(時々、投稿をお願いしている吉沢先生に、以下を書いていただきました。)
私は、作者の気持ちが伝わってくる文章を読むと、そこに魅力を感じます。ところが、生徒たちに自分の気持ちのこもったエッセイを書かせようとしても、なかなか思うように行きません。「修学旅行で長崎に行ってどうだったの?」「面白かった」、「試合に負けてどんな気持ちだったの?」「くやしかった」、それで終わりです。もっと色々な気持ちがあるはずなのに、いざ文章に書くとなると難しい。
そんなことを考えている時に、小学生の書いた詩を読む機会がありました。小学生の詩を集めた『小さな目』という本です。50年以上に発行された古い本で、時代を感じさせるものもありますが、時代を越えて伝わるものがあり、思わず笑ってしまったり、感心したりしました。今回は、そんな作品のいくつかを紹介し、「作者の気持ちが伝わる」とはどういうことかを考えてみたいと思います。
▷次の詩は、小学校1年生の作品です。最終行を予想してみてください。
テレビ★1
高山もとひで
おとうさんが 8にせえといった
ぼくは てつわんアトムを
みたいと いうた
はやく 8にせんと
あとからおこるぞというた
ぼくは なきそうになって
8に まわした
( )
テレビ放送が始まったのが1953年で、一般の家庭に普及し始めたのが1960年代半ばです。手塚治虫原作の「鉄腕アトム」がテレビアニメ化されたのが1963年。そんな時代に、父親とのチャンネル争いで負けてしまった作者。内容はシンプルです。
最終行は、「ボクシングをやっていた」です。「くやしかった」という言葉かな、と思われた方もいるかもしれませんが、ここで「くやしかった」と書かないところが、この作品の良いところです。
もちろん、作者はくやしかったことでしょう。しかし、それを「くやしかった」と書いてしまうと単なる説明になってしまいます。作者がくやしかったことぐらい、書かれていなくても読者は分かります。それよりも、「なきそうになって/8に まわした/ボクシングをやっていた」という場面がそのまま描写されることで、泣きそうな作者、見たくもないボクシングの画面、それに見入る父親の姿が目に見えるようです。
また、「8にせえ(8チャンネルにしろ)」など、関西弁で書かれていることも、臨場感を高めているでしょう。
▷次の詩は、小学校3年生のものです。最終部分を予想してみて下さい。
母の日★2
竹内由美子
母の日なので
プレゼントをしてあげた
おかあさんは
だまって
なきそうなかおで
わたしをみた
わたしは
( )
( )
( )
小学校3年生の娘からプレゼントを受け取った母親は、「だまって泣きそうな顔」をしていたのです。それを見た「私」(作者)はどうしたのか。最終部分は次の3行です。
スカートで
かおを
かくしてしまった
作者はうれしかったのでしょうか。恥ずかしかったのでしょうか。そのように考えて、気持ちを表すことばを当てはめようとしても、どれもフィットしません。作者自身うまくことばで説明できなかったのでしょう。でもとても心が動いていて、スカートで顔を隠したのです。それをそのまま書いています。そこがこの作品の魅力になっています。
▷次の詩も、小学校3年生のものです。詩の後半4行に書かれている内容を予想してみて下さい。
ほうたい★3
江頭雅之
先生の足に ほうたいが
まいてあった
ぼくは
「そのけが どうしたの」
と きこうと思った
でも いわなかった
( )
( )
( )
( )
作者は、包帯が巻かれた先生の足に着目します。どうしたんだろう、という疑問が湧きますが、口に出すことはしません。そのように考えると、後半部分は、例えば、「ぼくは/しんぱいだった/でも/なぜか きけなかった」というふうにも予想できます。
実際は以下のようになっています。
「先生 そのけが どうしたの」
ぼくは
心のなかで
そっと きいた
これを「ぼくは/しんぱいだった/でも/なぜか きけなかった」と書いたのでは、説明にすぎません。しかも、そのようなことは、前半部分で読み手はすでに想像できています。読み手が知りたいのは、作者の心の動きです。作者は、そんな自分の心の動きをそのままことばにして描いています。
*ここまでの3つの詩に共通するのは、「くやしかった」とか「しんぱいだった」といった、感情を表すことばを使っていないということです。そして、自分のとった行動や、自分が見たもの、自分の心の状態をそのまま書いていることです。
▷次の詩を読んでみて下さい。小学校2年生の作品です。
せんとう★4
白石良盛
ぼくは 二十ばん
おとうとは 十八ばん
ふくぬぎのきょうそうをした
いつも おとうとにまける
さきにはいったおとうとは かならず
ゆぶねのところでまっている
「はいっとけばいいのに」と
ぼくは おとうとのせなかに
ゆをかけてやる
この詩には、感情を表すことばは一つも使われていません。しかし、作者と弟の間の細やかな心の動きが伝わってきます。3行目の「ふくぬぎのきょうそうをした」があるために、冒頭の2行からも、二人が先を競って、下足箱に靴を入れている情景が目に浮かびます。そして、競いあいながらも、兄を気づかっている弟。それに応えて、お湯を体にかけてあげる作者。何とも微笑ましい情景です。良い作品だと思います。
▷次の詩は、小学校5年生の作品です。
はくさい取り★5
千葉好美
うらのだんだん畑で
かあちゃんとはくさい取りだ
風がビューとわたしのかおにつきささる
遠くの畑の上を
ほこりがほばしらのようにとんで行く
かあちゃんとならんで
かれたはくさいのかわをむいたら
こおりのかたまりのようにつめたい
かじけた手をこすりながら
ぼんぼんかごにほおりこんだ
かあちゃんのかみの毛に
はくさいのくずがついている
この詩にも、感情を表すことばは使われていません。その代わりに、作者の目に映ったものや体で経験したものが書かれています。だんだん畑、風、畑の上を飛ぶほこり、枯れた白菜の皮、かご、母親の髪の毛、白菜のくず。
想像してみてください。もしこの作品に、「わたしもがんばる」とか「かあちゃんといっしょでうれしい」、「かあちゃんは働きものだ」とか「長生きしてほしい」といったことばが書かれていたらどうでしょう。途端に、作品が陳腐なものに感じられないでしょうか。
そのような言葉を排除し、作者は心に残った経験をそのまま言葉で描写しています。私はこの詩を読んで、ああ、白菜は寒い時期が旬の野菜だ、と思い起こしました。こうして寒い中で収穫されたものが、お店に並んでいるのか、とも思いました。母親と一緒に生き生きとして仕事をしている作者の姿が目に浮かぶようです。
*愉快な経験をすれば、「楽しかった」「うれしかった」、つらい経験をすれば、「悲しかった」「苦しかった」という表現をします。このようなことばによる表現は、正直といえば正直なのですが、実際にその人が経験した気持ちの機微、心の動きのひだを素通りしているのです。そして、喜怒哀楽の大まかな分類のことばで済ませているのです。
しかし、上に掲げた小学生の詩では、そのようなことばを使わずに、見たもの、行ったこと、心に浮かんだことをそのまま描いています。そのことで、読み手はその情景が目に見えるような経験をし、作者の気持ちへと思いをはせます。そこに共感が生まれます。
ことばによる描写の本質について、梅田卓夫ほか『高校生のための文章読本』は、次のように述べています。★6
「描写とは、作者の抱いた気持ちを伝えるのではなく、その気持ちを起こさせられた状況そのものを再現し、伝達するものである。つまり感情は、作者でなく、読者が用意するものであり、作者は読者に自分と同じ感情を引き起こすために描写を与えるのである。見たものを目に見えるように言葉で描くこと、読者に自分と同じ経験を追体験させ、読者を感化すること、これが描写の本質的な役割である。」
私が読んだ『小さな目』という本は、1962年から朝日新聞紙上に掲載された詩を集めたものです。「児童詩コンクール」や「詩の教室」といったねらいからではなく、子どもたちが感じたままを率直に表現した内容に重点を置いて選ばれたものだそうです。★7
ここに引用した作品も、荒削りだったり、整っていないものも含まれているかもしれません。しかし、それ以上に、このような作品にふれて楽しむことで、見たままをことばで描くということについて多くを学ぶことができると思います。
★1 ★4 朝日新聞社編『ぼくらの詩集 小さな目 1・2ねん』あかね書房, 1964年
★2 ★3 朝日新聞社編『ぼくらの詩集 小さな目 3・4ねん』あかね書房, 1964年
★5 朝日新聞社編『ぼくらの詩集 小さな目 5・6ねん』あかね書房, 1964年
★6 梅田卓夫ほか『高校生のための文章読本 付録「表現への扉」』筑摩書房, 1986年, 77ページ
★7『小さな目』の巻頭にある「編者のことば」による。
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