2020年1月24日金曜日

読書感想文 と レターエッセイ の違い


 下の文章は、正月休みの間に中学校で国語を教えるK先生が書いてくれたものです。日本でこれまで鮮やかに読書感想文について書かれた文章がこれまでにあったでしょうか?
本文中に出てくる「レターエッセイ」(ナンシー・アトウェルが『イン・ザ・ミドル』の中で紹介している方法です)と比較しているのが分かりやすい一因かもしれません。それでは、お楽しみください。

●なぜ、私(教師)にとって、レターエッセイを読むことは楽しく、読書感想文を読むことは苦痛なのか?
これは、私がRWを実践する中で生まれた素朴な疑問です。
レターエッセイも読書感想文も、本を読んでの反応を記したものですが、両者は「似て非なるもの」だと感じます。私はその違いを、RWの実践経験によって感じるようになりました。

●レターエッセイと読書感想文の違いは何か?
読書感想文は、本を読んでの感想。
レターエッセイは、本に対する批評、解釈、理解。

感想と批評では、使うスキルがまるで違います。感想は思ったことを述べればよい。一方で批評には根拠が必要です。推測や関連付けるスキルも必要です。レターエッセイは書き手を自然と批評家の視点に導き、成長させてくれます。

●私の知る読書感想文とは
これまで私は教師として、読書感想文を「面白い」と思って読んだことがありません。ついでに言えば、自分自身が子どもの頃も、面白い、楽しい、書きたいと思って読書感想文を書いたことは一度もありません。自分の子どもにも、生徒にも書かせたいとは思いません。

かつて、読書感想文コンクールの郡市レベルの審査員をしたことがあります。この審査員という仕事は、本当に苦痛でした。自分が全く読んだこともない、興味もない本の感想が書かれた、およそ指導らしい指導を受けていない2000字にも及ぶ作文を、数時間かけて何本も読み、優劣をつけなければなりません。

現在も各市内の幹事校が、毎年コンクールを運営、審査を行なっています。審査員に駆り出されるのは、いつも現場の国語教師たちです。その国語教師たちも、誤字脱字や文章のねじれを直す程度の「指導」で、出品します。(コンクールには偉い人や組織がからんでいて、コンクール参加の動員圧力がかかり、仕方なく出品する学校もあります。)

コンクールに応募される作品は、その多くが明らかに指導不足(というか、指導以前の問題?)です。引用と意見が混在し、主人公の行動や判断について「私もそう思う」という無条件肯定や、作者の考えと自分の考えを混同した剽窃が多数見られます。
そもそも、審査も、明確な基準が合意されているわけでもなく進み、「なんとなく」審査した教員の主観や、声の大きい教員の好みに引きずられて優劣が決まります。結果、非常にステレオタイプの価値観を、綺麗な字とねじれのない文章で語れたら評価される雰囲気です。

さらに、書き手についての情報は重視されず、書き手の経験や主観が多くなれば読書感想文ではないと判断され評価されません。では、本をどう読めというのでしょう。自分に関連付けることを求めているのか、いないのか、読書感想文とは何なのでしょう。誰が必要としているのでしょう。これを書く力は、生徒の人生において、どんな役に立つというのでしょう。読書感想文には、どんどん疑問が湧いてきます。

●私の知るレターエッセイとは
一方で、RWで書くレターエッセイは、読んでいてとても面白いものです。
引用による根拠の提示と推測による解釈は、生徒の中で軸のある思考と論理を育て、物事の意味を考えさせます。森博嗣さんの『面白いとは何か? 面白く生きるには?』という著書に、「知るという面白さ」「気づくという面白さ」について書かれていました。知るとは知識を得ること。気づくには関連付ける力が必要だということでした。気づくということは、知識をスキルでつないで意味を発見したり、作り出したりするから面白いのだとの話に得心した思いがしました。レターエッセイの深さを補完して説明してくれるような内容でした、

レターエッセイは、目の前の生徒がその場で書くので、書いている時の真剣な眼差しや、本を読み返すしぐさだけでも学びの姿としての感動がありますが、やはり、その場で生徒とのやり取りが成立することが、ポイントです。短いレターエッセイでも、その子なりの読みや受け止め、意見や理解を聞き出しながら、よりよいレターエッセイにするために関わることができます。生徒と直接話して意図を聞き出し、意図通りに表現する方法を考えたり、焦点を絞ったり、授業は毎回あっという間に時間が過ぎていきます。フィードバックを求めた生徒の多くは、その時間のうちに教師からのフィードバックを受け取ることができます。

先日、生徒のためにレターエッセイの見本を作ろうと、絵本を読んで私が短いレターエッセイを書きました。
ところが、私と同じ絵本を読んで書かれた生徒のレターエッセイを見てびっくり! 私の小手先のレターエッセイなど足元にも及ばない、ピュアな感性と深い思考がA4用紙2枚にイラストを交えながら書かれていました。勝負をしたわけではないけれど()、私の完敗でした。

このように、RWのレターエッセイでは、生徒が教師を超えていく様を幾度も目の当たりにすることになります。これは、読書感想文コンクールにはあり得ない現象です。読書感想文は、作者のテーマや世間の期待される価値観を探し、それを肯定的に書くことで評価されるもののように思います。つまりは「正解探し」の部類です。一方でレターエッセイは、本を通して自分の価値観や哲学、思想を「つくる」もので、「正解探し」とは逆の方向へ進む「読むこと」「書くこと」の指導だと言えそうです。

さて、こう考えていくと、読書感想文は学習の手段として適切ではないという疑問が湧くのですが、もう一つ、コンクールというやり方にも問題があるのではないかという気もしてきます。

●「読むこと」「書くこと」指導のために、コンクールは必要だろうか?
私は、読んだことについて書く場合、コンクールよりも、他の書き手との交流や対話の場面の設定の方が必要だし、有効だと考えます。
読書感想文は、その書き方や審査基準の曖昧さに加えて、指導が杜撰であることが問題です。標準的な指導は確立されているのでしょうか。さらに、読みのスキルが曖昧なまま読んで書かれた文章は、読み手に意図が伝わらないまま、コンクールという裁きの場に提出され、バッサリ斬られて終わります。審査員からの良くなるためのフィードバックは一切ありません。ここに、どんな学びがあるというのでしょう。
レターエッセイを読むことや指導が面白いのは、その場で生徒が読み、書いたものについて、明確な知識/スキル/理解の基準をもって、生徒の成長に関与できるからです。

書くこと、読むことは、その優劣を競うよりも、たくさん読んで、書いて、フィードバックして、そのプロセス(サイクル?)の中で成長を支えていくものだと思います。そうしたプロセス(形成的評価)に対して、優劣をランキングで表現・評価する読書感想文コンクールというものは、ブラックボックス審査の結果を一部の入賞者に与えることしかしていません。これは、学校教育に必要な、成長のための評価としてなじまないと強く感じます。

●まとめ
読書感想文において教師は「裁判官」、レターエッセイにおいて教師は「コーチ」。教師の役割は人を育てることだと考えれば、どちらが学校に望まれる姿か、明らかです。

私は「コーチ」として、生徒それぞれの学びを支える存在でありたい。
これが、「なぜ、私にとって、レターエッセイを読むことは楽しく、読書感想文を読むことは苦痛なのか」の答えのように思います。

 ということで、今回は「読書感想文・撲滅運動」の呼び掛け文になりえるような文章を紹介しました。これに続く読書感想文を葬り去るための文章が続くことを期待すると同時に、「いや、読書感想文にはこんなにメリットがある」と思わる方は、ぜひその文章をpro.workshop@gmail.com宛にお送りください。喜んで掲載します。

2020年1月18日土曜日

本当に重要なものを見極める力






 年のはじめに勤務校の生協でついタイトルに惹かれて手に取ってしまったのが、クリスチャン・マスビアウ(斎藤栄一郎訳)『センスメイキング:本当に重要なものを見極める力』(プレジデント社、2018)です。とくに副題に惹かれたのですが、本書原著副題は邦訳のそれとは若干違っています。what makes human intelligence essential in the age of the algorithm。「このアルゴリズムの時代に、人間の知性にとって必要不可欠なもの」という意味になるでしょうか。邦訳副題は原著副題のへの回答のようなものかもしれません。

 「アルゴリズム」の時代に人間の知性にとって必要不可欠なものこそが「センスメイキング」つまり理解することだと著者のマスビアウは言っています。たとえば「他の文化について何か意味のあることを語る場合、自分自身の文化の土台となっている先入観や前提をほんの少し捨て去る必要がある」(45ページ)と言っています。これは少し堅い言葉ではありますが、何かを「理解」しようとするときの私たちの心の動きを描いています。また、「自分自身の一部を本気で捨て去れば、その分、まったくもって新しい何かが取り込まれる」とも言っています。もしそのようなことになれば、対象を捉えるだけに留まらず、自己について世界について何ごとかを発見することになるのではないでしょうか。それが「洞察力」を得ることだとも筆者は言っています。以前のこのページで紹介したターシャ・ユーリック(中村竜二・樋口武志訳)『insight(インサイト)-いまの自分の正しく知り、仕事と人生を劇的に変える自己認識の力』(英治出版、2019)という本が強調していたのも、また、エリンさんの言うinsightも、「自分自身の一部」を本気で捨ててじっくり考え、「まったくもって新しい何か」を取り込むということなのかもしれません。

マスビアウの言う「センスメイキング」には、「「個人」ではなく「文化」を」「単なる「薄いデータ」ではなく「厚いデータ」を」「「動物園」ではなく「サバンナ」を」「「生産」ではなく「創造性」を」「「GPS」ではなく「北極星」」という五つの「原則」があります。この五つの原則を説明したページには、「理解」にとって大切なことがいくつも書かれています。たとえば次のように。



「薄いデータは、我々が何をするかという行動の面から我々を理解しようとするのに対して、厚いデータは我々が身を置くさまざまな世界と我々がどういう関係を築いているかという面から我々を理解しようとする。」(60ページ)



「ほとんどの人々は、いつまで続くのかわからないまま不確かな状態に置かれることをひどく嫌う。だが、不確かな状態に置かれない限り、新たな理解への道が開かれることはないのである。これこそが、創造性の真の姿なのである。」(70ページ)



 私たちの一つひとつの行動を客観的に示すばかりの「薄いデータ」ではなくて、世界と私たちとの「関係」について教えてくれる「厚いデータ」を手に入れていくことで、私たちは世界も自分も理解することができるようになります。また、「不確かな状態」に置かれることが「新たな理解への道」を開くのだという考え方は、先に引いた「自分自身の一部を本気で捨て去れば、その分、まったくもって新しい何かが取り込まれる」という考え方に通じています。

 また米国の自動車会社「フォード」の対消費者意識を批判的に検討した次のような言葉は、理解行為とは縁遠いように思われるかもしれませんが、大切です。



「だが、こうした消費者の「世界」に対するフォードの理解は乏しかった。つまり、消費者が自らの現実をどのように構築しているのか、フォードはうまく理解できていなかったのである。人間の体内には組織間をつなぐ結合組織というものがあるが、これにたとえるなら、センスメイキングは、失われた結合組織を見出すきっかけになるのだ。」(106ページ)



「失われた結合組織を見出すきっかけ」を把握すること、それはたとえば、文章理解において行間を読みながら、筆者が仕掛けた空所・空白を使って、文章の表面的なしくみの奥にある深いしくみを探っていく営みと共通しているように思われます。そのような「きっかけ」を見出すことができるかどうかは、マスビアウに従うと、経営者にとっても極めて大切なことだということになります。「センスメイキング」すなわち理解することの学びは、人生を豊かに贈っていくための力をそういうふうに育てていくのです。それが「本当に重要なものを見極める力」であることは言うまでもありません。

2020年1月11日土曜日

自分のなかにいる「賢い友人」が選書することの価値


 長年、ライティング/リーディング・ワークショップを、外国語として英語を教えるという枠組みで一緒に学んできた知人が、この年末に手術のために入院をしました。入院中に『アウシュヴィッツのタトゥー係』という本(イギリスで130万部、全世界で300万部を突破した本らしいです。ヘザー・モリス著、金原瑞人他訳、双葉社、2019年)を読んだこと、病院の売店で『週刊文春WOMEN』という雑誌の創刊1周年記念号を見つけて開いてみると、巻頭に近いところに見開き2ページを使って谷川俊太郎の詩が掲載されているのを見つけ、その詩について思ったことなど、入院先からも、読みに関する耳より情報を発信してくれました。

 この知人が、入院前に読んだ 『<いのち>とガン~患者となって考えたこと』(坂井律子著、岩波新書)について思ったことを、「読者が限定されたブログ」で紹介してくれました。

(「読者が限定されたブログ」は、一般に公開せずに、知人と私、そして共に学ぶ仲間にアクセスが限定されています。お互いの省察を深めるために、授業記録を中心に、ここ数年、それぞれが書き続けています。私にはとても大切な学びの場の一つです。)

  『<いのち>とガン~患者となって考えたこと』に関して、知人が「読者が限定されたブログ」に書いた文を読んでいて、この本は、自分にぴったりの本を選んでくれる「賢い友人」★が自分の内側にいるからこそ、選べた本だと思いました。

(★「賢い友人」については、2019年12月20日のWW/RW便り「『おせっかいな友人』から逃れて自分のなかに『賢い友人』を育てる」、およびその中で紹介されていた、森博嗣さんの『読書の価値』(NHK出版新書、2018年)を参照してください。また、私が担当した12月28日のWW/RW便り「ブックトーク雑感」の中でも、この概念に触れています。)
 
 この知人の文を読み、「賢い友人」の価値、そして、言葉の持つ力を実感しました。それは単に「がんと闘っている人」とか「入院前・手術前の人」に限定されたものでもないことも感じました。

 著者の坂井さんも、「生きるための言葉をさがしてーあとがきにかえて」の中で「言葉があってよかった」ということも書かれ、以下のような文を記しています。

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 一方で、「当事者でなければわからない」という言い方や考え方にも与したくない。「子どもは育ててみた人にしかわからない」などの「○○の苦しさや楽しさは○○した人にしかわからない」という閉じた考え方だ。もし「当事者」にしかわからないのであれば、私たち「伝える」仕事の意義はなくなる。「当事者の考えや体験を最大限に尊重しつつ、それを「まず知る」、「想像して共感する」→ 「共感したところから、いっしょに考える」<中略> その「伝える」という行動の基盤となるのは「言葉の力」である。
            『<いのち>とガン~患者となって考えたこと』(225ページ)
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 これを見ていると、自分が使う言葉、人にかける言葉が「閉じた」ものになっていないかとも、考えさせられます。

 知人が、この本について書いた文は、自分のことをよくわかっている「賢い」友人が、自分のなかにいたから選べた本であり、本との個人的な対話です。

 今回のように、1冊の本を読み込み、その本と対話をする。そして、そこから、他の人が学べることが出てくる。私自身、知人の文のおかげで、この本を読み、読んでよかったと思った本でした。また、知人の文から、書き手の目で読んだり、著者の個人的体験から、その体験のない人が学ぶ「閉じていない」読み方も学びました。

 今日のWW/RW便りの後半に、この知人の了承を得て、「閉じたブログ」で紹介してくれた全文を掲載しますが、その前に、私が感じた点を3つ、挙げておきます。
  
1.まず、自分の内側に育った「賢い友人」が選書をしてくれることが、その人にとっていかにパワフルで有益かがわかります。

 この本を読んだことで、知人の入院生活は、具体的に変わりました。

 「この著者から学んだことは、大きくひっくるめて言うと、何事にも主体的に取り組む」ことだと、メールに記し、以下のように伝えてくれました。

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 術後、痛みや吐き気がなかなか引いていかない時、医師に痛みをとってほしいと懇願する気持ちもありましたが、その一方で、どうしたら痛みや吐き気がやわらぐかを自分のこととして考えようとしました。

そして分かったこと。
・痛み止めの薬で痛みを完全に取り除こうと思わないほうがいい。
・効果のある痛み止めほど副作用が強い。副作用で気分がわるくなるのを避けた方が賢明。
・がまんできる程度の痛みが残る程度ならOKとする。
・出歩くようにして、手足を動かすのがよい。
・水を飲むようにして、排泄をうながすと体調の改善によいようだ。
・便通がつくかつかないかと体調、気分の善し悪しとかなり関係がある。
・吐き気が下火になれば、精神的にも前向きになれるので、頭を少しつかうようにした方がいい。→それで、そのようなタイミングでメールを出したり、授業ブログを書いたりしました。
・体調には波がある。いつまでも良いコンディションが続くと楽観しないほうがいい。
*****

2.ライティング・ワークショップで教えてきた知人らしく、手術という大きな出来事の中でも、「書き手」の目で、自分に影響を与えた文を読んでいます。自分に影響を与えた本であることを実感しているからこそ、その上手なところが、よりはっきり見えるのかもしれません。

 一部抜粋します。

*****
  授業では生徒に「この文章にどんな表現の工夫がされているか、探してごらんなさい。」と言っています。その問いかけを自分自身にしてみました。

 書き出しはこうです。

「一週間前、再再発を告げられた。いま再び、化学療法室のリクライニングシートにいる。」
 前置きなし。いきなり我が身に降りかかった現実を簡潔に述べる。そして今自分のいる場所を描写する。NHKのテレビ番組制作に関わってきた人だけに、その文章もテレビのドキュメンタリー番組の冒頭のようです。
 続き。
「内科の先生は副作用が強く出過ぎないよう綿密に薬量を計算してくれ、化学療法室の看護師さんたちは、私が挫けていないか、とても気遣って迎えてくれた。
 感謝するばかりだ。」
 「副作用」ということばが出てきます。再々発という状況の中で、この副作用ということが最大の関心事なのでしょう。(これは本文を読めば納得します。)
 私が感心したのは、医師や看護師がどのような措置をしてくれているか、どのような気遣いをしてくれているか、ということをまず書いている点です。そして「感謝するばかりだ。」ということば。自分の置かれた状況に対する嘆きや、体の症状の訴えを一人称として訴えていません。著者は挫けそうなのに違いありませんが、それを「私が挫けていないか」看護師が気遣ってくれている、という書き方をしている。第三者の視点で書いています。自己の現実に溺れず、ある距離をとって見つめています。このことで私は逆にある緊迫感を感じます。
*****

3.そして、言葉の力を実感した経験は、形を変えて、今後の読み書きの授業に活かされていくようにも思います。
 
 私の知人が、今回の入院の経験や、その前に坂井さんの著書を読んで思ったことを、そのまま、生徒に伝えることはないかもしれません。

 でも、そういう経験を教師がもっていることで、ある時点で、ある時点のその人にしか選べないような本を選ぶこと・選書の大切さ、言葉のもつ力や可能性、本や著者との対話でできることなどを、他の本においても、生徒に伝えていくことができるように思います。

 今回、 知人は「とても良い本にめぐりあいました。本と出会うことで、その本の著者に出会った気持ちです」と記しています。「本と著者と(たとえ著者に会うことがなくても)対話ができますね」と言うときに、実際にそういう経験が土台にあることは大きいと思います。
 
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 では以下、知人が2回にわけて「閉じたブログ」に「『書く』ということ」というタイトルで記した、知人と本との対話をどうぞ!

*****
「書く」ということ(1)

2019年11月の振り返りで、坂井律子著『〈いのち〉とがん』の本にふれました。もう少しくわしく書いておきたいと思って、最初の方を読み返して驚きました。「はじめに」の文章がすごい。文章として上手いというか、読者を惹きつける力があります。もちろん私自身が癌の当事者であるゆえに惹きつけられているという面はあります。しかしそれ以上に、書き手として学べるものがある。
 授業では生徒に「この文章にどんな表現の工夫がされているか、探してごらんなさい。」と言っています。その問いかけを自分自身にしてみました。
 書き出しはこうです。
「一週間前、再再発を告げられた。いま再び、化学療法室のリクライニングシートにいる。」
 前置きなし。いきなり我が身に降りかかった現実を簡潔に述べる。そして今自分のいる場所を描写する。NHKのテレビ番組制作に関わってきた人だけに、その文章もテレビのドキュメンタリー番組の冒頭のようです。
 続き。
「内科の先生は副作用が強く出過ぎないよう綿密に薬量を計算してくれ、化学療法室の看護師さんたちは、私が挫けていないか、とても気遣って迎えてくれた。
 感謝するばかりだ。」
 「副作用」ということばが出てきます。再々発という状況の中で、この副作用ということが最大の関心事なのでしょう。(これは本文を読めば納得します。)
 私が感心したのは、医師や看護師がどのような措置をしてくれているか、どのような気遣いをしてくれているか、ということをまず書いている点です。そして「感謝するばかりだ。」ということば。自分の置かれた状況に対する嘆きや、体の症状の訴えを一人称として訴えていません。著者は挫けそうなのに違いありませんが、それを「私が挫けていないか」看護師が気遣ってくれている、という書き方をしている。第三者の視点で書いています。自己の現実に溺れず、ある距離をとって見つめています。このことで私は逆にある緊迫感を感じます。(ある距離をとって見つめている、ということも、本文を読み進めていくと納得します。)
 続き。
「点滴は落ち続ける。抗がん剤よ効け! 二五シートあるブースのひとつひとつで、皆闘っている。その空間にあっという間に戻ってきた。」
 再びビュジュアルなシーン。続く著者の叫び。「私はこの抗がん剤に効いて欲しいと思った。」などという悠長なことばではありません。そして、化学療法で自分と同じような境遇にいる人がたくさんいる、皆闘っているという説明に続きます。ぐっと画面がワイドになります。
 「あっという間に戻ってきた。」というのは、以前化学療法を受けていた場所に、すぐの再再発でまた戻ってきた。」ということ。「あっという間に」というありふれた表現の奥に様々な著者の思いを想像します。
 続き。
「二か月前、半年の抗がん剤投与で新病変が出ず、手術ができて舞い上がっていた。嬉しい! 仕事を休んでもうすぐ二年だが、これで、もしかすると戻れるかもしれない。術後の傷の痛みがあるなかで書いた年賀状には、一枚一枚力を込めて、春には戻ります、と書いた。」
 「・・・あっという間に戻ってきた。」までが「つかみ」になっていますね。その「つかみ」に至る事情説明が、ここでなされます。どんな気持ちだったかも簡潔に語られています。「嬉しい!」こういったことばの挿入の仕方。上手いですね。年賀状云々のくだりも目に見えるようです。
 続き。
「しかし先週、病院に呼ばれた。出現した新たな転移が、PET(陽電子放射線断層撮影)の画像上で赤く光っていた。敵は強い。」
 事情説明の続きです。「PET(陽電子放射断層撮影)」という用語をきちんと使っています。医療に関する事実を説明するのに、必要な用語は正確に使うというスタンスは、本文全体に一貫しています。「敵は強い。」このような主観的な強いことばを、客観的な説明の間にはさみこむ。これも上手いと思います。
                *
 現実を距離をとって客観的にとらえようとする姿勢。自己に湧き起こる感情の率直な描写。そして他者への感謝。それらを確実にことばにして伝えようという、著者の意志を感じます。
 これで「はじめに」の文章の前半です。後半は、稿を改めて書きます。

「書く」ということ(2)

 坂井律子著『〈いのち〉とガン』の「はじめに」の後半です。
 今回は、少し角度を変えて論じます。少し長くなりますが、後半の約8割ほどを引用します。
 「ずっと励ましてくれている友人、浅井靖子さんが、再再発のことを聞いて、一日数百字でも書けば? と言った。
 私の仕事はテレビ局の制作者。人に何かを伝えるのが仕事だ。だとすれば、職場には戻れなくても、仕事は別の形でしたらどうか? そう言うのだった。
 確かに思っていることを書きたい気持ちはあった。だが、体調はどうか? やる気が続くか?
 そもそも誰が読む?
 だが、もうあまり時間がないかもしれない。
 病気になって感じたこと、考えたこと。勉強したこと、好奇心を掻き立てられたこと。感謝したこと、憤ったこと。医療に携わる人にわかってほしいこと、健康な人にもわかってほしいこと。
 病気になった自分と、伝える仕事をしてきた自分の接点で、いまなし得ることをしてみるべきかもしれない。」
 前半に比べて、一気に文章の勢いが変わっています。なぜこの本を書くことにしたのか、その経緯、そこに至る内面のゆらぎを書き連ねています。逡巡する気持ち、不安、書きたいという意欲。それを丁寧にたどっています。
 ブログ・ジャーナリングを続けている私にも、この作業が必要なのだと思いました。忙しい、書く時間がない。授業のあの場面のことだけなら書けるかも。・・しかし断片的なことだけ書いてどうする? 読んでわかってもらえるか? 自分のためのメモとして書いておけばいい? でもなあ・・・
 その内面のゆらぎのどこかに真実があるかもしれない。あるいは、そのゆらぎを表出することで道筋が見えてくるかもしれない。それこそ、自分自身に対するカンファレンスなのではないか。そんなふうにも思えます。
 坂井さんは、ガンになってからもよく勉強していて、その成果を本の中に盛り込んでいます。また、「医療に携わる人にわかってほしいこと」とあるように、現代の医療のあり方に対する提言も書いています。また、よく言われる「死の受容」についての批判も書いています。たんにパーソナルな体験記ではありません。なにを書くかについての明確な問題意識があります。
 そして、次のように締めくくっています。
「これは、そう思って始める、小さな記録である。きっと生き抜くという自分の気持ちの杖にすぎない。しかし、もし誰かの気持ちのどこかに届くものになれば、とても嬉しい。」
 「自分の気持ちの杖」という表現に打たれました。生き抜くにはその人なりに何らかの「杖」が必要なのでしょうね。私の場合はどうなのか。長崎さんの場合は? 小坂さんの場合は?・・・
 この「はしがき」の日付は 2018年2月20日。「あとがきにかえて」という文章の日付が2018年11月4日。そして逝去したのが11月26日。まさに「あまり時間がない」という予感の中で書かれた本です。出版されたのは、死後、2019年2月20日でした。
 とても良い本にめぐりあいました。本と出会うことで、その本の著者に出会った気持ちです。

2020年1月3日金曜日

新刊案内『だれもが<科学者>になれる!』

 明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
 元日には、こんなのも書きました!


 タイトルは一見、国語とどう関係あるの? と首をひねりたくなるタイトルですが・・・それが、大有りなのです。もともと中学校の先生だったウェンディ―・ソールという大学教授が読み書き(ということは、リーディング・ワークショップとライティング・ワークショップ=RWWW )と理科教育を統合する形でやれないか、と模索し始めたのがきっかけだったのです。
 その実践開発プロジェクトに参加した人の一人が、この本の著者のチャールズ・ピアス先生でした。
 ですから、本のあちらこちらにRWWW を知っている人なら、すぐに気がつく方法が見られます。その筆頭が、探究のサイクルだと思います。

この図とhttps://wwletter.blogspot.com/2012/01/blog-post_28.htmlの「作家のサイクル」や「読書のサイクル」と比較してみてください。似ていると思いませんか?
 日本でも探究学習が注目されはじめていますが、このサイクルを意識した実践ははたしてどれだけあるでしょうか? 探究学習をするということは、このサイクルを生徒たちが自分で回せるようになることを意味しているのです! RWWWで、生徒が自分で作家や読書のサイクルを回せるようにするのと同じで。(それができるようにならないと、自立した書き手、読み手、探究者、学び手にはなれませんから!)
 RWWWは、理科をはじめ他教科の教え方に影響を及ぼしているわけです。そして、理科や算数・数学や社会科の教え方が変わり、そちらでの実践が今度は国語=RWWWの教え方に刺激を与える番です。(日本でそういうことって、起こっていますか?)

 以下に紹介するのは、井久保大介さん(公立中学校の理科教師)のこの本の下訳段階の原稿を読んだ感想です。

・学び方を教える
 『だれもが<科学者>になれる!』と『イン・ザ・ミドル』を読むと、2つの実践には、「教える」「教えない」の二項対立をこえた「学び方を教える」という点で共通しています。しかも、その教え方はどちらも圧倒的に緻密で丁寧。驚くほど準備をして、しっかり教えています。 
 本書では探究心をキャンプファイヤーの火に例えています。火を大きくするには薪を丁寧に組む。そのときは慎重さと忍耐が必要。その通り本書では、問いの立て方から検証可能な問いに変換して、それを実験によって検証し、発見するという探究のプロセスを、教師のカリキュラムによって教えていく。さらに、最終的には火はひとりでに燃え続けるように、火のついた生徒の探究心をどんどん拡げる場を提供する。その教えるプロセスは、決して手放しではなく、むしろかなり明確に学び方、探究の進め方のノウハウを教師から生徒に預け渡しています。

・科学的探究での教師と生徒の関係性
 そういう意味では、まずは教師が自分自身の「科学的探究心を育む」姿勢がないと難しいなと感じました。
 そもそも、教師自身が科学的探究の経験がないのではないか?と思いました。少なくとも、中学校での学びは全員教科書ベースの系統的な学びを経験して来たはずです。教えられるのは系統だった知識しか持ち得ていない? そうなってくると、教師側に生徒と共に探究心を育んでいくような姿勢が問われるのではないでしょうか。
 本書の「はじめに」で、「探究は、教室の生徒たちを驚くべき力で平等にする」とありますが、教師と生徒の関係性も平等にするのかもしれません。

・カリキュラムの捉え方
とはいえ、じゃあ教師は生徒の探究を見守ることが仕事かというと、そうではなく、既存のカリキュラムを利用するという提案が第6章にありました。ここは自分自身に響きました。
「答えは、カリキュラムを終わり(目的)としてではなく、始め(導入)として用いるところにある。」
「理科のカリキュラムは探究にとって価値ある道具になりうる。実際のところ、カリキュラムは予備知識として重要な内容を与えるだけでなく、生徒たちが自らの探究にとりかかるために必要なスキルを磨きもする。」
日本もそうですが、スタンダードのカリキュラムが目的になっているという指摘がすごく腹落ちしました。新学習指導要領では、カリキュラム・マネジメントという言葉で、各教科のカリキュラムを組織的に連携させることで、子どものコンピテンシー、汎用的能力の育成をする、と書かれています。しかしこれは、カリキュラムが目的になっている教科が、いくら束になっても実現されないのではないかと思います。子どもがカリキュラムで学んだことを使う場を与える責任を、カリマネという言葉で棚上げしているようなイメージです。
 カリキュラムは、子どもの科学的探究心を育むための導入として位置付ける。そう考えると、今の教科書に書かれていることをすべて教えていたら時間がないし、探究には必要ないものがたくさんあります。その視点で教えることを精査すれば、もっと明確な教え方が可能になるのではないでしょうか。「教える」か「教えない」ではなく、「子どもの自立的な学びを呼び覚ますために何を教えるべきか」です。私は第6章「カリキュラムを使いこなす」がかなり印象的でした。

・読むこと
 では何を教えるか?というところで、本書では読むことを教えるのをとても大事にしています。これまでの理科の授業は、文献は教科書と、あっても資料集1冊。しかも教科書や資料集には、参考文献が全く示されていません。知識のリソースが教科書だけです。大人になって何か学ぼうとするとき、本を探して、選んで買い、読むことから始まります。そのプロセスを学ぶ場が学校にありません。そこに大きな違和感があります。「教師は本を読まない」とよく指摘されますが、まさに教師自身が学び方を知らないのではないか、とも思います。私自身、恥ずかしながら、「学ぶためには本が大事だ」と実感したのは大学院に入ってからです。

・書くこと
 あとは書くこと。本書には初めワークシートに自分の考えを書かせる活動が多いですが、徐々にワークシートによる制約を少なくして、子どもに書かせる部分を多くしている印象を受けます。
 日本でも実験のレポートを書かせていますが、誰に対して、何のために書くのかということが明確ではありません。伝えたい相手のいないレポートなど、誰が書きたくなるでしょうか。
 本書では、いろいろな相手に伝えるために文章を書くことが子どもに求められています。研究費を取るために予算の執行委員に計画書を書く、探究する時間を確保するために親や先生に契約書を書く、実験レポートや論文はクラスメイト、他のクラスの子、さらにこれからやってくる後輩に対して探究の成果を伝えるために書く。書くということが、自分の探究を伝え広めて、さらなる探究のきっかけとなることを体験的に学んでいきます。
 この点は、ライティング・ワークショップでも同様ではないでしょうか。

・子ども探究学会
 あと特徴的なものが、子ども探究学会です。発信の機会が与えられているということ。私の実践で高校の先生や大学の物理学科の学生を発表会に呼んだだけでも、生徒たちの探究への熱というかやる気がぐっと高まっていたような気がします。
 本書の探究学会は、他校との交流もある大きなもので驚きました。場所を企業が提供していることも、子どもの本物度を上げる要素になっていると思います。子ども探究学会は、ペーパーテストで評価するよりはるかに効果的な評価だと思います。
 
・これからの実践に向けて
 本書の実践をそっくりそのままやることは非常に難しいかもしれません。この実践は作者とその時の子どもたちのトライアンドエラーの積み重ねによって生まれた、作者と子どもたちだけの実践であることを意識しておく必要があると思います。作者も本書冒頭で、「教室に探究を持ち込むための唯一の正解は無い」と述べています。教師がそのときの子どもたちと作り上げる実践こそ探究理科であると捉えて、自分なりの実践を行っていくことが大事なのだと思います。


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