素敵な本と出会いました。小林一仁さんの書かれた『バツをつけない漢字指導』(大修館書店)です。この本の出版は1998年、1999年の学習指導要領改正を目前に控えていた頃です。「詰め込み」から「生きる力」へと、教育全体が動いていた時代の本ですが、今の時代の私たち教師が読んでも、大変参考になる本であると思います。
私がこの本をお勧めする理由は、学習内容がどのようなものであれ「自ら学ぶことのできる人」(本書では「自己陶冶力」とも表現していました)を育てることができると気付かされたからです。私は、創作活動や探究など、自分を表現することのできる教科や内容をベースにして、大人になっても楽しみながら自立して学ぶ子どもを育てるためにはどうしたらよいか、考え続けてきました。しかし、それは、自分を表現できる活動に限ったことであって、いわゆる正しい答えのある「漢字」や「計算」のような学習を通して、その姿勢を育てようとは全く考えてもいませんでした。悪い言い方をすれば、ちゃんとやれさえすればいい「消化教科」でした。しかし、たとえ「漢字」であっても、いや、「漢字」だからこそ、人を学び手として育てることができると、本書は語りかけてきます。
学び手が中心の漢字学習とは
かいつまんで内容を紹介すると、漢字の指導において、こう書けば正しくて、それ以外であればバツという、私を含めて多くの教師が行っている方法では、漢字を好きになるどころか、書くことがどんどん嫌いになり、子どもは学ぶこと自体から遠ざかってしまう。50問のテストに容赦無くバツや点数を書き込んでいく方法など、子どもの意欲を削り取ること以外に成果はなく、そのような漢字指導はすぐにでもやめなければならないということです。
そうならないためにも、教師の漢字に対する向き合い方を変えていかなければなりません。そもそも、私たちは漢字についてよく分かっていないにも関わらず、漢字テストが正答としている漢字の形を盲目的に鵜呑みにし、思考を停止させて採点業務を淡々とこなしています。もちろん、私もそうです。けれど、そもそも、脈々と続く漢字の歴史の中で、正しいといえる漢字の形は一つではなく、そして、子どもの実態も多様にある。だから、もちろん正しいとされる漢字を書けることは素晴らしいことだが、その正しさの意味する範囲を子どもに応じて広げてもよいのではないか、ということです。筆者はそれを、「許容形」や「おおむね成就」と表現しています。励ましながら、良いタイミングで、「許容形」や「おおむね成就」から「規範形」へと少しずつ修正できれば良いし、今すぐそれができなくても全く構わない。そんな、大らかで受容的な漢字指導の姿が分かります。学び手が中心の学習を、漢字指導の中に見出しているのです。
正しい漢字は一つではない
正しいと言える漢字の書き方は一つではないのでしょうか? 学習指導要領や教科書にある字形を正しく書けた方が良いに決まっていると、私も長い間考えていました。しかし、平成28年(2016年)に、文化庁から「常用漢字表の字体・字形に関する指針(報告)」があり、私の中に激震が走りました。漢字のとめ・はね・はらいならともかく、一画の長短や、右から書くか、左へはらうのか、など、それでも間違いではないことが、公官庁から示されたからです。SNSで厳しすぎる漢字指導の採点がアップされているのを他人事のように感じていましたが、私自身も文化庁が良いと言っているものにも、バツをつけていることが分かりました。本書は文化庁の指針よりも10年以上前からそのことに言及し、本の中で詳細に解説を加えています。
この本の読みどころの一つですが、「右」と「左」などの筆順についても、「一字形一筆順ではない」と書かれています。古い文献を辿れば、意見は統一的ではないそうで、「一」から書くものが正しいもの、「ノ」から書く方が正しいもの、どちらも正しいとするものなど、諸派あるそうで「正しい」筆順は決められないとあります。「当用漢字字体表」(1949年に内閣から告示された。1981年に作られた常用漢字表のベースとなるもの)を作成するにあたっても、漢字においてどんな考え方を採用するのか、活発な議論があったそうです。書き順テストなどで、絶対の正しさを子どもに求めることは難しそうです。
それは不安を感じることでもありました。子どもに「この漢字は合ってますよね」と言われれば、バツにできなくなるのではないか。正しい漢字すら、教えることができなくなるのではないか。大袈裟に言えば、教師の権力が失墜していくようにも感じられました。多くの先生方がこの指針を冷ややかな目で見ていたことを覚えています。
子どもの実態によって、マルもちがう
これは本書では深く言及していませんが、子どもの実態も漢字以上に多様で、その子にとってよい支援はさまざまにあります。例えば、左利きの子が漢字を「規範形」のように正しく書くことができないケースがありました。基本的に漢字は偏から旁と書き進めていくので、左利きだと自分の手で書いた字が隠れていってしまいます。そのため、特に学齢が低い子は、その点でとても苦労をします。
また、私が担当している特別支援学級の子どもの中には、字の大体は書けても細かいところまで認識することは苦手で、直すように指示すると、途端に不機嫌になって学習を放棄してしまう子どももいます。おそらく、ただでさえその子にとって精神的負荷の高い「漢字を書く」という作業に、バツをされると、自分を否定されたかのような感情になってしまうのでしょう。その気持ち、私にもよく分かります。そんなときは、本当に学び直して欲しい箇所だけを教師が厳選して、次の日に直せるような工夫をしています。次の日の方が、自分を否定されたような感覚が薄れるからです。また、そもそも、漢字を書くという学習の目的を、新しい文字や言葉と出会う場とも捉えていますので、最初から正しく書けなくてもよいと考えています。
筆者が進めている学習の一つに、バツをつけずに近くにもう一度書くスペースを作り、そこに児童が正しく書けたなら、マルをつけてあげるような支援の方法があります。最近ではそれに倣い、マルをたくさん増やせるような取り組みも行っています。
漢字という正しい答えのありそうな学習でさえ、マルの規準は人によって違うし、支援は異なります。この子にとってはここまで書けたら十分マルとなるし、あの子にとってはマルではなく、直して書けたらマルとなる。子どもの学習のために教師の支援があることは当然の前提ですから、子どもの学習状況や認知の特性などによって、マルやバツの基準はともかく、支援のあり方さえも大きく変わってきます。この当たり前の話を、私たちは漢字ドリルやテストなどを見る時にすぐに忘れてしまいます。筆者はこの私たちの安易な漢字指導について、20年以上前から警鐘を鳴らしているわけです。
自己陶冶力を育てる
筆者は「自己陶冶力」という言葉を使って、子どもたちが自ら学ぼうとする意欲を育てることを強調しています。そもそも、テスト偏重の学習や反復的な書き取り指導が、一人一台端末を文房具のように扱うことを目指した学習環境に適しているのかという点でも議論が必要ですし、漢字を自分の手で書くことができる楽しさや喜びとは何かを、わたしたち支援者側がしっかり考えなくてはいけません。自分自身を陶冶していく子どもを育てることを念頭においた時、漢字とどのように出合わせていけばよいのか、漢字の魅力や必要性をどう感じられる場をつくったらよいのか、教師の専門性が問われています。従来通りのテスト依存では、自己陶冶力は育たないのは明白です。
現行の指導要領でも、「当該学年の前の学年までに配当されている漢字を書き,文や文章の中で使うとともに,当該学年に配当されている漢字を漸次書き,文や文章の中で使うこと。」と定められています。そして、言い尽くされたことですが、「知識・技能」は生きて働くものとして習得されなければなりませんから、テストのように文脈のないものではなく、子どもたちの表現の中でいきいきと活用される漢字でないと、「知識・技能」とは言えません。
私の場合は、『作家の時間』などの作品の中で、漢字を使えたら読者にとっても読みやすいし、漢字と平仮名とでは、読者の受け取り方が違うというミニレッスンになっていきます。タブレット端末で書いている子は、鉛筆で漢字を書けなくても漢字をしっかり活用して書けている子もいるので、それ以上の漢字指導が必要かどうかも考えます。実際に、漢字の学習だけは過剰な負荷にならないように下学年の内容を学習している子もいます。
漢字指導をもう一度作り直す
いきいきと漢字の世界を楽しむことができる子どもを育てるまで、自分の実践はまったく行き着いていませんが、漢字の成り立ちを探ったり、同じ部首(例えば魚編の湯呑みとか出したら面白いです)を集めたりと、こんなに楽しい漢字の世界を子どもたち一緒に覗いてみるのがよいかもしれません。そして、鉛筆で漢字の隅々まで教科書通りに正しく書く指導は、学校では終焉を迎えたのかもしれません。自己陶冶力を涵養させる学習環境とは何か、もう一度漢字指導を作り直すことが求められています。