2019年10月26日土曜日

大人のための対話読み聞かせ

 英語を教える先生たちとの研究会で、「大人のための対話読み聞かせ」を初めて体験しました。 「対話読み聞かせ」とは、「読み聞かせをしながら、子どもたちを読んでいることについての話し合いに招き入れる読み方」(『読み聞かせは魔法!』小学館、2018年、61ページ)です。

 『リーディング・ワークショップ』(新評論、2010年)では、先生たちが「大人のためのブッククラブ」を体験し、そこから学んだことを、子どもたちがブッククラブを行うときのサポートに活かしていく様子が描かれています(『リーディング・ワークショップ』150-152ページ、217-218ページなど)。「大人のためのブッククラブ」と同じように、「大人のための対話読み聞かせ」も、まず大人が実際に体験することで、教室で使うときに活かせることが見えてくるのではないかと、楽しみでした。
 
「大人のための対話読み聞かせ」をすることになった研究会の準備段階のやりとりで、以下のようなメールをもらいました。

 「 単に『こんな本があるよ』と紹介だけするのではなく、また、『気に入った部分を私がただ読み上げる』のでもなく、その本が提示している問題を、対話を通して一緒に考えながら、読み進めていく、というのをイメージしています。また、生徒・学生向けに教室でも使える本というより、私たち教師が面白く読むということを念頭においています」

 そして、当日、この先生は『子どもの絵の見方~子どもの世界を鑑賞するまなざし』(奥村高明、東洋館出版社、2010年)を使って、対話読み聞かせをリードしてくれました。

 この先生は、前もって選んだ箇所を読み聞かせ、そのあと、スライドでその部分のキーワードを提示し、そのキーワードについてどう思いますか?と問いかけながら、対話が始まりました。

 読み進むなかで、この本の中で登場する「子どもの絵」の写真を見ながら、お互いの気づきを対話し、また、「作品の評価」と「作品からの評価」というキーワードをスライドに写しての対話もありました。そして、しばしの対話のあと、また、この本の読み聞かせに戻ります。

 子どもの「絵の評価」という話題から、たとえば「ライティング・ワークショップで子どもの書いた作品をどう評価するのか」も考えることもできて、美術の専門家でない私でも、ちゃんと対話・発言に、参加することができました。

 今回は、その本のことをよく知っている人が、周到に準備をして、それにガイドされながら進むので、何よりも安心感がありました。対話から発見もあり、ここまで深く本の世界に入れるのだ、ということが驚きでした。

 また、この「大人のための対話読み聞かせ」は、「ガイド読み」ならぬ、「ガイド・ブッククラブ」という印象も受けました。あらかじめ自分で読んでくるのが基本のブッククラブとは異なり、その場での読み聞かせが元になっているので、前もって読んでくることを要求しない(期待できない?)時にも、使える、ということも学びました。

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 今回は「大人のための対話読み聞かせ」ということで、対話読み聞かせで使った本も大人向けです。また、長年の研究会仲間という信頼感のある中での「対話読み聞かせ」でしたので、教室での実践とは少しイメージが異なると思います。

 今回の体験を踏まえて、『読み聞かせは魔法!』の第2章「対話読み聞かせ」(2章)を読み直しました。以下は私のメモ、そして→は私の感想です。    

・「対話読み聞かせでは、読み進める過程で、子どもたちがどのような意味をつくりだしているのか(どのように理解しているのか?)を把握できる(62ページ)。

・読み聞かせをしている最中に、子どもたちにペアや小グループで話し合う機会を提供すると、読んでいることについて一層よく考えるようになる(62ページ)。

・教師は、子どもたちが自由に考えたこと、感じたこと、理解したことを言えるような環境をつくり、かつサポートする(74ページ)。

→ 上記3点は、今回の体験からも、「そうそう」と納得しながら読みました。

・対話読み聞かせの間、ペアや小グループで話す機会を提供しても、うまくついていけない子どもがでてくることもある。教師自身も、そういう体験があることを話すと子どもたちも安心できる。そして、クラス全体で「本についてしっかり話せるように聞く方法」を考えることもできる(66-69ページ)。

→ 私は、しっかり話せているペアや小グループに目が行きがちで、その話し合いの質がよいと、安心してしまうだろう、と思いました。読み聞かせを止めた個所で、思わず何か言いたくなるような、魅力的な本を使えば大丈夫」と、「本の質」を重視しがちなので、「なぜ話せないか」という点に、十分、目が届かない気がします。

→ でも、私も読み手として「好み」がありますし、私自身、理解しにくい本、入りにくい本もあります。クラス全体に同じ本を使えば、その本についていきにくい学習者がいることにもっと目を向けなければ、と思いました。

→ 対話読み聞かせは、「好きな本にも、なかなか入れない本にも、どちらを読むときにも使える、理解を深めるための一つの良い方法」で、この方法を身につけるために、練習する機会を増やしていく、という視点も必要な気がします。

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 「対話読み聞かせ」には、『読み聞かせは魔法!』の第2章に詳しく説明されているように、利点がたくさんあります。今回、教室とは少し勝手の違う「大人のための対話読み聞かせ」を体験し、『読書家の時間』(新評論、2014年)のプロローグ(3ページ)に記されていた先生の言葉を思い出しました。

「教師である私は、読書家の時間のなかで、こんな子どもの姿と出会えるなんて思ってもいませんでした。本を読んで話し合うということを軽くみていたのかもしれません。隠されていた子どもたちの力に驚きました」(3ページ)

 本を読むこと、読んだ本について話すことは、やはり「軽く見れない」、本を読んで話し合うことの豊かさを実感できたのが、今回の「大人のための対話読み聞かせ」の一番の収穫だったように思います。そう思うぐらい、いい時間でした。

2019年10月18日金曜日

物語(ストーリー)を媒介にして人生を深く認識する!?


  『理解するってどういうこと?』の167ページには、読み・書きを学ぶ際の「深い認識方法」の一領域「優れた読み手・書き手になる領域」が「読んだり学んだりしたさまざまなアイディアに伴う多彩な経験。意味の共有と応用。話したり、書いたり、描いたり、演じたりといった手段を通して意味を組み立てること。特定の目的と聴き手・読み手に向けて書く。他の人とやりとりしながら考えたことを修正する。優れた読み手と書き手の習慣を使ってみる」ことだと説明されています。読むときに「書き手」のことを思い浮かべることは、本や文章の読みを主体的にします。書くときに「読み手」のことを思い浮かべると、書くことがおざなりではなくなり、相手に届くような言葉を選び、心に届く述べ方を工夫することになります。仲間とやりとりしながら考えることで、自分一人では気づかなかったことに気づかされます。そして、自分と対話することになります。それが「深い認識」を促すと言うことでしょう。
  マーティン・プフナー(塩原通緒・田沢恭子訳)『物語創世―聖書から〈ハリー・ポッター〉まで、文学の偉大なる力―』(早川書房、2019年)の原題はWritten World。「書かれた世界」あるいは「文字の世界」ということになります。アポロ8号の宇宙飛行士たちが、地球を眺めながら宇宙から地球の姿を中継したときに「創世記」の言葉を選んで音読したというエピソードから始まります。

ホメロス『オデュッセイア』、『ギルガメシュ叙事詩』、『聖書』、仏典、『論語』、ソクラテス、『源氏物語』、『千夜一夜物語』、『ドン・キホーテ』、『共産党宣言』、ハリーポッター・シリーズ・・・多種多様な物語について、現地踏査も含めて、プフナーはそれらがどのようにして人の理解の窓になっていったかということを考証するのです。プフナーの言葉を少し追ってみましょう。



・話されるだけの言語は、話し手がいなくなれば消滅してしまう。しかし物語を粘土板に文字で固定すれば、古い言語も生き残ることができる。(中略)書き留められたことにより、読者が過去に触れることが可能になっただけでなく、文学が生き延びて未来に伝えられる可能性を想像させ、まだまれていない読者の心を動かすことも可能になった。(8081ページ)

・文学の歴史は焚書の歴史でもある。本が燃やされるのは、書かれた物語に威力があることの証なのだ。(229ページ)

・マルクスは、ヘーゲルの語るプロイセン国家と現状維持にとって都合のいい歴史が気に入らなかったが、それでも物語を語るという新しい哲学の力には、やはり引き込まれた。(315ページ)



  書き留められることによって「物語」は、人間を動かしてきた、それは口承の文芸とは異なる「威力」を持つに至ったということが本書におけるプフナーの主張の中心です。そしてそうした「物語」はこれからどのようになっていくのかということも、最後に考察していますが、そこでプフナーは次のように言っています。「存続を保証する唯一の方法は、それを使いつづけることなのだ。テキストが時代を超えて生き残るには、それがつねに現役であることが必要だ。そうすれば必ずそのテキストは翻訳され、複写され、コード変換されて、各世代に読み継がれていくだろう。文学の未来を確保するのは技術ではない、教育なのだ」(416ページ)。「使いつづける」ことで「読み継がれていく」というきわめてシンプルなことが述べられています。しかし、そのことによって、「物語」を通じた書き手・読み手の「理解」が営まれるのだと、言っているようです。

  この本の「訳者あとがき」のなかで、テレビ番組でのプフナーが発した「物語の行く末」についての発言が引用されていますが、彼はそこで「多くの物語は過去を見据えながら同時に未来にも目を向けるという二つの視点を兼ね備えているのだと思います」と言っています。この「二つの視点」の指摘は、読み・書きが分かちがたく切り結ばれているということ、そして理解行為が過去のことがらを受け止めるだけではなくて、それを手がかりとして未来のヴィジョンを切り開く営みであるということを示唆していると思われます。
  本や文章を深く認識し、深く理解するためにはこのような意味での「優れた読み手になる」ことが必要になります。その「優れた読み手」になることのなかにはキーンさんが書いているように多くのことが含まれますが、プフナーの言うように、過去の物語を使って自分の見方や考え方をあらわすということも含まれるのではないでしょうか。
  ジェニファー・ニーヴン(石崎比呂美訳)『僕の心がずっと求めていた最高に素晴らしいこと』(辰巳出版、2016年)は、高校3年生のセオドア・フィンチとヴァイオレット・マーキーの男女二人が交互に語り手となって、二人の心の動きを物語るYA小説です。せつない青春の物語ですが、セオドアとヴァイオレットの心の通い合う部分で、ドクター・スースの『きみの行く道』やヴァージニア・ウルフの『波』のなかの言葉が大切な役割を果たしています。言葉が遺されるということは、その言葉を遺したひとがたとえいなくなっても、幾度もその言葉をおとずれることができる、そのことの比類のない輝きを読者の心に伝えます。プフナー流に言えば、「文字の世界(written world)」(=「物語」)が理解の窓となりうることをあらわした小説ではないかと思います(あっさりしとすぎた紹介ですみません。ちなみに、私は思いがけず大きな感動を得ることができました) 。
  「物語」を媒介にして、私たちは自分のなかにある未知の部分を、自分にも他人にもわかりやすい言葉に「翻訳」し、共有しているのかもしれません。もしもそれが果たされるのなら、今までになくお互いを理解することができます。そのきっかけになる言葉を「物語」=「文字の世界」に見つけることができれば、それを繰り返し分かち合うことで、他人や自分についても、そして人生について、深い理解に至ることができるのかもしれません。


2019年10月11日金曜日

ストーリーテリングという人間関係・信頼関係づくりの方法


 いま、『生徒指導をハックする』という本の翻訳準備作業を進めています。
 その中のやり取りで、メンバーの一人が15年前に調査した研究を紹介してくれました。
 その中には、次の質問項目が含まれていました。「従来、問題行動を起こす生徒に対して、教師と生徒との人間関係・信頼関係を構築する様々な教育実践が行われてきました。しかし、荒れている学校においては従来型の方法では限界があるとの論もあります。こうした見解についてどう思われますか。」
これに対する回答者の9割が「従来型の方法には限界がある」と答えていました。しかし、私の興味関心は①「教師と生徒と(および生徒同士)の人間関係・信頼関係を構築する様々な教育実践」とはどんなものがあるのか? ②先生たちが「教師と生徒と(および生徒同士)の人間関係・信頼関係を構築する」方法を知らないという問題があるということか? という方向に向きました。それが、際限のない問題行動や生徒指導をうみ出している背景にあるのか、と?

その時、ちょうどいま読んでいる『Beat Boredom(退屈な授業を葬り去れ!)』の中の以下のような一節を思い出しました。

ストーリーテリングは内容を学ばせるだけではなく、人間関係を作り上げるものでもある。私は教員1年目のとき、生徒たちと人間関係を作りたいと願っていた。しかし、今振り返ってみると、どのようにすれば良いかほとんど知らなかった。(このあと、数人の生徒のこだわり、興味関心、趣味について紹介されていますが、それはほんの一握りの生徒についてのごく一部の情報でしかありませんでした。)自分自身の人生に何を期待するか、何を恐れるか、誰を信頼しているかなどについては十分に話すことができなかった。
ストーリーを共有すると、それが変わる。学校で、生徒たちに私の子どもが生まれて始めて発した言葉や飼い犬の滑稽な仕草、旅行中のちょっとした事件などについて話をした。高校時代にスポーツチームのトライアウトで何度も落とされたこと。初めて新聞社にインターンシップの申し込みをして65回も断りの手紙をもらったこと。両親を認知症で亡くしたこと、その時感じたことや自分自身の変容などについても語った。
それに対して、生徒たちも面白い経験や日々抱えるストレス、家族との休日、兄弟のこと、スポーツでの実績、大好きな映画などについて語ってくれた。中にはかなり個人的な話を、クラス全体や私と共有してくれた生徒もいた。人種や性別に基づいた虐待などについて話してくれたこともあった。暴力事件が家族にどのような影響を与えたか、あるいは、自殺や麻薬の過剰摂取で親を亡くした話などもあった。
いつも物知り顔で横柄な態度の生徒がいた。私たちが、「人権擁護」の授業で、医師自殺幇助や病状末期の親の看護など、患者の死ぬ権利について話していた時、彼は急におとなしくなったのだ。驚いたことに、彼は放課後私の所に来て、この問題についてもっと話したいと言ってきた。彼は、自分自身が体の自由がきかなくなったり、病気の末期の状態になったとしたら、彼の両親にどんな影響を与えるのかを知りたがった。この会話の後、彼は態度を改め、真面目に授業に参加するようになった。
10代の若者(著者は高校で教えています。10代前の小学生も!)は、話を聞いてもらいたいし、認めてもらいたいと思っている。難しい生徒であっても(いや、そのような生徒こそ)そうした思いを持っている。私たちが聞こうとすれば、生徒たちの授業に取り組む姿勢が変わるはずなのである。 Beat Boredom、44~45ページより)

 私たちは原始時代から数万年もストーリーを語り合うことで生きながらえてきました。それこそが人類の99%の歴史の主なコミュニケーションの手段でした。読み書きに移行したのは、ほんの1%にすぎません。
 お互いのストーリーを紹介し合う時間を、ぜひつくってみてください。もちろん、それは口頭だけの必要はありません。「ライティング・ワークショップ/作家の時間」をすでに実践している方は、すでにストーリーを表現することのパワーを体験済みのはずです!
 ストーリーテリングのエピソードを紹介してもいいという方は、pro.workshop@gmail.com宛にぜひお送りください。

2019年10月5日土曜日

自分の立ち位置を「読み手」にする

 9月14日の投稿では、自分の立ち位置を「書き手」にすることについて書きましたが、今日は、自分の立ち位置を「読み手」にすることを考えます。

 ライティング/リーディング・ワークショップでは、「教師が先輩の書き手/読み手の役割を担い、子どもたちを若い書き手、読み手として育てよう」、ということをよく耳にします。「子どもたちを優れた書き手・読み手にしましょう」と言うのは簡単ですが、でも、「優れた書き手・読み手」の定義次第で、見えてくる風景が異なってきそうです。 

 先日、読みについての本★を読み直していました。「読むとは?」や「優れた読み手は。。。」という文が並んでいます。読むとは、「意味をつくりだすこと」「優れた読み手は必要に応じて問題解決のための効果的な方法を使えること」等々は、これまでもよく耳にしてきたことでしたので、あまり気にせずにどんどん読んでいました。

 ところが、優れた読み手について説明している引用があり、ここで思わず立ち止まってしまいました。

・「 優れた読み手とは、学校で課題として出されたから読む人ではなく、読むことを好むようになり、生涯を通して読み続けるような人である」

 「これを学校教育で目指すとどうなるの?」と思って読み直すと、この一つ前の文もチャレンジを感じる文です。

・「優れた読み手とは、短い文章を読み、表面的な解釈の質問に答えられる人ではなく、むしろ多様なトピックについて、よりまとまった量の、より複雑な、教材ではないテキストを読み、それらに対して、思慮深く、批判的に反応できる人である」

 ➡ この2項目のような「優れた読み手」を育てることを「授業の」目標にしようとすると、自分の授業観や「(学習者や自分に)期待すること」を、根本的に見直さざるをえません。

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 『イン・ザ・ミドル』(三省堂)の「少し長めの訳者前書き」中に、「教師が読むことについて伝えている21のこと」について言及している箇所があります(9ページ)。これは、『イン・ザ・ミドル』の著者のアトウェルが、1998年に出版した In the Middle 第2版のなかで、教師が行っていることから、読むことについて生徒に伝えていることを21項目も挙げていることを紹介している箇所です。その中には、例えば、以下のようなものがあります。

1.読むということは難しくて真面目な作業だ。
2.文学は、なおさら難しくて真面目で退屈なものだ。
3.読むというパーフォーマンスは、たった一人の観客に向かってなされる。それは教師だ。
4.文章の解釈には正解がある。それは教師の解釈だ。
5.理解や解釈の「間違い」は許容されない。 
6.生徒たちは、自分で読むべき本を決めることができるほどには、賢くないし、信頼もできない。

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 クラスの人数、教室の図書コーナーの本不足、共通テスト等々、リーディング・ワークショップを実施するのに困難が多いクラスもあると思います。困難が多いときほど、自分が教えていることが、読むことについてどういうメッセージを子どもたちに伝えているのかを、時には書き出して見るのも必要な気がします。
 
 自分の立ち位置を「読み手」にすると、良くも悪くも(?)、自分が読み手として行っていることと、実際に授業で行っていることのギャップが見えやすくなるようにも感じています。

 そして、 制約(やギャップ)が大きいクラスほど、いろいろな制約の中で、自分の立ち位置を「読み手」にして、ギャップに目を向け、それを少しでも埋めれるようにしていく。リーディング・ワークショップはそんな連続の延長線上にあるのかもしれません。

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★Constance Weaver 著の Understanding Whole Language: From Principles to Practice (Heinemann, 1990, 201ページです。201ページの最初は、「読むとは」「優れた読み手とは」という説明が8つ並んでいます。その下に、Sheila Valencia他の書いた Theory and practice in statewide reading assessment: Closing the gap (Educational Leadership 46: 57-63, April 1989) の58ページから引用がされていて、その中に上のの項目も含まれています。