2026年8月28日金曜日

生徒へのフィードバックを効果的にするために、スポーツコーチの教え方から学ぶ

スポーツコーチは自らお手本を示し、練習を通して選手の向上を導きます。生徒の作文や論文などの記述課題に対するフィードバックも、これとまったく同じように機能させることができます。

コーチは選手に向上する方法を教えますが、ただ「もっとディフェンスをしっかりやれ!」と叫ぶようなことはしません。そんな「フィードバック」が、選手に一体何の役に立つというのでしょうか?

教師である私たちも、教室における生徒たちのコーチです。生徒の学びを深めるためには、適切で質の高いフィードバックを与えることが必要です。バスケットボールのコーチがゴール下でのスクリーンアウトのやり方を実際に示さなければならないのと同じように、教師もまた、提出課題をどう改善すればよいのかを生徒に具体的に手本(モデル)として示し、説明する必要があります。

私はいまだに、大学教授の部屋で自分の文章について指導を受けたとき(ライティング・カンファランス)の様子をよく覚えています。教授はいつも、私の文章を良くするための例文を提示してくれました。私がその例文を持ち帰って活用できるようにと、タイプライターのキーをカタカタと叩いて印字してくれたものです。当時の私はよく「ラッキー、先生が課題を書き直してくれたからこれでA評価がもらえるぞ」などと思っていました。しかしその時の私は、教授が意味のある実践的なフィードバックを通して、私に書き方を教えてくれていたのだということに気づいていなかったのです。

 

書く指導の際のフィードバックを効果的にするための5つのポイント

 

意味があり、具体的にする

生徒は「自分が何を知らないのか」すら分かっていません。「もっとつなぎ言葉(接続語)を使いましょう」と書くだけでは、優れたつなぎ言葉とはどういうものか、あるいはどの種類のつなぎ言葉を使えばよいのか分からない生徒にとって、ほとんど助けになりません。そうではなく、フィードバックの機会を活用して生徒に「手本(モデル)」を示してあげましょう。たとえば、「例えば」といったごくシンプルなつなぎ言葉であっても、それをどこで使うのが効果的かを具体的に示してあげるのです。

フィードバックは、つなぎ言葉のような「一つの重要なテーマ」に絞り込み、生徒に対して具体的なテクニックの手本を示すべきです。生徒は、提示された例をそのまま使ってみてから、文章の他の箇所でそのテクニックを自力で試してみればよいのです。

 

良かった点に目を向ける

「直すべき箇所」を探すのではなく、「生徒がよくできている部分」を探す姿勢でフィードバックに臨みましょう。生徒は提出課題の中で、授業で教わったことを少なくとも一度は実践しているものです。期待通りにできていない部分を指摘するのではなく、できている部分に焦点を当てます。フィードバックの機会を使って、課題の良かった点をさらに補強・定着させましょう。

上記のフィードバックでは「トピックセンテンス(主題文)」に焦点を当て、書き手が「中心となる考え」と「つなぎ言葉」を含んだ明確な導入文を作成できている箇所を指摘しています。エッセイや解答の残りの部分には、明確なトピックセンテンスが不足しているかもしれません。しかし、それを指摘したり「明確なトピックセンテンスを書くように」と注意書きをする代わりに、教師は良かった点に焦点を当て、書き手(生徒)が下書き、修正、校正を続ける中で、解答全体を通して同じ方法を使えるよう促しています。

 

フィードバックの量を制限する

意味があり具体的なフィードバックを与えることは理想的に聞こえますが、時間の制約があるため、文章のあらゆる面に対処することはできません。それに、生徒はどうせ一度にすべてのスキルをマスターできるわけではありません。また、長年培われた悪い癖が、あなたの教室に入った瞬間に直るわけでもありません。すべてを修正しようとするのではなく、教育と生徒の成長は「プロセス(過程)」であると認識することが大切です。課題と連動した「指導のポイント」だけに焦点を絞りましょう。そうすることで、生徒は改善すべきいくつかの点に集中でき、一度に多くのことを求められて圧倒されてしまうのを防ぐことができます。

例えば、1週間のミニレッスンの中で「トピックセンテンスの作成」「導入節(や接続詞)の後の読点の使用」「根拠を示すためのつなぎ言葉の使用」に焦点を当てていたとします。フィードバックを与える際は、これらの領域だけに絞り込みます。そうすることで、与えなければならないと感じるフィードバックの量を減らすことができます。

 

執筆プロセスの「途中」で(最後ではない)フィードバックを与える

人生の多くの事柄と同様に、文章を書くこともプロセスです。したがって、フィードバックもまたプロセスでなければなりません。生徒が求めに応じて文章全体を書き上げる総括的評価の段階に至るまでは、執筆は段階を追って指導されるべきです。そのプロセスの中で生徒が作成するものは、形成的評価として活用します。トピックセンテンスを指導した日にエッセイのトピックセンテンスだけをチェックすれば、一つの領域に集中できます。その授業で残すフィードバックは、ほんの1点だけで済むかもしれません。これもまた、下書きが完成した後にすべてに対処しようとするのではなく、プロセス全体を通してフィードバックを与えることで、時間を節約することにつながります。

 

フィードバックを双方向(対話的)なものにする

「これだけたくさんフィードバックを与えても、生徒はロクに見もせずに『解決』ボタンを押すだけなんだよね」。そんな経験は私にもあります。そうした状況を避けるためには、生徒がフィードバックと対話・やり取りをするように仕向けましょう。「生徒が対応せざるを得ない状況をつくらない限り、フィードバックは役に立たない」のです。フィードバックの中から12点を選ばせ、それがどのように役立ったか、あるいは課題の他の箇所を修正するうえでどのように刺激になったかを説明する短い返答を書かせるようにしましょう。

 

出典・https://www.edutopia.org/article/thinking-coach

元新聞記者のフランク・ウォード先生は、(この記事を書いた時点で)11年前に教育界へと転身し、人々にインスピレーションを与えると同時に自らも刺激を受けられる、生涯の仕事(キャリア)を見出した。8年生(日本では中3に相当)の国語の教師。

2026年8月21日金曜日

道に迷って道を見つける力

    昨年末に山口県下関市の「ねをはす」という本屋さん★の棚の隅で見つけ、気になって購入した、MR・オコナー(梅田智世訳)『WAYFINDING 道をみつける力人類はナビゲーションで深化した』(インターシフト、20211月)という本。400ページ余りの大冊なので時間を見つけて少しずつ読みながら、ようやく読み終えました。

15年程前に勤務先の附属幼稚園長をしたことがあります。3歳児から5歳児までの保育に接するのははじめてでした。「藪漕ぎ」を知ったのもその時です。5歳児(年長)の卒園間際の頃に、園の先生が付き添って、幼稚園の裏山の藪のなかを数人のグループで歩くのです。「藪漕ぎ」はもともと山登りで行われるもの。もちろん毎年無事に園舎に戻ってくるのですが、この活動では「道に迷わせる」ことをあえて行います。ずいぶん乱暴なことを…と思われるかもしれませんが、オコナーの本を読む間、私の頭のなかにはこの「藪漕ぎ」のことが呼び起こされていました。

オコナーの本の表題にあるWAYFINDING(ウェイファンディング)とは何か。この本の後半にティム・インゴルドの定義が次のように引かれています。それによると、「過去の体験をもとに微調整された近くと行動力を持つ移動者が、目標に向かって『手探りで進み』、進行中の周囲の知覚的観察に対応してみずからの動きを絶えず調整する技能」(『道をみつける力』, p283)です。

「道を見つける」ならGPSを使えばいいという意見もあるでしょう。実際、わたくしも上京したときに宿泊先を探すときにはスマホでGoogleマップをよく使います。これはGPSで自分の位置を地図表象上に示して、それwを見ながら最短距離で行く方法です。上の引用文の二重カギ括弧部分「手探りで進み」の感覚はまったくないとこに特徴があります。「進行中の周囲の知覚的観察」がまったくないかと言えばそうでもないのですが、いずれにしても周囲の知覚的観察もGoogleマップの地図表象が前提です。

 『道を見つける力』の143ページから145ページには、進化哲学者のショー=ウィリアムズの「社会的痕跡説」について述べられています。「人類という動物は別の人類や動物の残した痕跡を『読む』ことを覚え、やがてそうした印から過去の出来事の持つ意味を推測するようになった」という考え方のことです。「痕跡」を「『読む』こと」によって「そうした印から過去の出来事の持つ意味を推測する」ようになったというわけですが、その「痕跡を読む能力」(認知過程としては、読んで「推測する」ようになったところが重要だと思います)から「道を示す独自の人工的な記号や象徴」をこしらえ、「身ぶりによる合図や話し言葉」を使うようになり、最終的に「書き言葉」を生み出すわけです。「書物」はそのようにして作られました。「書物」は紙の上に残された「社会的痕跡」です。

 そして、仲間の人間や動物が残した「痕跡のパターン」を視覚的に分析する種は人類だけであり、そのことが「物語を語る知性」となりました。「痕跡」を読むことによって、追跡する者は「痕跡」を残した者の「心と身体のなか」にいるところを想像しながら物語を生み出すのです。そこで求められるのは「自己中心的な自己参照と別の主体の視点から見た他者中心的な感覚」であり、そのような認知システムによって、「罠や落とし穴を仕掛けるときには、想像のなかで自分に置き換えた動物が何を知覚し、どんな精神状態になるのか、その可能性にしたがってすべてを整え」ることになるのです。

 進化哲学者ショー=ウィリアムズの言葉をもとにしたオコナーの考察を踏まえると、理解するための七つの方法の起源はどうやらここのところにあるようです。こうしてみると、エリンさんの言う「理解するための方法」の一つである「推測する」が根源的な「わかる」ための方法であると言うことができるでしょう。「痕跡」★★を読むことで「推測する」ことになりますが、「推測する」ことを引き出すのが、「痕跡」を読みながら「質問する」ことになります。10年ほど前に吉田新一郎さんが翻訳した『たった一つを変えるだけ』の「質問づくり」が有効なのは、学びのなかで「推測する」という方法を学ぶ者にたくさん使わせることになるからだと思います。また、「自己中心的な自己参照と別の主体の視点から見た他者中心的な感覚」によって引き起こされる「イメージを描く」行為も、「推測する」行為の大きな手がかりになるだけでなく、理解するという行為を厚くしていきます。

オコナーの考察はさらに続きます。

 

「この一連の認知的発達は、想起意識の誕生を説明するものでもある。想起意識とは、時間のなかの存在物としてみずからの体験を認識する能力のことだ。想起(オートノエティック)という語は、「知覚する」を意味する古代ギリシャ語を語源としている。この用語は、統合失調症研究の文脈で使われることもある。自分の思考が外部の発生源から来ていると信じる統合失調症患者は、想起失認とされる。1970年代には、著名な実験心理学者エンガル・タルヴィングをきっかけに、想起意識に注目が集まった。タルヴィングは、過去の出来事の記憶であるエピソード記憶を、文脈とは切り離された事実を意識的に引き出す意味記憶とは異なるものとして区別した。タルヴィングに言わせれば、エピソード記憶はいわばシステム内の接着剤だ。それがあるおかげで、主観性、想起意識、そして体験をつなぎあわせ、一貫した自己認識感覚を維持することが可能になる。このエピソード記憶システムがあるからこそ、わたしたちは時間のなかで自分の位置を見定め、過去へ去り、未来へいくことができる「見通す(プロスピー)」または「見晴らす(プロスペクション)」と呼ばれるプロセスだ」(『道をみつける力』, p.144

 

これを読むと理解するための方法の源には「想起意識」の誕生と関わることがわかります。「推測する」は「想起意識」の誕生によって可能になったのです。タルヴィングの説をもとにオコナーは「システム内の接着材」となるのが「エピソード記憶」だとしていますが、「関連づける」という理解するための方法はこの「エピソード記憶」を活用するものです。

「解釈する」「修正しながら意味を捉える」という理解するための方法は、いずれも「時間のなかで自分の位置を見定め、過去へ去り、未来へいくことができる「見通す(プロスピー)」または「見晴らす(プロスペクション)」と呼ばれるプロセス」を支えるものです。いずれも「主観性、想起意識、そして体験をつなぎあわせ、一貫した自己認識感覚を維持する」エピソード記憶を根拠にしています。

オコナーの本はウェイファンディング(道を見つける力)についての本です。人類学的なフィールドワークをもとに、人間にとって重要な道を見つける能力の根源に迫ろうとしています。が、そこで書かれていることは「わかる」ための方法を考える上で重要な示唆をもたらすものばかりでした。

オコナーが引用している、馬術家のダッドリー・パターソンの次の言葉はとても示唆的です。

 

「どこへ行こうが、なんらかの危険が待っている。それが起きる前に、予想できるようにならなきゃだめだ……精神に磨きがかかっていなければ、危険を予想することはできない……精神を磨けば、長生きできる。人生の踏みわけ道が、ずっと遠くまで続く。どこへ行こうが、危険に捕えられる。それが起きる前に、頭のなかで予見できる。どうすれば、そのチエの道を歩けるかって? そうだな、たくさんの場所へ行くといい。そこをじっくり観察しろ。そのすべてを覚えろ。あなたの親戚も、その場所のことを話してくれるだろう。彼らの話すことも、残らず覚えろ。それについて考えろ。そうしなければいけないのは、あなたを助けられるのは、あなた以外にはいないからだ。それをしていれば、あなたの精神は磨かれる。安定して、回復力を持つようになる。厄介事を遠ざけておける。長い道を歩き、長い時間を生きられる。知恵は場所に宿る。けっして干上がらない水のようなものだ。生きるためには、水を飲まなければいけない。そうだろう? 要は、場所にあるものを飲まなければいけないということだ。その場所のことを、すべて覚えないといけないんだ。」(『道をみつける力』, p.165

 

 冒頭に取り上げた幼稚園での「藪漕ぎ」も、パターソンがいうように生きるために必要な「知恵」を手に入れるためのものです。「知恵は場所に宿る」からです。道に迷いながら道を見つけることは、エリンさんの『理解するってどういうこと?』の「理解の種類」にはないものですが、これが人生において大切な「理解の種類」であることは確かです。。

本や文章を読む行為もまた同じではないでしょうか。どこかに答えがあるわけでもない。誰かが教えてくれるわけでもない。自分で「痕跡」を見つけて、それについて考えることで、新しい発見が生まれるわけですし、読むことが面白く思えるわけです。「痕跡」を見つけて、その痕跡について、理解するための方法のどれかを使って考えていくことが、本を読む時の「道を見つける」行為に他なりません。読書行為のウェイファンディング、さらに探っていきましょう!

 

★ねをはす HOTEL BOOK & CAFÉ

 https://neohas.jp/

★★ 本や文章の場合、読者の注目すべき「痕跡」にあたるものが、この「RW/WW便り」の65日(「合い言葉は、ノーティス・アンド・ノート(そこに注目して! そこにちゃんとメモして!)」)、73日(「本(Book)。頭(Head)。心(Heart)」)、88日(「本(Book)。頭(Head)。心(Heart)」)で言及されているビアーズとプロストの「道標」です。

2026年8月14日金曜日

本ブログ2019年1月4日号の質問への答え

 しばらくぶりに『教科書をハックする』を読み返していた時に、このブログの2019年1月4日(https://wwletter.blogspot.com/2019/01/blog-post.html)の記述を思い出しました。

 それは、書く時の(読む時も!!)クリティカル・シンキングの大切さについてです。(「批判的思考」とは訳すべきとは思えない「クリティカル・シンキング」とは、1980年代の半ば以降、2019年の記事を含めて、なんと40年間の付き合いになります!)

 そこでは、最後に「選択をする、拒否する、他のものを使ってみる、はっきりさせる等とありますが、あなたはこれら4つ以外に何か考えられますか?」と投げかけたことを、自分自身過去7年半考え続けていました。

 その答えの一部が、『教科書をハックする』の181ページの「ナショナル・ライティング・プロジェクトは、書くことが分析、統合、評価、および解釈などの高次の思考スキルを発達させること、および理解するためには書くことが影響していると決定的に結論づけました」と書かれているところ(特に、太字の部分)に見出しました。

 これは、ブルームの思考の6段階の高次の思考スキルを指しています。

 そして、同じページに「書くことで思考力と理解力が向上するのはなぜでしょうか? おそらく、紙の上に考えを書き出そうともがくことが、学習者の概念理解の助けになっているのでしょう」とあります。もがく機会を生徒に提供する授業、あなたはどのくらいやれていますか?

 また、「書く力」の向上をめざす全米委員会(The National Commission on Writing)は、「生徒が知識を自分のものにしたければ、細部にこだわり、事実を理解し、生の情報や漠然と理解された概念をほかの誰かに伝えることができる言葉に置換する必要がある。要するに、生徒が学ぶ場合には、彼らは書く必要があるということだ」(同上、182ページ)としています。

 

 さらには、『教科書をハックする』の184ページに書いてある「書くことによって最大限の恩恵を受けるために生徒は、内容について考え、その意味を吟味し、妥当性に疑問をもちます。そのように仲間と共同で作業して、あとで振り返りに利用するためのポートフォリオに書いたものを保存する時間が必要となります」という部分にも引っかかりました。いまいち分かりにくい文章だなと思い、原書に当たって、この部分をいま訳すなら「生徒には、学んだ内容についてじっくり考え、それがどのような意味をもつのかを探り、本当にそうなのかを問い、自分の考えをまとめ、仲間と協力しながら学ぶ時間が必要です。また、書いたものをポートフォリオに保存し、後で見返して学びを深めることも大切です」とした方が文意にあっているとも思いました。

 ここに書いてある、学んだ内容についてじっくり考え、それがどのような意味をもつのかを探り、本当にそうなのかを問い、自分の考えをまとめ、仲間と協力しながら学ぶ時間をもつことを、あなたはどのくらいできていますか? さらには、考えたことをジャーナルないしポートフォリオに収め、後で見返して学びを深めることも、クリティカルな思考には欠かせない方法であることも分かります。

 

 以上は、「あなたが教える際に(このブログでは『読み・書き・聞く・話す』を教える際にですが、他の教科でも同じレベルで重要です!)大切にしていることは何ですか?」という問いに対する追加の(それも暫定的な)回答です。これからも継続的に考え続けます。

 あなたが何か追加したいものを見つけたときは、ぜひ教えてください。

2026年8月8日土曜日

「道標」の見つけ方

先日、朝倉かすみさんの『よむよむかたる』(文藝春秋、2024年)を読みました。70歳を過ぎた高齢者たちが営む読書会(佐藤さとるさんの『だれも知らない小さな国』(講談社)を少しずつ読んで語り合う)を舞台とした小説です。この小説にカイリーン・ビアーズとロバート・プロストの言う「道標」がどのように見つかるか、試みました。

ビアーズとプロストが提案した、本や文章を読んでわかるための「道標」は、「予想外の行動」(読者の期待と登場人物の行為との鋭い対照、それまでの行動やパターンと矛盾)と、「アハ体験」(ある登場人物が、自己・他者・周囲の世界に関する自分の行動や認識を変化させた何かを自覚すること)、「難問(難題)」(ある登場人物が内面でもがかざるをえなくなるような問題)、「賢者の言葉」(年長の、賢い登場人物が、中心人物の人生に関して提供するアドバイスや深い思考に満ちた言葉)、繰り返し(その小説の多くで繰り返し使われる出来事、イメージ、特定の語彙)、回想の場面(物語の進行を中断して、登場人物が回想する場面)、の六つです。『よむよむかたる』には、六つの「道標」★のほとんどが見つかります。
 たとえば、『だれも知らない小さな国』第三章の前半ではじめて作中の〈ぼく〉が〈こぼしさま〉と会話する場面がありますが、『よむよむかたる』の読書会では登場人物の一人(「マンマ」)が「〈こぼしさま〉ってサァ、死んでいくこと、なんじゃないかナァと思ったんだよネ」と言い始めその後自らの解釈を話します。長くなるので引用はしませんが、「マンマ」の言葉は「賢者の言葉」だと考えられます。それを受けて「まちゃえさん」と呼ばれる人物が「ハアッ!」と大声を出して「分かるヨウ。ビンビンくるヨウ」「こんなに分かってんのに、どう分かってるかうまく言えないヨウッ。アーッ切ない」と身をよじるシーンが続きます。ここには「まちゃえさん」の「アハ体験」が表現されている、と私は考えました。また、この小説には一人だけ「やっくん」と呼ばれる28歳の安田という男性が会の世話役として登場します(彼は「作家」でもありますが、なかなか小説が書けないという悩みをもっています)。色々な出来事に出会うたびに安田は自分の過去の記憶を想起する箇所がたくさんあります。ですから「回想の場面」が比較的多く見つかります。「その「回想の場面」はなぜ重要なのか?」という問いを立てて考えてみると、安田と他の人物たちとの明確には描かれていない関係を推論せざるをえません。
このように「道標」に注目することは、本や文章の意味をつくり上げる大切な手がかりになります。しかし、六つの「道標」がどういうものか一通り教えてもらったとしてもそれをすぐに使いこなせるわけではありません。ビアーズらは「道標」をすぐに使えるようになることは無理なので、それぞれの「道標」についてミニ・レッスン★★をした後、たとえば次のようにすればいいと言っています。

「道標、簡単な定義、テクストのなかに生徒たちが探すべき特徴、核となる質問、を書いた模造紙をできるならその学年のあいだ教室に掲示してください。また、道標の生徒用しおりを配布して、読む時には必ずそれを使うようにします。このしおりの表には道標の定義が書いてあるので、生徒たちはそれを見て道標がどんなものだったか思い出すことができます。裏には、道標を見つけたときにページ番号を書き込めるようになっていますから、ノートを使いたくなければこれを使えばいいです。」★★★

 しばらくはこうした「模造紙」をすぐに見ることができるようにしたり、六つの道標がどういうもので、それを見つけたらどういう質問をすればいいかということを簡単に記した「しおり」を作ってそれを生徒たちにもたせるようにすればいい、というわけです。
 それは先程『よむよむかたる』について私がやったようなかたちで、生徒たちが自分で選んだ本や文章を読みながら「道標」に気づけるようにするということです。でも、なかなかうまくいかない場合があるかもしれません。それでも、ちょっとしたヒントを示すと見つけやすくなるでしょう(それが一人読みをする子どもへのサポートになります)。ビアーズらは次のようにも言っています。

「生徒たちが道標を見つけることがうまくなってきたら、見つけたところを見せるようにあまり頻繁に求めない方がいいです。生徒は、見せたくなったら見せにくるものです。とても一般的な問いですが、「あなたはどんな道標を見つけましたか、そして見つけた時に何を考えましたか?」は個人のカンファレンスや小グループか大グループでの話し合いを始めるとてもよいきっかけになります。その後に次のような質問をしてみましょう。「道標の一つではないと考えたけれども、その物語にとって大切だと考えられた場面はどこでしたか?」ここで強調されているのは見つけやすいもののことで、この六つの道標に加えて、どんな読書行為にも起こっていることはほんとうにたくさんあるものです。
 (中略)「予想外の行動」、「アハ体験」、「難問」はもっともよくあらわれます。もしも20ページぐらい読んでもそのうちの一つも見つけられないようなら、ゆったりと考えて、次のように言ってください。「今読んだ部分でこの登場人物は変わった? もしそうなら、その人物の行動や考えが変わり始めた場面はどこか見つけてみよう」と。生徒がその場面を見つけたら、それをしっかり見つめるのです。たぶんそこには、「アハ体験」か「予想外の行動」があります。そこを読み直して「核となる問い」をじっくり考えるように言えばよいのです。
 「難問」については間違えやすいので、生徒たちを助けるために次のように質問しましょう。「登場人物がほんとうに悩んでいると思えたり、誰か他の人に悩みを自分から打ち明けたり、『自分はどうすればいいんだろう』などということを自分で言っているところはなかったかな? そうした問いをよく見てみよう。覚えておいてね。『難問』に気づいたら、そこのところは中心人物がほんとうに悩んでいるところだから、時間をとって自分が抱いた質問を自分の頭で考える必要がある。たぶん、きみも登場人物と同じことを悩んだことがあるよ」と。
 「賢者の言葉」がその本に見つからない場合は、中心人物が他の人物から学んでいるところはないか質問してみるといいでしょう。
 「繰り返し」については、何らかの言葉やイメージや出来事が繰り返し出てくるところがないか尋ねてみるといいでしょう。
 「回想の場面」の場合、生徒たちに、登場人物がしばらくの間何かを思い出しているところを探すように言えばいいです。「回想の場面」を見つけるには、「思い出した」、とか「母さんがいつも話してくれた・・・」とか、「こんな思い出がよく浮かんでくる・・・」とか「覚えている」といった言葉を手がかりにして、その場所に印をつけるように言えばいいです。」★★★★

 生徒が「道標」を見つけるために教師としてどのようなヒントを与え、支援をしていけばいいのかということが具体的に示されています。生徒たちが自分で選んだ本や文章(教師が未読の場合もある)で「道標」を見つける場合の支援の仕方が、六つの道標それぞれの場合について述べられています。実際に『よむよむかたる』を読む私はこのビアーズらのアドバイスを参考にしながら、「賢者の言葉」や「回想の場面」に注目することができました。「難問」は中心人物の安田(「やっちゃん」)の小説を書けないという「悩み」に目を向けることで見つかりました。これはこの小説のテーマにもつながっています。
「道標」はわかるための方法(理解方略)を使うための入り口ですが、とくに共通に学ぶことのできる国語教科書教材を読む授業のなかで、効果的な「道標」の見つけ方を学ぶことができれば、生徒たちが学習内容と課題に迫るためのアプローチにもなるでしょう。そしてもし同じ作品のある箇所について、それが「アハ体験」なのか「難問」なのかということを生徒たちが話し合って、お互い自分の立場を少しだけ修正することになれば、それはその作品について協働して積極的に考えていることになるとビアーズらは言っています。「道標」に注目し書いて考え、お互いのそういうプロセスを知ることができれば、読む面白さを発見する大切な手がかりになるのだということです。知らず知らずのうちに、注意を怠らずに本や文章を読む力を身につけることになるということです。

★Kylene Beers & Robert Probst (2013) Notice and Note: Strategies for Close Reading, Hinemann,
★★ 山元隆春著(2026)『自立した読者を育てる学習指導・評価法のデザイン―「対話的読み」による自他の理解と自己形成―』(溪水社)の88~102ページには短編小説「ありがと、おばさん」(ラングストン・ヒューズ)を使った「予想外の行動」についてのミニ・レッスンが示されています。
★★★Beers & Probst(2013) p.107『自立した読者を育てる学習指導・評価法のデザイン』103ページ
★★★★Beers & Probst(2013) p.108-9 『自立した読者を育てる学習指導・評価法のデザイン』 104~105ページ

2026年8月1日土曜日

詩人の変節 ~高橋順子の詩を読む~

  [時々、投稿をお願いしている吉沢先生に、今回も、以下の投稿をお願いいたしました。]

 自分の信念がくつがえされた時、詩人はどのような言葉を使うでしょうか。

今回取り上げる高橋順子さん1は、太平洋に面する海辺の町に育ち、海が

大好きでした。海を題材にした詩を書き、34歳で上梓した第1詩集は『海まで』というタイトルでした。

それから30年以上経ち、高橋さんは海が嫌いになります。それは、東日本大震災の津波がきっかけでした。70歳で上梓した詩集『海へ』には、高橋さんが「海が大好きだった」では済まなくなった心境を綴る詩が収められています。そのような高橋さんの2つの時期の詩を読み比べてみたいと思います。

 

 まず、初期に書かれた詩を1編、紹介します。

 

貝殻のみち2

 

ここは埋立地だから

海に向かって歩いてゆくと

貝殻みちになる

白い化石の貝殻を手にあふれさせる

 

九階のベランダに

打ち上げられたように貝殻をならべると

ゆっくりと海の時間が

昼なら昼を 夜なら夜をひたす

 

 

 ゆったりした時間が流れているのを、私は感じます。穏やかな眼差しで海を眺めている詩人の姿を想像します。この頃の自分について高橋さんは、「海は、自分が対するものと言うより、自分と同一化しているんですね。」3と言っています。

 

 

 次に、東日本大震災の後に書かれた詩を1編、紹介します。

 

海を好きだった4

 

海を好きだった

(わたしの第一詩集は「海まで」という)

海が凶暴な力をもっていることは知っていたが

それは海の向こうの海のことだと思っていた

幼かった足うらをえぐる小さくない波の力と砂のつぶを

いまでもわたしの足うらはおぼえている

わたしの海は荒れるときも

防波堤に当たって夢が砕けるように自らを砕き

わたしの夢に侵入することはなかった

三月十一日 東日本大震災が起きた

大津波がわたしの古里にも押し寄せ

中学時代の同級生など十四人が波に呑まれた

これが わたしの海か

これが 海のわたしか

わたしの「海まで」の矢印は 海によってへし折られたことを

分かってゆかねばならない

一カ月後余震の中を古里に行くと

家の庭からも前の道からも

それまでは家並みにさえぎられて見えなかった海が見えた

海が見えた というよりは

海を見なければならなかった というべきだろう

海 青い他界

古里の家には昨日青畳が入った

わたしたちは凪を踏むようにして その上を歩いた

 

 

どうでしょうか。

「これが わたしの海か/これが 海のわたしか」

自分が慣れ親しんだ海とはあまりにも違う凶暴な海の姿。そのような海に対する、そしてそう信じてきた自分自身に対する怒りを感じます。

 続けて、詩人は次のように言います。

 

わたしの「海まで」の矢印は 海によってへし折られたことを

分かってゆかねばならない

 

これが海だなんて思いたくない、しかしこれが現実である。それを「分かってゆかねばならない」というように読み取れます。

 さらに、次のように言います。

 

それまでは家並みにさえぎられて見えなかった海が見えた

海が見えた というよりは

海を見なければならなかった というべきだろう

 

この表現は、まわりくどいと感じます。が、そのまわりくどさが、詩人の心持ちを表しているのでしょう。津波で壊されて更地になった古里の家並みを見ることのつらさを、詩人はこのような言い方で表していると思います。

 そして、詩は次のように締め括られます。

 

海 青い他界

古里の家には昨日青畳が入った

わたしたちは凪を踏むようにして その上を歩いた

 

他界とは、この世とは違う「あの世」(死後の世界)のことです。多くの人びとの命を呑み込んだ海を、詩人はこのような言葉で呼びます。海と自分が一体になって、そこに心をゆだねていた頃の詩人からは、出てこない言葉だと思います。

津波で被害にあった家に、新しく畳が入ります。青い海と青い畳。この「青」は詩人の目にどのように映っていたのでしょう。そして、青畳の上をどのような思いで歩いたのでしょう。

 

「凪(なぎ)」とは、風がやんで波が消え、海の水面が静かになる状態です。詩人の心の中も「凪」の状態になったのでしょうか。あるいは、自分に言い聞かせるように、自分に言い含めるように、思いを秘めて静かに歩いたのでしょうか。私はそのような想像をします。

荒れ狂う津波との対比で、詩の末尾に「凪」という言葉が置かれているところが、とてもいいと感じます。

 

引用した2編の詩を比べてみると、「貝殻のみち」は、言葉が詩的な雰囲気を醸し出していますが、「海を好きだった」は、詩的な雰囲気を排除しています。海が嫌いになったことに向き合い、葛藤し、それを詩として差し出している詩人の姿に、私は感銘を受けます。

 

 

1 高橋順子は、1944年千葉県生まれ。九十九里浜の東端に位置する飯岡町(現在は旭市の一部)に育つ。

2 『高橋順子詩集成』(書肆山田, 19964243ページ

3 「高橋順子詩集成*付録」の三木卓との対談より。

4 『詩集 海へ』(書肆山田, 2014)より