2020年1月11日土曜日

自分のなかにいる「賢い友人」が選書することの価値


 長年、ライティング/リーディング・ワークショップを、外国語として英語を教えるという枠組みで一緒に学んできた知人が、この年末に手術のために入院をしました。入院中に『アウシュヴィッツのタトゥー係』という本(イギリスで130万部、全世界で300万部を突破した本らしいです。ヘザー・モリス著、金原瑞人他訳、双葉社、2019年)を読んだこと、病院の売店で『週刊文春WOMEN』という雑誌の創刊1周年記念号を見つけて開いてみると、巻頭に近いところに見開き2ページを使って谷川俊太郎の詩が掲載されているのを見つけ、その詩について思ったことなど、入院先からも、読みに関する耳より情報を発信してくれました。

 この知人が、入院前に読んだ 『<いのち>とガン~患者となって考えたこと』(坂井律子著、岩波新書)について思ったことを、「読者が限定されたブログ」で紹介してくれました。

(「読者が限定されたブログ」は、一般に公開せずに、知人と私、そして共に学ぶ仲間にアクセスが限定されています。お互いの省察を深めるために、授業記録を中心に、ここ数年、それぞれが書き続けています。私にはとても大切な学びの場の一つです。)

  『<いのち>とガン~患者となって考えたこと』に関して、知人が「読者が限定されたブログ」に書いた文を読んでいて、この本は、自分にぴったりの本を選んでくれる「賢い友人」★が自分の内側にいるからこそ、選べた本だと思いました。

(★「賢い友人」については、2019年12月20日のWW/RW便り「『おせっかいな友人』から逃れて自分のなかに『賢い友人』を育てる」、およびその中で紹介されていた、森博嗣さんの『読書の価値』(NHK出版新書、2018年)を参照してください。また、私が担当した12月28日のWW/RW便り「ブックトーク雑感」の中でも、この概念に触れています。)
 
 この知人の文を読み、「賢い友人」の価値、そして、言葉の持つ力を実感しました。それは単に「がんと闘っている人」とか「入院前・手術前の人」に限定されたものでもないことも感じました。

 著者の坂井さんも、「生きるための言葉をさがしてーあとがきにかえて」の中で「言葉があってよかった」ということも書かれ、以下のような文を記しています。

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 一方で、「当事者でなければわからない」という言い方や考え方にも与したくない。「子どもは育ててみた人にしかわからない」などの「○○の苦しさや楽しさは○○した人にしかわからない」という閉じた考え方だ。もし「当事者」にしかわからないのであれば、私たち「伝える」仕事の意義はなくなる。「当事者の考えや体験を最大限に尊重しつつ、それを「まず知る」、「想像して共感する」→ 「共感したところから、いっしょに考える」<中略> その「伝える」という行動の基盤となるのは「言葉の力」である。
            『<いのち>とガン~患者となって考えたこと』(225ページ)
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 これを見ていると、自分が使う言葉、人にかける言葉が「閉じた」ものになっていないかとも、考えさせられます。

 知人が、この本について書いた文は、自分のことをよくわかっている「賢い」友人が、自分のなかにいたから選べた本であり、本との個人的な対話です。

 今回のように、1冊の本を読み込み、その本と対話をする。そして、そこから、他の人が学べることが出てくる。私自身、知人の文のおかげで、この本を読み、読んでよかったと思った本でした。また、知人の文から、書き手の目で読んだり、著者の個人的体験から、その体験のない人が学ぶ「閉じていない」読み方も学びました。

 今日のWW/RW便りの後半に、この知人の了承を得て、「閉じたブログ」で紹介してくれた全文を掲載しますが、その前に、私が感じた点を3つ、挙げておきます。
  
1.まず、自分の内側に育った「賢い友人」が選書をしてくれることが、その人にとっていかにパワフルで有益かがわかります。

 この本を読んだことで、知人の入院生活は、具体的に変わりました。

 「この著者から学んだことは、大きくひっくるめて言うと、何事にも主体的に取り組む」ことだと、メールに記し、以下のように伝えてくれました。

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 術後、痛みや吐き気がなかなか引いていかない時、医師に痛みをとってほしいと懇願する気持ちもありましたが、その一方で、どうしたら痛みや吐き気がやわらぐかを自分のこととして考えようとしました。

そして分かったこと。
・痛み止めの薬で痛みを完全に取り除こうと思わないほうがいい。
・効果のある痛み止めほど副作用が強い。副作用で気分がわるくなるのを避けた方が賢明。
・がまんできる程度の痛みが残る程度ならOKとする。
・出歩くようにして、手足を動かすのがよい。
・水を飲むようにして、排泄をうながすと体調の改善によいようだ。
・便通がつくかつかないかと体調、気分の善し悪しとかなり関係がある。
・吐き気が下火になれば、精神的にも前向きになれるので、頭を少しつかうようにした方がいい。→それで、そのようなタイミングでメールを出したり、授業ブログを書いたりしました。
・体調には波がある。いつまでも良いコンディションが続くと楽観しないほうがいい。
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2.ライティング・ワークショップで教えてきた知人らしく、手術という大きな出来事の中でも、「書き手」の目で、自分に影響を与えた文を読んでいます。自分に影響を与えた本であることを実感しているからこそ、その上手なところが、よりはっきり見えるのかもしれません。

 一部抜粋します。

*****
  授業では生徒に「この文章にどんな表現の工夫がされているか、探してごらんなさい。」と言っています。その問いかけを自分自身にしてみました。

 書き出しはこうです。

「一週間前、再再発を告げられた。いま再び、化学療法室のリクライニングシートにいる。」
 前置きなし。いきなり我が身に降りかかった現実を簡潔に述べる。そして今自分のいる場所を描写する。NHKのテレビ番組制作に関わってきた人だけに、その文章もテレビのドキュメンタリー番組の冒頭のようです。
 続き。
「内科の先生は副作用が強く出過ぎないよう綿密に薬量を計算してくれ、化学療法室の看護師さんたちは、私が挫けていないか、とても気遣って迎えてくれた。
 感謝するばかりだ。」
 「副作用」ということばが出てきます。再々発という状況の中で、この副作用ということが最大の関心事なのでしょう。(これは本文を読めば納得します。)
 私が感心したのは、医師や看護師がどのような措置をしてくれているか、どのような気遣いをしてくれているか、ということをまず書いている点です。そして「感謝するばかりだ。」ということば。自分の置かれた状況に対する嘆きや、体の症状の訴えを一人称として訴えていません。著者は挫けそうなのに違いありませんが、それを「私が挫けていないか」看護師が気遣ってくれている、という書き方をしている。第三者の視点で書いています。自己の現実に溺れず、ある距離をとって見つめています。このことで私は逆にある緊迫感を感じます。
*****

3.そして、言葉の力を実感した経験は、形を変えて、今後の読み書きの授業に活かされていくようにも思います。
 
 私の知人が、今回の入院の経験や、その前に坂井さんの著書を読んで思ったことを、そのまま、生徒に伝えることはないかもしれません。

 でも、そういう経験を教師がもっていることで、ある時点で、ある時点のその人にしか選べないような本を選ぶこと・選書の大切さ、言葉のもつ力や可能性、本や著者との対話でできることなどを、他の本においても、生徒に伝えていくことができるように思います。

 今回、 知人は「とても良い本にめぐりあいました。本と出会うことで、その本の著者に出会った気持ちです」と記しています。「本と著者と(たとえ著者に会うことがなくても)対話ができますね」と言うときに、実際にそういう経験が土台にあることは大きいと思います。
 
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 では以下、知人が2回にわけて「閉じたブログ」に「『書く』ということ」というタイトルで記した、知人と本との対話をどうぞ!

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「書く」ということ(1)

2019年11月の振り返りで、坂井律子著『〈いのち〉とがん』の本にふれました。もう少しくわしく書いておきたいと思って、最初の方を読み返して驚きました。「はじめに」の文章がすごい。文章として上手いというか、読者を惹きつける力があります。もちろん私自身が癌の当事者であるゆえに惹きつけられているという面はあります。しかしそれ以上に、書き手として学べるものがある。
 授業では生徒に「この文章にどんな表現の工夫がされているか、探してごらんなさい。」と言っています。その問いかけを自分自身にしてみました。
 書き出しはこうです。
「一週間前、再再発を告げられた。いま再び、化学療法室のリクライニングシートにいる。」
 前置きなし。いきなり我が身に降りかかった現実を簡潔に述べる。そして今自分のいる場所を描写する。NHKのテレビ番組制作に関わってきた人だけに、その文章もテレビのドキュメンタリー番組の冒頭のようです。
 続き。
「内科の先生は副作用が強く出過ぎないよう綿密に薬量を計算してくれ、化学療法室の看護師さんたちは、私が挫けていないか、とても気遣って迎えてくれた。
 感謝するばかりだ。」
 「副作用」ということばが出てきます。再々発という状況の中で、この副作用ということが最大の関心事なのでしょう。(これは本文を読めば納得します。)
 私が感心したのは、医師や看護師がどのような措置をしてくれているか、どのような気遣いをしてくれているか、ということをまず書いている点です。そして「感謝するばかりだ。」ということば。自分の置かれた状況に対する嘆きや、体の症状の訴えを一人称として訴えていません。著者は挫けそうなのに違いありませんが、それを「私が挫けていないか」看護師が気遣ってくれている、という書き方をしている。第三者の視点で書いています。自己の現実に溺れず、ある距離をとって見つめています。このことで私は逆にある緊迫感を感じます。(ある距離をとって見つめている、ということも、本文を読み進めていくと納得します。)
 続き。
「点滴は落ち続ける。抗がん剤よ効け! 二五シートあるブースのひとつひとつで、皆闘っている。その空間にあっという間に戻ってきた。」
 再びビュジュアルなシーン。続く著者の叫び。「私はこの抗がん剤に効いて欲しいと思った。」などという悠長なことばではありません。そして、化学療法で自分と同じような境遇にいる人がたくさんいる、皆闘っているという説明に続きます。ぐっと画面がワイドになります。
 「あっという間に戻ってきた。」というのは、以前化学療法を受けていた場所に、すぐの再再発でまた戻ってきた。」ということ。「あっという間に」というありふれた表現の奥に様々な著者の思いを想像します。
 続き。
「二か月前、半年の抗がん剤投与で新病変が出ず、手術ができて舞い上がっていた。嬉しい! 仕事を休んでもうすぐ二年だが、これで、もしかすると戻れるかもしれない。術後の傷の痛みがあるなかで書いた年賀状には、一枚一枚力を込めて、春には戻ります、と書いた。」
 「・・・あっという間に戻ってきた。」までが「つかみ」になっていますね。その「つかみ」に至る事情説明が、ここでなされます。どんな気持ちだったかも簡潔に語られています。「嬉しい!」こういったことばの挿入の仕方。上手いですね。年賀状云々のくだりも目に見えるようです。
 続き。
「しかし先週、病院に呼ばれた。出現した新たな転移が、PET(陽電子放射線断層撮影)の画像上で赤く光っていた。敵は強い。」
 事情説明の続きです。「PET(陽電子放射断層撮影)」という用語をきちんと使っています。医療に関する事実を説明するのに、必要な用語は正確に使うというスタンスは、本文全体に一貫しています。「敵は強い。」このような主観的な強いことばを、客観的な説明の間にはさみこむ。これも上手いと思います。
                *
 現実を距離をとって客観的にとらえようとする姿勢。自己に湧き起こる感情の率直な描写。そして他者への感謝。それらを確実にことばにして伝えようという、著者の意志を感じます。
 これで「はじめに」の文章の前半です。後半は、稿を改めて書きます。

「書く」ということ(2)

 坂井律子著『〈いのち〉とガン』の「はじめに」の後半です。
 今回は、少し角度を変えて論じます。少し長くなりますが、後半の約8割ほどを引用します。
 「ずっと励ましてくれている友人、浅井靖子さんが、再再発のことを聞いて、一日数百字でも書けば? と言った。
 私の仕事はテレビ局の制作者。人に何かを伝えるのが仕事だ。だとすれば、職場には戻れなくても、仕事は別の形でしたらどうか? そう言うのだった。
 確かに思っていることを書きたい気持ちはあった。だが、体調はどうか? やる気が続くか?
 そもそも誰が読む?
 だが、もうあまり時間がないかもしれない。
 病気になって感じたこと、考えたこと。勉強したこと、好奇心を掻き立てられたこと。感謝したこと、憤ったこと。医療に携わる人にわかってほしいこと、健康な人にもわかってほしいこと。
 病気になった自分と、伝える仕事をしてきた自分の接点で、いまなし得ることをしてみるべきかもしれない。」
 前半に比べて、一気に文章の勢いが変わっています。なぜこの本を書くことにしたのか、その経緯、そこに至る内面のゆらぎを書き連ねています。逡巡する気持ち、不安、書きたいという意欲。それを丁寧にたどっています。
 ブログ・ジャーナリングを続けている私にも、この作業が必要なのだと思いました。忙しい、書く時間がない。授業のあの場面のことだけなら書けるかも。・・しかし断片的なことだけ書いてどうする? 読んでわかってもらえるか? 自分のためのメモとして書いておけばいい? でもなあ・・・
 その内面のゆらぎのどこかに真実があるかもしれない。あるいは、そのゆらぎを表出することで道筋が見えてくるかもしれない。それこそ、自分自身に対するカンファレンスなのではないか。そんなふうにも思えます。
 坂井さんは、ガンになってからもよく勉強していて、その成果を本の中に盛り込んでいます。また、「医療に携わる人にわかってほしいこと」とあるように、現代の医療のあり方に対する提言も書いています。また、よく言われる「死の受容」についての批判も書いています。たんにパーソナルな体験記ではありません。なにを書くかについての明確な問題意識があります。
 そして、次のように締めくくっています。
「これは、そう思って始める、小さな記録である。きっと生き抜くという自分の気持ちの杖にすぎない。しかし、もし誰かの気持ちのどこかに届くものになれば、とても嬉しい。」
 「自分の気持ちの杖」という表現に打たれました。生き抜くにはその人なりに何らかの「杖」が必要なのでしょうね。私の場合はどうなのか。長崎さんの場合は? 小坂さんの場合は?・・・
 この「はしがき」の日付は 2018年2月20日。「あとがきにかえて」という文章の日付が2018年11月4日。そして逝去したのが11月26日。まさに「あまり時間がない」という予感の中で書かれた本です。出版されたのは、死後、2019年2月20日でした。
 とても良い本にめぐりあいました。本と出会うことで、その本の著者に出会った気持ちです。

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