「思考のレッスン」スピンオフ⑤です。
なんと、「書評のレッスン」をテーマにしたインタビューも、丸谷さんがしていたのを発見してしまいました!!(『いろんな色のインクで』というタイトルの本の中で。)
以下は、そのメモです。数字は、ページ数。(青字斜体は、私のコメントです。)
●レッスン1 イギリスに学ぶ、あざやかな語り口
16 僕が書評を書くようになったのは、イギリスの書評を読んで面白いと思ったからです。面白いし、非常に大事なものだと思った。20代の後半の頃、イギリスから雑誌や新聞がようやく来はじめて、それを読んで興奮したんですね。それでこういうものが日本にもあるといいなあと思ったわけです。 ~ この感覚はとても大切だと思います。私がERICを作って国際理解教育絡みの方法(=参加体験型の学び)を紹介し始めたのも、WWやRWを紹介し始めたのも、まったく同じ動機でした。とにかく面白い!! こんなに面白いのを自分だけで面白がっていては申し訳ない、と。だれも面白くないものを、時間をかけて紹介しようとは思いませんから。でも、「面白い!!」と思える刺激がいまだに少なすぎるのが日本の教育界ではないでしょうか。すべての原因は、教科書にあるような気が・・・ 学ぶことは、とてつもなく面白いし、発見の連続なのに。
17 昭和20代の後半ですが、僕はほとんど日本の本を買ったことがなかった。一般向きであるけれど程度の高い知的な読物、それをどう書けばいいかという技術を日本人がまだ身につけていなかった時代です。たとえば貝塚茂樹先生が監修した『古代殷帝国』という本がありました。あれは最新の知識を素人向きに書く能力のある人が日本の学者にいないことを、じつによく示す本でした。なぜかというと、当たり前のことですが、そういうものを読む読者がいなかったわけですね。結局、知的な読者がいない。
当時、『古代殷帝国』を友だちが絶賛したんで、僕は読んでみたんですが、呆れ返って、なんてひどい書き方だといったんです。そしたらその友だちが憮然として、なんかぶつぶつ擁護してたけど、しかし全体の出来ばえとしてはほんとにへんな本だった。何人もが分担して書いた本で、ごたごたしてましたね。学者が知的な内容を論文形式以外の形で伝えることができなかったわけです。無味乾燥な論文という様式は知っている。しかしそれ以外の様式、容れ物を知らない。そういう状態でした。 ~ 悲しいかな、学者さんたちが書くものの多くは、この状態をいまだに脱していません。それが、日本人全体の知的レベルがなかなか上がらない大きな要因になっています。あのバカバカしいテレビを見せられ続けて、上がるはずもありませんし・・・。
18 それでイギリスの書評がなぜあんなにいいのかというと、書評はなんのためにあるかというのと同じだけれども、要するに本を選ぶ、本を買う、その実際の役にたつわけです。それが第一ですね。 ~ 某新聞(丸谷さんが書いていた新聞とは、違います)を10年以上読んでいましたが、選ぶ/買うに役立った経験は、数える程しかありませんでした。ということは、機能を果たしていない、ということ。そもそもの目的を新聞社が理解していないということ!
第二は、その中に書いてあることの一応の要約、紹介がある。実際は本を読まない人でも、一応それを読めば間に合うわけですね。もちろんそれにはおのずから、評価が含まれることになるでしょう。
第三として、書評を書く人間の藝とか趣向とか語り口とか、そういうものを面白がるということがありますね。これがいちばん高度な段階なわけです。 ~ 上記の某新聞の書評には、これがまったく感じられませんでした!!
この3つがあって、この3つのことが渾然と一体になったときにいい書評ができるわけです。 ~ そういえば、上記の某新聞は、そもそも選ぶ本が悪かったような気がします。従って、要約・紹介しかないので、読もうという気にさせない! ということは、書評の役割を果たしていない。
本の選ぶ方にだって、筋の要約にだって、もちろん藝が必要なわけです。しかし、書評家の藝の中の藝は、語り口ですね。ここが面白くならないとうまくいかないんです。 ~ これが最大の理由、というかツボ!! 殊に最初の何行かは腕の見せどころでしょう。
20 才人たちが腕くらべをするのがイギリスの書評なんですよ。だから退屈しないんです。
アントニー・バージェスの本(『ナポレオン交響曲』他)と書評は超一流
ジュリアン・バーンズ(『フローベルの鸚鵡』)
22 学識や鑑賞眼はもちろん必要ですが、藝がないと伍していかれないわけですね。読者が無藝大食みたいな書評家の存在を許さないわけでしょう。
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●レッスン2 誰に向けて、何枚書くか
24 日本の書評がどうも冴えないことが多いのは、なんといっても短いからしどころがない。たとえばどんな名優であろうと、一分間でなんか藝をしてみせろっていわれたら困るでしょう。
丸谷さんが評価している書評家: 山内昌之、日高晋
25 ある一冊の本を取り上げてそれを論じる、あるいは推薦するということは、単にそれはいい本だからお読みなさいよ、面白いですよというだけではない。これはこの手の本の中でどういう位置を占めている本であって、それだから推薦できますよという見通しが推薦者の心の中にはなきゃならない。・・・そのためには枚数が要求されるんです。
27 書評の中身で、もう一つ、読み方についての注意というのが大事です。たとえばこの本は第一部はやめて第二部から読めとか、うんと長い序文がついているけれども、これはくだらないから読まないほうがいいとかね(笑)。
28 書評というのは、ひとりの本好きが、本好きの友だちに出す手紙みたいなものです★。その親しくて信頼できる関係をただ文章だけでつくる能力があるのが書評の専門家です。その書評家の文章を初めて読むのであっても、おや、この人はいい文章を書く、考え方がしっかりしている、しゃれたことをいう、こういう人のすすめる本なら一つ読んでみようか、という気にさせる、それがほんももの書評家なんですね。
●レッスン3 どんな本を選ぶか
31 内容には関係ないが・・・東西の文藝スポーツを一つずつ挙げると、イギリスのクロスワード・パズルと日本の百人一首だと思うんだな(笑)。
32 僕の流儀はイギリスの書評を学ぶ。日本の実情と矛盾しない限り学ぶというじつに徹底的な態度です。非常に従順な弟子になるんですよ。
33 日本になくて取入れるべきすぐれたものなんだから、取入れる。
34 僕はなるべく自分の内心の欲求から本を読む(選ぶ)ようにしています。自分の内部にいる読者を大事にする。近頃はこの傾向が流行っているとか、どういう本が売れたとか、何が最近は評判が悪いとか、そういうことは考えないで、ただ自分の心の中だけを見つめる。僕が本当に読みたいと思うものを読みたいという人は、いまの日本にまあ5千人はいるんじゃないか。ひょっとすると1万人ぐらいいるんじゃないか・・・そういう考え方をするんですね。
だから本を選ぶときだって、僕が読みたいと思う本を読んでみて、もしそれがダメな本だったら書評はしない。そういう非常に自己中心的みたいな、しかし実は自己中心じゃないんだけれども、そういう考え方をするんですよ。
35 それから、本の選び方では、文明というものを考え方の基準にします。狭い意味での文学とか、藝術とか、学問とかに縛られません。われわれの文明に貢献する本かどうか、検討するわけですね。僕の考えてる文明に役立つ本だから、新訳『新約聖書』も『ベスト オブ 丼』も取り上げるわけです。
●レッスン4 否定的な書評の扱い方、その他
36 両論併記がいちばんフェアだと思うんです。読者のほうからいっても、面白いでしょう。
41 書庫の整理法。英語の本は、著者別のアルファベット順です。たとえばシェイクスピア関係の本は、著者が誰であろうと、みんなシェイクスピアということにしてある。
日本語の本のほうは、特別な整理法がなくて困っているんです。
★ 「手紙というのは、自分が楽しむと同時に相手を楽しませるのが基本でしょう。あのころ(モーツァルトのころ)は私信というよりも公信といった性格のものであって、しかも受け取った個人だけでなく、周囲に見せ回る。」(『モールァルトとは何か』池内紀、17ページ)