2020年2月28日金曜日

新刊案内『教科書をハックする』



 著者のリリア・コセット・レントは、リテラシー(読み書き)に殊の外こだわりをもっている教育者です。20年間、中学高校で国語の教師を務めたあと、Central Florida大学でリテラシー・プロジェクトを立ち上げました。
 そのこだわりは、本書にもふんだんに表現されています。
 8つの章のうち、第3章の「語彙こそが内容」、第4章「学ぶために読む」、第5章「学ぶために書く」は直接的に読み書きに関係する章ですが、第2章「予備知識―学習を定着させるための接着剤」、第6章「学ぶための評価」、第7章「テキストセットで本物の学び」も内容的にはすべて読み書きと言えます。
 第8章の「教科書をハックすることで、ワクワクする学びを実現する」も、聞く話すが中心ですから、リテラシーを扱っていると言えます。
 それが、この本を「WW/RW便り」で紹介する理由でもあります。
 ある意味では、http://wwletter.blogspot.com/2019/08/blog-post_9.htmlで指摘した問題の解決方法を提示している本と言えるのです。
 すでに、http://projectbetterschool.blogspot.com/2020/02/blog-post_23.htmlで第2章と第3章については(簡単ですが)紹介しているので、ここでは「WW/RW便り」らしく、第4章と第5章に焦点を当てます(それぞれ、一つの表に代表させる形で)。

 まず、第4章の「学ぶために読む」は、表4-1(翻訳本の156~157ページ)です。あなたのクラスの生徒の何割ぐらいが、左側の「能動的(主体的)な読み手」で、何割ぐらいが右側の「受動的な読み手」に該当するかを考えながら表の各項目をチェックしてみてください。

 この章では、受動的な読み手を能動的な読み手にするために、「読む前、読んでいる間、読んだあと」にできることが多様に紹介されています。
 「理解のための方法」の説明は、この本ではわずか2ページで紹介されているのみです(アメリカの教師たちにとっては、すでに当たり前になっているからだと思います! しかも、表4-1自体が「理解のための方法」を紹介しているとも言えます)が、『「読む力」はこうしてつける』と『理解するってどういうこと?』で詳しく紹介しています。
 この本では、その「理解のための方法」を練習するための方法として、
  ・二列ノートのメモの取り方
  ・テキストに語り掛ける方法の実演
  ・話し合いの機会の提供
などが紹介されています。

 第5章の「学ぶために書く」は、表5-5(翻訳本の221ページ)です。あなたは、授業でこれらのどのくらいをすでに行っていますか?

 表5-5を実現するための具体的な方法としては、次のようなことが紹介されています(このブログの読者には、なじみ深いのも、そうでないのもあると思います)。
  ・本物の読者を提供する。
  ・生徒に選択肢を提供する。
  ・インタラクティブなノートのとり方を教える。
  ・ジャーナル
  ・RAFTという活動 ~ 『ようこそ、一人ひとりをいかす教室へ』でも紹介されていました
  ・メンター・テキスト ~ このブログで再三紹介しています
  ・フィードバックを提供する
  ・ディジタル・ライティング(ブログ、ウィキ、グーグル・ドキュメント)

 これらについて読み、自分のものにするだけでも本書を購入する価値があると言えるぐらいです。

 180~181ページにかけては、以下のように書かれています。

変化を開始するのに最適な出発点は、「学ぶために書く」ことです。それは、あらゆる教科に自然に当てはまるからです。実際、書くことは、情報を吸収し、読むスキルを強化するための手段であると同時に、ストーリーテリング、振り返り、そして議論のための最適な方法であると言えます 過去三〇年間にわたって書くことの効果を研究してきたナショナル・ライティング・プロジェクト(以下、NWP)注・(National Writing Project)一九七四年の設立以来、書くことを学校教育で教える先駆的な役割をアメリカで果たしてきました。数年前にこれのイギリス版がスタートしていることからも、そのアプローチの仕方が評価されたと言えます。は、書くことが分析、統合、評価、および解釈などの高次の思考スキルを発達させること、および理解するためには書くことが影響していると決定的に結論づけました[参考文献91]。

 上記の2つの章以外も、役立つ情報満載なので、ぜひ手に取ってみてください。


定価   2640円のところ、
1~2冊は2400円(税・送料サービス)、
3冊以上は2200円(税・送料サービス・宅配便での発送)

ご希望の方は、①冊数、②名前、③住所(〒)、④電話番号を 
pro.workshop@gmail.com  にお知らせください。

※ なお1~2冊の場合は、送料を抑えるために割安宅配便を使っているため、到着に若干の遅れが出ることがありますので、予めご理解ください。



2020年2月22日土曜日

作者は賭ける・読者は意味をつくり出す




 J.K.ローリングのハリー・ポッターシリーズの本も長い間よく読まれていますが、それ以前から多くの読者を獲得しているハイ・ファンタジーに『ゲド戦記』シリーズがあります。その最初の巻で、シリーズの中心人物ゲドの少年時代を描いた『影との戦い』(清水真砂子訳、岩波書店)は、中学校国語教科書にも一部が取り上げられたことがありました。作者のアーシュラ・ル=グウィンは20181月に亡くなるまで多彩で旺盛な執筆活動を続けました。私が最初に読んだル=グウィンの本は、両性具有の人々(ゲセン人)のいきるジェンダーのない、二元的な価値観の強くはない社会を描いた『闇の左手』(小尾芙紗訳、ハヤカワ文庫、1978年)でした。『影との戦い』もそうですが、『闇の左手』もまた、強烈なフィクションでありながら、いやフィクションであるからこそ、読者である私を取り巻く人間と社会の特徴を否が応でも意識せざるをえません。ゲセン人の社会を理解するためには、自分のいきる社会を一旦突き放さないといけなくなります。自分が当たり前と思っていたことをずいぶんと見直さなくては理解ができません。

 そのル=グウィンが晩年に「ブログ」を始めますが、そこで発表した文章などをまとめた本が『暇なんかないわ 大切なことを考えるのに忙しくて-ル=グウィンのエッセイ』(谷垣暁美訳、河出書房新社、20201月)です。何でも、ブログを始めるきっかけとなったのは、ポルトガルのノーベル賞作家のジョゼ・サラマーゴのブログだったとのこと。サラマーゴ『白の闇雨沢泰訳、NHK出版、2001年・・・20203月に河出文庫版が出るそうです!)』は私も感銘を受けた小説だったので、思わぬつながりにびっくりです。この本も、エリンさんの『理解するってどういうこと?』と同じように、わかること(理解すること)について大切なことが書かれています。

 たとえば、老年について私たちはどういうことがわかっているでしょう。



「記憶力が健全で思考が活発なら、年寄りの知恵は、驚くべき奥行きと幅を持つ理解力を含むものだろう。知識を集めることに以前より時間をかけることができ、比較や判断に習熟する時間もある。その知識は知的なものかもしれないし、実際的なもの、あるいは、感情にかかわるものであるかもしれない。(中略)/しかし、長生きによってもたらされるこのような生の豊かさは、瞬発力と持久力の減少という脅威にさらされている。知的な対処機構がいかにうまく埋め合わせをするにしても、身体のあちこちの部分の大小の故障が活動を制限し始める。その一方で、記憶力は過剰な負担や抜け落ちに苦しむ。これらの損傷や制限によって、老年における生は次第に衰え、縮小する。そんなことはない、と言っても無駄である。実際にそうなのだから。」(32ページ)



 詩人ロバート・フロストの詩に出てくるカマドムシクイという鳥の発する「衰えて残り少ないものをなんとしよう」という問いに正面から向き合うことが必要だとル=グウィンは言います。「あの問いにはたくさんの答えがある。ちゃんと向き合いさえすれば「衰えて残り少ないもの」の使い道はたくさんある」と言うのです。この見方です。この「衰えて残り少ないもの」にを直視し向き合おうという率直な見方に、いつの間にか還暦を目前にしている自分のどこかを励まされていることに気づくのです。これからの自分の理解の仕方の一つだと思いました。

 もちろん、本や文章の理解の仕方についても大切なことを言っています。「読者からの質問」について物語作者の立場から述べた一節には次のようにあります。



「この本の意味は何ですか? この本のこの出来事の意味は? この物語の意味は? 何を意味しているのか教えてください。

 でも、それは私の仕事じゃないの。あなたの仕事よ。

 私は自分の物語が自分にとって何を意味するのか、少なくとも部分的には知っている。同じ物語が、あなたにとってはまったく違うものを意味することは大いにありうる。そして、1970年にその物語を書いたときに、それが私にとって意味していたことは、1990年にそれが私にとった意味したいたこととも、2011年の今、意味していることとも、まったく異なるかもしれない。誰にとってによせ、それが2022年に意味するであろうことは、1995年に意味していたことと、ずいぶん異なっているだろう。その物語がオレゴン州でもつ意味は、イスタンブールでは理解不可能かもしれない。しかも、その物語がイスタンブールで、作者の私が意図しようもなかった意味を獲得することだってあるかもしれないのだ……。

 (中略)

 書くことは、危険な賭けだ。保証は何もない。一か八かでやってみなくてはならない。私は喜んで賭ける。そうすることが大好きだから。そういうわけで、私の書いたものは読み間違えられ、誤った受け取られ方、誤った解釈をされるだろう――別に構いはしない。それが本物である限り、無視され、抹消され、読まれないこと以外のあらゆる試練に耐えて生き延びるだろう。

 あなたにとって「何を意味するか」は、あくまでもあなたにとっての意味だ。それが自分にとって何を意味するのか見定め難いときに、書いた私に訊きたくなる気持ちはわからなくもない。だけど訊かないでほしい。」(62-63ページ)



 書いた人がその文章の意味のすべてを知っているわけではなく、読者が「作者の私が意図しようもなかった意味」を手に入れることすらあるかもしれないという言葉は、もちろん逃げではありません。むしろ逆です。読者への強いリスペクトを表明しているのです。読んでいる文章が「自分にとって何を意味するのか」ということを考えることは、読者だけにできるかけがえのない大切な理解の仕事であり、書いた人にはけっして触れることのできないことです。自分の仕事を読者自ら放棄しないでほしいと言っているのです。ル=グウィンは「説明し、何を意味しているか、どういう理由で、どういう仕方で、そういう意味のことを意味するのか、話し合う」ことが「いいこと」だと言っています。それが意味をつくり出すことだからです。見事に、エリンさんが『理解するってどういうこと?』で言っていることと合致します。

 「衰えて残り少ないもの」にきちんと向き合い、その使い道についてしっかり考えることも、「衰えて残り少ないもの」の、他ならぬ自分にとっての意味をつくり出すことだから重要なのです。

2020年2月14日金曜日

学年末の読み聞かせに使えそうな詩や本

 今回は学年末に読み聞かせたい詩や本を紹介します。二人の先生からは詩の本も紹介していただきました。私からは、大好きな英語の絵本から、邦訳が出ているものを紹介します。

  まずは、相模原市の小学校で教えている都丸先生からです。今年度は担任がないので、小学校6年生の自分のお子さんを念頭に、「卒業に際して、生きることをあらためて考えるきっかけとなる詩、絵本」を考えてくださいました。

 絵本は、ヨシタケシンスケさんの『このあと どうしちゃおう』です。この絵本は「死」から「生」を考えることができ、この絵本を読んで、とても前向きな気持ちになったので、子どもたちと一緒に読んでみたいと思ったそうです。

 詩は谷川俊太郎さんの『ぼくは ぼく』(童話屋)から、以下が特にお薦めとのことです。

‪「自分をはぐくむ」‬
‪「たったいま」‬
‪「こころの色」‬
‪「すき」‬
‪「生まれたよ ぼく」‬
‪「なんでもいいひとつ」‬
‪「わくわく」‬
‪「くらやみ」‬
‪「えんぴつのうた」‬
‪「いる」
「みえないあみ」
「もどかしい自分」‬

 今回、読み直してみて、「こんなにやさしい言葉で、こんなに深いことが表現できるなんて」と驚いたそうです。例えば、選んでくださった詩の一つ、「えんぴつのうた」は以下のように始まります。

まっしろいかみに
ひとすじの せんをひくとき
あたらしいちへいが ひろがる

<中略> 

かんじる おもう かんがえる
みる きく しるす こころみる
えんぴつとともに
いつも いつまでも

 そういえば、『イン・ザ・ミドル』の著者アトウェルは、ほとんどの授業を「今日の詩」で始めます。詩は短いので短時間で扱えるにもかかわらず、びっくりするぐらい多くのことを学べる・教えられる、とアトウェルは力説しています。(詳しくは『イン・ザ・ミドル』112~117ページ、「毎日読む『今日の詩』」をご参照ください。)

 詩といえば、 神戸で教える知人の先生は、灰谷健次郎の選んだ子どもの詩に、石川文洋氏の写真が合わさった『しりたいねん』(倫書房、1997年)を紹介してくれました。

 やさしい言葉の詩でも、くすっと笑えたり、考えたりできることを教えてくれます。以下の「下駄」という詩などは、アトウェル流にいうと、日常のささいな瞬間をとらえている、事物に語らせる詩?かも、と思います(『イン・ザ・ミドル』226~227ページ参照)

下駄 (明石 孝 11歳)

台所に
僕のぬいだ靴の片方が
ひっくり返っている
妹の下駄は
八の字になっている
母の下駄はそろっている
こんな所にも
僕がいた

 この先生は、上記の本から、「たったひとりだけ」「おやじ」「しりたいねん」「けっこん」などの詩もご紹介くださいました。関西弁の響きを感じるものもあり、「言葉の響き」「観察」など、学年末でなくても、いろいろなミニ・レッスンにも使えそうです。 

 私からは絵本を紹介します。私の場合は、学年末を意識すると、どうしても、自尊感情、自分らしさ、違いを受け入れること、失敗からの立ち上がり、新たな出発というテーマのものが多い気がします。私自身、失敗が多く、自分にがっかりすることが多いからかもしれません。

 まず、『てん』『~っぽい』『そらのいろって』の3部作で有名はピーター・レイノルズから2冊。

・『ほしをめざして』。何かの区切りが「終わり」でなくて、「新たな出発点」であることがよくわかります。

・『ゆめみるハッピードリーマー』。商品紹介を見ると、ADHDの子どもを描いているようですが、自分らしさ、夢など、多くの人が楽しめそうです。 

 エイミー・クラウス・ローゼンタールからも2冊。(なお、ミドルネームのクラウスは、本によってはクローズと書かれています)

・『ディアガール おんなのこたちへ』。 題名のとおり、「女の子へのエール」ですが、このエールは女の子だけにあてはまるものではないと思います。「どうして、著者はこんな題名をつけて、女の子あてにしたのかな?」「女の子にしか、あてはまらないものはあるのかな?」「女の子らしさって何? 誰が決めたの?」等と、広がっていきそうな気もします。

 ・『あひるだってば! うさぎでしょ!』 これは、とにかく大好きな絵本です。自分の見方に固執している間は、何も生まれないことを、しっかり教えてくれます。こういうことを子どもの時に学べば、自分の主張にしがみつき、対立を解消できない大人も減るかも?、と自らも省みつつ思います。

 「メッセージは直球で伝える!」という感じのトッド・パールからは『ピース・ブック』。ピースはこんなに広くとらえられるというのが、よくわかります。ちなみに、インターネットには、英語ですが、この著者自身が読み聞かせているものもあります。

Peace Book は以下です。2分ぐらいです。
https://www.youtube.com/watch?v=QklQ8fWXV8Y

 その他、「失敗してもいい、そうやって人は学ぶのだ」というメッセージを伝える本もあります。書名は It's Okay to Make Mistakes で、著者による読み聞かせは、以下です。こちらも2分ぐらいです。
https://www.youtube.com/watch?v=QZlhN55iJ2Q

 トッド・パールには、それぞれが違ってもいい、という本もあり、それは 『ええやん そのままで』という題名で邦訳がでています。

 R.J.パラシオからは、小説『ワンダー』の絵本版で『みんなワンダー』。小説のエッセンスがしっかり入っています。

 今日、最後に紹介するのは、「いま」という現在を生きること、そして寛容の大切さを、ユーモアたっぷりに教えてくれる、モー・ウィレムズの『エドウィーナ』。恐竜が絶滅している、ということを知らなかった恐竜の話。いやあ、面白かったです。自分にとってはビックリするぐらい大変な事実に直面しても、「今できること」「今を生きること」以外は、どうでもいい、こんな強さもあこがれます。

 これの動画版は、英語ですが、音楽もついているので、ちょっとドラマチックな感じもあって楽しいです。この動画は5分弱です。
 https://www.youtube.com/watch?v=wZTA2HAKli4&list=PLBCzIj7I1kj7FllEJaO0yEKEimGw95AEG&index=29&t=8s

 絵本について書く時間は楽しくて、時間があっという間に過ぎます。忙しい年度末、年度始めですが、いい(絵)本との出合いを楽しみつつ、過ごしたいです。

2020年2月7日金曜日

「本物」の学びをつくり出す「本物」の評価


 かなりの部分、学校で行われている評価は「偽物」が横行しています。単に習慣だからという理由で、行われています。それにどういう意味や価値があるのは考えられることなく。それは、単に「まずい」評価をし続けるだけでなく、そのための準備として何を(=どんな授業)し続けるかと、コインの裏表の関係にありますから、問題は評価の問題にとどまりません。つまり、「テストのために教科書をカバーする授業」ということです。
 そのセットによって、読む力や書く力がついたという経験をもっている人はどれだけいるでしょうか?(いたとしても、極めて少数派のはずです。その大方は、授業やテストに関係なく、元々好きだった可能性が高く、私のように圧倒的多数は、「正解あてっこゲーム」によって、読む力や書く力が身につかないだけでなく、読むことも嫌いにさせられますから、弊害は極めて大きいです。国語の時間は、そういう時間だということです!)
 テストを中心にした「偽物」の評価に対して、少し感情的になってしまったかもしれません。偽物の評価には、テスト以外に何があるかというと、読書感想文、読んだページ数の記録、作文の文字数(原稿用紙を使うこと自体?)、毎年お決まりの題材で書かされることなどが含まれます。要するに、実社会では行われておらず、学校の中だけでしか行われていないもの(=学校ごっこ)です。

 それでは「本物」の評価とは、どういう評価でしょうか?
 それを明らかにする一番いい方法は、優れた読書家たちが実際にしていることを参考にする方法です。

    その本が適しているかどうかを評価するために友達の推薦に耳を傾ける。
    GoodReads★注・様々なジャンルの本のお勧めサイトのことです。日本なら、読書メーターやアマゾンのカスタマーレビューなどに相当します。後者は、関係者による「やらせ」もあり得るので、若干差し引いて読む必要があるようです。★やその他のソーシャルメディアのサイトに書かれたブックレビューを読む。
    本の曖昧さや面白い部分、登場人物の動機や作家のスタイルに目を向けながら他の読み手とのディスカッションに参加する。
    本を評価したりレビューを書いたりする。これは、GoodReadsAmazon、ブログなどへ投稿したり、自分だけの本リストを記録したりするといった形でできる。
    本を読んだ体験を振り返って書いたり、その本の内容についての観察記録をつけたり、特定の種類の人々に対して推薦したりする。これは共有ブログや個人ブログの中で投稿することができる★注・一冊の本だけでこれをやり続けている例が訳者の一人が10年以上書き続けている「ギヴァーの会」のブログです。覗いてみてください。★。
    その面白さについて熱く語ったりその内容を知らせたりするために、友達に本について話をする。
 以上は、現在翻訳中の『Hacking Literacy(学校での読みをハックする)』の70ページに紹介されているリストです。(他に、思いつくものがありましたら、pro.workshop@gmail.com宛に教えてください!)
 最初の2つは、自分の読みたい本探しを継続的にやり続ける部分です。
 3番目は、「ブッククラブに参加する」と言い換えられます。
 3番目も含めて、4番目以降は、主に発信する部分です。3番目は、まだ考えが曖昧でもOKです(Douglas Barnesが1970年代に紹介した「探究的な話し合い(Exploratory Talk)」がもっとも歓迎される話し合いの形態という意味で)。それに対して、4番目以降は自分の考えをかなり確固としたものにした上での発信が求められます。4番目と5番目は書く形で、最後の6番目は口頭で。6番目は、「ブックトークをする」と言い換えられます。
 これらの取り組みを、通常の国語の授業(読むことに関係する単元)でどのくらいやられているでしょうか?
 リーディング・ワークショップ/読書家の時間では、かなり日常化しています。(まだ、読まれていない方は、『リーディング・ワークショップ』『読書家の時間』『イン・ザ・ミドル』『読書がさらに楽しくなるブッククラブ』がおすすめです。)
 『読書家の時間』には、小学生でもみごとなブックトークができてしまう事例が紹介されています。それは、ほとんどどれだけその本を紹介したいかという紹介者の熱と比例関係にあります。
 4番目の本を評価したり、レビューを書いたりすることについては、『イン・ザ・ミドル』とhttp://wwletter.blogspot.com/2020/01/blog-post_24.htmlで紹介されています。

 「本物」の評価の特徴は、他の誰かの参考になる情報を発信すること、つまり具体的な作品/成果物をつくり出すことにありそうです。その過程で、本人の学びは最大化されるという関係です。ある意味では、「指導と評価の一体化」ならぬ「学びと評価の一体化」が実現していると言えます。
 逆に、作品/成果物は作らない従来のテスト的な評価だと、ほとんど「一夜漬け」的な努力でごまかせてしまうので、「本物」の学びもつくり出せません。
 子どもたちがイキイキと主体的に取り組む授業や、単に教科書をカバーする授業から抜け出したいと思っている方には、評価にこそ目をつけることがポイントかもしれません。コインの裏表の関係になっていますから。

2020年2月1日土曜日

熱気球が飛べなくなるとき

 ここしばらく、書名に joy (喜び)という単語の入った、書くこと、読むことについての本を読んでいます。前回(1月24日)の書き込み「読書感想文とレターエッセイの違い」ーー特に「レターエッセイを読むことは楽しいのに、読書感想文を読むことは苦痛」という点からも、読む・書く/学ぶ・教える楽しさはどこにあるのだろう? と思います。また、与えられたテキストを、つまらなそうに、集中できずに眺めている学習者を目にすると、「子どもたち一人ひとりが、今読んでいる本の世界に入り込んでページをめくっている(あるいは、ライティングの授業で取り組み中の作品を夢中になって書いている)」という、一見シンプルに見えることの大切さを痛感します。そして、どうすれば、読む・書く/学ぶ・教える楽しさを、少しでも増やせるの?と考えてしまいます。

 さて、書名に joy (喜び)という単語の入った1冊に、ラルフ・フレッチャー(Ralph Fletcher)氏★が2017年に出版した  Joy Write があります。

(★ ラルフ・フレッチャー氏は、2007年に新評論より出た『ライティング・ワークショップ』の共著者の一人です。長年、ライティング・ワークショップの実践と教員研修に関わってきた優れた教育者であるだけでなく、児童文学を中心とした小説や詩も書いています。邦訳されているものとして、いずれも文研じゅべにーるから、『エイボン家の小さなひみつ』や『フライング・ソロ』等があります。『エイボン家の小さなひみつ』は、楽しいなかにも、悲しみとの向き合い方という要素も織り込まれていて、頷きながら読み返した本の1冊です。)

 この  Joy Write という本の中で、フレッチャー氏は、ライティング・ワークショップを空高く舞い上がる熱気球に喩えています。ライティング・ワークショップは、1980年代後半に、従来型のあまり楽しくない作文の教え方(教師が題を出し、子どもが書いている途中で関わることはあまりなく、提出されたものに点数をつけたり間違いを直したりして、終了)とは異なる教え方として登場しました。

 ライティング・ワークショップはとてもシンプルな枠組みです。最初に短く、全員に役立ちそうなことを教え(ミニ・レッスン)、授業の中核は子どもが自分で選んだトピックで書き(ひたすら書く時間、この間、教師はカンファランスでサポート)、最後に短くみんなで集まり(共有の時間)終わります。(詳しくは『ライティング・ワークショップ』および、日本での実践版『作家の時間』をご参照ください。)

 初めてライティング・ワークショップを紹介されたときに、反発していたアトウェルも、葛藤を経て、ある日、恐る恐る?という感じで、ライティング・ワークショップを行うことにします。そして、その後の教室の様子を、以下のように記しています。

 「その結果は、私も生徒も驚くことばかりでした。まず、生徒たちが書きたい題材をそれぞれにもっていたこと。もっと驚くのは、私がお仕着せの課題を新年度の最初から与え続けていたのに、彼らが面白くて価値のある題材を持ち続けていたこと。そして、教室で書くことにも価値があるとわかったこと。書くことを通してできることがたくさんありました。自分にとって大切なことを探求して見つけ出すこと。問いを投げかけること。問題を解決すること。体験の意味を見出すこと。感情を表現すること。そして読者に感動を与え、楽しませ、説得すること。こんなことができたのです。これは本の中の理想郷の話ではありません。本当のことです。そして私の教室で起こっているのです。とてつもない喜びでした。      『イン・ザ・ミドル』29ページ

 こういう教室の様子から、フレッチャー氏の喩えを借りると、ライティング・ワークショップという熱気球が、「主体的な、優れた書き手」をいう目的地を目指して、空高く飛んでいるイメージが浮かびます。

 しかし、2017年にフレッチャー氏が   Joy Write を出版したのは、氏が多くの教室を訪れるなかで、熱気球が飛びにくくなっているという現状に気づいたからのようです。以下、カッコ内のページ数は、Ralph Fletcher 著のJoy Write (Heinemann社より、2017年出版)のページ数です。

 この本の前半三分の一程度では、ここ何年かの間に、米国のライティング・ワークショップが、教師が選んだジャンルや決まったタイプ・形の文章を書かせる部分が増えてきていること、そして、子どもが選択すること、子どもの喜びや楽しみ、夢中になることが減ってきていることを指摘しています。

 こう書きなさいという指示に従って書くように、という指導がなされるようになってくると、子どもは、自分が書いているものが「自分の作品」という気持ちを持ちにくくなります(21-22ページ)。

→ これは、私は感覚としてわかる気がします。学校や州からの要請で「カバーしなければいけないこと」が増えてくると、その対策に直結するような部分が授業のなかに増えていきます。そのようなライティングの目指すところは、「お手本(模範解答)に近いものを効率よく書くこと」になるだろうと、容易に想像できます。そこには、子どもの個性は重視されませんし、子どもが、書く内容、書き方、構成の仕方等を考える余地も、かなり少ないだろうと思います。

 そのような、教師が「お仕着せ」を与える部分一つひとつを、フレッチャー氏は、熱気球に積み込む荷物と考えています。その数が少なければ、熱気球は空に飛びあがり、目的地に到着することもできるでしょう。しかし、それがどんどん増えていくと、ついに熱気球は飛べなくなってしまいます。

 この本の後半三分の二程度は、そういう現状を打開しようとする対抗策として、フレッチャー氏が「グリーンベルト・ライティング」と名付けた、様々な実践例が、教師と子どもの声、および、子どもの作品と共に紹介されています。そして、その実践で紹介されている子どもの文の面白いこと! 思わず、読まされてしまいます。
 
 私が気になったのは、熱気球がどうして飛べなくなるの? という点でした。

 教師の中には、今日のライティング・ワークショップは、過去よりも、教師主導で教える内容がより明確で、効率的だ、と好意的に評価する人もいるそうです。そうであれば、熱気球は飛び続けることができるのでは? と思います。

 しかし、フレッチャー氏は、多くの教師が、自由度があまりないカリキュラムと、書くことが楽しめない子どもが多くいる教室の間で苦労している(37ページ)と指摘しています。

 ちょうど、ドナルド・マレー氏(Donald M. Murray) の本★を並行して読んでいて、熱気球が飛べなくなるのは、ライティングの教室から「書くこと」の本質が抜け落ちてしまうからだと思いました。

 ある意味、「書くこと」の本質が、飛ぶ原動力なのかなと思いました。

 (★The Essential Don Murray という書名で、Thomas Newkirk とLisa C. Millerの編著で、マレー氏の書いたいろいろなものを集めています。Heinemannより、2009年に出ました。以下、カッコ内のページ数はこの本のページ数です。)

 ドナルド・マレー氏は、ピューリッツアー賞も受賞したジャーナリストでもあり、自らの書くプロセスを読者に明示することで、従来型の書くことの教え方に疑問を投げかけ、「書くことの教え方」に大きく貢献した人です。
 
 マレー氏は、書くこととは、言葉を使うことを通して、経験の中に意味を発見し、それを伝えるプロセスであると考えています。そして、このプロセスは描写でき、理解でき、学ぶことができるものだとも言っています(124ページ)。

 この本も含めて、マレー氏は、一貫して、実際に書き手が行っていることを詳しく記して、それを教えることの中に取り込もうとしてきました。

 学校でのライティングの授業を、「決まったジャンルの、決まった形を効率よく書けるようにする」ことにしてしまうと、形の決まったもの以外を書くときに、「実際に書き手が行っていること」が消えてしまいます。そうなると、「書くこと」の授業って、何を学ぶものなのでしょう。

 ライティング・ワークショップでは、米国で広まり始めた時期には、それぞれの子どもが、書くプロセスのなかで、トピックを選び、いろいろな段階を行ったり来たりしながらも、自分にとってうまくいく書き方をさがしながら、読者に伝わるように、書いていく、そうやって「書き手」としてのアイデンティティも培いながら、書き手としてのスタミナもつけていく、そんな時間がふんだんにあったようです。そのような時間は、マレー氏の言葉の借りれば、意味を発見し、伝えるというプロセスなんだろうと思います。

 ライティング・ワークショップ、あるいは、ライティングという名前の熱気球が飛べなくなったときは、フレッチャー氏が言うように、荷物を積み込み過ぎた可能性ももちろんあります。そして、同時に飛ぶ原動力なっているものがちゃんと確保されているかの確認ができると、安心して飛行が楽しめそうです。