2016年2月27日土曜日

春休みのブック・プロジェクトに向けて




 「電車に乗ってバッグを開くと、本がない。すーっと血の気が引いていく。<略>スマホや財布は忘れても本は忘れない。まいった。どうしよう。過呼吸になりかける」
 

上の文は、高学年以降ぐらいの子どものための本をたくさん翻訳している、金原瑞人氏が「これから出る本」(近刊図書情報/3月上期号、2016216日)の8ページ、「本の周辺」というコラムに、「本がない!」という題で書かれていたものからの引用です。

 

本は、私の通勤にも必需品です。本があれば待ち時間もイライラせず、心穏やかに?通勤できます。たとえ、読まなくても、本を持っていないと落ち着きません。


でも、電車の中を見ていると、本を読んでいる人は意外に少ないです。

春休みには少し時間があるこの時期は、「本を読む」ことを、時間を見つけて行いたいことの一つにするための、そして、授業がない時期も本を読むことが生活の一部になることを目指すための、作戦開始? を考える、よい時期かもしれません。

目標は「春休み中の楽しみの一つとして本を読むことが生活にあること」。そのための選択肢の一つとして、ブック・プロジェクトがあるように思います。
 

これはRWの中でも大切な「選択すること」を学んできた子どもたちの、「選択の仕上げ」ともいえるプロジェクトかもしれません。これまでに、自分のための選択ができてきたのかどうかが問われるように思います。

 

自分の興味のあること、自分にプラスになることを考えながら、それぞれのブック・プロジェクトに取り組む、それが春休みに活かせるようにサポートする、これが導入できれば、電車の中でも本も開く大人になっていきそうな気がします。

 

『リーディング・ワークショップ』(ルーシー・カルキンズ著、新評論)12章の「リーディング・プロジェクト」(210ページ)には、ブック・プロジェクトを決めていくためのポイントも載っていますので、以下、簡単に要点を紹介します。

  • 読書生活において、しばらくの間、取り組んでみたいことはないのか? 
  • 興味を持っていることはないのか?
  • お気に入りの本やそれと似た本をたくさん読むためにできることは?
  • 読書家として成長するための自分の課題は? 本を読むことについて目標を決めるとすると?
  • 読むことについて、何でもしてもいい時間があれば、その貴重な時間をどのように使いたいか?
     

 上の質問は、もちろん、教師自身のブック・プロジェクトを決めるうえでも使えると思います。

 

 ブック・プロジェクトと共に楽しい通勤時間をすごしつつ、子どもたちに自分のブック・プロジェクトを話す、そんなことを考えるのも面白いかもしれません。

2016年2月19日金曜日

『セオリー・オブ・ナレッジ―世界が認めた『知の理論』―』と『理解するってどういうこと?』


先日、『セオリー・オブ・ナレッジ―世界が認めた『知の理論』―』(Sue Bastian, Julian Kitching, Ric Sims著 一部抜粋 大山智子訳 後藤健夫編 対談 津田和男/島野雅俊 鼎談 福島浩介/ダッタ・シャミ、日販アイ・ピー・エス、20161月)という本が届きました。本を届けてくださった福島浩介さんは、私の大学の後輩ですが、この本の「鼎談」のなかで「TOKTheory of Knowledge:知の理論)」の授業について次のように言っています。

TOKの授業で、どうして勉強するのだろうか、あるいは、わかるということはどういうことだろうか。他人から答えをもらうのではなくて、自分の中に答えを探す、あるいは自分の中に答えはないから友達と話して考える。さらに、本を読んだり、本の内容とつき合わせたりして、いまここにあったABとをグシャッと混ぜてみたらDができたというようなことが、TOKという授業でもいいし、TOKという理念を取り入れた教科・科目の授業でもいいけれど、それができたならば、それは、もしかしたら学校で生まれるいろいろな問題を解決するかもしれません。「道徳」の授業を超えてしまう。(『セオリー・オブ・ナレッジ』168ページ)

 そして「知ることはどういうことか、なぜ学ぶのか、それらを問うていくうちに、クリティカル・シンキングだけではなく、自分のアイデンティティを見つめることになり、これからの自分の未来を想像する、見つめることになる」ことによって「一面的な見方をしない」ことになり、「あいつはキモい、攻撃しろ」などという発想は浮かびようがなくなるとも言ってもいます。まさしく「知の理論」のもたらす大きな効果でしょう。おそらくそれは、前世紀の終わり頃に、バリー・サンダースが『本が死ぬところ暴力が生まれる―電子メディア時代における人間性の崩壊』(杉本卓訳、新曜社、1998年)で、読み書きすることがなくなれば人は「一面的な見方」でしか対象を捉えなくなり、「暴力」が世界を席巻するという見方を示したのと同じです。「知の理論」とは、福島さんが言っているように学校や世界の「いろいろな問題を解決する」ためのリテラシーのことだからです。
 『セオリー・オブ・ナレッジ』は、「第1部 国際標準を教えるフロンティア」「第2部 セオリー・オブ・ナレッジ:TOKとは」「第3部 「知の理論」を日本で教える」の三部構成の本です。第1部の対談では、TOKが必要となる背景が津田・島田・後藤三氏の対談でわかりやすく語られ、第2部にはTOKのエッセンスが、大山智子さんのこなれた訳文でわかりやすく示されています。先ほどの福島さんの発言はダッタ・シャミさん・後藤健夫さんとの鼎談での対話のなかで引き出されたものです。対話のなかで引き出されたその場での思考の重要性を、TOKの授業が重視するということを、この鼎談とその記録が図らずも示しています(もちろん、既に活字になっているのですから、その場の言葉そのものではないのでしょうが)。
 TOKとは何かということを具体的に知ろうとするなら、この本の第2部を通読することです。第2部は「第1章 TOK概要」「第2章 知るための方法」「第3章 知識の領域」の3章で構成されていますが、先ほども書きましたように、福島さんの発言を踏まえて、私はTOK(知の理論)が〈世界を生きるためのリテラシー〉だと捉えましたので、第2章の「知るための方法」が第2部というだけでなく本書の心臓部だと考えました。そして、この、「言語」「知覚」「理性」「感情」「直観」「記憶」「想像」「信仰」という8つの「知るための方法」のそれぞれは、TOK(知の理論)が国際バカロレア校(IB)のディプロマプログラムの一部であることを超えて、〈世界を生きるためのリテラシー〉を身につけるためのすべての教育に共通するものである(となるように、教育に携わる者が目指さなければならない)と考えます。
 ここのところで本書は『理解するってどういうこと?』と重なって見えてきます。なぜなら、本書の心臓部である第2部で詳述されている「知るための方法」は、まさしくエリンさんの言う「さまざまな理解の種類とその成果」だと思えるからです。たとえば「知るための方法」としての「記憶」という節があります。「記憶」がほんとうに多面的・多角的に掘り下げられていますが、その記述を読み進めると「記憶」が人間と世界を理解するための大切な方法にほかならないということが実感されます。いおや、記憶することそのものが理解の種類に他ならないのです。そしてその成果を実感するために「挑戦してみよう」や「演習」が織り込まれています。しかもそこに答えなど示されていません。答えは自分の頭のなかや友達との対話でしっかり考えて発見していくほかないことだからです。それが自分のつかんだinsightsだというわけなのでしょう。そしてそれは、『理解するってどういうこと?』の最後の第9章「感じるために、記憶するために、理解するために」で、エリンさんが高校2年生になったジャミカ(小学校2年生の時に、エリンさんに「わかるってどういうことか教えてくれたことはなかった」と言い放って、『理解するってどういうこと?』の執筆動機になったジャミカです)に対して語りかけるように書いている、印象的な論述と、それは響き合うものです。

ジャミカ、理解するということは記憶するということよ。理解するということは、長い間一つのアイディアをじっくりと考え続けるということよ。つまり、自分の頭のなかにそのアイディアを置き続けて、自分の一部になるまで何度も繰り返しそれを考えることよ。それは一つのアイディアを理解するために自分から喜んで懸命に取り組んで、たとえはじめはそれをわからなくても、知ろうとしてあらゆる努力をしてわかろうとすることなの。だから他の人と話して、たくさん読んで、読み直して、あなたが答えを持っていそうだなと思う人に尋ねて、さらに考え続けて、それがしっかりと理解できたと納得するまで考えることよ。(『理解するってどういうこと?』356357ページ)

 エリンさんのこうした言葉が先ほどの福島さんの言葉と重なって見えてならないのは、きっと二人の志が同じ方向を向いているからです。

 

2016年2月12日金曜日

書けない子、そして書ける子との接し方

一斉授業で想定する子どもにうまくマッチするのは、実際に教室にいる子どもたちの何割ぐらいでしょうか? 扱う教科やテーマにもよると思いますが、一般的には2~4割でしょうか? もしそれが事実なら、残りの6~8割の子たちにとっての授業とは、どういう意味をもっているのでしょうか? お付き合い? 少なくとも、「夢中で取り組」める時間ではなさそうです。

書けない子との接し方の第1弾第2弾に続いての第3弾です。

クラスの中には、いろんな子がいます。
大きく分けると(これ自体が本当は大雑把過ぎるのですが!)、書けない子と書ける子です。

その特徴をあげると、以下の表(Close Writing  Developing Purposeful Writers in Grade 2-6, by Paula Bourque, p.6)のようになります。



しかし、これは完璧なリストではありませんから、他の要素を気づかれた方は、ぜひ教えてください。

これだけ違った子どもたちに、同じ教え方をしていては、書ける子はさらに書けるようになりませんし、書けない子は書けるようになりません。これが一斉授業の大きな欠陥です。◆
それではどうしたらいいのか?
かなりの部分、第1弾や第2弾で明らかになってきていますが、先の特徴を明らかにしてくれた著者も、両方の書き手への対処の仕方を示してくれているので紹介します。(同上、p.7



さて、対処の大きな違いに納得されましたか?

疑問・質問や実践報告をお待ちしています。

今回紹介したことを、読むこと(読める子と読めない子)には応用できるでしょうか? あるいは、他の教科には??



◆ これは、書くことだけではなくて、すべての教科の一斉授業に言えてしまいますから、とてつもなく大きな問題ですが、日本の教育はこれまで問題として捉えてこなかった気がします!!


2016年2月5日金曜日

保護者も関わりを楽しむRW~『どうぞのいす』から生まれた「どうぞ」ブーム、そして子どもによる読み聞かせへ


 今回のRWWW便りは、保護者との関わりを大切にしながら進めている、小学校2年生の教室からの報告です。保護者も成長し、かつ良いモデルを子どもに示し、それが子どもの成長を助けるという、いい相互作用ができているクラスです。

 このクラスの4月はというと、「書くことも読むことも、とにかく差が大きく、ひらがな表を見て文字を書いている子がいる状態で、授業成立もしていなかった」状態からのスタートでした。

 でも時間が進むにつれて、読み聞かせでつかった『どうぞのいす』から、子どもたちが主人公の心優しいウサギさんを好きになり、うさぎさんが森の仲間達にしたような「どうぞ」という行為を、本をみんなに「どうぞ」したいという気持ちが生まれました。そして、積極的に本を読み、読み書きのつながりを自然に感じ、「どうぞ」ブームが時々起こるようなクラスになっていきます。

先月の状態は、というと、「自分達も読み聞かせをしたい」と、毎週金曜日の朝は子どもたちが行う読み聞かせの時間になったそうです。ペア読書用の単行本を2人で使い、絵本以外の読み聞かせにも挑戦し、保護者の読み聞かせから、自然に学んでいる様子が感じられます。

 さて、このクラスの4月から先月までの様子を簡単にお伝えします。

まず、新学期スタートは『オニじゃないよ おにぎりだよ』(シゲタサヤカ著、えほんの社)の読み聞かせ。これは先生の苗字にご飯の「飯」の字が入っていることや、笑いの起こる楽しい絵本ということで、読み聞かせを楽しむことができるだろうというねらいで選びました。
 
 
 後日、子どもたちの発案で、自分の名前から始まる本を探して、それを読み合ったり、紹介したり、図書館での本さがしにも、子どもたちがアイディアを出したりするようになりました。)

 読み聞かせが軌道に乗ると、考え聞かせも導入し、子どもたちも、先生の考え聞かせに反応して、自分はどう思ったかということも、どんどん発表する姿がでてくるようにもなります。

 そうこうしている間に、普通の読み聞かせでも、最後に「感想いいたい!」とぐんぐん話せるようになり、本を読むことに対するハードルが下がり、ペア読書もできるようになっていきました。

 子どもたちは読み聞かせを楽しみにするだけでなくて、「先生、私のお気に入りの本を持ってきたから皆に読んでほしい」という提案とともに、新しい本がどんどん持ち込まれるようになりました。


 それが可能になったのは、快く貸し出しをしてくれる保護者の存在です。
 
 この先生は「保護者の読み聞かせノート」を作っていますが、保護者が書くコメントに返信を書いたり、保護者のコメントをクラスの子どもたちに紹介することで、双方向のつながりを作り、少しずつ理解を得ていったとのことです。

 ノートのサイズはB5版を裁断して半分にしたもの。小さいのでお互いに負担感なく書けるようです。

 このノートには読んだ本、内容、思ったことなど自由に書けます。保護者は、選書の理由を書いてくれたり、子どもたちが読み聞かせをよく聞いていてよかったと成長を喜んでくれているコメントを書いたりしてくれます。しっかり聞いて、反応している子どもたちの様子をほめてくれたりもするので、それをクラスに伝えると、子どもたちは大喜びです。


 回を重ねるごとに、保護者も、他の人の読み聞かせの方法を取り入れたり、自分が好きな作家の本を選んでくれたりします。子どものことを考えて、行事や季節、学習内容、など様々な視点で工夫を凝らした選書を行ってくれ、保護者も楽しみつつも、学んでいるそうです。

 次第に帰りの会でも、「本を僕も持ってきたので、ほかの人もお家にある本を持ってきてください」と、子どもたちが、自分たちでお願いしあう姿もみられるようになりました。


 『どうぞのいす』の読み聞かせをきっかけに、「どうぞの本」を飾ることにもなり、「○○のどうぞの本」という形で教室にはいろいろな絵本が集まるようになりました。


 その一例として、12月には、読み聞かせに来てくれた保護者がクリスマスの本を置いていってくれたおかげで、クリスマスの本「どうぞ」をするブームになり、こんなにクリスマスの絵本があるなら、クリスマスの話が作れそう!と絵を描いたり、ストーリーを考えたりする子どもまで出てきたそうです。

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 この先生の実践を見ていると、読書家の時間は、保護者にも開かれた時間であり、だからこそ、協力や対話が生まれていくのだなと思います。


 なお、余談ですが、私はこの先生の読み聞かせを聞いたことがありますが、あまりの上手さにビックリしました。教室がうまくいっている先生と、読み聞かせの上手さ・読み聞かせの本の選択の上手さは、深い関係があるように感じています。

 『読書家の時間』(プロジェクト・ワークショップ編、新評論、2014年)の2章「読書環境をつくろうーー読書家の時間をサポートする環境づくり」の中に、「保護者や大人との関わりを活かすーー教室のソフト面」というセクションがあります。48-49ページに「保護者との読み聞かせ交換ノート」について具体的に紹介されています。