2025年6月21日土曜日

ケアと編集と理解すること/されること

『理解するってどういうこと?』の最後の章で、エリンさんはこの本を書くきっかけをつくってくれた小学校2年生のジャミカに(最終章執筆の時点で彼女はすでに高校生でしたが)、この本を書き終える今なら「理解する」ことについて、あの時に時間を戻すことができればどう言えるのか、述べています。そして、最後は次の言葉で閉じられています。


「そしてジャミカ、理解しようとするあなたを支えることは、私たち大人があなたの果てしない知性を信じて、あなたが世界に対してしっかりと考えて手に入れたすばらしい発見を共有することなのです。ジャミカ、あなたが理解するのを手助けするために、私たちは問いかけるだけでなくて、しっかり聞くことを約束します。」(『理解するってどういうこと?』358ページ)

 小学校2年生の「果てしない知性を信じ」ること、そして「世界に対してしっかりと考えて手に入れたすばらしい発見を共有する」ことが「理解しようとする」ジャミカを支えることだという、素敵な考えが示されています。そのために、ジャミカの(つまり子どもの)言うことを「しっかり聞くことを約束します」とまで言い切っています。
 しかし、「しっかり聞くこと」は簡単なことではない、と私は常に思います。自分に既有の経験や価値観によって相手の発言や行動を「わかったつもり」になっていることの何と多いことか。自分の経験を振り返ってみるだけで、そういうことに思い至り、冷や汗を流してしまいます。「しっかり聞くこと」をせずに、こうしたほうがいいという自分の思い込みを相手に伝えていることも少なくありません。「しっかり聞くこと」は「理解する」ことの根っこにあたるとても大切なことです。
 このことを深く探っているのが、白石正明さんの『ケアと編集』(岩波新書、2025年)です。医学書院の編集者として長らく勤めてきた白石さんがこの本のなかで自分の「編集の先生」と言っているのは、出版社の先輩等ではなく、北海道浦河町にある精神障害者の生活拠点「浦河べてるの家」のソーシャルワーカー、向谷地生良(むかいやち・いくよし)さんでした。このことが、この本の書名の由来になっています。
 編集者の白石さんが、向谷地さんから何を学んで「編集の先生」と考えるようになったのでしょうか。たとえば、白石さんによれば向谷地さんは、「その人自身を変えないこととセットで、その人の背景を積極的に変える。〈図(=形)〉と〈地(=背景)〉の比喩でいえば、〈図〉は変えないけれど〈地〉を変える」(『ケアと編集』33ページ)のです。たとえば「しゃべることがよい」という価値観のもとでは「しゃべれない」ことは治療の対象になってしまうけれども、その人の「しゃべれない」状況はその人を取り巻く環境との関係によってたまたま生み出されたことであって、もしかするとその「しゃべれない」ことがその人の長所にもなりうることなのかもしれない。だからその人と環境・状況との「噛み合わせ」を変えれば「しゃべれない」事態は変わるかもしれません。それが「〈図〉は変えないけれど〈地〉を変える」ということなります。
 白石さんは、これが「編集」にとって重要なことだと考えました。次のような言葉があります。

「出された問題に答えるのではなく、その問題を組み替えてしまうこと。あるいは、与えられた問題の外に出てしまうこと。(中略=引用者)「弱さ」とか「依存」といった克服されるべき問題-なにより当人がもっとも「克服すべき」と思っている問題-に別の光を与えること。
 それは編集という仕事そのものだと思う。」(『ケアと編集』64ページ)

 こうしてソーシャルワーカーの向谷地さんの言動が、編集者・白石さんの核になっていくそのプロセスが本書では述べられていきます。もちろん、本書には、向谷地さんのことだけでなく、白石さんが編集者として世に送り出した本の著者たちの言葉もふんだんに引かれていて、それらが白石さんの編集者としての信条に大きな影響を与えたことも語られていきます。
 向谷地さんから学んだことは他にも述べられています。たとえば、次のように。

「信じるからこれができる、信じられないからこれができない、というように、先に、個人の内面に、「信」か「不信」があり、それに従ってなにがしかの行動が表出する、というのが普通の人間の思考回路だ。
 しかし向谷地さんはそうではない。嘘でもいいから先に「信(仮)」のカードを出すことによって、わたしとあなたのあいだに「信」が、少しずつ、具体的に生成してくる。そんなモデルへの転換だ。「信じる/信じない」と、個人の内面の問題として言語的に説明するという暗黙の前提から離れて、現実的な対人関係の問題にズラしていると言ってもいい。
 具体的な対人関係において、「先に」「ちょっと」信じる。この最初の一歩によってお互いのあいだに、信じるがやってくる。それが勘違いだったらあっさり引っ込めればいい。だけど最初のカードは「信(仮)」以外にない。こう考えれば、上目遣いに相手の「真意」を探ったり、相手の微妙な口ぶりから「隠された真の欲望」なんてものを推し量る必要もなくなる。」(『ケアと編集』84ページ)

 自分の対人関係において相手の言動を理解する上でも納得のいく、いやそれ以上に大切なスタンスを教えてもらったような思いになります。こういうスタンスで相手と話すことができれば、たとえ当初は問題があったとしても、関係自体を変えていくことで、問題であったことが問題でなくなるということは、大いにあり得ることです。そのことによって、相手を理解し、受け入れることもできるようになると思います。
 では本書のタイトルにもなっている「ケア」とは何でしょう。

「ケアは未来の安寧を考えるより現在の不快を減らし、現在の快を享受するシステムである。ケアとは、現在を未来の「手段」にしない、つまり社交や対話と同じようにケアは、現在を「目的」とする思想であり行為なのである―――とまずは考えてみたい。」(『ケアと編集』110ページ)

「ケアというのはもしかして、「やり方」ではなく、「場所」を問うことではないだろうか。やり方の前提になる場所を変えること。目に見える〈図〉ではなくその条件である〈地〉を変えること。選択肢を見るのではなく、その選択肢が成立するところの文脈を変えること。
 前提を変える。条件を変える。文脈を変える。―――これは本書で探究している「編集」という行為そのものである。」(『ケアと編集』138ページ)

 このようにして白石さんは、向谷地さんの振る舞いや言葉から「ケア」の本質を見抜き、それらが「編集」の在り方そのものだということを発見していきます。そしてこれは、エリンさんの言う「しっかりと聞く」というスタンスと共通しています。「理解すること」を支える考え方でもあります。
 白石さんは本書の「あとがき」の担当編集者への謝辞を述べる箇所で「理解されるということは最大のケア」だと書いています。「ケア」と「編集」と「理解すること/されること」は共通する行為だと言うことができるのではないでしょうか。「しっかりと聞くこと」は、聞いてもらう(理解される)相手にとって、またとない「ケア」になるのです。

2025年6月13日金曜日

どうしてこんなに面白い? 書くツールについての本 [その3(最終回)] 〜ツールを収納する道具箱や作業台を自分仕様にする

   「ものを書くとき、自分の力を最大限に発揮するためには、自分専用の道具箱をつくって、それを持ち運ぶための筋肉を鍛えることである。そうすれば、何があっても、あわてふためくことなく、いつでもしかるべき道具を手にとって、直ちに仕事にとりかかれる」(149ページ)(★1)

 スティーヴン・キングは、『書くことについて』の中で、書くことに関わるツールを「道具箱」に入れるというイメージで、大工だったオーレン伯父とのやりとりを紹介しています。ドライバー1本で用が足りるなら、3段重ねの道具箱を持ってくる必要はなかったのではないかと問うスティーブン・キングに対して、オーレン伯父は、次のように答えています。

「『そりゃそうかもしれない。でもな、スティーヴィー』オーレン伯父はかがみこんで、道具箱の取っ手を握った。『ここへ来てみなきゃ、ほかにどんなことをしなきゃいけないかわからない。だから、道具はいつも一式持っていたほうがいいんだよ。そうしたら、予想外のことに出くわしても、おたおたせずにすむ』」(148-149ページ)(★2)

 「どうしてこんなに面白い? 書くツールについての本 [その1]と[その2]」(それぞれ4月25日、5月9日の投稿)」で紹介した本(★3)では、著者のクラーク氏は、ツールの保管場所として「作業台(workbench)」というイメージを使っています。[ツール50] 「自分用の作家の技を自分のものにする 〜自分のツールを収納できる執筆用の作業台をつくる」(240-244ページ)で、ここまで学んだツールの活用について述べています。

 クラーク氏が比喩として使った作業台 workbench という単語を画像検索すると、引き出しなどの収納も充実した、かっこいい写真がたくさん出てきます。かっこよくても、使えなければ、宝の持ち腐れです。今回の[その3] (最終回)では、使いやすい作業台の作り方を考えます。なお、以下のページ数は、[その1]と[その2]と同じ本 Writing Tools: 55 Essential Strategies for Every Writer (10th anniversary edition) からです。

 日常生活で整理があまり得意でない私にとっては、探しているものがすぐに見つけられないことが、時々、あります。

 見つけやすくする(探す時間を減らす?)一つの方法は、「分類」です。著者のクラーク氏は、ツールの分類方法の一つとして「書くときに通るステップごとに分ける」を提案しています。氏は、優れた書き手であるドナルド・マレーの1983年のプレゼンで学んだ「書くときに通るステップ」からスタートし、その後、25年以上、それらを整理し、拡げ、再編成し、応用してきたと記しています(241ページ)。(★4)

 きっかけとなったドナルド・マレーの考えはとてもシンプルで、以下の5つの単語で表されています。

idea (考え)

collect (集める)

focus (焦点を定める)

draft  (下書きをする)

clarify (明確にする)

 クラーク氏は、「言い換えれば、作家はアイデアを思いつき、それを支える事柄を集め、その作品が何についてなのかを発見し、初稿を書き、より明確にするために書き直す」(241ページ)と説明を加えています。

*****

 私であれば、「書くときに通るステップ」以外に、「使う頻度が高いツール」と「ぜひ、近いうちに使ってみたいツール」という引き出しを、作業台の目立つところに設置したいような気がしました。

→「使う頻度が高いツール」は、それぞれの書き手としての特性(強みも弱みも)が強く出る引き出しかもしれません。評価のカンファランスなどで、「使う頻度が高いツールは?(書くときの助けになることで、よく行っていることは?)」と、子どもたちに尋ねてみると、書き手としての子ども理解につながるかもしれません。

 また、読み書きを統合したワークショップ関連の本を読んでいると、読むこと・書くこと両方のツールを一緒に収納する作業台や道具箱を作るのも、いいかなと思ったりもします。

*****

 今回、3回に分けて紹介したクラーク氏の書くツールについての本のおかげで、ここしばらく、上記のスティーヴン・キングの『書くことについて』など、書くことについての本を何冊か読みました。特に以下の2冊からは、書き手側の工夫を強く感じました。

・ナタリー・ゴールドバーグの『魂の文章術』の英語のポケット版(★5)。7.8センチ✖️11.5センチで名刺の1.5倍ぐらいです。厚みは2センチありますが、軽くて、持ち運びがとても楽です。この大きさと軽さという物理的な工夫に拍手です。

・4月18日の投稿「本を選ぶことは明日の自分を選ぶこと」がきっかけで読んだ、古賀史健の『さみしい夜にはペンを持て』★6。主人公がタコの〈タコジローくん〉で、登場人物は海の生物たち。こういう題名と場面設定で、ストーリー仕立てで、書くことについて学べることに驚きました。

 クラーク氏、キング氏、ゴールドバーグ氏、古賀氏。教えてくれていることは、それぞれの書き手としての経験が土台になっています。プロにコーチしてもらって学ぶ授業はこんな感じなのかなとも思います。そして、教師も、書き手であり続ける努力を継続することで、コーチに一歩ずつ近づけるのかもしれません。

*****

★1 と ★2 スティーヴン・キングの『書くことについて』小学館文庫 2013年

★3 Roy Peter Clark著 Writing Tools: 55 Essential Strategies for Every Writer (10th anniversary edition) Little, Brown Spark

★4 ドナルド・マレーのプレゼンをきっかけに、クラーク氏は以下の8つを挙げ、それぞれに短く説明がついています。(242-243ページ)

Sniff (Sniff around)  嗅ぎ回る

Explore (Explore ideas) アイディアを探索する

Collect (Collect evidence)  証拠(裏付けになるもの)を集める

Focus (Find a focus) 焦点を定める

Select (Select the best stuff) 一番良いものを選ぶ

Order (Recognize an order) 順序を決める

Draft (Write a draft) 下書きを書く

Revise (Revise and clarify) 推敲を重ねて明確にする

★5 Natalie Goldberg. Writing Down the Bones, Shambhala, 2006. 最初に出版されたのは1986年。私が持っている2006年のポケット版には、新しい序文と著者へのインタビューが加筆されています。

★6『さみしい夜にはペンを持て』ポプラ社 2023年。私が図書館で借りたのは2023年10月出版で、すでに第7刷でした!

2025年6月6日金曜日

書かない/書けない子どもを、書ける子(しかも、教師に依存しない、自立した書き手)にするには?

 ここ2週間ほど、このテーマから離れられないでいます。

 https://wwletter.blogspot.com/2025/05/blog-post_23.html とhttps://projectbetterschool.blogspot.com/2025/06/blog-post.html です。両方とも、自立した書き手ではなく、依存した書き手(ないし、教師に従順で忖度する書き手や反発する書き手)を育ててしまう可能性があります。しかも、両方とも教師や親は良かれと思ってしていますから、問題は大きいです!

 教師に依存する書き手ではなくて、自立した書き手はどう育てられるのでしょうか?

 多分に教師の接し方(カンファランスの仕方、教師の問いの発し方)を少し変えるだけで、転換は可能です。

 以下で、1年生から8年生(日本の中3)までを25年間教えた経験があり、現在は読み書きのコーチとインストラクショナル・コーチをしているヴィヴィアン・チェン先生の方法を紹介します。

●書き始める前

最初の工夫は、その日に子どもたちが取り組む作業の種類を伝えるときに、手短なチェックインを入れたことです。以前は単に「今日は、これまで学んだ作家の技を使って修正(推敲・書き直)している子もいれば、下書きを仕上げている子もいるかもしれません」と言っていたのですが、それを質問の形に変えました。「今日は修正しようと思っている人? 親指を立てて教えて。下書きを仕上げようと思っている人は?」といった具合です。この小さな変更によって、子どもたちは集まりの場(最初の5~10分は、自分が書くところではなく、教師の周りに集まって座っています)を離れる前に自分がしようと思っていることを明確にできるようになりました。

もうひとつの変化は、子どもたちに作業計画を立てる機会を与えたことです。たとえば、作家の時間のパートナーに向かって「最初に取りかかることは○○だよ」と伝えるだけでもいいですし、作家ノートにやることリストを作って、それをパートナーと共有する方法もあります。どの方法を選ぶかは、学年や子どもたちが書くサイクル(https://wwletter.blogspot.com/search?q=%E4%BD%9C%E5%AE%B6%E3%81%AE%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%83%AB)のどの段階にいるか(や、その理解度)によって異なるかもしれません。

 変更する前は、子どもたちが自分で「ひたすら書く」時間を始めるというよりも、教師の指示を聞いてから始めようとしたり、自分の行動が正しいかどうかを教師に確認してもらうのを待っていたりしました。そして、ひたすら書き始めようとしているときに私が指示を出したり声をかけたりすることで、子どもたちが書くために必要な静かな思考の時間を妨げてしまっていたのです。

やり方を切り替えた最初は難しく感じましたが、子どもたちがひたすら書く時間に入り始めるときに私が静かにしていることが、新しい習慣になりました。書いている子どもたちを細かく管理(マイクロ・マネージ)するのではなく、その時間を使って、彼らの書くときのふるまいや問題解決の様子を観察するようにしています。もし少しだけ後押しや思い出すことが必要な場合は、チャート(図)を指したり、書く紙やノートに意識を向けるように無言のジェスチャーで合図を送ります。こうすることで、子どもたちは自分自身で考えたり問題を解決したりする機会を得られるようになり、私はより静かで思慮深いひたすら書く時間の雰囲気をつくることができるようになりました ~ この段落に書いてあることが、https://projectbetterschool.blogspot.com/2025/06/blog-post.html で紹介した『"しない"が子どもの自力を伸ばす――叱らない・ほめない・コントロールしない、狩猟採集民の子育て術』(マイケリーン・ドゥクレフ著、築地書館)の中心テーマで、それを読むことで、授業への応用も可能になります!

●子どもたちが書いている間

言葉は大切です。

私はもう「I love how...(〜のところが好きです)」「I like the way...(〜のやり方はいいと思います)」のような言い回しを使わなくなりました。ただ単に生徒の自立した書く時間に騒がしくしていたからではありません。知らず知らずのうちに、生徒の主体性を損なってしまっていたのです。

生徒たちが私のところにやって来て、「これっていいと思いますか?」と聞いてくることは何回あったでしょうか?

私の定番の返事は、たいていこうでした。「あなたはどう思う?」

その答えは、「うん、自分ではいいと思います」から「分かりません(だから聞いてるんですけど)」まで、さまざまです。生徒のやっていることに対して「いいね!」「すごく好き!」と私が繰り返し言っていたことで、彼らは承認を得るために私のところへ来るように訓練されてしまっていたのです。ピーター・ジョンストンは著書『オープニングマインド』(新評論)の中で、こうした言葉についてこう述べています。「それは、主体的な語りではなく、評価を与える語りであり、子どもの努力の目的があなたを喜ばせることだと暗に伝えている」~同じ著者の『言葉を選ぶ、授業が変わる!』(ミネルヴァ書房)もおすすめです。

子どもたちに、「あなたには書くことに対して主体性があるんだ」というメッセージを届けるために、私は書き手自身ではなく、書くサイクルに焦点を当ててフィードバックを行うようにしています。さらにそのフィードバックに力をもたせるために、私は具体的な点を挙げ、それがなぜ重要なのか、読者にどんな効果を与えているのかを伝えるようにしています。たとえば、「とてもよく書けているね!」と言う代わりに、「この場面に対話を加えたことで、登場人物が本当に生き生きと感じられたよ」と伝えます。ここで止めたとしても、書き手には「自分がやったことが誰かに影響を与えた」と伝わりますし、理想的には、その作家の技を今後も使い続けてくれるでしょう。

でも、さらに一歩進めることもできます。私のカンファランス(対話型の指導)が特にうまくいっているときは、そのフィードバックに新しい方法やヒントを加えることができます。たとえば、さっきの例を続けると、こんなふうに言えるかもしれません。「登場人物をさらに描き出すために、書き手がよくやることの一つに、その人物の外見についての描写を加えるという方法があります。あなたの作品でも、それを試してみるのはどうかな?」——こうしたフィードバックの伝え方をすることで、私は主体的な語りを支えることができます。「今あなたがやっていることを土台にして、試せる新しい方法があるよ。どう生かすかは、あなた次第です」 より多くのエイジェンシー(主体性)と、より多くの自立。

●ひたすら書く時間のあと

 二人寄れば文殊の知恵。

「しまった、もうお昼の時間! あとで続きをやってください」
これが以前の私のライティング・ワークショップの終わり方でした。

でも、ひたすら書く時間の最後に510分ほどの時間を取らないことで、さらなる学びと自立のチャンスを自分自身にも、子どもたちにも与え損ねていたのです。

タイマーをセットしてその時間を毎回確保するようにしてからは、ちょっとした編集作業や新しい書き方のコツを伝えるだけでなく、子どもたちのエイジェンシー(主体性)や自立心を育てることにも使えるようになりました。

「どうやってスペルを書くの?」「タイトルはどうやって考えたらいいの?」など、あまりに多くの子が質問してくるときは、そうしたよくある問題への対処法をみんなで考える時間として、最後の数分間を使いました。たとえば、こんなふうに話しかけます。

「みんな、『この単語のスペルってどう書くの?』って手を挙げて聞いたり、お隣の人に聞いたりしていたよね。それが、みんなが集中していい仕事をすることのじゃまになっていたんだよね。
 でもね、みんなは難しい単語のスペルを自分で考えるいろんな方法を知ってるよね。さあ、パートナーと話してみよう。『自分でスペルを考えるとき、どんなやり方があるかな?』」(子どもたちがペアで話す間、教師は会話に耳を傾ける)

「みんな、いろんな方法を知ってるね! 今、みんなが話してくれたアイディアをここに書いていくよ。これからスペルが分からないときは、このチャートを見て、試せる方法を思い出せるようにしよう。今度わからない単語が出てきたら、自分はどのやり方を試してみたいか、またパートナーに話してみよう」

このような終わり方は、「どこに材料があるのかわからない」とか、「書き終わったら何をすればいいのかわからない」といった、他の「つまずき」にも応用できます。

問題の解決方法を子どもたち自身が一緒に考えることで、より強いエイジェンシー(主体性)と自立心を育むことができます。
 そして、自分たちで考えたアイディアだからこそ、実際に困ったときに、自分の力で使ってみようという気持ちにもつながるのです。

出典:https://choiceliteracy.com/article/developing-independent-writers/

2025年6月1日日曜日

むずかしい詩を読み解く ~石原吉郎の詩「脱走」~

 【時々投稿をお願いしている吉沢先生に、今回も投稿していただきました。】

「現代詩は難しい、何を言っているのかわからない」という声をよく聞きます。私もそう思いますが、一方で、「難しいけど、この詩いいよねえ」と言いたくなる詩もあります。難しいし、よく分からない部分もあるけれど、何か魅力かある、感動する。----そんな詩との出会いを私は大事にしてきました。

 今回は、私がそのような出会いを経験した詩を紹介しながら、むずかしい詩をどう読み解くかについて、お話したいと思います。

  私の使う手法は、次の3つです。

○事実関係をおさえる。

○比喩や擬人化された表現について考える。

○質問を見つける。

 この3つのそれぞれについて、確からしい答えが得られることもあるでしょうし、「~かもしれない」という所までしかいけない場合もあるでしょう。それでいいのです。これは不確かだが、こう考えることも可能だ、というふうに心に留めておくのです。

脱走 ★1

--- 一九五〇年ザバイカルの徒刑地で

石原 吉郎


そのとき 銃声がきこえ


日まわりはふりかえって


われらを見た

タイトルの「脱走」、「徒刑地」、本文1行目の「銃声」。これらの言葉から、この詩が、労役に服する人たちの中から脱走者が出て、それを監視する人が銃を発砲した、という状況を扱っていることが分かります。さらに、歴史に詳しい人であれば、「1950年」「ザバイカル」という言葉から、第二次世界大戦後、旧ソ連が、日本の軍人をシベリアに抑留させたことであろう、と推測できるでしょう。

「日まわりはふりかえって/われらを見た」とあります。ひまわりは太陽の動きに合わせて、花や茎の向きを変える性質を持ちますが、人の方へ振り向くことはありません。それをあえて、このような表現をするのはなぜでしょう。例えば、銃声に反応したように、日まわり(という自然界のもの)も銃声や銃声に反応する人間に反応した、ということなのだろうか。あるいは、振り向いたのは「われら」であって、その自分たちの目に、それまで意識していなかった「ひまわり」という自然が鮮やかに飛び込んできた、ということなのか。

ふりあげた鈍器の下のような


不敵な静寂のなかで


あまりにも唐突に


世界が深くなったのだ

見たものは 見たといえ

「鈍器」とは、刃はついていないが固く重みのある金槌や棒などの器具のことです。それを「ふりあげた」のは誰なのか。「不敵」とは、恐れを知らず、敵を敵と思わない大胆な様を言います。「不敵な静寂」とはどのような静寂なのでしょうか。

さらに私が難しく感じたのが、「世界が深くなった」という表現です。脱走者が出た。監視兵がそれを狙撃しようとして発砲する。それは、まさに「唐突」でショッキングなものだったに違いありません。しかし、それは単に「ショックだった」ということではない気がします。この世界に対する見方が揺さぶられた、認識を変えることを迫られた、ということではないかと考えます。

その上で、詩人は「見たものは 見たといえ」と書きます。これは誰に呼びかけているのでしょうか。目撃している自分を鼓舞しているのでしょうか。

われらがうずくまる


まぎれもないそのあいだから


火のような足あとが南へ奔(はし)り


力つきたところに


すでに他の男が立っている

 脱走を試みた男の故郷は、ザバイカルから南の方角にあるのでしょう。そこに向かって走る人の「火のような足あと」という表現はイメージをかき立てます。

「すでに他の男が立っている」とあります。「他の男」とは誰でしょうか。脱走を試みた男がもう一人いた、ということなのか。あるいは、脱走を試みて砂地を走っていき力尽きて倒れてしまう男が他にもいた、何人もそういう男がいたのです、ということの象徴的な表現なのでしょうか。

あざやかな悔恨のような


ザバイカルの八月の砂地

爪先のめりの郷愁は


待伏せたように薙ぎたおされ


沈黙は いきなり


向きあわせた僧院のようだ

「爪先のめり」とは、体が前のめりになっている状態です。つまり、不安定でありながらも、突き進もうとする故郷への強い気持ち(郷愁)があるのです。それが薙ぎ倒される。脱走の失敗が暗示されています。

われらは一瞬腰を浮かせ


われらは一瞬顔を伏せる

射ちおとされたのはウクライナの夢か

コーカサスの賭か

男の脱走が失敗に終わったことが、はっきり示されています。その男はウクライナかコーカサスの出身者だったのでしょう。

すでに銃口は地へ向けられ


ただそれだけのことのように


腕をあげて 彼は

時刻を見た

騾馬の死産を見守(まも)る

商人たちの真昼

脱走を試みた男が死んだことが暗示されています。「彼」は銃を向けた監視兵でしょうか。非常に事務的に役目をこなし、男の死亡時刻を確かめます。「騾馬の死産を見守る/商人たち」とは、何を意味するのでしょう。騾馬が仔馬を死産しても、騾馬を仕事の手段としてしか見ない商人が例えとして、使われているような気がします。

砂と蟻とをつかみそこねた掌(て)で


われらは その口を


けたたましくおおう

 砂も蟻も、掌で掴もうとしても指の間からこぼれてしまいます。それは無力感の象徴でしょうか。そんな無力な掌で、「われらは」自分の口を覆って、自分の叫びを押さえ込もうとする、ということなのでしょうか。

あからさまに問え 手の甲は


踏まれるためにあるのか

黒い瞳が 容赦なく



いま踏んで通る

 脱走を二度と許さないぞという監視者が、囚人の掌を踏んで歩きます。それに対して、「あからさまに問え 手の甲は/踏まれるためにあるのか」という、詩人は書きます。実際には声に出せない叫びです。

服従せよ

まだらな犬を打ちすえるように


われらは怒りを打ちすえる

われらはいま了解する

うしてわれらは承認する

われらはきっぱりと服従する

激動のあとのあつい舌を


いまも垂らした銃口の前で

 私は、この部分には、「服従するか、死ぬか」のいずれかを選ぶしかない、という状況での、「われら」の葛藤が描かれていると感じます。そのためには、まず怒りを打ちすえ、そして了解し、承認しまし、はっきりと服従する、というプロセスを踏むのだ、と詩人は言います。この、くどいほどの言葉の重ね方に服従することへの抵抗感、苦しみを私は感じます。

まあたらしく刈りとられた


不毛の勇気のむこう側


一瞬にしていまはとおい


ウクライナよ


コーカサスよ 

脱走を試みた男は、一瞬にして射殺され、その行為は虚しく、詩人自ら「不毛な勇気」として認めるしかない、そのような状況です。その向こう側に遠ざかってしまった故郷の名を呼ぶしかありません。

ずしりとはだかった長靴(ちょうか)のあいだへ


かがやく無垢の金貨を投げ


われらは いま


その肘をからめあう   

ついにおわりのない


服従の鎖のように

(注 ロシヤの囚人は行進にさいして脱走をふせぐためにしばしば五列にスクラムを組まされる。

 「かがやく無垢の金貨」は、自らの純粋なもの、というふうに読めます。それを、「ずりしとたちはだかった」敵に差し出すわけですが、その私たち自身は、肘を絡めあわないといけない、という絶望的な状況にいます。

  私がこの詩に出会ったのは学生の時でした。比喩やイメージがよく分からない部分がありつつも、すごく感動したことを覚えています。「見たものは 見たといえ」「ザバイカルの八月の砂地」「射ちおとされたのはウクライナの夢か/コーカサスの賭けか」など、口に出して読んでは、そのフレーズの持つリズムに美しさを感じました。

 石原吉郎は、シベリアでの体験をもとにした詩を多く残しています。どのような体験をしたのか、どのような思いで詩を書くようになったのかについてのエッセイもあります。石原吉郎という人と詩を理解する上で、それらの文章を読むこともおすすめします。★2 

★1 『石原吉郎全集 I』(花神社, 1979年)26~29ページ

★2 例えば、『石原吉郎詩文集』 (講談社文芸文庫, 2005年)、畑谷史代『シベリア抑留とは何だったのか──詩人・石原吉郎のみちのり』 (岩波ジュニア新書, 2009年)

 


2025年5月23日金曜日

書かない子・書けない子への対応の仕方(再考)

 作家の時間(ライティング・ワークショップ)に取り組み始める年度当初には、すぐに長文をスラスラ書き始める子たちがいる一方で、なかなか鉛筆が(キーボードも?)動かない子たちもいます。

 これまでにも何度か、「書かない子」https://wwletter.blogspot.com/search?q=%E6%9B%B8%E3%81%8B%E3%81%AA%E3%81%84%E5%AD%90 や「書けない子」https://wwletter.blogspot.com/search?q=%E6%9B%B8%E3%81%91%E3%81%AA%E3%81%84%E5%AD%90 への対応法については書いてきました。

 思うに、ベースの部分には、

の問題が横たわっている気がします。この図の出典は、『教育のプロがすすめるイノベーション』(ジョージ・クーロス著)です。

 教師は、「夢中に」があるかないかは別にして、とにかく生徒に「取り組」んでもらいたいと思っています。それは図の上の部分の、教師サイドがよかれと思って考えている学習内容やカリキュラムや、教師の興味関心(ないし、教師が役立つと思う生徒の興味関心)の枠のなかで。

 別な言葉でいうと、生徒が本当に書きたいと思うか否かは別にして、他のみんなは書いているのだから、なんとか遅れないように、書かせたいという焦りを抱えているということかと思います。それで、いろいろと提案しますが、なかなか「書かない子・書けない子」とは接点がもてずに(教師も、子どもも)苦しみます。

 図の下の部分には、「子どもの情熱、興味関心、未来」を中心に据える転換が示されています。そのためには、カンファランス★が効果的です。その子の情熱、興味関心、未来(したいと思っていることや、するのが好きなこと)について聞き出せますから。その中には、その子が書きたいことや、他の子たちに教えたいことや知ってほしいことが含まれているかもしれません。

 教師の側から提案してしまうと、図の上のアプローチになってしまいかねない危険をはらんでいますが、「子どもの情熱、興味関心、未来」を聞き出して、リストをつくり、その中から子ども自身が書きたい/書けると思うテーマを選ぶと、図の下のアプローチと言えます。

 

 以上は、書かない・書けない子への対応について考えましたが、同じことは、読まない・読めない(読むことに気が進まない)子たちへの対応にも応用できるでしょうか?

 さらには、算数・数学、理科、社会、英語、音楽、体育、図工・美術でも?

 カリキュラム(日本では、ほぼイコール教科書)とはいったい何ぞや、とも考えさせられます。

 

 カリキュラムは、間違っても上から与えられるものではありません。文科省も、それは学校レベルの判断であると言い切っています(さらに、教科書は、あくまでも、主たる教材でしかないとも)!

 カリキュラムを考えてつくる際に参考になるのは、『いい学校の選び方』の155ページで紹介されている、次のような13の項目です。

 教科書ベースの授業をしてしまうことは、⑪の中の一つでしかない教科書を、殊の外、重視してしまって、他の12項目を軽視ないし無視してしまう可能性があります。それは、必然的に生徒たちがよく学べない状態をつくり出してしまっていることを意味します。

 

★このブログでは、この言葉を当たり前のように使っていますし、これまでに何度もそのやり方については書いてきています。一言でいうと、「教師と生徒が行う、一対一の会話・やり取り」のことです。

 ChatGPTは、カンファランスで行われることについて、以下の5項目★★を出してくれました。

・子どもの思考や選択について聞く

・今どこでつまずいているのかを探る

・子ども自身の「書く/読むこと」へのメタ認知(考え方)を育てる

・次のステップへの具体的なサポートを行う

・子どもに「声をかける」のではなく、「声を聞く」ことに重点をおく

 これらは、教育のいう名で行う行為にとってとても大事なものであると同時に、欠かせないものばかりではないでしょうか? それ(個別のニーズに合った会話・やり取り)を一斉授業ですることは不可能なので、「一対一」を大事にするのがライティングとリーディング・ワークショップ(作家の時間と読書家の時間)なわけです。別名を「カンファランス・アプローチ」と呼ばれることもあるぐらいです(このブログの左上に「カンファランス」を入力して検索すると、大量の情報が得られます!)。

 

★★5つ以外、他に考えられるでしょうか? 付け足せるのは(というか、これらを総合する形で)、教師の子どもの見取りと子ども理解です。見取りと子ども理解の方法として、おそらくカンファランスよりも優れた方法はないと思いますが、残念ながらまだ日本ではそれがほとんど知られていませんし、行われていません。見取りと子ども理解を踏まえた授業をしたい先生には、うってつけの方法です。カンファランスを通じて、教師は子どものことをよく知れるだけでなく、子どもも教師のことがよく知れます。それこそが、よりよく教えられるために最も大切な情報であり、関係のはずです。

 この見取りによって、何人かの子どもたちが共通のニーズや課題を抱えていることを把握した場合は、その人数に応じて(数人の子を対象にして行う)「ガイド書きやガイド読み」(これらについても、左上に入力して情報を得てください!)か、(クラス全体に対して行う)ミニ・レッスンの必要性も教師は判断できます。個別に同じことを情報提供し/教え続けるのは、効率的ではありませんから。