7月16日の投稿「本について語り合う『幸福』」で紹介されていた『読書会という幸福』(向井和美、岩波新書)をじっくり読みました。(今日の投稿タイトルの中の「ジャズの掛け合いのようなやりとり」も、以下に紹介するように『読書会という幸福』の中で使われていた表現です。)著者の向井氏は、「もしかしたら、わたしがこれまで人を殺さずにいられたのは、本があったから、そして読書会があったからだと言ってもよいかもしれない」(『読書会という幸福』p.7, Kindle 版)という少し物騒な?文も記しています。殺人を防ぐ効果まである?読書会ですが、向井氏にとっての醍醐味は、ほかの人の発言を聞いている間にどんどん浮かんでくる新たな視点や考えのようです。
例えば、以下のような文が出てきます。
「ほかの人の発言を聞いているうちに、『なるほど、そういう捉えかたもあったのか』『わたしはこのページのこの言葉がすごく胸に響いた』と、話したいことがどんどん湧いてくる。それこそが読書会の醍醐味であり、これは同じ本をみなで読んだからこそ味わえる連帯感だ」(『読書会という幸福』p.16, Kindle 版)
この記述から思い出すのが『イン・ザ・ミドル』の中に出てくる「ダイニング・テーブル」です。読むことを教える方法を模索する中で、『イン・ザ・ミドル』の著者アトウェル氏が、当時の自分の教え方について、「とりわけ、あのダイニング・テーブルがないのは致命的でした」と振り返っています(『イン・ザ・ミドル』43ページ)。
「あのダイニング・テーブル」とは、ある日、自宅に友人が来て、夕食の後に、その友人がアトウェル氏の夫とひたすら語っていた場です。アトウェル氏は、その時のことを次のように描写しながら、自分の教室を思い浮かべます。
「その空間には、文学が満ち溢れていました。文学に満ち溢れた場では、私たちはひたすら語り続けます。そこには教師からの課題も、レッスンプランも、教師用マニュアルも、付箋もディスカッションのための質問も、何もいらないのです。必要なのは、語り合う文学好きの人が、自分以外にもう一人いること、それだけ。この会話は、強制されたものでも、表面的なものでもありません。議論、エピソード、観察、冗談、情報交換、好きな箇所とそうでない箇所とその理由……生き生きとした話題で満ちていました。このダイニング・テーブルでの会話は、会話をしている人と一緒に、文学の世界に入り込む空間と場所になっていました」(『イン・ザ・ミドル』40ページ)
「この経験から私は考えました。このダイニング・テーブルのような場所を教室に持ち込み、すべての生徒たちが椅子をもってきて居場所を見つけるには、どうすればよいのだろう?」(『イン・ザ・ミドル』40ページ)
アトウェル氏は、ダイニング・テーブルに必要なのは、「語り合う文学好きの人が、自分以外にもう一人いること」であり、「教師からの課題も、レッスンプランも、教師用マニュアルも、付箋もディスカッションのための質問も、何もいらない」と書いています。
でも「何もいらない」と言われると、「確かにそうかもしれないけども、本当に何もなくて、うまくいくのですか?」という思いも以前はありました。生徒たちに「いい話し合い」をしてほしいと思い、そのために、テキストのポイントから話し合いの深まりそうな質問をあらかじめ考えておいたり、背景となる情報を準備したり等、教師がテキストについての準備を頑張れば、成功確率が上がるように思っていたからです。
しかし、自分のうまくいかない経験から、話し合うテキストについての準備を頑張っても、成功確率は上がらないことを学びつつあります。
『読書会という幸福』でも、司書でもある著者が、生徒たちの読書会を成功させようと、苦労して準備するものの、うまくいかない例が以下のように書かれていますが、情景が浮かぶような気がしました。
「生徒たちは、図書委員になって初めて読書会というものを経験する。本を読んで意見を交わすことに慣れていないため、なにをどう話していいかわからない。それならば、と進行役の生徒を決めてあらかじめ本を読ませ、話し合うポイントを十ほどピックアップさせて、たたき台を作ってみた。それを本と一緒に前もって配り、考える準備ができるようにしておくのだ。ところが、そうすると実際の読書会では「問題と答え」のような単調なやりとりが続くだけで、そこから話し合いが生まれるでもなく、授業の延長みたいでおもしろくないのである。<略>読書会の醍醐味である『相手の言葉を聞いているうちに、言いたいことが湧き出てくる』というジャズの掛け合いのようなやりとりに進展しないのだ」(『読書会という幸福』p.54, Kindle 版)
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アトウェル氏は、ダイニング・テーブルでの会話について、「文学のある生活から自然に生まれる、本、作家、文体について家族や友人と語り合うあの会話が、教室にはまったくありませんでした」(『イン・ザ・ミドル』43ページ)と、リーディング・ワークショップを始める前の授業について記しています。
「自然に生まれる」ものであれば、教師にしろ、参加者の一人にしろ、誰かがポイントの整理や質問の準備をして生まれるものではありません。逆に準備をすることで、話し合いの筋書きが定まり始め、「自然に生まれる」余地が減少し、つまらないものになっていくのかもしれません。
そうなると、教師ができる準備は、「話し合いが自然に生まれる土壌づくり」になり、アトウェル氏によると、その土壌は「文学のある生活」ということになります。
確かにその通りだとは思いますし、その方法はリーディング・ワークショップ関連の本でも、「本についての話し合い」に限定されずに多々紹介されています。
「本についての話し合い」に焦点をあてて考えると、幸い、著者の向井氏は「三十年以上続く読書会に所属する身として、話し合いを充実したものにするための方法をいくつか挙げてみた」ということで、長年の経験を踏まえて以下を教えてくれています。
これらは話し合いの準備や話し合い中の「チェックリスト」として使うこともできそうです。
①できるだけ欠席しない
②課題本は必ず読み終える
③ほかの人の意見を否定しない
④課題本をリスペクトする
⑤ひとりで喋りすぎない
⑥雑談をしすぎない
(『読書会という幸福』p.19~p.22, Kindle版。各項目について説明されています)
(上記はもちろん「対話できる時間」があることが前提です。『読書会という幸福』の中では、他の読書会への潜入記録もあり、それぞれの読書会に参加したプラス面や、それぞれの読書会にはそれぞれのやり方や歴史があることも十分に認めた上での感想なども書かれていました。「全員がひととおり感想を言うだけで一時間近くかかってしまい、読書会の醍醐味ともいえる意見交換がほとんどできなかったのは残念だった」(『読書会という幸福』p.36, Kindle版)という記述もありました。「掛け合い」の時間がなければ、それぞれの「発表」で終了となってしまいます。)
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2016年9月16日の投稿「ブッククラブのいろいろな活用法(外国語も含めて、他教科への応用の可能性)」で多様なブッククラブを楽しみ、活用していることを紹介してくれた知人は、この日の投稿の中で、リーディング・ワークショップ(英語の授業)でのブッククラブについては、「実に楽しげ、笑いあり、涙ありの充実した時間で、学生たちは皆この時間が好き」と記しています。
私はこの知人に、今まで何度も、「どうやったら、実に楽しげ、笑いあり、涙ありの充実した時間がつくれるのですか」と尋ねてきました。でも、いつも「特に何もしていない、それぞれが気になった箇所を選んで語るだけ」というような感じの答えが返ってきます。そして、私はいつも納得できなくて、「何か成功に直結するような準備でできることがあるはずだ」と思い、しばらくすると、再度、同じような質問をして、再度、同じような答えをもらっていました。
その答えの理由がようやくわかった気がします。
そういえば、この知人は、最近、学生がある英語の絵本の英語の読み取りについて質問にきて、話しているうちに、その学生のバックグラウンドと絵本の内容が重なっていることがわかったそうです。「質問したかったのは間違いないだろうけど、それよりも、読んだ本について、僕と言葉を交わしたかったんじゃないかと思った」と後日、振り返っていました。
何か言いたいことがある本に出合える、そしてそれについて語る場があり、語る人がいる。この知人の準備は「話し合いが自然に生まれる土壌づくり」で、それが実を結んでいるだけ、このことを忘れないようにしたいと思いました。そして土壌ができてきたところで、『読書会という幸福』で紹介されていたような、話し合いを充実したものにするための方法を少しずつでも実現していければと考えています。
「チェックリスト」について考えたこと。
返信削除このリストは、かなりの人数が参加する(かなりフォーマルな)集まりを前提にしていますね! それが、そもそもの問題かも、と思いました。(学校の授業や部活動的な形でするものにはなじまない?!気がしました。
私が大事だと思う項目は、
・人数を、二人とか三人とか、多くて四人とかの設定にすれば「正解あてっこゲーム」的なやり取りは、最初から排除できます。
・そして、もう一つは何よりも自分が読みたい本であること ~ 課題本という名のほかの誰かが設定した本である限りは、弾む話し合いはなかなか期待できないのでは?(それは、教員研修などで、先生たちはイヤというほど体験していることと同じ?)