(全ての人物の名前は仮名です。障害特性や学習場面等にも、ある程度のフィクションが入っています)
4・5月は子どものアセスメントがしやすい学習を行う
今年度も特別支援学級の作家の時間は緩やかに続いています。去年の卒業生が抜け、中学年の新しいメンバーも加わって、新しい体制で進んでいます。メンバーが変わると、また新しい発見や課題と出会い、その年その年で違った様相を見せるのが、作家の時間のおもしろいところです。
今年は、4月は子どもの様子を把握するために、春の季節の写真に載せて詩を作りました。子どもたちの好きなものやこだわりのポイント、認知特性をよく見てアセスメントする期間としました。5月の半ばから6月の半ばは、作家の時間の楽しさを知るために、自由に書きながら、その子の強みと課題を掴んでいきました。どんなジャンルが書きやすいのか、どんな媒体なら書けるのか、試していきます。特別支援学級の子どもは、認知的にも情緒的にも、凹凸のある子どもが多いです。どんな環境ならば、自分らしく表現できるのかをアセスメントしていきます。本校は春に運動会を行うので、運動会が終わるまでは子どもをしっかり見ることに時間を使ったように思います。
「良樹くん研究」想像を膨らますのは気持ちが悪い?
今年も個性的でユニークな作品を作ることのできる子どもたちが集まっています。4月に行った詩の単元ですが、児童詩というと、よくあるのが自然物や身近なものが、擬人化して話したり動いたりするような物語性のあるものが書かれます。僕自身も、いつもながらの工藤直子の『のはらうた』からあまり考えもなく紹介してしまうのですが、今年はこのような子がいました。
3年生の良樹くんは、学級園でだんだんと茎が伸びてきたトマトの苗を写真に撮ってきました。同じように植物の写真を撮ってきた子どもには、「この花はどんなことを言っていると思う?」とか、「この花は何をしたいのかな?」なんて、想像を膨らませることで、詩のイメージの土台を作っていくのですが、良樹くんには、この手法は全く通じませんでした。
「えっ、そんなの分からない」「うーん、難しい」という言葉を繰り返すばかり。しまいには、「そんなことできないよぉ」とうずくまってしまいました。良樹くんは、目に映るもの以上に想像を膨らますことが、自分の感覚とは合わないどころか、気持ちが悪いという感覚なのかもしれません。
この方法では良樹くんには逆効果なので、作戦変更。
私「どうしてトマト撮ってきたの?」
良樹「僕のトマトだから」
私「良樹のトマトは元気?」
良樹「今日の気温は28℃で暑いから、トマトは元気だよ」
良樹くんは外に吊るしてあるWBGT計の気温が大好きで、一日に何度も見にいきます。「良樹のトマト、28℃、暑い、元気」この言葉を使って、詩を書いてみよう」と誘ったら、良樹くんは、その言葉を聞くや否や、タブレットのトマトの写真の上に、「よしきのトマト」「28℃」「あつい」「げんき」と4つの言葉を指で書き入れました。これはこれで、なんだかストレートで素敵な詩です。「良樹しか書けない詩ができたね!」と声をかけました。
そして、この良樹くん。ノンフィクション作品で非常に自信をつけていきます。良樹くんが習っているスイミング教室のコーチや練習の様子などを、タブレットに絵と文字で表現していきます。作家の時間を始めると、物語を書くことに喜びを見出す子どもが多い中、良樹くんの日常の出来事や好きなものを切り取って自己表現を始めたのです。「ノンフィクションの良樹だね」「ノンフィクションの魅力をみんなに伝えてくれているね」と、大袈裟ですがたくさん褒めました。
「浩一郎くん研究」そのまま繰り返す言葉を作品に
6年生の浩一郎くんは、光るものが大好き。学校中の警備センサーや火災報知器の点滅を眺めたり、校庭から見える信号機をゆっくり見て楽しんでいます。4月、僕も陽だまりに一緒に座り込みながら、校庭から信号機をぼんやりと眺めて、「もうすぐ春だね」と季節の移り変わりを感じることもありました。浩一郎くんは、肌からの感覚を楽しむ子なので、学校の気持ちの良い場所ですぐに寝っ転がってしまいます。床の冷たさ、マットのザラザラとした感覚、そういう皮膚からの感覚を楽しんでいるのだと思います。校庭で遊んでいる子どもたちには、不自然に寝っ転がった姿勢に見えてしまうので、僕も傍で地面にあぐらをかいて座り、一緒に信号機を眺めると、子どもたちは関わろうとしてきます。1年生が「何をしているの?」と尋ねてくるので、僕が代わって「信号機を見ているんだよ。綺麗だよね」と返します。そんなのんびりとした関わり方で、浩一郎くんとの関係を作っています。
さて、浩一郎くんが支援員さんと一緒に撮ってきた春の写真は、やっぱり信号機でした。さすが、ベテラン支援員さん、ナイスチョイスです。どのように浩一郎くんらしい言葉を引き出そうかと考えながら、教室に浩一郎くんを誘い入れました。彼は寝っ転がって床の冷たさを楽しみながら、僕のカンファランスに反応しようとしています。
僕はまず、「浩一郎くん!(写真を撮ってきてくれて)ありがとう」と声をかけました。浩一郎くんはよく先生の言葉をそっくりそのまま繰り返します。浩一郎くんもこのとき、「ありがとう!」と大きな声で答えました。支援員さんが、「浩一郎くん!春だね!」と言うと(一応、詩のテーマは春でしたから)「春だね!」と返しました。僕は「あーこれは使えるかもなあ」と思い、タブレットの音声入力を起動させて自動で音声を文字に変換するようにセットしました。彼の耳元で「ありがとう!」というと「ありがとう!」と返し、「春だね!」というと、「春だね!春だね!春だね!」と3回繰り返しました。こうして、浩一郎くんの信号機の写真に、「ありがとう!」「春だね、春だね、春だね」の言葉が添えられることになりました。
この浩一郎くんの詩も廊下に掲示しました。先生方や放課後デイサービスの先生に大変好評で、浩一郎くんらしさが出ていてすばらしいと絶賛されました。また、友達の前でも発表しました。写真をテレビ画面に映し、浩一郎くんが「ありがとう!春だね、春だね、春だねーーーー!!」と堂々と読み上げました。聞いている友達も、「浩一郎くんは信号機が大好きなことが分かりました」と反応します。浩一郎くんは、褒められるのがまんざらでもない様子。浩一郎くんも作家の時間が大好きになりました。浩一郎くんの今書いている作品は、近くのショッピングセンターの各階に何のお店があるか、フロアマップを作って説明してくれようとしています。こちらも私がそのショッピングセンターの写真を出してあげて、支援員さんと会話をしながら、タブレットに書き進めています。
「子どもらしい」という架空の子ども
僕は、もしかしたら、「子どもらしい」詩のようなイメージを定型化・一般化して、子どもたちに安易に被せていたのかもしれません。二人のような子どもはそれほど多くはないと思いますが、似たような特性を持った子どもは支援級にも一般級にも在籍するでしょう。子どもが詩を描くならば、こんな詩がよいなあとイメージを持つことはもちろん大切ですが、その子がその子らしい自己表現を行うときに、その教師のイメージが学習を阻害してしまうこともあります。そうであれば、そのイメージは手放さなければならないこともあるでしょう。僕の作家の時間の場合、「どんな力を育てるか」ということよりも、「〇〇さんの自己表現をよりよいものにするためには」「〇〇さんの学習体験をもっと豊かにするためには」ということの方が、大切なのだと思います。
僕は良樹くんのように、目の前に見えている事実とは違うことを表現することに、これほど苦痛を感じてしまう子を初めて見ました。きっとこれまで、僕はこのような子をきっと受け持ったこともあったのだと思います。けれど、その子の個性に気づかずに、「想像を膨らませて書こう」と、良い方法と思われている指導法を当てはめていたのかもしれません。その子は、そういう対応ができてしまう子だったので、きっとあまり望まない「トマトがあいさつをしているよ」っぽい詩を作らせてしまっていたのかもしれません。良樹くんが、しっかり想像を膨らませることを拒絶してくれたので、「よしきのトマト」「28℃」「あつい」「げんき」の詩が完成しました。良樹くんの目の前の事実を書きたいと言う気持ちを、少し理解するきっかけになりました。
また、浩一郎くんのように、文字や言葉を書くことが難しい子どもが、ストレートに自分の好きなものを表現し、その楽しさを友達や先生と一緒に共有できることも学びました。自分を表現することは、だれにとっても楽しく喜びに溢れるものです。浩一郎くんにその機会を作ることができたことが、彼の成長のきっかけになりました。浩一郎くんは、自分の好きなものをもっと伝えたいと、彼のペースではありますが作家の時間でゆっくりと書き進めています。
他者の靴を履く「To put yourself in someone's shoes」
ブレイディみかこさんは、『他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ』(文藝春秋 2021年)という本の中で、エンパシーの力について言及しています。「他者の靴を履く」とは「To put yourself in someone's shoes」の日本語訳ですが、自分とは違った立場にいる他者の靴(それがたとえ、自分の好みに合わない靴であったとしても)を履いて、その景色をイメージするエンパシーの力について様々な角度から論じています。つまるところ、僕は作家の時間という時間を通じて、子どもの靴を履いてみることで、「子ども研究」をしているのだと思います。良樹くんや浩一郎くんは、その瞳からどんな風景を見て、何を感じているのか、想像してみようと試みています。もちろんそれは、完璧にはできません。どれほどできているのかも、証拠があるわけでもありません。けれども、良樹くんや浩一郎くんが、今より少しでもよりよく自己表現をするためには、どのような学習環境を用意したら良いのか、子どもの姿を追い続けることで研究をしているのだと思います。特別支援学級の作家の時間を行うことで、子どもが自己表現を楽しむとはどのようなことなのか、試行錯誤しています。
「子ども研究」とか「アセスメント」とか表現すると、格好の良い響きに聞こえるかもしれませんが、まったく効率的でスマートなことではありません。子どもと喧嘩したり、泣いたり、紙をぐちゃぐちゃにしてしまうことも多々あります。本当に泥臭くて、時間もかかり、煩雑なことがアセスメントであり、子ども研究です。けれど、やっぱり学校という場所は、子どものことを考えて動いてくれる大人が、「ああでもない、こうでもない」と子どものために思い悩んで、少しずつ進んでいくところなのだと思います。そういう学校が、自分は好きなのだと思います。
(写真は『本当にヘビが食べるの?』 この近くに本当にヘビがいました。)