教える一教師として、本当に嬉しいことです。


作家の時間を通じて、子どもを見る


 さて、今回は、作家の時間で大切になる「子どもを見る」という視点について書こうと思います。私はこのテーマが好きです。作家の時間を続けている理由は、まさに「子どもをもっと知ることができるから」という点に尽きると思います。


作家の時間と箱庭療法


 私は学生時代に箱庭について学んだことがありました。箱庭とは、砂の入った箱に人形や動植物、建物などを自由に配置して、無意識の表現を通じて自己理解を深めたり、心理的な安定を図ったりする、心理療法の一つです。子どもたちは楽しそうに気持ち良い砂の感触を味わったり、好きなように人形や家具を並べて、子どもたちなりの物語を作り始めたりします。やっぱり、なかなか作り出せない子がいたり、ずっと砂の感触を味わうだけの活動になったりする子もいて、ただ、それを別に否定するわけでもなく、カウンセラー(私のゼミの先生)は一緒に同じようなことをしたり、言語化したりしていたことを思い出します。


 私は作家の時間に箱庭療法と似た感覚を覚えます。


 多くの子どもたちは、お話作りやお絵描きが大好きです。原稿用紙や自由帳、今はタブレットかもしれませんが、そこに人形や建物を配置していくかのように、思いつくままに物語を紡ぎ出していきます。中には、箱庭の砂の感触を楽しむ行動と同じように、鉛筆が白紙に美しく線を描く感触を体で味わう子もいます。書いては消して、書いては消してを繰り返す子や、まったく書かずに何かを考えて時間を過ごす子もいます。それでも、何かを作り出そうと悩んだり困ったりします。そうやって、自分と向き合おうとがんばります。

 箱庭と原稿用紙の違いはいろいろあるでしょうが、言葉を基本にして表現することや、箱庭よりも微調整や修正に手間がかかることが挙げられます。今はタブレットを使って作家の時間を行うことも多いでしょう。言葉の補助的な機能として絵や写真を活用しやすくなり、また、修正校正もしやすくなりました。より、箱庭の特徴に近い状況になっていると思います。(触感などの感覚を充足させることができるという点では、タブレットの作家の時間は劣っていると思います。大きな紙に自由に線を引いていく感覚はかけがえのない体験です)

 箱庭は支援者との信頼関係の上で成り立つものです。安心で安全な場であることを証明する存在が支援者であり、作った子どもの自己理解や気づきを、子どもに合うように言語化してあげたり、子ども自身が言語化できるように促したりする役割を果たします。

 同じように、作家の時間における先生の役割も、その役割を多分に担っていることだと思います。いきいきと表現する子どもたちだけでなく、悩みながら表現する子や表現しようとして消してしまう子でも、先生はしっかり見てあげたい。自分らしく完成できた子どもには、あなたの表現に心が動いたことを伝え、感謝し、一緒に祝えるような、そんな温かい関わりができたらと思います。また、いろいろな困難にぶつかってしまった子どもにも、次の表現活動のステップになるような励ましや、考え続けていた姿勢自体を認められたらと思います。

 たしかに、文章が誰かに伝わるように、目的や様式を理解し、きちんと書ける技術を指導することはもちろん大切です。国語という教科の上で実践している以上、適切に表現し正確に理解することは欠かせないことです。ですから、作家の時間を行う私を含めた全ての先生は、国語という教科への理解を深めていかなければなりません。

 しかし、技術の指導と同時に、子どもの表現を通じて子どもを認めるという視点を忘れてはいけません。かつての時代の先生が、それでも十分子どもとの関係作りができたのは、子どもたちの生活の中での他者との関係作りが多様で、先生以外の大人や社会との関係が十分に存在したからだと思います。家族や画面越しの他者との関係作りに終始してしまっている現代では、先生はもしかしたら唯一の社会との窓口となっている可能性があります。ともすれば、家族との愛着形成でさえ未熟な子どもも多くいるでしょうから、先生と子どもの関係作りはとても難しい時代になっているように思います。


自分を見られたくない子ども


 一方で実際に小学校高学年にもなると、「自分を見られたくない子ども」が確実に存在することも事実です。おそらくそれは、昔からそうでした。けれど、それがより早い時期に、顕著になっているように思います。もちろん、私自身もどうしたらよいか悩みながら、そのような子どもにも自己表現できる機会を作り続けていくようにしています。


 以前、ブログに書いた篤くんは、その一人だと思います。

https://wwletter.blogspot.com/2024/03/blog-post_22.html

 手先が不器用で鉛筆やタブレットを操作するのもどうしても乱雑になってしまいます。そのような理由から、創作すること自体は大好きなのですが、自分の不器用さを隠すようにしてわざと乱雑に書いたり、文章をぐちゃぐちゃにしました。それを誰かに伝わるように整った文章にしてあげようとすると、とても嫌がりました。

 一時期、先生に見られることを非常に嫌がり、書くことをやめてしまったことがありました。振り返ると、確実に私の関わり方の悪いところが出てしまったように思います。彼が表現したいことと、私が表現させたいことの溝が気になり、それを埋めようとして、強引な働きかけになってしまったことが原因だったように思います。「どうせおれは書けない。書きたいものがない」と繰り返しました。

 特別支援学級は特別ではありません。本来どの子も特別であり、一般学級の子どもも自分の特別さを隠すようにして学習することができ、ことなきを得ています。そうすることができない子どもたちが、もしも不適応をおこしたとすれば、もしかしたら一つの手段として特別支援学級で学ぶようになることもあります。一般学級であっても、篤くんのような子どもはどこにでも存在し、できるだけ見られないように息を潜めているか、または、注目を浴びるような行動を意図的に取ろうとしてしまうことでしょう。


「自分を見られたくない子ども」の不安な気持ち


 子どもたちは、小学校高学年よりも前にたくさんの大人に認められ励まされ、そして叱られて、有能感や劣等感と出会います。エリクソンのライフサイクル論にもある通り、昔からそうだったように思います。しかし、他者や世間に適合した体験ばかりが、成功体験であることを学びとって育っている子どもが多くなっているように思います。保護者の思い、先生の意図、友達の雰囲気に自分を適応できたことが、子どもたちにとっての成功体験で、逆に自分勝手に行った活動や冒険(探索活動)、遊びの経験は少なく、基本的自尊感情や探究的な意欲が減退しています。いや、非常に格差が開いているという表現の方が適切かもしれません。

 「見られても大丈夫な子ども」と「見られるのがダメな子ども」の二極化は開く一方です。見られても大丈夫な子どもは、これまで認められてきた体験のおかげで、誰しもが自然に持っている「見られることへの不安」をコントロールすることができます。「見られるのがダメな子ども」は高学年になって、不安をコントロールすることができず、自己表現しないという選択になりがちです。他者の価値観に適合させることに失敗してきた経験などから、不安感情をコントロールする力が未発達なままになっているのかもしれません。人に見られることを避けるようにマスクやフードをしたり、逆に自分も他者を見ないようにスマホに集中したり、「自分を見られたくない子ども」は困難さに直面しています。


作家の時間は、「見られたくない子ども」が自分を見せるチャンスをつくる


 でも、私は「自分を見られたくない子ども」が不安をコントロールする力を成長させるチャンスはまだまだ学校の中に作れるように思います。作家の時間は、「見られたくない子ども」が出せたほんの少しの自分を、先生が認めてあげられるチャンスです。教科書や学校の狙いが強すぎる学習になると、それは他者の価値観に適合した自分になってしまいます。それができなくて失敗経験を積んだ子どもなのですから、同じことの繰り返しになってしまうでしょう。

 そうではなく、作家の時間の作品作りのように、自分の窓をわずかではあるけれど一生懸命開けるきっかけを、学習の中で作りたい。もしかしたらそれは本当の自分が無意識にさまざまに防衛を働かせて変化した姿かもしれません。もしそうであったとしても、子ども自身の表現として自分を見せられたことを、先生は認めて(ときとして遠くから見つめて)、感謝して、一緒に祝うことが、「見られたくない子ども」が自分を見られる不安と向き合い、それと上手に付き合えるきっかけになるかもしれません。

 作家の時間には、子どもたちの多様性を内包する仕組みが備わっています。自分だけでなく、クラスの友達が自分の個性を活かした表現を行うことができるので、自分の表現が他の友達の表現と逸脱して不安になってしまう経験は少なくてすみます。他の友達がその子らしい表現をしていることも、自己表現を促すきっかけになることでしょう。

 また、作家の時間に、表現しない自由を認めることは、そういった意味でも大切なことであるように思います。「見られたくない子ども」が強制的に何もかも見せなければならないのなら、それはハラスメントに近い行為のように思います。もちろん、それが教師という仕事が行う指導と紙一重であることは重々承知しています。私たちの仕事は、平均台の上をゆらゆら歩くような非常に難しい仕事なのだと思います。


 篤くんの自己表現


 篤くんは作家の時間を続けています、今でもわざと意味不明な文字列を書いたりして私は「それは出版できません!」と押し返すのですが、それでも自分の作品を出版したいという気持ちは復活して、テレビ画面に自分の書いたイラスト(かなり個性的)を映して、口頭で伝えています。「モンスターハンター」というゲームの敵キャラについてやりとりしたことをきっかけに、それを説明するような作品を作りました。(彼が口頭で話したことを私が代わりにタイプしてあげる方法で作りました)

 篤くんが「見られたくない」理由は、他の人と同じように綺麗に書けないし、それをやろうとすると自分の自分のできなさが形になって現れてしまい、自分の気持ちがそれに耐えられないからです。だから、故意に意味不明な文字列にしたり、過剰にぐちゃぐちゃなイラストを描いたりします。篤くんが変わっていくためには、まず最初にその表現方法を認めていくことだと思います。

 篤くんがそれでも自己表現を続けていることを、私たちは大切にしていこうと思っています。篤くんを社会が求める言葉が使えるように正そうと指導することは簡単ですが、それは今の彼にとっては残酷なことであり、篤くんの自分を表現する機会を実質的に奪うことなります。篤くんが自立的な学び手として豊かに生きるためには、自分を表現することが楽しい、他者と共有して嬉しいという感情を、大切に大切に育てていくことが必要となります。彼がいくら他者との関係を作ることが苦手だとしても、社会的な様式を習得させるという押し付けの善意で、自己表現を通じて相手と繋がる喜びを奪ってはいけません。学校という場であれば彼を社会の圧力から守ることもできます。私たちは、篤くんが一生懸命書いた作品を通じて彼を理解し、どんな作品でも認め(そして部分的には押し返し)感謝し、一緒に祝っていくことでしょう。篤くんの学ぼうとする気持ちを育んでいこうと思います。




(生成AIを使って、うちの子どもの写真をイラストにしてみました。おもしろいですね!)


2011年1月28日金曜日

書かない子をどうサポートするか (6)

ある人から紹介されて、『豊かな言語活動が拓く国語単元学習の創造・理論編』と実践編の小学校低学年編を読みました。
国語の単元学習は、大村はまさんの実践と倉沢栄吉さんの理論で有名ですが、日本国語教育学会としても長年取り組んできたものだそうです。
この本自体、国語界の名だたる方々の分担執筆の形で書かれています。(いったいどんな読者層を想定して書いているのかな? その人たちに届く形で書かれてあるのかな? と疑問を持ちながら読まざるを得ませんでした。少なくとも、現場の先生たちが「単元学習に取り組んでみよう!」と思えるようには書かれているとは思えないからです。教科書会社が教科書とセットで出してくれている年間指導計画とさほど変わりがあるようにも思えませんでした。)話が逸れてしまいました。単元学習を批判することがこれを書いている目的ではありません。あくまでも、子どもたちが主体的に書くためのサポートの仕方について考えることです。

実践編の小学校低学年用の中に、以下のような具体的なサポートの仕方が紹介されていました。



これを見られてどう思われましたか?(表をクリックすると、拡大で見られます。)
教師が「よかれ」と思って、子どもたちに書き慣れるために考え出したリストであることは、伝わってきます。それも、年間を通してタイミングよく。
しかし、エネルギーの使い方が違うんじゃないか、とも思いました。
教師ががんばって大切なことを考え、子どもたちはその結果を「言語活動」としてこなすだけです。それに意味を見出せる子たちにとってはいいのですが、そうでない子たちにとっては「やらされ感」が結構強いことも予想されます。
さらには、教師がテーマを出さないと書かない子どもたちの育成をしているような部分も否定できません。「依存関係」の構築です。
本来、書く題材を自分が決めることが、書くことの7~9割を占めています。(実際に、本物の作家、詩人・俳人、ノンフィクション・ライター、ジャーナリストはそうして書いています。)ちなみに、読む場合も同じで、選書(自分にあった本を選べる能力)が7~9割を占めるような教え方が望ましいのだと思います。

★ということで、「自立した書き手を育てる」という視点があるかないかで、教師がすること=子どもたちがすることはまったく違ったものになってしまいます。

★たくさんの「言語活動」や「単元学習」を教師主導でこなすことはできます。(それは、たくさんの時間を費やすことができる、という意味です。)しかし、それでどれだけ子どもたちが主体的に書くようになったり、書く力を伸ばせるようになるのでしょうか?

『豊かな言語活動が拓く国語単元学習の創造・理論編』の272ページには、学習が「生きた学習」になる3つの要件を提示してくれていました。
・学習者一人ひとりへの「個に応じた指導」が保障されている学習
・教師のみでなく仲間からも学ぶ「集団が個を育て、個が集団を育てる」仕組みが備わっている
・生活上の課題や学習者の実感・必要感に根ざした「言語行為」が遂行される学習 = 「聞く・話す・読む・書く」が単なる活動ではなく、魅力ある達成目標のために組み上げられている (鳴門教育大学・村井万里子教授作成)
これは書く授業のみならず、すべての授業をチェックする際の大事な指標になると思います。

●これらの視点でこの本や実践編の各事例を見ていくと、どれだけの事例が3つの要件を満足しているでしょうか?
●WWのアプローチは、満足しているでしょうか?
●これら3つ以外に、大切な要件は思いつきますか?
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2010年12月24日金曜日

書かない子をどうサポートするか (5) ~ 自伝風

私(吉田)自身、書けない子/書かない子でした。

ライティング・ワークショップ(WW)を紹介したいと思った最大の理由は、まさにそのことがあったからです。小中学校の国語の時間を通して書くことが嫌いになり、30歳ぐらいまで書けなかったからです。★
WWの本を読み始めたら、自分もこんな授業を受けていたら嫌いにならないですんだろうし、もっと書くことをいろいろ使いこなせていただろうに、と思いました。そして、私を書くこと嫌いにした指導法がいまでも主流であり続けていますから、先生たちに「子どもたちが書くのが好きになり、かつ書く力を身につけられる教え方」を知ってもらいと強く思う次第です。

30歳を過ぎて、何が私を書けるようにしてくれたのか? ワープロです。というか、キーボードです。いまでも、原稿用紙には書けません。1986年にワープロで報告書と事例集を「出版」してしまったことが大きなはずみをつけてくれました。自信になりました。(今思うと、「出版」の威力です。ちなみに、タイトルは『ワン・ワールド・ワークショップ報告書』と『“楽しく”世界とつながるイベントの事例集』でした。そのころから、ワークショップをやっていたことになります。両方とも、義務で書かされたものではありません。やりたくてやったことです。前者は、実際にやったことを紹介し、普及するために。後者は、イギリスでOne World Weekという世界とのつながりを感じるイベントを1978年から毎年実施しているのですが、それを参考にしながら、日本のも踏まえつつ作った事例集です。)
キーボードは、ハード面で私に書くことを可能にしてくれたわけですが、ソフト面では「これは(ぜひ出版して)伝えたいと思える内容」があったからだと思います。後者がなければ、たとえキーボードがあったところで、宝の持ち腐れだったことでしょう。それほど、誰かに伝えたいと思える内容(=書く題材)は大事だということだと思います。

ということで、ぜひ子どもたちに「これは伝えずにはいられない」という内容を見つけ出すのをサポートしてあげてください。(それは、「書くこと自体」が目的になっていては、難しいことかもしれません。社会科とか理科(生活科)とか、総合学習とか、その他の教科とか、さらには学校以外のさまざまな体験から浮かび上がってくるような気がします。)


★ つい最近、私が書けなかったことをある出版社の編集者に話したら、「実は、私も書けませんでした」と言っていました。書けるようになったのは、芥川龍之介の短編「蜜柑」を読んだからだそうです。「こんなのなら、自分にも書けるかな」と。この編集者の事例は、メンター・テキストの大切さを証明してくれていると思います。でも、メンターとなり得る作品は一人ひとりの子どもにとって違います。(教科書は、そのことが理解できないので、常に“古典”を掲載し続けます。結果的に読む力も、書く力もつけない結果を招き続けています。)その意味で、読み聞かせや教室の中の図書コーナー等を通して、たくさんの本に触れさせてあげることは、とても大切です。

2010年12月17日金曜日

書かない子をどうサポートするか (4)

今回は、Reclaiming Reluctant Writers (by Kellie Buis from Stenhouse)の第2章と第4章から中心に紹介します。

⑪ 読み聞かせの有効活用

著者のBuisは、「読み聞かせをどれだけするかと、書かない子どもたちが書けるようになるかは相関関係にある」と言っています。
もちろん読み聞かせする本は、絵本に限定されません。普通の本でもいいし、雑誌、新聞、カタログ、旅行のチラシなども可能です。何を選ぶかは、目の前の子どもたち(特に、書かない子たち)を念頭においた教師の選択にかかっています。

読み聞かせを「書き手の視点から振り返るためのシート」の案も提供してくれています。たとえば、以下のような項目が考えられます。(48~49ページ)
・ 読み聞かせはよかった/よくなかった? その理由は?
・ 作品で特に印象に残ったことは、
・ 特に興味のあった「作家の技」は、
・ 書く題材(テーマ)として思いついたのは、
・ 書き手の声/主張は聞こえてきたか?
・ 作品の構成や文の流れで気づいたことは、
・ 言葉の選択で気に入ったのは、

これらについて読み聞かせの後に書けるようになると、作家の目で読んでいることになるわけで、読み聞かせは、自分で読む(黙読する)よりも、作家の耳で聞ける/判断できるようになるために効果的です。

単に読んで理解するのと、書くのに役立てられるように聞く(=作家の視点で読める)ことは別物なので、いかに後者を念頭において教師が読み聞かせられるかは重要なポイントにもなります(47ページ)。
その際の注意点として、作家のスタイル(構成の仕方、主張、感情面の描き方など)や作家の技などについては指摘することも躊躇せずに、場合によっては黒板や模造紙に記録することも含めて、子どもたちが使えるように手助けしていくことが大切です。

書かない/書けない子どもたちには、詩の読み聞かせ(および10月22日や12月3日に紹介した書き聞かせ)を繰り返すことで、特に助けになるとも書かれています。(57ページ)文章が短く、言葉も選りすぐられている分、インパクトも大きいのだと思います。また、短いのでそのことについて話し合うことができるのも、大きな助けになります。

以上の他に、読み聞かせは、クラスの中に「作家たちのコミュニティ」を作り出すのにも役立ちますし、読み聞かせする本を、メンター・テキストにしていくという教師側の意図にそって選ぶことで、一石二鳥の使い方もできます。もちろん、子どもたちは本から刺激を受けますから、書く際にたくさんの題材のヒントを得ることにもなります。(38ページ)

2010年11月19日金曜日

書かない子をどうサポートするか (3)

10月8日と10月22日に続いての3回目です。

⑨(教室ないし学校の)外に出て、自分が興味・関心が持てる題材をリストアップする。
作家・詩人・ノンフィクションライター・ジャーナリストたちは、観察することからスタートします。好奇心をもって、普通の人が見逃してしまうようなことに注意をして、書く題材を集めています。何の変哲もない日常に起こっていることが、見方を変えるととてもおもしろいことになります!!
私自身、俳句(というよりは川柳のレベル)や詩を書き始めてまだ2ヶ月経たないのですが、外に出た時の方が部屋の中にいるときよりも、いろいろなことが思い浮かびます。「書くことは五感が大切なんだ」ということに、改めて気づかせてくれています。

⑩ フリー・ライティング★
滑らかに、スムースに書けるようにするための練習です。
書けない子たちは、まだぎこちない状態にあります。「自分は書けるんだ」というイメージがまだないからでしょう。それを崩すためにも、スムースに書けているイメージを自分のものにすることが大切です。
最初は、5分から。徐々に伸ばしていき、ゆくゆくは30分ぐらい書けるようにします。

フリー・ライティングをする際に
◆ すること
・ リラックスする。
・ とにかく書く。止まらない。
・ なんでも頭に浮かんだことを。
・ 書いたことを共有したいかどうかは、個々人の判断。
◆ してはいけないこと
・ 考える。(→筆=鉛筆に考えさせる!)
・ 計画したり、自分を批判する。
・ 修正する。
・ 言語事項や文法や漢字の間違い等を考える。
・ 誰かに邪魔される。(→気が散らない環境に自分をおくことの大切さ)
・ 止まって考える。

とにかく「止まらない」のがポイントです。書くことが浮かばない時は、「書くことがない」や「わからない」や「浮かばない」や「......」などを繰り返し書き続けます。

同じ方法だけでやり続けないで、バリエーションも大事です。たとえば、
・ 通常のやり方で、テーマをいろいろ変える。
・ 教室や学校の外に出てやってみる。
・ 体験したことについて、共通のテーマで書く。

多様な作品(というよりは、下書き)がたくさんできてくるので刺激になります。「こんなんでいいんだ!」という感覚を持ってもらうことが、フリー・ライティングの目的です。

ちなみに、⑨と⑩は書ける子や書ける大人も使っている方法です。

★ これは、Peter Elbowという人が、彼これ40年ぐらい前に開発した方法です。
なお、フリー・ライティングもWWも、筆に語らせるアプローチを大切にしています。私たちが作文や小論文等で習ったのは、題材が決まったら、次の段階で「構想を練る」ことでしたが、フリー・ライティングやWWではそれをしません。書くことがあらかじめ決まっていては、書く最中になんの発見もないからです。ある意味では、書くことがすでに決まっていることを単に書き出すだけ、というのは書くことを億劫にする要因にもなります。WWの「下書き」やフリー・ライティングでは、書きながら自分の頭の中からどんなことが浮かび出してくるのかを楽しみながら書きます。もし、書いた内容が気に入って、「出版」までもっていきたいと判断した時は、「修正」の段階で、読み手にわかりやすいように再構成すればいいわけですし、「校正」することで読み手に読みやすい文章にすればいいわけですから。
フリー・ライティングが紹介された本は、『Writing Without Teachers』と『Writing With Power』の2冊です。(http://www.geocities.jp/deepbreathinghp/freewriting.htmを参照)

2010年10月22日金曜日

書かない子をどうサポートするか (2)

10月8日に続いての「書かない子をどうサポートするか」の2回目です。

RWの中で「優れた読み手が使っている方法」★を教える際に、もっとも効果的な方法は「読み聞かせ(read-aloud)」ではなく「考え聞かせ(think-aloud)」です。

読むことは、頭の中で起こっていることなので当然見えません。しかし、読む時はいろいろ考えます。その考えていること=優れた読み手が使っている方法を、声に出して語ってしまおう、というのが「考え聞かせ」です。そうすることで、教師(=子どもたちよりははるかに優れた読み手)が読む時にしていることが、初めて見える(聞こえる)ようになるわけです。「読み聞かせ」だけでは、残念ながらそれが見えるようにはなりません。★★

⑦ 書かない子/書けない子たちにとっては、この「考え聞かせ」をWWに応用した「書き聞かせ(write-aloud)」が効果的です。

書かない子/書けない子は、書ける人がどういうふうにして書いているのかをイメージできていないという問題があります。そこで、教師が実際に書く時、考えていることを声に出しながら書いていくのです。一文を書きだす前に、たくさんのことが頭をよぎります。それを全部言葉にして表してしまうのです。(実際に書くことの数倍を考えることもあるはずです。)次の文を書く前にも、ひょっとしたら書きながらも、いろいろなことを考えると思いますが、それも語って聞かせます。

このようにして、文章を書いていく時に考えていることを見えるようにしてあげるわけです。教師がいろいろ考えながら、苦しみながら、挑戦しながら、間違えながら、そして楽しみながら書いているのをナマで見せるのは、とてもインパクトがあります。

もう一つは、⑧ 子どもたちと一緒に書く方法(shared writing)があります。
子どもたちも興味が持てるテーマを設定して、子どもたちにも参加してもらいながら、一緒に文章を黒板に書いていくのです。もちろん、書かない子/書けない子たちだけを集めて、一緒に書くこともできます。とにかく、一人ではまだハードルが高いのを協力し合って書いてしまおう、また実際文字にする部分は教師が担って文章を書き上げる体験をするのです。文字のきれいさや正しさなどを気にせずに、自分が考えたことを発現するだけで、それが文章になっていくのですから、ハードルはかなり低くなりますし、協力し合って書くことは楽しいです。思わぬ発想も含めて、いろいろ異なるアイディアが出されますから。

「書き聞かせ」をする時も、「子どもと一緒に書く」時も、たまには意図的に間違えてください。そうすることで、子どもたちの修正・校正能力に磨きをかけられますし、最初から完璧な文章を書く必要はなく、下書き段階の間違いはOKという雰囲気もつくれます。

いずれか(ないし両方)試された時は、ぜひ実践報告を送ってください。(下のコメント欄か、e-mail: pro.workshop@gmail.comにお願いします。


★ 関連づける(自分と、他の本と、世界と)、質問する、イメージを描く、推測する、何が大切かを判断する、解釈する、自分の読みを修正する、批判的に読むなどが含まれます。これらの具体的な教え方については、『「読む力」はこうしてつける』(吉田新一郎、新評論、11月刊行予定)をご覧ください。「考え聞かせ」の具体的なやり方も紹介されています。
もちろん、「優れた読み手が使っている方法」はRWの中だけでなく、従来の国語の授業として扱うことはできます。しかし、教え方に注意しないと、従来の授業形態では身につかない可能性はあります。ポイントは、それらの方法を子どもたちが自分にあった本を使ってたくさん練習する時間を確保することです。

★★ だからといって「読み聞かせ」や自分でたくさん読むことに価値がないわけではありません。それらをすることで、書く題材のヒントや作家の技は蓄積されていきますから、とても価値はあります。特に、書かない子/書けない子をサポートする際のそれらの活用法ついては、別の機会に触れたいと思います。

2010年10月8日金曜日

書かない子をどうサポートするか (1)

WWをやりはじめると、従来の作文よりははるかに書ける子は増えますが(量的にも、質的にも)、それでも数人の書かない子/書けない子には悩み続ける場合があります。

そこで、今回は「書かない子へのサポートの仕方」がテーマです。

2010年8月4日のブログですでに紹介したことのある『When WW Isn’t Working(WWがうまく行かない時の対処法)』(Mark Overmeyer著、Stenhouse, 2005年)の第2章で示されている6つの方法を紹介します。

① 書けないこと/書かないことを、書くことがないのではなく、たくさんある中から選べない問題と捉えると対処法が違ってくる。(→ RWの選書=本が読めない/読まないのではなく、自分にあった本が選べない問題と似ている)
「誕生日」一つとっても(あるいは、「夏休み」「水泳」をとっても)、書けることはありすぎる。たとえば、「ペット」で書きたいと言っても、逃げた、穴を掘る、おじいちゃんとの関係、ほえる/ほえないなどなど、いろいろあり得る。「友だち」の場合も、いじわる、親切、けんか、遊び、問題を起こしたときなどなど、いろいろな可能性があり過ぎる。選ぶ/絞る方法を、教師が実際に見せる。または一緒にやっていく。

② 書く題材を引き出すための教師によるインタビュー  → カンファランスの醍醐味
もちろん、この応用として書けない子による書けている子や友だちへのインタビューや、書けている子による書けない子へのインタビュー(要するには、ピア・カンファランス)が考えられる。しっかりいいモデルを示した上でやると、教師がするのと同じぐらいか、それ以上の効果がある。

③ メンター・テキストを使って(ブログの2010年9月17日を参照)
たとえば、『月夜のみみずく』(お父さんとフクロウを見に行った楽しい思い出)や『てん』(絵を描けなかった私が描けるようになった話) ~ 具体的な事例でイメージがつきやすくする。本物の作家がしていることを事例として示す。

④ 「書き手、読み手、ジャンル、テーマ」を設定した上で書く
例: 書き手は生徒。読み手はテストや成績で脅迫する教師(または親)。ジャンルは手紙。テーマはテストか成績。
あるいは、葉っぱが散るのをいろいろなジャンルで書いてしまう、というのもオススメ。手紙や詩など、通常ではあまり書かないのがいい。

⑤ 自分のことについて書くことに乗り気じゃない生徒たちにとっては、ノンフィクションがいい。社会か理科の内容を使って。たとえば、恐竜、宇宙、虫など。
書く方法は、④を使ってもいい。

⑥ 写真や絵に描かれていることを書く
他の子たちには見られないように、一人ないしペアで描かれていることを書く。
写真を前に展示し、番号をつけ、それぞれ読まれる文章は何番の写真かを当てる。
読み手意識を持たせることになる。
写真や絵に代わりに、じゃがいもや石を使ってもできる。


自分は書き手という意識が持てれば、爆発できる。そうじゃないと、とどまり続ける(=嫌いなまま)
読み手意識も大切。
④以降のサポートの仕方は、何をどう書くかを指示してしまっている。自分で書き始められることに越したことはないが、それがなかなかできない子たちには最初のきっかけを与えてあげることは大切。
特に、④の例のように、多様なジャンルを知れる(体験できる)ことは、とても大切。自分がどのジャンルで輝けるかわからないから。(その意味でも、創作文=物語に固執しすぎるのはよくないというか、他のジャンルで書く機会をできるだけ提供する役割が教師にはある。世の中で生きていくのに、私たちが実際書くのは9割以上がノンフィクションです!)