『理解するってどういうこと?』の最後の章で、エリンさんはこの本を書くきっかけをつくってくれた小学校2年生のジャミカに(最終章執筆の時点で彼女はすでに高校生でしたが)、この本を書き終える今なら「理解する」ことについて、あの時に時間を戻すことができればどう言えるのか、述べています。そして、最後は次の言葉で閉じられています。
「そしてジャミカ、理解しようとするあなたを支えることは、私たち大人があなたの果てしない知性を信じて、あなたが世界に対してしっかりと考えて手に入れたすばらしい発見を共有することなのです。ジャミカ、あなたが理解するのを手助けするために、私たちは問いかけるだけでなくて、しっかり聞くことを約束します。」(『理解するってどういうこと?』358ページ)
小学校2年生の「果てしない知性を信じ」ること、そして「世界に対してしっかりと考えて手に入れたすばらしい発見を共有する」ことが「理解しようとする」ジャミカを支えることだという、素敵な考えが示されています。そのために、ジャミカの(つまり子どもの)言うことを「しっかり聞くことを約束します」とまで言い切っています。
しかし、「しっかり聞くこと」は簡単なことではない、と私は常に思います。自分に既有の経験や価値観によって相手の発言や行動を「わかったつもり」になっていることの何と多いことか。自分の経験を振り返ってみるだけで、そういうことに思い至り、冷や汗を流してしまいます。「しっかり聞くこと」をせずに、こうしたほうがいいという自分の思い込みを相手に伝えていることも少なくありません。「しっかり聞くこと」は「理解する」ことの根っこにあたるとても大切なことです。
このことを深く探っているのが、白石正明さんの『ケアと編集』(岩波新書、2025年)です。医学書院の編集者として長らく勤めてきた白石さんがこの本のなかで自分の「編集の先生」と言っているのは、出版社の先輩等ではなく、北海道浦河町にある精神障害者の生活拠点「浦河べてるの家」のソーシャルワーカー、向谷地生良(むかいやち・いくよし)さんでした。このことが、この本の書名の由来になっています。
編集者の白石さんが、向谷地さんから何を学んで「編集の先生」と考えるようになったのでしょうか。たとえば、白石さんによれば向谷地さんは、「その人自身を変えないこととセットで、その人の背景を積極的に変える。〈図(=形)〉と〈地(=背景)〉の比喩でいえば、〈図〉は変えないけれど〈地〉を変える」(『ケアと編集』33ページ)のです。たとえば「しゃべることがよい」という価値観のもとでは「しゃべれない」ことは治療の対象になってしまうけれども、その人の「しゃべれない」状況はその人を取り巻く環境との関係によってたまたま生み出されたことであって、もしかするとその「しゃべれない」ことがその人の長所にもなりうることなのかもしれない。だからその人と環境・状況との「噛み合わせ」を変えれば「しゃべれない」事態は変わるかもしれません。それが「〈図〉は変えないけれど〈地〉を変える」ということなります。
白石さんは、これが「編集」にとって重要なことだと考えました。次のような言葉があります。
「出された問題に答えるのではなく、その問題を組み替えてしまうこと。あるいは、与えられた問題の外に出てしまうこと。(中略=引用者)「弱さ」とか「依存」といった克服されるべき問題-なにより当人がもっとも「克服すべき」と思っている問題-に別の光を与えること。
それは編集という仕事そのものだと思う。」(『ケアと編集』64ページ)
こうしてソーシャルワーカーの向谷地さんの言動が、編集者・白石さんの核になっていくそのプロセスが本書では述べられていきます。もちろん、本書には、向谷地さんのことだけでなく、白石さんが編集者として世に送り出した本の著者たちの言葉もふんだんに引かれていて、それらが白石さんの編集者としての信条に大きな影響を与えたことも語られていきます。
向谷地さんから学んだことは他にも述べられています。たとえば、次のように。
「信じるからこれができる、信じられないからこれができない、というように、先に、個人の内面に、「信」か「不信」があり、それに従ってなにがしかの行動が表出する、というのが普通の人間の思考回路だ。
しかし向谷地さんはそうではない。嘘でもいいから先に「信(仮)」のカードを出すことによって、わたしとあなたのあいだに「信」が、少しずつ、具体的に生成してくる。そんなモデルへの転換だ。「信じる/信じない」と、個人の内面の問題として言語的に説明するという暗黙の前提から離れて、現実的な対人関係の問題にズラしていると言ってもいい。
具体的な対人関係において、「先に」「ちょっと」信じる。この最初の一歩によってお互いのあいだに、信じるがやってくる。それが勘違いだったらあっさり引っ込めればいい。だけど最初のカードは「信(仮)」以外にない。こう考えれば、上目遣いに相手の「真意」を探ったり、相手の微妙な口ぶりから「隠された真の欲望」なんてものを推し量る必要もなくなる。」(『ケアと編集』84ページ)
自分の対人関係において相手の言動を理解する上でも納得のいく、いやそれ以上に大切なスタンスを教えてもらったような思いになります。こういうスタンスで相手と話すことができれば、たとえ当初は問題があったとしても、関係自体を変えていくことで、問題であったことが問題でなくなるということは、大いにあり得ることです。そのことによって、相手を理解し、受け入れることもできるようになると思います。
では本書のタイトルにもなっている「ケア」とは何でしょう。
「ケアは未来の安寧を考えるより現在の不快を減らし、現在の快を享受するシステムである。ケアとは、現在を未来の「手段」にしない、つまり社交や対話と同じようにケアは、現在を「目的」とする思想であり行為なのである―――とまずは考えてみたい。」(『ケアと編集』110ページ)
「ケアというのはもしかして、「やり方」ではなく、「場所」を問うことではないだろうか。やり方の前提になる場所を変えること。目に見える〈図〉ではなくその条件である〈地〉を変えること。選択肢を見るのではなく、その選択肢が成立するところの文脈を変えること。
前提を変える。条件を変える。文脈を変える。―――これは本書で探究している「編集」という行為そのものである。」(『ケアと編集』138ページ)
このようにして白石さんは、向谷地さんの振る舞いや言葉から「ケア」の本質を見抜き、それらが「編集」の在り方そのものだということを発見していきます。そしてこれは、エリンさんの言う「しっかりと聞く」というスタンスと共通しています。「理解すること」を支える考え方でもあります。
白石さんは本書の「あとがき」の担当編集者への謝辞を述べる箇所で「理解されるということは最大のケア」だと書いています。「ケア」と「編集」と「理解すること/されること」は共通する行為だと言うことができるのではないでしょうか。「しっかりと聞くこと」は、聞いてもらう(理解される)相手にとって、またとない「ケア」になるのです。