2014年2月28日金曜日

ユニット案を考えるときに、自分に尋ねてみる質問


 早いもので、そろそろ今年度の振り返りをするとともに、来年度の年間計画も考えたい時期になってきました。

 年間計画を考えるときに、RWやWWでは「ユニット」という言葉がよく使われます。「ユニット」とは「教科書単元」とは異なるアプローチの考え方です。★

 WWのカンファランスで有名なカール・アンダーソン氏は、WWの評価についての本★★のなかで、どんなユニットを教えるべきかを考える際のポイントとして、先生が以下の問いを自分にしていみるといいのでは、と書いています。

学習者が何を必要としているのか?
学習者が興味のあることは何か?
学習者が前の学年までに何を学んだか?
教師が、よくわかっていてしっかり教えられるユニットは何か?
この学年で教えなければいけないこと(子どもができるようにならなければいけないこと)は何か?
 
 この問は、WWのユニットだけでなくて、RWのユニットを考えるときにも使えそうに思います。(もちろん、読み書きのつながりを意識したユニットが作れれば、相乗効果があると思います。)

 いずれにせよ、来年度、自分の教えるクラスをイメージして、ごく短時間で、これらの問の答えざっと書きだしてみることをお薦めします。

 もし、さっと答えられなくても、答えられないからこそ、そこから得られるものもありますので、4〜5分程度に限定して、質問の答えを考えてみる価値はあると思います。★★★

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★ ユニットと単元との違いについては、『リーディング・ワークショップ』(新評論)3 ~ 4ページに以下のように書かれています。

ユニットは「単元」と訳される場合もありますが、「単元」というと、教科書をベースにしてそれをカバーすることが中心であると考えがちです。本書でいう「ユニット」とは、子どもたちに達成してほしいことをどのような順番で、どのくらいの期間取り組んだらいいかを考え、その方法と内容を決めていくものです。

★★ Carl Anderson, Assessing Writers, Heinemann, 2005, の 203〜205ページに、ユニットを考える際のポイントが書かれています。205ページからは、ユニットをどのような順番で教えるのがよいのか、207ページからは、評価がどのようにユニットに関わるのかについても述べられています。


★★★ 私も4〜5分でざっと書き出してみました。さっと答えられなかったのが、二つ目の「学習者の興味のあることは何か?」でした。でも、答えられなかったからこそ、例えばRWでは「今年度のベスト3などから、いくつか傾向が読み取れそうなので、それを紹介する?、話題の人など、もう少しアンテナをはる必要がありそう、他の先生にも尋ねてみよう」とか、「最初の頃に、あまり緊張せずに、でも自分を安心して出せるような活動がもっと必要。今年、上手く言った活動とそうでない活動のリストが必要」など、自分の振り返りプラス、次年度に向けて必要なことを考えるきっかけとなりました。


2014年2月21日金曜日

人間の最大の発明は?


 インターネットを検索しているときに、直訳すると「人間の最大の発明」という題名の英語の詩を見つけました。


 最大の発明は、テレビでもないし、飛行機でもないし、車でもないし、コンピュータでもないし、携帯電話でもないと、「〜ではない」が続きます。

 みなさんでしたら何を選ばれますか?

 著者の答は「 本」です。

 RWを行っている先生には、著者が「本」を選択したことについて、いろいろと話が弾みそうな気がします。

 私も、「なぜ本?」ということを考えていて、いくつかのことを思い出しました。

 一つはRWの日本の教室での実践版(4月に新評論から出版予定です)の中の「最初の10時間」という章で、本を読むことに夢中になる、ということを教える場面が出てくることです。

 たしかに本には人を夢中にして、時間を忘れさせて(時には電車を乗り越してしまう)力があります。私もRWを知ってから、夢中になって本を読むことが増えましたし、あまりに途中でやめにくい本は通勤以外は読まないように、無理に職場に置いて帰る(自宅にあると読んでしまうので)ぐらいです。

 言葉が伝えてくれる力もありますし、本という形だからこを、できることもあるように思います。

 本と言葉の持つ力や魅力を実感すると、その魅力や力をどうやって伝えようかということに、目が向きますし、教科書教材とその正しいとされる解釈を中心に授業することの限界も見えてきます。それでRWが生まれたのかなとも思います。

 そういえばRWとWWのすぐれた実践者であるナンシー・アトウエル氏も本の価値を強く見いだしているひとりだと思います。★

 本も「発明」?だったと思えて??、笑えるビデオも思い出しました。2〜3分で英語の字幕が出ます。コンピュータが苦手で、ヘルプデスクに間の抜けた質問をよくする私には実感として分かりますし、ヘルプデスクでヘルプをしてくださる側の人にとってもそうだよね、と思えるのかもしれません。笑ってください。


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★ 余談ですが、アトウエル氏の本をたくさん出版しているHeinemann社のウエブサイトでは、彼女がRWについて語っているビデオが見れます。10分弱ですが、一見の価値ありです)
(http://www.heinemann.com/shared/player.aspx?id=AtwellRebuttal&path=rtmp://heinpublishing.flashsvc.vitalstreamcdn.com/heinpublishing_vitalstream_com/_definst_/videos/atwell)

2014年2月14日金曜日

アメリア・アレナスの鑑賞教育



 『アートを書く! クリティカル文章術』杉原賢彦他編著です。
 以下、引っかかった部分のみ、紹介します(数字は、ページ数です)。

172 日本の美術教育は制作至上主義で、鑑賞教育がおろそかにされているという批判が絶えなかった。 → 日本の読解教育も、似た課題を引きずってきた?!

173
     アレナスは、美術作品を「観る」行為と「つくる」行為を同じ次元に属していると見なしている。
     人間は美術ということばが生まれるそれ以前から「美術的な行為」を行っているという主張である。(「ヒトはなぜ絵を描くのか」という最も根底的な問いが潜んでいる)
     アレナスの議論は常に作品や展覧会を見る側から提起されている。

鑑賞教育というものがどうしても情報を発信する美術館側からの一方通行になりがちだったことを思えば、この双方向性は画期的なことである。 → まったく! 読解教育が読む側と情報を発信した側の双方向性を意識して行われたことがあるだろうか? それとも、最初からする必要はないのだろうか?

174 作品が美しかろうが、技術的にいかに素晴らしかろうが、あるいはオリジナリティがどれほど備わっていようが、作品にとって重要なのは、作者の意図がいかに表現されているかではなく、結果的にどれほど鑑賞者の意図を引き出せるかということなのである。作者の意図が、私たちの反応に何のかかわりもないといっているのではない。ただ、すべての作品はアーティストの意図を超えて、私たちに何かを伝えようとしているものだということである。(『なぜこれがアートなの?』福のり子訳、淡交社)
 → これは文学作品を読む時に、そのまま当てはまってしまう?
   ノンフィクションも?
   映画を観る時も?
   音楽を聞く時も?
   人の話を聞くときも?
   教科書を読むときも?

 なかなか読むことを読む世界(書くことは書く世界)だけで見ていても、変化の芽は探せませんから、効果的な異分野の実践を有効に活用して、読む教育を(書く教育も)変えてしまいましょう!!

2014年2月7日金曜日

書評のレッスン



「思考のレッスン」スピンオフ⑤です。

なんと、「書評のレッスン」をテーマにしたインタビューも、丸谷さんがしていたのを発見してしまいました!!(『いろんな色のインクで』というタイトルの本の中で。)
以下は、そのメモです。数字は、ページ数。(青字斜体は、私のコメントです。)

●レッスン1 イギリスに学ぶ、あざやかな語り口

16 僕が書評を書くようになったのは、イギリスの書評を読んで面白いと思ったからです。面白いし、非常に大事なものだと思った。20代の後半の頃、イギリスから雑誌や新聞がようやく来はじめて、それを読んで興奮したんですね。それでこういうものが日本にもあるといいなあと思ったわけです。 ~ この感覚はとても大切だと思います。私がERICを作って国際理解教育絡みの方法(=参加体験型の学び)を紹介し始めたのも、WWRWを紹介し始めたのも、まったく同じ動機でした。とにかく面白い!! こんなに面白いのを自分だけで面白がっていては申し訳ない、と。だれも面白くないものを、時間をかけて紹介しようとは思いませんから。でも、「面白い!!」と思える刺激がいまだに少なすぎるのが日本の教育界ではないでしょうか。すべての原因は、教科書にあるような気が・・・ 学ぶことは、とてつもなく面白いし、発見の連続なのに。

17 昭和20代の後半ですが、僕はほとんど日本の本を買ったことがなかった。一般向きであるけれど程度の高い知的な読物、それをどう書けばいいかという技術を日本人がまだ身につけていなかった時代です。たとえば貝塚茂樹先生が監修した『古代殷帝国』という本がありました。あれは最新の知識を素人向きに書く能力のある人が日本の学者にいないことを、じつによく示す本でした。なぜかというと、当たり前のことですが、そういうものを読む読者がいなかったわけですね。結局、知的な読者がいない。
   当時、『古代殷帝国』を友だちが絶賛したんで、僕は読んでみたんですが、呆れ返って、なんてひどい書き方だといったんです。そしたらその友だちが憮然として、なんかぶつぶつ擁護してたけど、しかし全体の出来ばえとしてはほんとにへんな本だった。何人もが分担して書いた本で、ごたごたしてましたね。学者が知的な内容を論文形式以外の形で伝えることができなかったわけです。無味乾燥な論文という様式は知っている。しかしそれ以外の様式、容れ物を知らない。そういう状態でした。 ~ 悲しいかな、学者さんたちが書くものの多くは、この状態をいまだに脱していません。それが、日本人全体の知的レベルがなかなか上がらない大きな要因になっています。あのバカバカしいテレビを見せられ続けて、上がるはずもありませんし・・・。

18 それでイギリスの書評がなぜあんなにいいのかというと、書評はなんのためにあるかというのと同じだけれども、要するに本を選ぶ、本を買う、その実際の役にたつわけです。それが第一ですね。 ~ 某新聞(丸谷さんが書いていた新聞とは、違います)を10年以上読んでいましたが、選ぶ/買うに役立った経験は、数える程しかありませんでした。ということは、機能を果たしていない、ということ。そもそもの目的を新聞社が理解していないということ!
  第二は、その中に書いてあることの一応の要約、紹介がある。実際は本を読まない人でも、一応それを読めば間に合うわけですね。もちろんそれにはおのずから、評価が含まれることになるでしょう。
  第三として、書評を書く人間の藝とか趣向とか語り口とか、そういうものを面白がるということがありますね。これがいちばん高度な段階なわけです。 ~ 上記の某新聞の書評には、これがまったく感じられませんでした!!
  この3つがあって、この3つのことが渾然と一体になったときにいい書評ができるわけです。 ~ そういえば、上記の某新聞は、そもそも選ぶ本が悪かったような気がします。従って、要約・紹介しかないので、読もうという気にさせない! ということは、書評の役割を果たしていない。

  本の選ぶ方にだって、筋の要約にだって、もちろん藝が必要なわけです。しかし、書評家の藝の中の藝は、語り口ですね。ここが面白くならないとうまくいかないんです。 ~ これが最大の理由、というかツボ!! 殊に最初の何行かは腕の見せどころでしょう。

20 才人たちが腕くらべをするのがイギリスの書評なんですよ。だから退屈しないんです。
 アントニー・バージェスの本(『ナポレオン交響曲』他)と書評は超一流
 ジュリアン・バーンズ(『フローベルの鸚鵡』)

22 学識や鑑賞眼はもちろん必要ですが、藝がないと伍していかれないわけですね。読者が無藝大食みたいな書評家の存在を許さないわけでしょう。 


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●レッスン2 誰に向けて、何枚書くか

24 日本の書評がどうも冴えないことが多いのは、なんといっても短いからしどころがない。たとえばどんな名優であろうと、一分間でなんか藝をしてみせろっていわれたら困るでしょう。
   丸谷さんが評価している書評家: 山内昌之、日高晋

25 ある一冊の本を取り上げてそれを論じる、あるいは推薦するということは、単にそれはいい本だからお読みなさいよ、面白いですよというだけではない。これはこの手の本の中でどういう位置を占めている本であって、それだから推薦できますよという見通しが推薦者の心の中にはなきゃならない。・・・そのためには枚数が要求されるんです。

27 書評の中身で、もう一つ、読み方についての注意というのが大事です。たとえばこの本は第一部はやめて第二部から読めとか、うんと長い序文がついているけれども、これはくだらないから読まないほうがいいとかね(笑)。

28 書評というのは、ひとりの本好きが、本好きの友だちに出す手紙みたいなものです★。その親しくて信頼できる関係をただ文章だけでつくる能力があるのが書評の専門家です。その書評家の文章を初めて読むのであっても、おや、この人はいい文章を書く、考え方がしっかりしている、しゃれたことをいう、こういう人のすすめる本なら一つ読んでみようか、という気にさせる、それがほんももの書評家なんですね。


●レッスン3 どんな本を選ぶか

31 内容には関係ないが・・・東西の文藝スポーツを一つずつ挙げると、イギリスのクロスワード・パズルと日本の百人一首だと思うんだな(笑)。

32 僕の流儀はイギリスの書評を学ぶ。日本の実情と矛盾しない限り学ぶというじつに徹底的な態度です。非常に従順な弟子になるんですよ。
33 日本になくて取入れるべきすぐれたものなんだから、取入れる。

34 僕はなるべく自分の内心の欲求から本を読む(選ぶ)ようにしています。自分の内部にいる読者を大事にする。近頃はこの傾向が流行っているとか、どういう本が売れたとか、何が最近は評判が悪いとか、そういうことは考えないで、ただ自分の心の中だけを見つめる。僕が本当に読みたいと思うものを読みたいという人は、いまの日本にまあ5千人はいるんじゃないか。ひょっとすると1万人ぐらいいるんじゃないか・・・そういう考え方をするんですね。
   だから本を選ぶときだって、僕が読みたいと思う本を読んでみて、もしそれがダメな本だったら書評はしない。そういう非常に自己中心的みたいな、しかし実は自己中心じゃないんだけれども、そういう考え方をするんですよ。
35 それから、本の選び方では、文明というものを考え方の基準にします。狭い意味での文学とか、藝術とか、学問とかに縛られません。われわれの文明に貢献する本かどうか、検討するわけですね。僕の考えてる文明に役立つ本だから、新訳『新約聖書』も『ベスト オブ 丼』も取り上げるわけです。


●レッスン4 否定的な書評の扱い方、その他

36 両論併記がいちばんフェアだと思うんです。読者のほうからいっても、面白いでしょう。

41 書庫の整理法。英語の本は、著者別のアルファベット順です。たとえばシェイクスピア関係の本は、著者が誰であろうと、みんなシェイクスピアということにしてある。
   日本語の本のほうは、特別な整理法がなくて困っているんです。


★ 「手紙というのは、自分が楽しむと同時に相手を楽しませるのが基本でしょう。あのころ(モーツァルトのころ)は私信というよりも公信といった性格のものであって、しかも受け取った個人だけでなく、周囲に見せ回る。」(『モールァルトとは何か』池内紀、17ページ)



2014年2月1日土曜日

心に残る一言(の可能性)

 「共有の時間の、ほかの使い方を紹介します。少数の子どもたちに読み上げてもらう代わりに、クラスの子どもたち全員に、自分の書いたもののなかから1文を読み上げてもらうのです。子どもが一番気に入っている文でもよいですし、書き出しの文でもよいでしょう」

 『ライティング・ワークショップ』(ラルフ・フレッチャー、ジョアン・ポータルピ著、新評論、2007年)60ページには、上記のような共有の時間の使い方が紹介されています。

 英語を教えているある先生は、1年間の「作家ノート」をざっと読み直して、一番、自分の好きな文(あるいはフレーズ)を黒板にそれぞれ書いてもらったそうです。そして全員の文を読み上げて、皆で味わったそうです。

 そのときの黒板の写真も送ってくださいましたが、いろいろな筆跡で、色チョークを使っている学習者もいたりして、それぞれが、人に見せるために丁寧に書いているのだろうなあと思いました。

 ライティングで同じような実践をしたほかの教員も、「(英語の)ライティングをやっていると、ついつい意識は内容や構成の方にいきがちになるが、言葉そのものに焦点をあてると、学習者はとても関心をもった」と言っていました。

 
「一文を自分で選ぶ」ことは、書くことの授業だけでなくて、読むことの授業でも使えると思います。

 私は読むほうの授業で、自分が読んできたものから英語を一文抜き出して、それを書いてもらい、OHPで映して、読み上げてもらったことがあります。

 一文なので、文脈から切り離されてはしまいますが、見ていると、その一文だけでも、まとめ的に意味が凝縮されていて、十分に味わえる文も少なくありません。

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 自分で一文を選ぶ場合、自分が書いたものからでも、自分が読んだものからでも、選ぶには何か理由があるはずです。もちろん、全文に触れ、全文から得られるものとは質が異なりますが、それでも心に残る一文(やフレーズ)に出合えるかもしれません。