2020年6月27日土曜日

できなくなったことから生まれる再発見、代替案、新たに考えたこと

 感染拡大防止のための様々な策により、教室で今まで行っていたのにできなくなったことがいろいろあります。試行錯誤のなかで、代替方法を見つけたり、再発見があったりもします。今日はいくつかの教室から、再発見、代替案、新たに考えたことの点描です。
▶︎ 横浜の小学校で教える冨田先生は、昨年度は6年生の担任で、3月は登校日はほぼ無し。「読書が習慣として身についている子にとっては コロナでも本を読み続けることができていたでしょうね」と振り返ります。そして、今年は特別支援学級の担任です。

 読書習慣が身についていないまま、新学期を迎えた子どもたちのことも考え、まずは「ストーリーの魅力」の体感を意識している冨田先生は、「紙芝居の魅力を再発見」中です。以下のように教室の様子を教えてくれました。

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 読み聞かせや紙芝居を多く行っています。テレビよりも食い入るように楽しむ子どもたちに、僕も自信をつけています(笑)。

 今は紙芝居の力強さを感じていますね。
 文脈の理解が乏しい子どもたちだと、テレビも派手な演出がないと楽しむことができないようです。
 ところが、紙芝居は派手な演出がないにもかかわらず、子どもは食い入るようにみつめています。
 紙芝居の木枠シアターを用意すると劇場のようになります。そして、子どもたちの理解の様子を確認しながら読むスピード、声色、声の大きさをコントロールすることができます。場面が切り替わるときに紙芝居をめくり、木枠に当たってコツンという音がなります。そういうアナログな感じもいいのかもしれません。
 「さるかに合戦」は最高に良かったですね。

 以下のURLの「おとうさん」という紙芝居も秀逸で、父の日が開けた本日(6月22日)読みました。
 おとうさんに化けた魔物が子どもをさらい、本物のおとうさんが助けるために頑張るというお話で、これも絵といいストーリーといい、子どもたちを惹きつけるものです。
 読み聞かせよりも、シアターなので、考え聞かせやアドリブなどの語りも入れやすいと思います。
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*「さるかに合戦」「おとうさん」は、要チェックですね!

▶︎ 相模原市の小学校で4年生を教える都丸先生は、従来とは異なる制限として、「子どもたちを1箇所に集めて読み聞かせができない」「学校図書館の本の貸出を当面の間延期している」「ブッククラブができない」ことを挙げています。そこで以下のように工夫されています。

→ 読み聞かせについては、書画カメラを使い、教室のテレビとつないで読み聞かせ・考え聞かせをすることで、子どもたちは自分の座席で聞きます。

 ちなみに先週までに読み聞かせをしたのは、以下の本とのことです。

『あらしのよるに』
『メチャクサ』
『車のいろは空のいろ』
『No, David!』
『セクター7』
『ふたりはいつも』
『てん』
『みんな、何を食べている? 世界の食事おもしろ図鑑 食べて、歩いて、見た食文化』
『ももこのいきもの図鑑』
『びりっかすの神さま』

→ 図書館の本は、貸出はできないものの、使うことはできるそうです。教室の図書コーナーには中学年向きの本が不十分なので、図書館は使いたい。そこで、各クラスの割当は週1回だそうですが、使わないクラスがあれば、そこにも入らせてもらって、選書のミニ・レッスンを行い、貸出ができる日に備えます。

 ちなみにこの投稿をお願いした日の読み聞かせは、アンソニー・ブラウンの『こしぬけウィリー』とのこと。

 この本と『てん』を読むときは、いつも主人公の最後の言葉をみんなで予想するのですが、子どもたちはよく考えて見事に当てる、とのこと。「ウィリーが登場する別の作品もあるよ」と紹介すると、図書室で『ボールの魔術師ウィリー』を探し出して嬉しそうに読んでいる子がいたそうです。こうやって「1箇所に集まらない読み聞かせ」と「貸出のできない図書館」もしっかり活用中です。

→ ブッククラブができないものの、『びりっかすの神さま』を全員で読んだそうです。1章を担任が考え聞かせ。表紙の絵や、読み進める上で鍵となる問いについてみんなで考えました。2章以降は自分のペースで読んでいます。クラスの数人にとっては難しすぎる本になってしまうので、背景や場面等の補足説明を個別に行うというサポートで、対応します。

* その他、この3週間で行ったことや、授業づくりへのヒントとして、以下を教えてくれました。

・朝の会での1分間プレゼンで、その日の日直の児童が、自分のおすすめのものを紹介する時間をとっています。紹介するものは「本」「ゲーム」「アニメ」「マンガ」「文房具」「場所」「人」「ドラマ」「ニュース」など、みんなに紹介したいものであれば何でもOKにしています。先週は3日続けて本の紹介がありました。少しずつ本を読む文化が広がりつつあります。

・4年生の教科書に出てくる『白いぼうし』(車のいろは空のいろシリーズ)は、タクシー運転手の松井さんの周囲で不思議なことが起こる連作短編です。「質問を考える」ミニレッスンに向いています。また、色彩表現が豊かなので「イメージを思い描く」ミニレッスンにも向いています。おもしろい比喩表現も出てくるので、「書くこと」の授業にも使えます。教科書の作品だけを読んで終わりにするには、もったいない作品です。

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▶︎ 春学期がすべてオンライン授業になった大学で教える長崎先生は、フィードバックについて考え中で、以下のように、2つのクラスの対照的な様子、そして、そこから新たに考えたことを教えてくれました。

 まず、2つのクラスのうち一つのクラスは、課題を与え、教師は進捗状況を確認し、フィードバックをし、評価をするというものです。

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 僕自身もそうなのですが、フィードバックをするという点では、非常に大きな労力になるということです。とても、追いつかない。個人的には、次の3点がブロックする要因であるように思えます。

1 顔が見えない相手であること
2    フィードバックするための素材不足
3   フィードバックの効果が見えない

 費用(労力)対効果で考えると、フィードバックなど考えず、ひたすら、課題に取り組ませて、答え合わせをするだけの方が良いのではないかと思えてしまうほどです。この辺りに、一斉授業とそうでないものの、本質的な問題が隠れているような気がします。
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 さて、もう一つのクラスです。このクラスはブッククラブを活用しているスピーチ・コミュニケーションのクラスです。ここでは、Zoomを使っています。参加者を小グループに分けられる、Zoom の Breakout roomという機能も活用中で、これでピア・カンファランスを行っているそうです。

 また、教室での対面授業では、付箋紙にコメントを書いて渡す形だったのは、Zoomのチャット機能を使っています。1分半で他のメンバーがフィードバックを送り、リアルタイムに他の人の意見も読め、なんとその記録もテキストとして残る、ということです。

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 学生MCによる運営。しかも、他者に配慮し、リスペクトした運営を心がけている。授業の大半は、何らかの活動をやっている。準備してきたスピーチを行う人、オーディエンスの人もそのあとで論評やピア・カンファランスがあるので、詳しく、分析的に聞くことになる。ピア・カンファランスでも、お互いの意見が尊重される。ピア・カンファランスのリーダーを務めた「評価者」は最後のセッションで、メンバーを代表して、分析を述べる。


90分間、ほぼ僕の出る幕はない。

僕がやっていることは、このくらい。
1  その日のやることリストをつくること
2  最後に全体的な講評をすること
3  個人の振り返りメールに返信して、フィードバックを返すこと
4  ブッククラブへの反応
5  時間の管理係

オンサイトとオンラインの違いで感じることは、
1. ピア・カンファランスが充実しているように感じること。教室では、なんだか井戸端会議みたいになった気がしていたのだが、しっかりとスピーカーに焦点を当てた議論ができやすいように感じる。画面なので、他の情報に邪魔されないのかもしれない。
2. ブッククラブと実践のつながりが見えやすく感じること。ブッククラブで読んだことを実践し、評価し、振り返る、こういったサイクルが目に見える。話しっぱなしではなく、文字で送り合うからかもしれない。オンサイトとメーリングリストなどの組み合わせが良いのかもしれない。

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 私自身も、制限のある現在の環境で、新たなことを学びつつ、今、学んでいることから、感染防止のための制限がなくなっても、使いたいことが見え始めてきています。引き続き考えて、また投稿します!

2020年6月20日土曜日

「自分に必要なかけら」を見つけ出し、結び合わせる




  『理解するってどういうこと?』の第9章でエリンさんは次のように言っています。

「私は知識を得るために読みます。あるいは、さまざまな登場人物を通して、自分の感情を経験するために読みます。いずれの場合であっても、読むことや学ぶことが、ずっと残り続ける何かに導いてくれるということを知っています。それは自分自身について発見することだったり、読んでいなければ消え去ってしまったであろう細部が記憶にとどまる、ということです。感情と記憶は切り離せないのです。」(339ページ)

そうは言っても、面白く読んだ小説だったはずなのに、その内容をいざ誰かに話そうとしてもうまく思い出せないという経験をしたことがある人は少なくないと思います。メルヴィルの『白鯨』という小説は岩波文庫で3冊ほどあります。私は10年ほど前に読んだのですが、細かいところはかなり忘れてしまっています。ところが、大半は忘れてしまっているのに、『白鯨』の後半で、マッコウクジラの頭部の樹脂を採取するため開かれた頭蓋にマストの上から乗組員の一人が落下してしまう場面など、手に汗握る思いで情景を思い浮かべたので記憶に残っています。ハラハラしたので感情との関連づけができて記憶しているのだと思いますが、それにしてもむしろ記憶に残っている場面があることが不思議でもあす。

作家で書評家の印南敦史さんの『読んでも読んでも忘れてしまう人のための読書術』(星海社新書、2018年)に『海賊のジレンマ―ユースカルチャーがいかにして新しい資本主義をつくったか』(マット・メイソン著、玉川千絵子他訳、フィルムアート社、2012年)★を地下鉄丸ノ内線の車内で読んで「異常なくらい興奮した経験」をした時のことが書かれています。この「経験」を経た後、彼は地下鉄丸ノ内線に乗ると、いまでも6年ほど前にこの本のことをよく思い出すと書いています。そして次のように言います。

「そのように、「読書していたときの記憶」と「読書していたときの光景」、そして「そのとき読んでいた箇所」、この三者は強く連動するものなのです。それはつまり、記憶に刻み込まれたということです。自分自身が体験していることだからこそ、それはとても大切名ことだと僕は強く訴えかけることができます。」(90ページ)

 「記憶」と「光景」と「読んでいた箇所」が「強く連動」したということが、印南さんにとって『海賊のジレンマ』を忘れ得ぬ本としたのです。印南さんはさらに続けます。

「大切なのは、その本を読んだことによって「自分の内部になにか残ったのか」ということ。結果として残ったそれは記憶のひだに刻まれ、自分自身の新たな価値観を形成することになったり、読書に対する意欲を刺激してくれたりするわけです。」(94ページ)

 その「自分の内部」に「残った」なにかのことを印南さんは「1%のかけら」と呼んで、それを見つけ出すことが、その本の内容を記憶に刻みつけることだと言っています。

「しかも多くの場合、自分に必要なかけらは、そのときの自分が必要としていることがらを記憶に残すことに大きく役立ってくれます。そのかけらが「かけら化」するのは、その言葉なりフレーズなりが、自分自身のなかでなんらかの価値、あるいはインパクトを持っているからです。そのため、そこで見つかったかけらは勝手に記憶に残る(「貼りつく」と表現したほうが適切かも)ことになるということ。だとすれば、それは記憶に深く刻まれ、忘れにくいものとなって当然なのです。」(96ページ)

上に書いた『白鯨』のある場面を読んでいた時の山陽本線瀬野駅から八本松駅に至る山の中の長い区間の窓外の光景を私は覚えています。太平洋が舞台の小説のはずなのに、その場面の記憶は、私にとって山陽本線でもっとも標高が高いと言われる山間の光景と切り離せないのです。私の『白鯨』を読む経験の「かけら化」はそのようにして起こりました。「1%」もないかもしれない「かけら」のおかげで、『白鯨』という小説は私の記憶に刻まれることになったのです。対象の内部に「自分に必要なかけら」を見つけ出すこと。これはおそらく本や文章に限りません。きっと、人でもモノでも本でも映画でも「自分に必要なかけら」をいくつか見つけだし、それらを結び合わせてみることが、対象を「理解する」ことになるのです。



★『海賊のジレンマ』はオープンソースや3Dプリンター、ヒップホップなどの「情報を共有もしくは盗むことによって成り立つ“海賊的”な価値観と手法について綴った著作」です。たとえば、楽曲などの情報を共有したり盗んだりするというかたちの「デジタル形式での販売」は、伝統的なレコードやCDの販売を中心とした伝統的な業界にとってそれと「競い合う」ことができなければ消えるほかはない「海賊のジレンマ」を生むということが書いてあって、私自身も読んでいて興奮を覚えました。現在の文化状況を鋭く描いているところにです。

2020年6月12日金曜日

教科書のそとへ踏み出してみる 〜ある読書体験〜

 2020年5月23日に「ライティング・ワークショップと教師の変容」を投稿していただいた吉沢先生に、今回の投稿もお願いいたしました。以下、吉沢先生より、今回はリーディングについてです。

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 私は、長いこと中学校や高等学校で英語を教えてきました。新年度になるたび、新しい教科書が「私をきちんと扱わないとダメですよ。」と私にささやきかけてきます。しかし、どうも魅力を感じられない。今回は、そんな教科書にまつわる体験談です。


ある高校3年生用の英語の教科書に、ムハマド・ユヌス氏の創設したグラミン銀行を扱った章がありました。ムハマド・ユヌスは、「マイクロ・クレジット」という少額ローンのシステムを創始し、2006年にノーベル平和賞を受賞した経済学者です。

本文の内容のあらましは以下の通りです。(もとは英文ですが、ここでは日本語で紹介します。★★)

セクション1
1972年、ユヌスがバングラディシュの大学の経済学部長になるところから始まります。故国の貧困の現実を目の当たりにしたユヌスは村人たちの中に入っていきます。
「私は、村の非常に貧しい人々と話すことに決めた。なぜ人々は生活を変えることができないのか? 私は人々に会って話し、質問をし続けた、経済学者としてではなく、教師としてでも研究者としてでもなく、ただ一人の人として、隣人として。」

セクション2
ユヌスは、村で竹の腰かけを作る女性に出会います。彼女は、竹を買うお金がないため商人からお金を借ります。商人は安い値段で竹の腰かけを買い上げ、貸したお金を差し引きます。彼女の手元に残るのは1日にわずか2セント。
ユヌスは村の実態を調べました。商人に借金をしていて、稼げるはずのお金を受け取っていない人がいないかどうか。そして、42人がそのような境遇にあり、必要とするお金が総額で30ドルであることを知ります。
「私は恥ずかしい感じがした。ここに、30ドルで42人の人々が最低生活賃金を得るのを可能にする現実の生活実態があった。それなのに、私達の社会は個人と中小企業にその種の少額ローンを提供することができなかった。」
ユヌスは銀行家に会いに行きます。銀行家は笑って言いました。「私達は貧しい人々にはお金は貸せません。金を借りるには担保を持たなければならないからです。」

セクション3
銀行家と話をしても埒があかないと知ったユヌスは、自分の名義でいくらかのローンを組み、借りたお金を村の人々に貸すことにします。村の人々が返してきたお金で、ユヌスは銀行に返済するわけです。結果はどうなったか。
「人々は私が彼らに作った貸付金を返し、それで、私はより多くのお金を借りることができて、貧しい村人により多くの貸付金を作ることができた。システムはますますより大きくなった。」
ユヌスは銀行家に言います。「うまくいっているんです。あなたはおっしゃいましたよね、彼らは返済しないと。でも、どうです。彼らは返済していますよ。」
ユヌスはこの実験的な試みを広げていき、最終的には政府の認可を取り付けグラミン銀行を設立します。そして、このマイクロクレジットの手法は全世界に広がっている、ということで本文は締めくくられます。

わたしの疑問
 素朴な疑問が湧きました。「どうして村人はユヌスにちゃんと返済したのだろう?」
ユヌスに人望があったから? 村人たちは正直でいい人たちだったから? 
しかし、それでは「システム」ということにはなりません。「そのシステムはどんな仕組みなのだろう?」「マイクロクレジットの手法って、どんな手法なの?」
しかし、そのことは書かれていないのです。

本を読む
 私は本を読んでみました。ムハマド・ユヌス&アラン・ジョリ(猪熊弘子訳)『ムハマド・ユヌス自伝(上)(下)』です。★★★

 書かれていました。
 「私たちはゆっくりと、独自の、 “貸付-回収メカニズムを作り上げた。私たちは、事業を成功させるための鍵は、借りる人々にグループを組んでもらうことであるとわかった。
貧しい人々は一人だと、あらゆる種類の危険にさらされていると感じてしまう。だがグループの一員になることで、守られているという感覚を得られるのだ。グループの一員になれば、グループの支援が得られ、同時にグループからの圧力も受ける。
 さまざまな仲間からの圧力を感じながら、グループの一人ひとりは、クレジット・プログラムのより大きな目標に向かって、仲間と同調して歩んでいけるのだ。」

 グループ? どういうことでしょう?
 ローンを申し込みたい人は、グループを組むために、仲間にしたい人のところへ行き、銀行がどんなことをしてくれるかを説明し、仲間になってくれるよう説得しなければなりません。そうして5人のメンバーが揃うと、銀行はそのグループに対して貸付を行うのです。
 「私たちはまず、グループの中のメンバー二人ずつに融資する。最初の二人が6週間以内にきちんと金を返すことができたら、今度は次の二人が借り手になることができる。グループの代表が借りられるのは五人の中の最後だ。」
 
 「グループの力学というのは重要だ。というのも、ローンが認められるためにはグループの全メンバーの賛成が必要であり、その過程で、グループはローンに対する道徳的責任を感じるようになるからだ。だから、グループの中で問題に直面したメンバーが現れたら、そのグループは一丸となって、その人の問題を前向きに解決しようとするようになる。」

 なるほど。だから、貧しい村人にとって、ローンを組むことは大変なことですね。責任が伴いますし、もし返済できなかったら、という恐れも大きいでしょう。
「最後に、グループの一人が勇気を振り絞ってローンの申し込みをする日が来る。最初のローンは12ドルから15ドル程度である。彼女にはそれ以上の額など想像もできない。」
「ようやく彼女はその15ドルのローンを手にする。ぶるぶる震える彼女の手の上で、金はキラキラ輝いている。涙が頬を伝って流れ落ちてくる。これまでの人生でこんな大金を見たことがなかったからだ。」

 そして、返済の時がきます。
「借り手が最初の返済をきちんとすることができたときの興奮といったらすさまじいものである。自分が稼いで返済できるということを、自分自身に対して証明できたからである。そして二回目の支払い、三回目の支払いと続きていく。返済は、彼女にとってはまるで興奮するドラマそのものなのである。自分自身の才能の価値を見いだすことに対する興奮であり、その興奮が彼女をとらえて離さないのである。」

「グラミンのローンは単に現金を手渡すだけではない。」とユヌスは言います。「自己発見や自己開発の旅へのチケットのようなものでもあるのだ。借り手は自分自身の可能性を探し始め、内側に秘められていた創造性を見出すのであった。」

感動しました。単なるお金の貸し借りを越えたもの。人と人がどうつながるか。そのつながりの中でどう自立するか。支え合いながら、どう責任をとっていくか。その哲学があります。人間に対する洞察があります。
銀行のキャッシュカード一枚。一人孤独にATMを操作して、お金を借りることができてしまう世の中です。「便利になったものだ」とかつての私は思ったものですが、この本を読んでからは、それはあまりに寂しい、と感じるようになりました。

教科書とどう付きあうか
 このような感動的な話が、教科書の本文には書かれていません。一番面白いところが省かれている、と感じてしまいます。
 でも、教師は言います。「詳しいことはともかく、本文の中身をきちんと理解しておくのですよ。大事な単語も覚えましょう。」と。私もそうでした。
 しかし、その詳しいこと、細部にわたる具体的なことこそが面白いのです。そこを省いて、概略的にまとめてしまって体裁を整えるから教科書は面白くない。

どうして、詳しいこと、細部にわたる内容を省くのでしょう。
 おそらく教科書の編集者はこう言うでしょう。「限られた紙幅の中で、こんな細部にわたる記述を盛り込むことはできません。」

 検定教科書には、指導書という分厚い本がついています。上に述べたようなエピソードを、指導書に盛り込むべきだという考え方もあります。それをもとに教師が教室で説明できるからです。

 まあ、そのような具体的な情報がまったくないよりかは、良いことかもしれません。しかし、私としては、「そんなに頑張らなくてもいいよ。」と言いたくなります。
 私は、教科書の本文に対する疑問を解決したくて、ユヌスの自伝を読み、彼がどのような現実に直面し、どう考え、どう行動したかを知りました。それにふれた私の感動は、「疑問が解決できてよかったなあ。はい、教材研究終わり。」というレベルを越えたものでした。教科書のそとへ踏み出したことで、想像もしなかった出会いを体験したのです。★★★★

 「とにかく、教科書のレッスン○○までカバーしなくちゃ」と頑張ることで、生徒たちの興味、関心、疑問に付き合うことが無視されるとしたら、本当に残念なことです。
「教科書はそこそこにして、面白い本を読みましょうよ。『ムハマド・ユヌス自伝』、むちゃくちゃ面白かったよ。」
こんなふうに言えれば、だいぶ肩の力が抜けるのではないでしょうか。★★★★★



  CROWN English Reading New Edition(三省堂, 2009)。これは私が授業で使っていた教科書ではなく、ユヌスのことを取り上げようと思って、いろいろ教材を探していたときに見つけたものです。
★★「  」に引用している日本語訳は、「旧・高校英語教科書レビュー」のウェブサイトからのものですが、若干、私が手直ししています。
★★★ムハマド・ユヌス&アラン・ジョリ(猪熊弘子訳)『ムハマド・ユヌス自伝(上)(下)』(早川ノンフィクション文庫, 2015)。上巻の229238ページから引用しています。
★★★★例えば、マイクロ・クレジットのあらましについては、インターネットで調べることもできます。しかし、ユヌスの思いや村人たちの姿にふれ、ワクワクする体験をするには、やはり本を読みたいものです。
★★★★★教科書との新たな付きあい方についての新刊が出ています。リリア・コセット・レント(白鳥信義・吉田新一郎訳)『教科書をハックする----21世紀の学びを実現する授業のつくり方』(新評論, 2020)。単なる教科書批判ではなく、授業のあり方そのものを見直す手がかりを与えてくれる好著だと思います。
  

2020年6月5日金曜日

Engaging Literate Minds =『本を創る子どもたち 〜 主体性、知性、社会性を引き出す言語教育』(暫定訳)


ピーター・ジョンストンの『言葉を選ぶ、授業が変わる!』と『オープニング・マインド』に続く第3弾『Engaging Literate Minds★』を翻訳すべく、その前段としてのブッククラブが終わりました。前の二つと並んで、これも教科書ベースの授業をしていてはできない実践です(その理由は、すべて三冊ともライティング・ワークショップとリーディング・ワークショップの実践をベースにしているからです! 『イン・ザ・ミドル』の著者のナンシー・アトウェルさんが教師になって早い段階で切り換えられたように、日本の国語教育も早く切り替えないと、子どもたちの読み・書き嫌いをつくり出すだけでなく、読む力と書く力をつけないままで卒業させてしまう状態を、いつまでも続けることを意味します!)。
このあと下訳の作業に入っていきますが、あまりにもいい本なので、このブログの読者には、その一部(本当に、ごく一部!)を紹介したくなりました。

 本のタイトルも訳すのに苦しみますが、最後の第16章も「Apprenticing Humanityですから、かなり難しいです。 ブッククラブのパートナーのマーク・クリスチャンソンさんは、「作者の意図は『人間としてどう成長するべきか、生徒が見習うべき教育をしよう、教育者になろう』というものだと思います」と教えてくれました。
 あなたは、それが実現できていますか? いいモデルを示せていますか? 教科書をカバーすることや様々な学校事業をこなすことで忙しくしすぎて、ひょっとして、教育の中でもっともおろそかにしているのが、このモデルを示すことではないでしょうか?

 左の数字は原書のページ数、茶色の字は吉田のコメント、青字/斜体はマークさんのコメントです。
267 Children are different from one another...... The same is true of their teachers. でも、同じを前提に動いる学校。これをわきまえられれば、指導案アプローチは取れなくなる! http://projectbetterschool.blogspot.com/2020/04/blog-post_19.html  Mark: 全員違うのに、同じ事をやらせる、読ませる、書かせる、という事で生徒の興味がなくなる。
268 教員研修・研究も、教師は同じを前提に行われるので、機能しない。はるかに役立つ方法が求められている!! ← Mark: 私も自分に関係のない、興味のない強制的な研修を何度も経験していますが、どうしたら変わるのでしょうね。はやり上の人(教育委員会など)になる人が「良い研修」を経験しなくては。←吉田・情報の問題も大きいと思います。90年代に教育委員会に呼ばれて研修をしていた時、担当者に「研修に関する情報はどこから入手していますか?」と聞きまくりました。誰も答えられませんでした。要するに、いい研修に関する情報がゼロの中で、彼らは前例踏襲の研修事業をしていることが分かりました。それで書いたのが、『効果10倍の教える技術』と『「学び」で組織は成長する』だったわけです。しかし、新書で出してしまったので、教育関係者の多くには目に触れませんでした。教育者は、新書を含めて、ほとんど本を読まないのです! いま、ハック・シリーズの一冊として、「教員研修をハックする」を考えています。今度は、ターゲットを教師に明確に設定して。
269 What they would see is happy, engaged children in control of their learning lives Mark: さらっと書きますが、in control of their learning livesって、すごい発想ですよね。自分の生徒たちは自分たちの学びの制御権/主導権を握っている、と言える教室、もっともっと見たいです←吉田・学びというのは、その条件の時に一番よく起こるし、身につくのだと思います。しかし、日本の先生方は、「自分が一番よく教えていた時に、子どもたちはよく学べる」と錯覚を起こし続けていると思います。先に教えることがないと、学ぶことなどあり得ない、と。ある意味では、子どもたちを信頼しない、自分では何もできない存在として位置づけています。従って、自分ががんばらないと、ということになります。結果的に、それが学びの機会を奪っているわけですが。

271 In our classrooms, children became more engaged in literacy following three par­ticular instructional moves:
1.    We invite children to become noticers and allow their noticings to permeate the curriculum, putting them in control of their learning.
2.    We invite children to make books and research their own interests and collaborate.
3.    We engage in conversations emphasizing multiple perspectives and inquiry/uncertainty.
None of these is difficult to do, but each requires giving more autonomy to the chil­dren.
これら3つをするだけで、学びの姿が根本的に変わる!  受け身から、主体に!         1.子どもに気づける人になってもらう。それによって、子どもたちは自分の学びをコントロールできるようになる。                                        2.子どもたちに自分の興味関心をベースにして調べ、そして協力し合って「本づくり」をしてもらう。 ~ マークさんの暫定的な本のタイトルにもあるように、この本の核に据えられているのが子どもたちの「本づくり」なのです!                                     3.子どもたちに、多様な視点と探究・不確実性を大切にした話し合いに参加してもらう。← Mark:このリスト、とても分かりやすく、魅力的です。  269ページや、268ページに書いたことと関連づけると、大きな最初の「ボタンの掛け違え」が起こっていると言えます。そこがズレているので、その後の努力がかなりの部分「無に帰してしまう」という結果に。しかし、自分の努力を無駄とは誰も思いたくありませんから、さらに一生懸命頑張ってしまうという悪循環が続いている、と私は実態を見てしまいます。せっかく、同じ努力をしているなら、最初のボタンのかけ直しさえできれば、みんながハッピーになれるのに、とも。そのためにも、魅力的なオルターナティブを知ってもらう必要があると思うわけです。知らなければ、考えようがありませんから。でも、誰も自分が悪循環の中でがんばっているとは気づきたくないので、ひたすら思考停止のままがんばり続けるしかない、というのが日本の教育システムのようです。
272 This is why we help children to build identities as agentic people whose actions and their consequences express sets of values. This connection between action, identity, and values builds chil­dren’s sense of responsibility, their logic for moral and civic engagement. 教科指導と、生涯にわたって使うスキルの獲得が、みごとなぐらいに切り離されているのが、日本の授業の気がします。 ← Mark:自分から考え、動き、他の生徒と助け合いながら創造する、という事を学校の目標や理念に掲げている日本の学校はよく見かけます。しかし、実態は先生の敷いたレールの上を強制的に進ませる、という事が主な教育活動という事も圧倒的に多い 本音と建前をみごとに分けるのが、日本的なやり方ですから!
275 they are developing identities—what sort of community am I a member of? 子どもたちはアイデンティティーを形成している。どんなコミュニティーのメンバーになりたいのか? この辺は、一橋大の学長をした中世ヨーロッパ史の研究者の阿部謹也さんが、晩年の10年間を日本の「世間」の解明に費やしたこととつながる気がします。学者の世間をもっとも痛烈に批判したのですが、日本社会は「世間」にしか目が向かないことを嘆き続けました。そして、その練習が学校の授業で日々行われているという構造です。 ←Mark: 本当につながっていると思います。日本はどういう社会になるのか、正に教室はそのmicrocosm, 小宇宙です。←吉田・社会という大宇宙は、なかなか変えられないし、学校という中宇宙を変えることも難しいです(理解のない校長や同僚がいては!)。しかし、小宇宙の教室の中なら自分の判断で変えられます。そのための、一つのきっかけに、この本がなればと思います!                          
in classrooms that allow time for inquiry and dialogue, uncertainty and ambiguity are exactly what children find engaging. ← Mark: 不安の排除を目指して凝り固まった、リスクや流動性のないカリキュラムを組むと、椅子に真っ直ぐ座って生徒が聞いてノートをとっているきっちりした教育の外見は維持できるが、中身は全く取り組みたいと思えるものではない。探究、対話、不確実性、曖昧さは、すべて生徒の成長に欠かせない。まったく、その通りです。これは、国語だけでなく、すべての教科でいえますね。
276 For us, teaching is apprenticing children into humanity. マークさんの訳: 教育とは何か? それは子どもたちが人間、そして社会がどうあるべきかを少しずつ知っていく見習い期間、だと私達は考えます。
★ このタイトルを、ブッククラブのパートナーのマークさんは、『本を創る子どもたち 〜 主体性、知性、社会性を引き出す言語教育』と暫定的に訳してくれました。本の内容をよく知っているからこそ訳せるタイトルです。