いま、『生徒指導をハックする』という本の翻訳準備作業を進めています。
その中のやり取りで、メンバーの一人が15年前に調査した研究を紹介してくれました。
その中には、次の質問項目が含まれていました。「従来、問題行動を起こす生徒に対して、教師と生徒との人間関係・信頼関係を構築する様々な教育実践が行われてきました。しかし、荒れている学校においては従来型の方法では限界があるとの論もあります。こうした見解についてどう思われますか。」
これに対する回答者の9割が「従来型の方法には限界がある」と答えていました。しかし、私の興味関心は①「教師と生徒と(および生徒同士)の人間関係・信頼関係を構築する様々な教育実践」とはどんなものがあるのか? ②先生たちが「教師と生徒と(および生徒同士)の人間関係・信頼関係を構築する」方法を知らないという問題があるということか? という方向に向きました。それが、際限のない問題行動や生徒指導をうみ出している背景にあるのか、と?
その時、ちょうどいま読んでいる『Beat
Boredom(退屈な授業を葬り去れ!)』の中の以下のような一節を思い出しました。
ストーリーテリングは内容を学ばせるだけではなく、人間関係を作り上げるものでもある。私は教員1年目のとき、生徒たちと人間関係を作りたいと願っていた。しかし、今振り返ってみると、どのようにすれば良いかほとんど知らなかった。(このあと、数人の生徒のこだわり、興味関心、趣味について紹介されていますが、それはほんの一握りの生徒についてのごく一部の情報でしかありませんでした。)自分自身の人生に何を期待するか、何を恐れるか、誰を信頼しているかなどについては十分に話すことができなかった。
ストーリーを共有すると、それが変わる。学校で、生徒たちに私の子どもが生まれて始めて発した言葉や飼い犬の滑稽な仕草、旅行中のちょっとした事件などについて話をした。高校時代にスポーツチームのトライアウトで何度も落とされたこと。初めて新聞社にインターンシップの申し込みをして65回も断りの手紙をもらったこと。両親を認知症で亡くしたこと、その時感じたことや自分自身の変容などについても語った。
それに対して、生徒たちも面白い経験や日々抱えるストレス、家族との休日、兄弟のこと、スポーツでの実績、大好きな映画などについて語ってくれた。中にはかなり個人的な話を、クラス全体や私と共有してくれた生徒もいた。人種や性別に基づいた虐待などについて話してくれたこともあった。暴力事件が家族にどのような影響を与えたか、あるいは、自殺や麻薬の過剰摂取で親を亡くした話などもあった。
いつも物知り顔で横柄な態度の生徒がいた。私たちが、「人権擁護」の授業で、医師自殺幇助や病状末期の親の看護など、患者の死ぬ権利について話していた時、彼は急におとなしくなったのだ。驚いたことに、彼は放課後私の所に来て、この問題についてもっと話したいと言ってきた。彼は、自分自身が体の自由がきかなくなったり、病気の末期の状態になったとしたら、彼の両親にどんな影響を与えるのかを知りたがった。この会話の後、彼は態度を改め、真面目に授業に参加するようになった。
10代の若者(著者は高校で教えています。10代前の小学生も!)は、話を聞いてもらいたいし、認めてもらいたいと思っている。難しい生徒であっても(いや、そのような生徒こそ)そうした思いを持っている。私たちが聞こうとすれば、生徒たちの授業に取り組む姿勢が変わるはずなのである。 (Beat Boredom、44~45ページより)
私たちは原始時代から数万年もストーリーを語り合うことで生きながらえてきました。それこそが人類の99%の歴史の主なコミュニケーションの手段でした。読み書きに移行したのは、ほんの1%にすぎません。
お互いのストーリーを紹介し合う時間を、ぜひつくってみてください。もちろん、それは口頭だけの必要はありません。「ライティング・ワークショップ/作家の時間」をすでに実践している方は、すでにストーリーを表現することのパワーを体験済みのはずです!
ストーリーテリングのエピソードを紹介してもいいという方は、pro.workshop@gmail.com宛にぜひお送りください。
0 件のコメント:
コメントを投稿