時々投稿をお願いしている吉沢先生に以下を書いていただきました。書き出しの「ホッパー」と言うことばを見た途端、「???」の私でした(汗)。ですから、以下を読みながら、ことばを見たときにイメージできる背景知識が、私一人では読めなかった詩の扉を、次から次へと開いてくれるのを実感しています。
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詩の読み取りにおいて、モチーフとなっている事柄についての知識を踏まえたうえで、語句の意味を知り、何を象徴しているのかを考える。そのような作業が読み取りを深くする。そんな作品があります。今回は、そのような視点から、1編の詩を取り上げます。郷武夫さんという方の「背広の坑夫」という作品です。★1
[第1連の書き出し]
背広の坑夫
郷 武夫
ホッパーは止まった
斜坑の巻き上げ機の
鋼鉄ロープが錆にくるまる
「ホッパー」とは、炭鉱で採掘した石炭を、出荷・積込みまで貯めておく貯炭槽のことです。四角い箱の形をしたコンクリートの建造物で、巨大なものもあります。ホッパーは積み出し設備でもあるため、貨物の引込み線や運搬用の道路上に作られていることが多いです。
「斜坑」とは、地面から斜めに掘られた坑道です。「巻き上げ機」が、地下へ資材や人を送ったり、掘り出した石炭を地上に運ぶトロッコを引っ張り上げます。
「ホッパーが止まった」というのは、単に停止したのではなく、炭鉱の営みが終わった、ということを象徴しています。ボタ山と同様に、ホッパーは炭鉱地域を象徴する存在でした。その稼働音、石炭を積み込む音、貨物列車の汽笛、積み込まれる石炭の音。作業する人たちの声。そのような日常。それが終わったのです。静寂が訪れます。そして、「鋼鉄ロープが錆にくるまる」ほどの時間が過ぎたのです。
[第1連のつづき]
光におびえて眠った坑夫たちの
(三○年だよ三○年)
筋肉はすき透っていた
くらやみでこそ見えたくらやみの色の石
そんなにも慣らした眼を 就寝前に
黄色い三○ワットの台所で
洗いたてる日課があった
今日 歯みがきの香りたつ朝にぬぐうと
汗だくの夢を溶かす洗面器に
硼酸液が浮く(ああ まだぼんやりだ)
暗い坑内で働く坑夫にとって、外界の光は眩しいだけでなく、怖いくらいのものだったのでしょう。そんな暗闇の中ではものが見えない、と嘆きたくなるのが普通かもしれませんが、「くらやみでこそ見えたくらやみの色の石」と表現されていることに、私は注目します。暗闇で仕事を続けた坑夫たちの誇りを感じます。「黒い石炭や岩石」を、「くらやみの色の石」と表現するところが、この詩人の技であるといえます。
暗い中での仕事は目に負担をかけます。そして、坑内には石炭の粉塵が大量に漂っていて、それが目に入ると目の健康を害します。ですから、家に帰ってくると目を洗うのが日課になっていたのでしょう。単に「洗う」ではなく「洗いたてる」という表現に、目をしっかりと洗う坑夫の姿が感じられます。「硼酸液」は、目の洗浄に使われた薬品です。毎晩、目を洗っても視力は衰えたのでしょう。(ああ まだぼんやりだ)という坑夫はつぶやきます。
[第2連]
ブラックフレームと清潔な襟首とおろしたての革靴
キュッとしめあげても
みんな少しずつ大きすぎた
くつずれの予感が熱く戻ってくる
それでも、男は身なりを整えて出かける準備をします。「ブラックフレーム」のメガネをかけ、「清潔な襟首」のシャツを着て、「革靴」を履く。どれも、坑夫には縁の遠いものでした。それを身につけて、どこへ出かけるのでしょうか。「くつずれの予感」を感じる男にとって、それは心踊るようなことではなさそうです。
[第3連]
数える指をなくしてから曜日を忘れる
ゆるいたたみに発破のこだまごと身を置いて
枕元に動かぬ若かった妻の膝頭が
とても丸くて白かった
(おぼえている おぼえているとも)
ますいがきれた朝
切断されて
ないはずの指先から
生えてくる爪の痛みに 泣いた
回想シーンです。炭鉱事故で指をなくしたことが想像できます。炭鉱は危険を伴う職場であり、多くの事故がおきました。私が子供の頃、落盤で大勢の死者が出たというニュースをテレビで見たことを覚えています。
出かけようとしている男の心に浮かんだのは、炭鉱事故で指を失ったことでした。
「若かった妻」とありますから、それから年月が経ち、今は夫婦とも若いとは言えない年齢になっていることが分かります。妻は、怪我をして寝ている男の枕元でじっとしている。その妻の白い膝頭が、男の目に入る。その時の光景が男の心に焼き付いています。「おぼえているとも」と心の中でつぶやく男の、妻に対する思いが伝わってきます。
[第4連]
亀の尾 千代鶴 竜ヶ沢 そして浅貝
これら多湿の坑夫街 柱の暦一枚めくれば
せり上がる水位(血ではないな)
時代に沈んだ軒下の表札跡を読みながら
これからはしばらく
こうして貨幣の街へ出かけて行くのだ
男は集落を通っていきます。歩き始めます。「亀の尾、千代鶴、竜ヶ沢、浅貝」は福島県の常磐炭田があった地域に実在する地名です。古めかしい時代を感じさせるその地名から、都会と対比される集落の雰囲気が感じられます。
「柱の暦一枚めくれば/せり上がる水位(血ではないな)」という表現は私には難解な感じがします。「暦をめくる」という表現は、時間の経過を表しているでしょう。
「水位」というのは何でしょうか。炭鉱では、水が侵入することで水位が上がることがありました。炭鉱内に水が留まることは、作業に支障をきたすだけでなく、そこで働く坑夫の死につながります。私が想像したのは、一日が過ぎるたびに、「ああ、また水位が上がった。・・でもまだ死者は出ていないな。(=血ではないな。)だが、明日はわからない・・」といった不安が男の心によぎった、というものです。
「時代に沈んだ軒下」とあります。石炭産業はかつて時代の花形でした。それが凋落し、時代の中に沈み、忘れられていく。
「表札跡」とありますから、その住人は家を離れて(おそらく村を出て)行ったことを暗示しています。そのような家の佇まいを見ながら、「ああ、ここは確か○○の家だったはずだ」と男は感じているのかもしれません。
「貨幣の街」とは何でしょうか。かつて男の仕事は石炭を採取することでした。それが閉山になって、男は職を求めて街にいきます。そこは、何かを採取したり生産したりするよりも、流通や販売や事務といったサービスに対してお金が支払われる世界です。
[第5連]
職安の若い役人に
どこから話そう
引き金は引けまいが
かせぎなら握れることを
妻に話した様に
言わねばならない
手を見せて
「職安」は「公共職業安定所」の略です。そこに向かいながら男は「どこから話そう」とつぶやきます。指をなくした自分に何ができるだろう、仕事が見つかるだろうか、という戸惑いがあるのかもしれません。
「引き金は引けまいが/かせぎなら握れる」とはどういうことでしょうか。「引き金を引く」ということは、銃を撃つ動作を意味します。男は直接、銃を撃つ仕事をしてきたわけではありませんから、象徴的な意味で使われていることが分かります。例えば、強さとか攻撃性の象徴かもしれません。炭鉱で働くということは、肉体的に過酷な、強さや忍耐力が求められる仕事でした。それができなくなったわけです。あるいは、レバーを引いたりして機械操作する、といった引き金に類する動作ができない、そのような仕事ができない、ということの象徴かもしれません。しかし、「かせぎなら握れる」のです。これも象徴的な意味合いで使われいます。自分の限界を認識しつつも、何とかして仕事を見つけて、家族を支えていきたい。そのような意志を私は感じます。
男は、手を見せて言わねばならない、とつぶやきます。この最後のフレーズがこの詩作品のピークであり、私は読むたびに感動します。普通であれば、人前に晒したくない自分の姿。それをまず見せて、そのことから話を始めなければならない、と男は考えます。私が感動するのは、「事故で指をなくしていますが、そんな私でも何かできることはありませんか?」と聞いているのではなく、「指をなくしているが、私にもできることはある」と言い切っていることです。決意と意思表示。それは、妻に言った言葉でもありました。自分を支えてくれている妻への思いも込められています。
これは、一人の男の物語として描かれていますが、第一連で「坑夫たち」とあるように、時代の中で懸命に生きてきた、そして今は底辺に追いやられたけれども、しっかりと生きていこうとしている人たちがいるのですよ、ということを詩人は言おうとしているのだと思います。
*
もう一度、最初から詩を読んでみて下さい。言葉のひだに込められた、繊細なイメージや感情の動きを味わってみましょう。あなたは、どの言葉に惹かれますか。それを仲間で出し合って、分かち合ってみて下さい。
★1 郷武夫『背広の坑夫』紫陽社, 1979.
★2 平成の時代になって、「ハローワーク」という言葉が使われるようになりました。
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