2014年2月14日金曜日

アメリア・アレナスの鑑賞教育



 『アートを書く! クリティカル文章術』杉原賢彦他編著です。
 以下、引っかかった部分のみ、紹介します(数字は、ページ数です)。

172 日本の美術教育は制作至上主義で、鑑賞教育がおろそかにされているという批判が絶えなかった。 → 日本の読解教育も、似た課題を引きずってきた?!

173
     アレナスは、美術作品を「観る」行為と「つくる」行為を同じ次元に属していると見なしている。
     人間は美術ということばが生まれるそれ以前から「美術的な行為」を行っているという主張である。(「ヒトはなぜ絵を描くのか」という最も根底的な問いが潜んでいる)
     アレナスの議論は常に作品や展覧会を見る側から提起されている。

鑑賞教育というものがどうしても情報を発信する美術館側からの一方通行になりがちだったことを思えば、この双方向性は画期的なことである。 → まったく! 読解教育が読む側と情報を発信した側の双方向性を意識して行われたことがあるだろうか? それとも、最初からする必要はないのだろうか?

174 作品が美しかろうが、技術的にいかに素晴らしかろうが、あるいはオリジナリティがどれほど備わっていようが、作品にとって重要なのは、作者の意図がいかに表現されているかではなく、結果的にどれほど鑑賞者の意図を引き出せるかということなのである。作者の意図が、私たちの反応に何のかかわりもないといっているのではない。ただ、すべての作品はアーティストの意図を超えて、私たちに何かを伝えようとしているものだということである。(『なぜこれがアートなの?』福のり子訳、淡交社)
 → これは文学作品を読む時に、そのまま当てはまってしまう?
   ノンフィクションも?
   映画を観る時も?
   音楽を聞く時も?
   人の話を聞くときも?
   教科書を読むときも?

 なかなか読むことを読む世界(書くことは書く世界)だけで見ていても、変化の芽は探せませんから、効果的な異分野の実践を有効に活用して、読む教育を(書く教育も)変えてしまいましょう!!

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