下の文章は、正月休みの間に中学校で国語を教えるK先生が書いてくれたものです。日本でこれまで鮮やかに読書感想文について書かれた文章がこれまでにあったでしょうか?
本文中に出てくる「レターエッセイ」(ナンシー・アトウェルが『イン・ザ・ミドル』の中で紹介している方法です)と比較しているのが分かりやすい一因かもしれません。それでは、お楽しみください。
●なぜ、私(教師)にとって、レターエッセイを読むことは楽しく、読書感想文を読むことは苦痛なのか?
これは、私がRWを実践する中で生まれた素朴な疑問です。
レターエッセイも読書感想文も、本を読んでの反応を記したものですが、両者は「似て非なるもの」だと感じます。私はその違いを、RWの実践経験によって感じるようになりました。
●レターエッセイと読書感想文の違いは何か?
読書感想文は、本を読んでの感想。
レターエッセイは、本に対する批評、解釈、理解。
感想と批評では、使うスキルがまるで違います。感想は思ったことを述べればよい。一方で批評には根拠が必要です。推測や関連付けるスキルも必要です。レターエッセイは書き手を自然と批評家の視点に導き、成長させてくれます。
●私の知る読書感想文とは
これまで私は教師として、読書感想文を「面白い」と思って読んだことがありません。ついでに言えば、自分自身が子どもの頃も、面白い、楽しい、書きたいと思って読書感想文を書いたことは一度もありません。自分の子どもにも、生徒にも書かせたいとは思いません。
かつて、読書感想文コンクールの郡市レベルの審査員をしたことがあります。この審査員という仕事は、本当に苦痛でした。自分が全く読んだこともない、興味もない本の感想が書かれた、およそ指導らしい指導を受けていない2000字にも及ぶ作文を、数時間かけて何本も読み、優劣をつけなければなりません。
現在も各市内の幹事校が、毎年コンクールを運営、審査を行なっています。審査員に駆り出されるのは、いつも現場の国語教師たちです。その国語教師たちも、誤字脱字や文章のねじれを直す程度の「指導」で、出品します。(コンクールには偉い人や組織がからんでいて、コンクール参加の動員圧力がかかり、仕方なく出品する学校もあります。)
コンクールに応募される作品は、その多くが明らかに指導不足(というか、指導以前の問題?)です。引用と意見が混在し、主人公の行動や判断について「私もそう思う」という無条件肯定や、作者の考えと自分の考えを混同した剽窃が多数見られます。
そもそも、審査も、明確な基準が合意されているわけでもなく進み、「なんとなく」審査した教員の主観や、声の大きい教員の好みに引きずられて優劣が決まります。結果、非常にステレオタイプの価値観を、綺麗な字とねじれのない文章で語れたら評価される雰囲気です。
さらに、書き手についての情報は重視されず、書き手の経験や主観が多くなれば読書感想文ではないと判断され評価されません。では、本をどう読めというのでしょう。自分に関連付けることを求めているのか、いないのか、読書感想文とは何なのでしょう。誰が必要としているのでしょう。これを書く力は、生徒の人生において、どんな役に立つというのでしょう。読書感想文には、どんどん疑問が湧いてきます。
●私の知るレターエッセイとは
一方で、RWで書くレターエッセイは、読んでいてとても面白いものです。
引用による根拠の提示と推測による解釈は、生徒の中で軸のある思考と論理を育て、物事の意味を考えさせます。森博嗣さんの『面白いとは何か? 面白く生きるには?』という著書に、「知るという面白さ」「気づくという面白さ」について書かれていました。知るとは知識を得ること。気づくには関連付ける力が必要だということでした。気づくということは、知識をスキルでつないで意味を発見したり、作り出したりするから面白いのだとの話に得心した思いがしました。レターエッセイの深さを補完して説明してくれるような内容でした、
レターエッセイは、目の前の生徒がその場で書くので、書いている時の真剣な眼差しや、本を読み返すしぐさだけでも学びの姿としての感動がありますが、やはり、その場で生徒とのやり取りが成立することが、ポイントです。短いレターエッセイでも、その子なりの読みや受け止め、意見や理解を聞き出しながら、よりよいレターエッセイにするために関わることができます。生徒と直接話して意図を聞き出し、意図通りに表現する方法を考えたり、焦点を絞ったり、授業は毎回あっという間に時間が過ぎていきます。フィードバックを求めた生徒の多くは、その時間のうちに教師からのフィードバックを受け取ることができます。
先日、生徒のためにレターエッセイの見本を作ろうと、絵本を読んで私が短いレターエッセイを書きました。
ところが、私と同じ絵本を読んで書かれた生徒のレターエッセイを見てびっくり! 私の小手先のレターエッセイなど足元にも及ばない、ピュアな感性と深い思考がA4用紙2枚にイラストを交えながら書かれていました。勝負をしたわけではないけれど(笑)、私の完敗でした。
このように、RWのレターエッセイでは、生徒が教師を超えていく様を幾度も目の当たりにすることになります。これは、読書感想文コンクールにはあり得ない現象です。読書感想文は、作者のテーマや世間の期待される価値観を探し、それを肯定的に書くことで評価されるもののように思います。つまりは「正解探し」の部類です。一方でレターエッセイは、本を通して自分の価値観や哲学、思想を「つくる」もので、「正解探し」とは逆の方向へ進む「読むこと」「書くこと」の指導だと言えそうです。
さて、こう考えていくと、読書感想文は学習の手段として適切ではないという疑問が湧くのですが、もう一つ、コンクールというやり方にも問題があるのではないかという気もしてきます。
●「読むこと」「書くこと」指導のために、コンクールは必要だろうか?
私は、読んだことについて書く場合、コンクールよりも、他の書き手との交流や対話の場面の設定の方が必要だし、有効だと考えます。
読書感想文は、その書き方や審査基準の曖昧さに加えて、指導が杜撰であることが問題です。標準的な指導は確立されているのでしょうか。さらに、読みのスキルが曖昧なまま読んで書かれた文章は、読み手に意図が伝わらないまま、コンクールという裁きの場に提出され、バッサリ斬られて終わります。審査員からの良くなるためのフィードバックは一切ありません。ここに、どんな学びがあるというのでしょう。
レターエッセイを読むことや指導が面白いのは、その場で生徒が読み、書いたものについて、明確な知識/スキル/理解の基準をもって、生徒の成長に関与できるからです。
書くこと、読むことは、その優劣を競うよりも、たくさん読んで、書いて、フィードバックして、そのプロセス(サイクル?)の中で成長を支えていくものだと思います。そうしたプロセス(形成的評価)に対して、優劣をランキングで表現・評価する読書感想文コンクールというものは、ブラックボックス審査の結果を一部の入賞者に与えることしかしていません。これは、学校教育に必要な、成長のための評価としてなじまないと強く感じます。
●まとめ
読書感想文において教師は「裁判官」、レターエッセイにおいて教師は「コーチ」。教師の役割は人を育てることだと考えれば、どちらが学校に望まれる姿か、明らかです。
私は「コーチ」として、生徒それぞれの学びを支える存在でありたい。
これが、「なぜ、私にとって、レターエッセイを読むことは楽しく、読書感想文を読むことは苦痛なのか」の答えのように思います。
◆
ということで、今回は「読書感想文・撲滅運動」の呼び掛け文になりえるような文章を紹介しました。これに続く読書感想文を葬り去るための文章が続くことを期待すると同時に、「いや、読書感想文にはこんなにメリットがある」と思わる方は、ぜひその文章をpro.workshop@gmail.com宛にお送りください。喜んで掲載します。