ここしばらく、書名に joy (喜び)という単語の入った、書くこと、読むことについての本を読んでいます。前回(1月24日)の書き込み「読書感想文とレターエッセイの違い」ーー特に「レターエッセイを読むことは楽しいのに、読書感想文を読むことは苦痛」という点からも、読む・書く/学ぶ・教える楽しさはどこにあるのだろう? と思います。また、与えられたテキストを、つまらなそうに、集中できずに眺めている学習者を目にすると、「子どもたち一人ひとりが、今読んでいる本の世界に入り込んでページをめくっている(あるいは、ライティングの授業で取り組み中の作品を夢中になって書いている)」という、一見シンプルに見えることの大切さを痛感します。そして、どうすれば、読む・書く/学ぶ・教える楽しさを、少しでも増やせるの?と考えてしまいます。
さて、書名に joy (喜び)という単語の入った1冊に、ラルフ・フレッチャー(Ralph Fletcher)氏★が2017年に出版した Joy Write があります。
(★ ラルフ・フレッチャー氏は、2007年に新評論より出た『ライティング・ワークショップ』の共著者の一人です。長年、ライティング・ワークショップの実践と教員研修に関わってきた優れた教育者であるだけでなく、児童文学を中心とした小説や詩も書いています。邦訳されているものとして、いずれも文研じゅべにーるから、『エイボン家の小さなひみつ』や『フライング・ソロ』等があります。『エイボン家の小さなひみつ』は、楽しいなかにも、悲しみとの向き合い方という要素も織り込まれていて、頷きながら読み返した本の1冊です。)
この Joy Write という本の中で、フレッチャー氏は、ライティング・ワークショップを空高く舞い上がる熱気球に喩えています。ライティング・ワークショップは、1980年代後半に、従来型のあまり楽しくない作文の教え方(教師が題を出し、子どもが書いている途中で関わることはあまりなく、提出されたものに点数をつけたり間違いを直したりして、終了)とは異なる教え方として登場しました。
ライティング・ワークショップはとてもシンプルな枠組みです。最初に短く、全員に役立ちそうなことを教え(ミニ・レッスン)、授業の中核は子どもが自分で選んだトピックで書き(ひたすら書く時間、この間、教師はカンファランスでサポート)、最後に短くみんなで集まり(共有の時間)終わります。(詳しくは『ライティング・ワークショップ』および、日本での実践版『作家の時間』をご参照ください。)
初めてライティング・ワークショップを紹介されたときに、反発していたアトウェルも、葛藤を経て、ある日、恐る恐る?という感じで、ライティング・ワークショップを行うことにします。そして、その後の教室の様子を、以下のように記しています。
「その結果は、私も生徒も驚くことばかりでした。まず、生徒たちが書きたい題材をそれぞれにもっていたこと。もっと驚くのは、私がお仕着せの課題を新年度の最初から与え続けていたのに、彼らが面白くて価値のある題材を持ち続けていたこと。そして、教室で書くことにも価値があるとわかったこと。書くことを通してできることがたくさんありました。自分にとって大切なことを探求して見つけ出すこと。問いを投げかけること。問題を解決すること。体験の意味を見出すこと。感情を表現すること。そして読者に感動を与え、楽しませ、説得すること。こんなことができたのです。これは本の中の理想郷の話ではありません。本当のことです。そして私の教室で起こっているのです。とてつもない喜びでした。 『イン・ザ・ミドル』29ページ
こういう教室の様子から、フレッチャー氏の喩えを借りると、ライティング・ワークショップという熱気球が、「主体的な、優れた書き手」をいう目的地を目指して、空高く飛んでいるイメージが浮かびます。
しかし、2017年にフレッチャー氏が Joy Write を出版したのは、氏が多くの教室を訪れるなかで、熱気球が飛びにくくなっているという現状に気づいたからのようです。以下、カッコ内のページ数は、Ralph Fletcher 著のJoy Write (Heinemann社より、2017年出版)のページ数です。
この本の前半三分の一程度では、ここ何年かの間に、米国のライティング・ワークショップが、教師が選んだジャンルや決まったタイプ・形の文章を書かせる部分が増えてきていること、そして、子どもが選択すること、子どもの喜びや楽しみ、夢中になることが減ってきていることを指摘しています。
こう書きなさいという指示に従って書くように、という指導がなされるようになってくると、子どもは、自分が書いているものが「自分の作品」という気持ちを持ちにくくなります(21-22ページ)。
→ これは、私は感覚としてわかる気がします。学校や州からの要請で「カバーしなければいけないこと」が増えてくると、その対策に直結するような部分が授業のなかに増えていきます。そのようなライティングの目指すところは、「お手本(模範解答)に近いものを効率よく書くこと」になるだろうと、容易に想像できます。そこには、子どもの個性は重視されませんし、子どもが、書く内容、書き方、構成の仕方等を考える余地も、かなり少ないだろうと思います。
そのような、教師が「お仕着せ」を与える部分一つひとつを、フレッチャー氏は、熱気球に積み込む荷物と考えています。その数が少なければ、熱気球は空に飛びあがり、目的地に到着することもできるでしょう。しかし、それがどんどん増えていくと、ついに熱気球は飛べなくなってしまいます。
この本の後半三分の二程度は、そういう現状を打開しようとする対抗策として、フレッチャー氏が「グリーンベルト・ライティング」と名付けた、様々な実践例が、教師と子どもの声、および、子どもの作品と共に紹介されています。そして、その実践で紹介されている子どもの文の面白いこと! 思わず、読まされてしまいます。
私が気になったのは、熱気球がどうして飛べなくなるの? という点でした。
私が気になったのは、熱気球がどうして飛べなくなるの? という点でした。
教師の中には、今日のライティング・ワークショップは、過去よりも、教師主導で教える内容がより明確で、効率的だ、と好意的に評価する人もいるそうです。そうであれば、熱気球は飛び続けることができるのでは? と思います。
しかし、フレッチャー氏は、多くの教師が、自由度があまりないカリキュラムと、書くことが楽しめない子どもが多くいる教室の間で苦労している(37ページ)と指摘しています。
ちょうど、ドナルド・マレー氏(Donald M. Murray) の本★を並行して読んでいて、熱気球が飛べなくなるのは、ライティングの教室から「書くこと」の本質が抜け落ちてしまうからだと思いました。
ある意味、「書くこと」の本質が、飛ぶ原動力なのかなと思いました。
(★The Essential Don Murray という書名で、Thomas Newkirk とLisa C. Millerの編著で、マレー氏の書いたいろいろなものを集めています。Heinemannより、2009年に出ました。以下、カッコ内のページ数はこの本のページ数です。)
ドナルド・マレー氏は、ピューリッツアー賞も受賞したジャーナリストでもあり、自らの書くプロセスを読者に明示することで、従来型の書くことの教え方に疑問を投げかけ、「書くことの教え方」に大きく貢献した人です。
マレー氏は、書くこととは、言葉を使うことを通して、経験の中に意味を発見し、それを伝えるプロセスであると考えています。そして、このプロセスは描写でき、理解でき、学ぶことができるものだとも言っています(124ページ)。
マレー氏は、書くこととは、言葉を使うことを通して、経験の中に意味を発見し、それを伝えるプロセスであると考えています。そして、このプロセスは描写でき、理解でき、学ぶことができるものだとも言っています(124ページ)。
この本も含めて、マレー氏は、一貫して、実際に書き手が行っていることを詳しく記して、それを教えることの中に取り込もうとしてきました。
学校でのライティングの授業を、「決まったジャンルの、決まった形を効率よく書けるようにする」ことにしてしまうと、形の決まったもの以外を書くときに、「実際に書き手が行っていること」が消えてしまいます。そうなると、「書くこと」の授業って、何を学ぶものなのでしょう。
ライティング・ワークショップでは、米国で広まり始めた時期には、それぞれの子どもが、書くプロセスのなかで、トピックを選び、いろいろな段階を行ったり来たりしながらも、自分にとってうまくいく書き方をさがしながら、読者に伝わるように、書いていく、そうやって「書き手」としてのアイデンティティも培いながら、書き手としてのスタミナもつけていく、そんな時間がふんだんにあったようです。そのような時間は、マレー氏の言葉の借りれば、意味を発見し、伝えるというプロセスなんだろうと思います。
ライティング・ワークショップ、あるいは、ライティングという名前の熱気球が飛べなくなったときは、フレッチャー氏が言うように、荷物を積み込み過ぎた可能性ももちろんあります。そして、同時に飛ぶ原動力なっているものがちゃんと確保されているかの確認ができると、安心して飛行が楽しめそうです。
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