2025年1月24日金曜日

作家の時間とAI 〜10年後、教師という仕事は、社会に本当に必要とされているのだろうか?〜

 1月15日、お昼の温かい陽射しを浴びながら、駅から心地の良い緑道を通って横浜市立小学校の今村俊輔先生(イマシュンさん)の教室に向かいました。これからどんな学習が見られるのか、楽しみのあまり、寒さも気になりません。イマシュンさんの教室では、なんと作家の時間にチャット型のAIを活用して、カンファランスなどに利用しているらしいのです。

 明るくて笑顔の多い教室であることが、入ってすぐに分かりました。6年生が30人ほど。やはり、ほとんどすべての子が、タブレットでテキストを打ち込んでいます。多くの子がApple社製のPagesアプリで文章を作っているのが印象的でした。

 さて、子どもたちはAIをどう使っているのかな? あれ? 使っている子はどこかなあ?

ディストピアにはならない

 私はすぐにAIというと、依存的になったり、コピー&ペーストをして楽をしたりするイメージを持ってしまいます。私がこの前参加したAIで絵本を作るワークショップを引きずっていたからかもしれません。実際の教室は、そんな悪い面ばかりが強調された教室にはなっていませんでした。

(前回の私のAIで絵本を作るワークショップの記事はこちらから)

https://wwletter.blogspot.com/search/label/AI


 イマシュンさんの教室で使われていたのは、株式会社みんがくの「スクールAI」アプリです。

学習への活用に特化したAIということで、セキュリティーやプライバシーなど様々な工夫がされています。詳細はリンク先を参照してください。

https://school-ai.mingaku.net/


AIを使う子どもたち

 作家の時間の学習中、教室の中でAIを使っている子は、多く見積もって全体の1/3程度です。AIに依存している様子は全くありませんでした。使っている女の子の画面を覗かせてもらいました。

「学校が舞台の友情の物語が描きたいです」とAIにメッセージを送ると、AIは

「それはおもしろそうですね。友情の物語を書くためには、学校はとてもふさわしい舞台です。どのような主人公を考えていますか?」(この一連の描写は一言一句正確ではありません。)のような質問を返してきます。

「小学生の男の子です。」と答えると、

「おもしろそうな物語になりそうです。小学生の男の子は友情の物語にぴったりの登場人物です。この物語は起承転結で表すとどのような構成になりますか?」

このように、また質問をして書き手の思考をAIが進めていっています。

私は「AIはどういう時に使うの?」とこの女の子に質問したところ、「これでいいかなあと迷った時に使ったり、自分のアイデアを確認したりする時に使っています。気軽に使えるので、すぐに聞きたいときとかに便利です。社会とか理科とか、他の教科でも使っています」と答えてくれました。

 次に、少し不器用そうな男の子の画面をのぞいてみましょう。

「題材が決まらない」と入力すると

「まずは、作文のテーマを決めましょう。あなたが興味を持っていること、最近体験したこと、または 思い出深い出来事から題材を選んでみましょう。たとえば「家族との思い出」や「友達との楽しかった出来事」、もしくは「好きな季節の過ごし方」などが考えられます。どんなテーマに心が引かれましたか?」と丁寧な返答を返してきます。男の子は「ファンタジー」と返しました。すると、

「素敵なテーマ選びですね! ファンタジーの世界を創り出しましょう。まずは、物語の舞台になる独特な 世界を考えてみましょう。例えば、空に浮かぶ島がある世界、魔法が使える森、未来の科学が発展した都市など、どんな舞台がいいですか? 舞台を決めてください」と返しています。

 この男の子の問題はまだ解決できていないようです。けれど、一人で悶々と悩んで時間が終わるということはなく、なにか行動を起こそうとしている様子は伺えます。


 作家の時間において、主たる活動は「書くこと」になるので、みんな思い思いに自分の表現したいこと(今回はフィクション作品のユニット)を描こうと取り組んでいます。その中で、AIに質問をしたり、確認をしたりすることで、まさにアシスタントとして活用しているように思いました。チャット形式なので、質問に関して文字で返信をしてきます。画像や動画で返してくることはなく、文字でのやり取りになります。AIは、思った以上に文字で丁寧に説明してくれるので、読解力が必要だろうと思います。(設定で「小学6年生向き」や「小学3年生向き」のように、AIの返し方も学年によって変えてくれるようです。)その影響で、AIに病みつきになっている様子はまったくなく、子どもたちはAIを必要な時に必要なだけ活用しています。違った表現をすれば、ある意味で「少し距離をとった」「熱が冷めた」使い方をしているようにも見えます。テーマに迷っている子は、確かにAIとの対話に時間を使っている様子もありますが、描きたいものが定まっている子は、ほぼAIを使わずに書き進めているので、当たり前と言えば当たり前の作家の時間の風景がありました。




プロンプトで最適化されたAI

 放課後、イマシュンさんにお願いしてスクールAIをよく見させてもらいました。AIはプロンプトに基づいて動いています。プロンプトとは、AIをこちらの意図通りに動かす指示書のようなものです。作家の時間によく使うAIのプロンプトには「アドバイスをもとに私が考えたいので、具体的な修正例や追加例文、修正後の文章は出力しないでください」「150字以内で出力してください」のようにあらかじめ設計されています。もともとあるスクールAIの上に、イマシュンさんが作家の時間のカンファランスに合うようにプロンプトを組んでいます。

「AIが出力したものをそのまま使うような活用の仕方はさせたくないので。」私が危惧したAIの作品を勝手に盗用してしまうような使い方は、アプリの仕様の上でも、先生のプロンプトによる設計の上でも、できないようになっています。AIを目的に合わせて選択することもでき、たとえば、「ただひたすら討論したいとき用のAI」や、「日常の悩み事などの相談に乗ってくれるAI」など、たくさんの種類のAIが選べるようです。

 AIがひとまず答えてくれるので、子どもたちがよく直面する「検索してもリストアップされたページのどれが自分の求めている情報かわからない」という問題には、教師の支援が必要なくなるかもしれません。

 一方で、情報の重要性を判断し優先順位をつける思考や、情報の出所に当たり論拠を明らかにする思考などは、AIにお任せにしてしまうことによって軽んじられる可能性があります。そのような思考法は、小学校段階では必要がないとするのか、それとも、学齢に関わらず、段階的にそのような思考を培っていこうとするのか、議論が必要でしょう。


「AIはゲームチェンジャー」は本当か?

 イマシュンさんは「AIはゲームチェンジャー」という発言をされていました。僕もこの意見にほぼ同意しています。それは、「学習環境」という支援がAIの登場でかなり拡張する可能性が出てきたからです。私は『社会科ワークショップ』の中で、「学習環境はもう一人の教師」であることを書いています。(以下のリンクからダウンロードできます)

https://tommyidearoom.com/%e3%80%8e%e7%a4%be%e4%bc%9a%e7%a7%91%e3%83%af%e3%83%bc%e3%82%af%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%83%83%e3%83%97%e3%80%8f%ef%bc%99%e7%ab%a0%e3%83%bb%ef%bc%91%ef%bc%93%e7%ab%a0/


 一人ひとりが創造的な活動を行うワークショップの学び方の中で、孤立してしまう子どもも存在します。「どう書いたら良いか分からない」「何を書いて良いかわからない」「自信がない」「やる気が出ない」などです。カンファランスを行う先生は多いに越したことはないですが、35人の子どもたちを支援者が一人で見なければならない状況もあります。支援が必要な子に行き届くようにするためには、先生からの支援(直接、またはノートを介して)だけでなく、仲間同士の支援(ピア・カンファランス)も必要ですし、学習環境からの支援(掲示物、チェックシート、ワークシート、過去の作品群、作家の名文集など)も不可欠です。しかし、これまで学習環境からの支援は、子どものニーズを汲み取ることはありませんでした。AIはそれを可能にしています。子どもが何を描きたいかを明らかにしたり、励ましたり、問いかけたりもしています。もっと進めば、教師の貯めてきたたくさんの資料の中から、どれを参照したら良いかを図書館司書のようにレファレンスしてくれるAIが登場するかもしれません。

 プロンプトの組み方によっては、まだまだ可能性が広がります。「毎日1行でも書くことを求めてくるAI」とか「奇をてらったことばかり言うAI」とか、いろいろなキャラクターを作り出せるかもしれません。そういった意味で、AIは支援を大幅に拡張させることができます。「ゲームチェンジャー」という言葉も過言ではありません。


AIは人を育てるか

 学校という場で、作家の時間の作品が子どもの手を動かして作ったものであることを前提にすれば、その創作者の人間そのもの(体験、人柄、生い立ち、価値観、年齢、外見なども含めて)と結びついて存在するものなのではないかと、私は考えています。言い換えれば、作家の作品は、作品そのものを味わうものであるのと同時に、作品を通してその子どもを知る「窓」でもあり、さらに「その子そのもの」でもあるということです。子どもたちの作る作家の作品は単独では存在せず、その子の優しさや、弱さ、怒りやユーモア、がんばったことや諦めたことなどと結びついて生まれてきて、初めて価値のある作品として完成するのではないでしょうか。AIを活用することで、「子どもそのもの」の輪郭がぼやけて、デフォルメしてしまうということはないのでしょうか? 

 良い作品を作るために作家の時間があるよりも、良い書き手として認め、よい書き手へと育てるために作家の時間があります。AIが、その子が成熟した書き手として一歩を踏めるように導いてくれるのかどうか、それとも、文章の文字ヅラだけに着目して(AIはそれしかできないことは仕方のないことです)、その子の存在を認めず、その子の豊かな生き方に寄与しないのであれば、勇気をもってAIを断る決断も必要なのかもしれません。AIが、その子の「いまここにいること」を認めることができるのか、まだ私は答えをもっていません。私たちは、AIと人間がどのような関係を結んでいくのかを、よく注意を払って見ていく必要があります。


では、私たちは「子どもそのもの」を育む学校をつくれているのか?

 AIに良い書き手を育てることを求めるのであれば、それは自ずと私たち教師に跳ね返ってきます。私たちは、子どもの存在を認め、そこからもう一歩踏み出せる勇気を芽吹かせるような支援を行えているのかどうか、ということです。子どもたちが、自分の良さや悪さ、人間性を表現できるような機会を作れているのかどうかということです。文字ヅラだけで作品を評価する学校になっていないでしょうか?稚拙な文章の中に、その子らしさを見つけることができているでしょうか? 教師の代わりにそれをAIがやれるようになったら、私たちはついに廃業するべき時なのだと思います。

 AIの登場によって、より一層、学習とは何か、学校とは何かを、考え直す局面が近づいたように思います。


子どもを助けるAI

 一つ希望のある話を聞きました。コミュニケーションに課題のある子どもが、AIとのやり取りを通じて、作家の時間以外でも前向きになったというエピソードです。私たちは、表情や仕草、声の抑揚、場面や時間などに含まれる意味(それが真意に沿っているか反しているかはともかく)、つまり、非言語コミュニケーションの情報をどうしても受け取って、それを大切な情報だとして処理してしまいます。私が受け持っている特別支援学級の中には、そういう非言語の情報を受け取ることが非常に苦手で、失敗経験をもつ子どももいます。そのような子どもが、言語だけに限定したAIとのコミュニケーションの中で、AIが彼自身の言葉を聞き、彼自身の声に言葉で返してくれることで、彼が自分自身の存在を確かめることのできる可能性を、もしかしたらAIはもっているのかもしれません。AIとのやり取りを「壁打ち」と表現することもありますが、自分の投げたボールをAIが返してくれることで、自分のボールを確かめることができます。殻に籠ってしまった子どもは、それすらもできず、ボールを抱えたまま苦しさの中にいることもあるでしょう。AIが学校の中で子どもを助けることは、少なからず確かにあるように思います。



2025年1月18日土曜日

作者と読者の頭のなかで繰り広げられる対話

  ジョージ・ソーンダーズ著(秋草俊一郎・柳田麻里訳)『ソーンダーズ先生の小説教室』(フィルムアート社、2024年)という本を読みました。アメリカのシラキュース大学創作科の大学院で、作家志望の学生たちと一緒に、チェーホフ「荷馬車で」「かわいいひと」「すぐり」やツルゲーネフ「のど自慢」、ゴーゴリ「鼻」、トルストイ「主人と下男」「壺のアリョーシャ」といったロシアの短編小説を読み解きながら行われるワークショップにもとづいた本です。小説の読み方の解説なのかと思って読み始めたのですが、「はじめに」の終わりのところに次のようなことが書かれていました。

 「読むことの研究とは、頭の働きの研究である。ある主張が真実か、どうやって判断するのか。住む時代も場所もちがう他人の(つまり作者の)頭との関係においてどう振る舞うのか。ここでやろうとすることは、本質的には、自分たちが本を読んでいるところの観察である(いまこうして本を読んでいるとき、どう感じるのかを再構成しようという)。なぜそんなことをしたいのだろう? そう、小説を読むときに働く頭の部分は、世界を読むときに働く部分でもある。」(『ソーンダーズ先生の小説教室』15ページ)

  明らかに理解の仕方についての本でした。小説家でもあるソーンダーズさん自身がロシアの小説を読む時の「頭の働き」が詳しく語られています(七つの小説を読む自分の頭のなかを詳述するのですから、500ページを超える大冊ではありますが)。書き手でもある著者の読み手としての頭のなかを読むことができるというところこそこの本の大きな魅力です。ですからこの本のなかほどには、「小説は、対等な者どうしの率直で緊密な対話だ。私たちが読むのをやめられないのは、書き手からのリスペクトを感じるからだ」(166ページ)とも書かれ、「小説は二者(引用者注:作者と読者)の頭のなかでくり広げられる対話だという考え方は、ひとりの人間がもうひとりに物語を聞かせるという行為から自然に生まれた。この考え方は、私たちが読むロシアの作品にもあてはまり、きっと原始人が焚火の周りに集まり世界のお話会をやったときにもあてはまる」「読者は人生に興味をもっていて、私たちの作品を手にとることで、私たち作者をひとまず信用してくれている。/私たちは、読者を口説くだけだ。/読者を口説くには、読者を大切に思えばいい」(167ページ)とも書かれています。作者と対話するように読む、とか、読者と対話するように書く、とか言われるそのことの実践の書でもあります。

 その魅力的なワークショップはどのように進められるのか。

 一例を挙げます。アントン・チェーホフの「荷馬車で」という短編小説を扱った最初の章には、小説を一度に1ページずつ提示しながら「その頁を読んで自分になにが起きただろうか? その頁を読むことで、それまでは知らなかったなにを知っただろうか? 小説に対する理解がどう変わっただろうか? 次になにが起こると思うだるおか? 読みつづけようと思うのなら、どうして?」と問いかけながら、「荷馬車で」という小説を読み進める誌上ワークショップが展開されています(「荷馬車で」という小説がどのように分けられているかということは本書を手にして確かめてください)。

 冒頭の1ページを提示した後に、ソーンダーズさんは次のようなことを読者に求めます。

 1 頁から目を離して、これまでにわかったことを要約してください。一文か二文でやってみてください。

2 関心を惹かれるものはなんですか?

3 小説はどこに向かっていると思いますか?」(『ソーンダーズ先生の小説教室』22ページ)

 国語教科書を使った授業でも同じようなことはできそうです。『ソーンダーズ先生の小説教室』では、「荷馬車で」の最初の4ページほど、ずっとこの調子で読み進めることになります。もちろん、ソーンダーズさん自身がこうした問いかけに答えながら、この小説の世界を解説していくので、そこもまた魅力的です。

 ただずっとこの調子では、読者が「いらいらして」投げ出してしまいかねないので、この後は2ページずつに読む分量が増えます。登場人物が出揃って、読み進めるにつれて読者の頭のなかには雪だるま式に情報が増え、「荷馬車で」の世界がつくられていくわけです。いくつものあらたな疑問も生まれます。

 そのまま終わりまでこの調子で進めるのかと思っていると、「ここで、たったいま読んだ節の終わりで、小説を終わらせてみたらどうだろう」(69ページ)という提案がありますが、それでは「いや、まだ小説じゃない」と感じるだろうと言って、その理由を考え話し合うことがそこで求められます。創作科のワークショップですから、文章を「小説」にする結末のあり方を考えてから、「荷馬車で」の最後の部分を読むことにしているわけです。

 『理解するってどういうこと?』の第5章に次の一節があります。

 「私がブッククラブに出かけて、読み終わったばかりの小説の最後の章をそれぞれ書き出してみましょう、などと提案するでしょうか? 私がブッククラブでそんな非常識なことを提案しようと考えたことはけっしてありません。しかし、今言ったことは、私の知るところ、理解を「教える」ための教材のなかでたくさん行われている「活動」の一例にすぎないのです。私が、「最後の章のあらすじを書き出してみましょう」などと提案することはけっしてありませんが、「その作者なら考えたかもしれない別のいくつかの終わり方をみんなで論じましょう」という提案ならするかもしれません。その小説の終わり方について、その作者ならこう考えたかもしれない、いや、そう考えるはずがないということを、1時間ばかり話し合う素敵な時間をみんなで過ごすことができるからです」(『理解するってどういうこと?』183ページ)

  エリンさんの提案は読後に「小説の終わり方」について語り合うというものですが、ソーンダーズさんのやっているのは、結末を伏せて、その手前で「小説の終わり方」を論じ合うというものです。その違いはありますが、いずれも読者の頭のなかを活性化させ、頭のなかで作者と対話しながら「素敵な時間」を過ごすアイディアです。

 最後に、小説を読んだ後「しばらくのあいだ」読んだ自分がどのように変わるのかということについてのソーンダーズさんの言葉を引きます。

「自分の考えが唯一の考えじゃないんだと気がつかされる。

 他人の人生を想像したり、それを認めたりする能力にだんだん自信がついてくる。

 自分が他人と地続きだという感覚が芽生える――他人にあるものは自分にもあり、その逆もしかり」(『ソーンダーズ先生の小説教室』580ページ)

 頭のなかで作者や登場人物と対話するからこそ変わるのだと思います。そういうことが「しばらくのあいだ」(ソーンダーズさんは「ずっと」とは言っていません)起こるものなのか、次に小説を読んだ後に確かめてみてください。

 

2025年1月11日土曜日

「共有の時間」から「リフレクション」の時間へ (その1)〜子どもにバトンを渡し、リヴィジョン(推敲、書き直し、考え直し)に繋がる時間へ

 もし、ワークショップの最後に行われることが多い「共有の時間」に、「他の子どもに教える」ことが、選択肢の一つであれば、共有の時間のイメージは変わってくるでしょうか。年末年始に再読していた、読み書きを統合するワークショップの本『The Literacy Studio』(★1)では、「共有の時間」の代わりに、「リフレクション」(Reflection)という時間を設定しています。「リフレクション」(Reflection)という題の章を読んでいて、とても印象に残った点が二つあります。

 印象に残った一点目は、子どもが他の子どもを教えたり等、この時間を、できるだけ「子ども中心の、子どもが主体的に動ける時間」(176ページ)にしていることです。

 子どもが他の子どもを教える(190-194ページ)ことについては、次のように記されています(私のざっと訳ですみません)。

 もし、子どもが共有したいなら、教師は、しばしば、ただ共有するのではなく、クラスメイトに教えてみるように促しています。これは小さなことかもしれませんが、重要なことです。多くの場合、教師はカンファランスで、その子が教えられるタイミングに気付きます(191ページ)

 また、「もし」他の子どもに教えることが、教室の中で「よくあること・予測できる活動」であれば、教える側の子どもは、短時間で効率よく伝えるにはどうしたらよいかを考えることになるので、自分で咀嚼する時間がさらに増え、咀嚼した分、栄養になりそうです。そして、教える内容が、他の多くの子どもにとって有益であれば、教える子どもと教えられる子どもの双方にとってプラスです。 

 また、教師がリフレクションの時間に、子どもたち全員を集めて対話を始める時にも、教師が途中で一歩下がり、対話をリードすることを、子どもたちにバトンタッチしている事例も紹介されています(185-190ページ)。「子どもが学びをリードできる」と教師が気づいて手を離す、その結果、子どもたちが新たな見方や知識をつくり出しています。

 印象に残った二点目は、リヴィジョン(推敲、書き直し、考え直し)とリフレクションが協働する(★2)(195ページ)という考え方です。

→ リヴィジョン (revision) という用語ですが、以前ライティング関連の本の中で、リヴィジョン(revision)という単語について、「re」が「再び」という意味の接頭辞であることから、「re-vision (再びヴィジョン)と捉えてみる」みたいな記述を読んだことがあります。こじつけかもしれませんが、確かに、「再び」という意味の接頭辞を意識して、re-visionと考えると、書くことにおいても読むことにおいても、これまで書いてきたもの、あるいは読んできたものについて、それらを「見直す、自分の考えを改める」というイメージが、私にはとてもしやすいです。

 大人であっても、自分の書いたものを読んでくれる、信頼する人がいれば、その人のコメントをドキドキしながら待ち、ブッククラブが予定されていれば、自分が話したい箇所に印をつけて、それに対しての他のメンバーのコメントを楽しみに待つなど、共有とリヴィジョンが、大人の読み書きにおいても、協働していることがよくわかります(194-195ページ)。

 「リフレクションとリヴィジョンは協働する」つまり、リフレクションの時間は、共有すること自体にある喜びや共有する相手への信頼を土台にしつつ、「ただ共有するだけ」ではなく、それをリヴィジョンに繋がる時間にしていく、この方向性に魅力を感じます。

 続きは(その2)で考えていきたいと思います。

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 なお、 読み書きを統合することに関わり、上記の『The Literacy Studio』については、2024年5月12日の投稿「読み書きを統合するワークショップ」で紹介しています。ライティング・ワークショップとリーディング・ワークショップを別々に実施するのではなく、それを統合して行いますから、読み書きに共通することを教えた後、読んだり書いたりする時間では、子どもたちは、読むことに取り組むのか、書くことに取り組むのかを、それぞれに選択します。

→ とはいえ、子どもたちは、読むこと、書くことに、トータルでだいたい同じ程度の時間を使うことになっています。例えば水曜日は読むことに取り組めば、木曜日は書くことに取り組んだりです。あるいは、教師が、「今日は、みんな読むことから始めよう」と設定することもあります(115ページ)。しかしながら、読み書きのワークショップを統合することで、子どもが取り組むことの選択肢は確実に広がります。また、読み書きを統合して一つのレッスンで教えるので、読み書き別々に教えるよりも、教える時間が短くなり、実際に読んだり書いたりする時間が増えます(8-9ページ)。

 また、1)「ミニ・レッスン」 → 2)「ひたすら読む時間・ひたすら書く時間」 → 3)「共有の時間」という、ライティング/リーディング・ワークショップの用語も、それぞれ 1) crafting session、 2) composing time, 3) reflection と違う用語になっていて、その違いも説明されています(42-47ページ)。

 → 上記とは異なる本として、2021年9月11日の投稿では「読み書きを統合する時間を設定する」というタイトルで投稿した際、『The Literacy Workshop』という本についても紹介しました。この本では、読み書きを統合したミニ・レッスンは、デモンストレーション・レッスンと呼ばれています。絵本を使う例が多く、レッスン例も絵本も「たっぷり」ある本です。

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★1 Ellin Oliver Keene著 The Literacy Studio: Redesigning the Workshop for Readers and Writers. Heinemannより2022年に出版。

★2 原文は Revision and Reflection work hand in hand. (195ページ)です。


2025年1月3日金曜日

子どもの読み手/書き手としてのアイデンティティーを大切にした国語の授業を!

  一人ひとりの生徒には、読み手としてのアイデンティティーがあるというのが、リーディング・ワークショップ=読書家の時間での生徒の捉え方です。(それに対して、読解に特化した国語の時間の生徒の捉え方は、何でしょうか? できる生徒とできない生徒? 授業に熱心に取り組む生徒とそうでない生徒?)

 リーディング・ワークショップを実践している教師は、生徒たちのことを読書家として接します。ミニ・レッスンが終わって「ひたすら読む時間」に入る際に、「さあ皆さん、読み始めます」とは言わず、「さあ読書家の皆さん、読み始めましょう」と言います。それは、個別カンファランスをする時も同じです。一人ひとりの生徒を読み手としてのユニークなアイデンティティーをもった読者家として接します。最初の質問は、「読み手として、今日は何をしていますか(何をしようとしていますか?)」などであることが多いです。従って、カンファランスの内容は一人ひとりに対して固有なものになります。(共通項が多い場合は、個別カンファランスをしていては時間の無駄になりますから、グループ・カンファランスをしたり、さらに多い場合はミニ・レッスンでクラス全員を対象にするという選択を取ります。)

 書く指導に特化したライティング・ワークショップ=作家の時間も同じです。一人ひとりの生徒を作家として接し、「さあ作家の皆さん、そろそろ作家の椅子の時間です」と呼びかけます。(同じように、社会科では市民や歴史家として、理科では科学者として、算数・数学では数学者として接します。)

 この名称は、馬鹿にできません。接し方が「生徒」として接する場合とは、大きく違ったものになります。生徒を一人ひとりの人間(しかも、読み手や書き手として)尊重する割合が飛躍的に増えます。教師の使う言葉が違ったものになります!

このような接し方(作家の時間や読書家の時間の授業を1~2年続けると、次のようなことを小学校高学年の子どもが言えるようになります(『言葉を選ぶ、授業が変わる!』の63ページ)。

ユーモアのあるのは、ジェシーが得意。彼はファンタジーをたくさん書くんだ。ロンは、本当によい書き手だよ‥‥彼は書くよりも描く方がもっとうまいよ‥‥エミリーはミステリー作品を自分で書くんだけど、細かいところまで書くのが上手だよ。彼女は登場人物たちを上手に描写していたんだ。山場がきちんとあって、読者が解かなければならない謎があったので、本当によいミステリーだったよ。

 このスティーヴンの発言を読んで、あなたはどのような子どもたちを思い浮かべますか? どのような授業が浮かびますか?

 『言葉を選ぶ、授業が変わる!』の著者は、これに次のような解説を付けています(同上、63~64ページ)。

スティーヴンは自分自身やクラスメイトのことを作家と見ています。そのためプロの作家について話すときと同じような言い方になっています。

このとき教師は、スティーヴンが「作家がしていること」を深く理解し、「一人の作家として」アイデンティティーが強化され、それを磨き続けることができるようにと、意識してこの話し合いを行っています。

スティーヴンはクラスメイトについても「多様な作家の集まり」と見ていました。また、実際そのように振る舞っていたため、このときに、スティーヴン以外の仲間も「有能で多様な作家」というアイデンティティーが強化されていきました。

 そのために、教師は子どもが主体的に考え、行動する★問いかけをし続けます。具体的には、すでに紹介した「読み手として、今日は何をしていますか(何をしようとしていますか?)」や「作家として、あなたは今日何をするのですか?」があります。後者の質問の場合、いくつかの特徴があります(同上、72ページ)。

第一に、教師のために課題を行うというのではなく、子どもには作家が行うような視点から書くための枠組みが与えられています。また、そのような視点からの会話がうながされているのです。

第二に、(a)その子どもは「作家」であり、(b)「作家とは何かを作り出す人」という前提が提示されています。したがって、この役割にそって作家としての行動をとらないでいるのは難しくなります。これは議論するまでもありません。つまり、その子どもは、「(作家として)いま執筆している物語の書き出しを考えているんだ」といったようなことを言わなければならないのです。

 似たような質問を、『言葉を選ぶ、授業が変わる!』の著者は紹介(と、それぞれの解説も)してくれています(同上、73~74ページ)。

・「読者として、最近学んだことは何ですか?」

・「作家として、次は何を学びたいのですか?」

・「それをどうやって学ぶつもりですか?」

 日本の授業で、このような問いかけが教師から生徒にされることはあるでしょうか? 上で紹介した言葉や問いかけはまさに、「自立した学び手(読み手や書き手)」として接しているし、サポートし続けている表れではないでしょうか? 主体性(エイジェンシー)が生徒の側にあり、教師はそれを支援する役割を担っていることが明確です。『言葉を選ぶ、授業が変わる!』の本の中では、第4章「主体性、そして選択すること」、第5章「柔軟性と、活用すること」と続きます。

 

★授業や単元や学期や学年が終わったり、学校を卒業しても、自立した読み手や書き手として、本を読んだり、文章を書いたり、いろいろなことを主体的に考えて行動できる人(問題解決者)になることをイメージして日々の授業(カンファランス)をし続けます。

 『言葉を選ぶ、授業が変わる!』は、教師の発する言葉(特に、問いかけ)に焦点を当てた本です。あなたの授業を変えるきっかけになりますので、ぜひご一読を!