2023年10月21日土曜日

子どもたちの遠い未来の姿を見据える

 

子どもの遠い未来の姿を見据える

 

八田幸恵・渡邉久暢著『高等学校 観点別評価入門』(学事出版、2023年)は、現在の学習指導要領で求められる「知識・技能」「思考・判断・表現」「主体的に学習に取り組む態度」という三つの観点に即した「観点別評価」について、具体的な事例に基づきながら丁寧に書かれた本です。が、本書「まえがき」によると、「観点別評価」の仕方についての「ノウハウを伝達すること」をねらったものではなく、「現行の「観点別評価」をいかに教育評価の理念に沿って実施できるか、その方針を示すこと」を目的とし、「読者一人ひとりが自身の評価観を構築することに寄与すること」をめざした試みです。

「観点別評価」についての本ですが、著者たちの試みの中心は、どのような「理解」をすることができる人として生徒を成長させていくかということにあります。なるほどと思い、読み進めながら大事だと思ったところに付箋紙を貼っていきましたが、付箋紙だらけになってしまいました。

たとえば八田さんと渡邉さんは「教科で育てるべき資質・能力を階層的に捉える」ことを主張しています。

 「そもそも資質・能力を階層的に捉えるとは、それぞれの層は質的に異なっているのであり、基礎となる層が形成されても発展の層が形成されているとは限らないと考えるということです。すなわち、個別具体的な知識を暗記している(「知っている・できる」)からといってその教科における重要な概念を自分の頭で理解している(「わかる」)とは限らない、重要な概念を自分のあたまで理解している(「わかる」)からといって実生活・実社会の文脈において使いこなせる(「使える」)とは限らないということです。」(『高等学校 観点別評価入門』57ページ)

 「「知っている・できる」レベルであれば、発問と答えを繰り返す一問一答式の言葉による教え込みの授業でも形成できるかもしれません。また評価方法に関しては、多肢選択式、穴埋め問題、正誤式といった伝統的な評価方法で評価できます。/一方で最も深いレベルである「使える」レベルの学力は、言葉で教えられるだけではなく、実際に自分で経験してみないと形成されません。たとえば論証の妥当性という視角からテキストを批判する資質・能力は、いくら教師が言葉で「主張-論拠-根拠」を教えて、対象となっているテキストの主張部分や論拠部分を指し示してみたとして、それだけで生徒が論証を捉え妥当性を検討できるようにはなりません。実際に生徒が自分で論証の骨格を抜き出してみたり、様々な反論を読んでみたり、自分で論証を意識して書いてみたりする経験を積み重ねることで、じわじわと形成されていくものです。「テキストを批判するとはどういうことか」といった深いレベルの理解は、最終的には言葉を超える「ピンときた」経験や「身体で掴んだ」経験に依存するものであり、言葉による伝達や指示には限界があります。したがって評価方法に関しても、実際にパフォーマンスさせてみるような評価方法が求められます。」(『高等学校 観点別評価入門』5960ページ)

 「階層的に捉える」とは、「知っている・できる」レベルと「わかる」レベル」、「使える」レベルの違いを見極めることでもあります。「知っている・できる」ことでも「わかる」レベルにあるとは限らない、そして「わかる」レベルにあっても、「使える」とは限らない、ということでもあります。「知っている・できる」「わかる」レベルは、『理解するってどういうこと?』の41ページにある「表22b 多様な理解の種類(私たちが生活のなかで経験すること)」を知ること、そして「使える」レベルは347349ページの「表91 理解することで得られる成果」を言葉にすることだと言っていいかもしれません。

「表74 ノンフィクションをしっかりと読めるようにするには」(『理解するってどういうこと?』274276ページ)には「効果的な指導法」として、「ノンフィクションのさまざまな構造」や「ノンフィクションの障害」を教えたり、そのために必要な「用語」を教えたりすることが挙げられていますが、それは「知っている・できる」「わかる」レベルのことだと考えられます。しかし、それらを「使える」レベルにするためには「ノンフィクションの構造や障害を示して説明できるようになるべき」だとされ、「ひたすら読んだり、書いたりする時間に、自分が読んだり書いたりしているノンフィクションの理解を促進するために、その文章構造や障害をどれだけ認識し、使いこなしているかをカンファランスしたり、仲間と話し合うように指導」することが必要だとされています。その過程で、八田さんたちの言う「じわじわと形成されていくもの」について、エリンさんは次のように言います。

 「子どもたちがフィクションを読むときとは違った方法でノンフィクションを読むように教えたときは長持ちします。それは、子どもたちが教室を巣立ってから後にも長く使うことができるツールですし、私たちが想像もできないような難しいノンフィクションを読み、情報を理解するときに活用できる方法です。ノンフィクションの構造と障害について学ぶことは、多様な種類の理解に役立ちます。ノンフィクションを読みこなすツールは、理解のための7つの方法と同じく、新しい情報を自分のものにする際に使いこなしてほしい方法です。使いこなすことで、子どもたちは自分の考えや態度を変え、新しい知識に基づいて行動し、世界に参加して行くことになるのです。」(『理解するってどういうこと?』277278ページ)

「ひたすら読んだり、書いたりする時間」に読んだり書いたりしたノンフィクションを「カンファランス」したり「仲間と話し合う」ことで「子どもたちが教室を巣立ってから後にも長く使うことのできるツール」「私たちが想像もできないような難しいフィクションを読み、情報を理解するときに活用できる方法」を身につけ「使いこなす」ことが目指されているのです。子どもたちの未来の姿を見据えるまなざしがあります。

わたくしが、八田さんと渡邉さんのこの本のなかでとくに感銘を覚えたのは次のような箇所ですが、これらの言葉の奥にエリンさんと同じまなざしを感じます。

 「筆者たちは自己評価の核心を、「世界をこのように理解することができた自分」をつくりだし、また「これから世界をこのように追究し、世界をこのように変えていきたい自分」をつくりだすという点に求めます。そしてこのような自己評価を、子どもの全体的・継続的な発達を支援する個人内評価の最も有効な手段であると考えます。」(『高等学校 観点別評価入門』37ページ)

「どのような評価方法が望ましいのかだけを考えるのではなく、どんな大人になってほしいのか、大人になるためになぜこの教科を学ぶのか、高校卒業後に大部分の知識・技能を忘れてしまったとしても生徒の中に残っておいてほしいこの教科固有の理解や見方・考え方は何か、そのためにどの時点でどのような理解が確認できればよいのか、その理解(目標)をできるだけ直接的に評価できる評価方法は何かと考えるべきです。」(『高等学校 観点別評価入門』120ページ)

八田さんと渡邉さんも、教科で学んだことが、「子どもたちが教室を巣立ってから後にも長く使うことのできるツール」や「私たちが想像もできないような難しいフィクションを読み、情報を理解するときに活用できる方法」を身につけ「使いこなす」ことができるようになることを学習指導と学習評価のとくに大切な目標としていることを、とても大切なことだと思います。エリンさんが「ノンフィクションの指導法」について言っていることと、八田さんと渡邉さんが「評価方法」について言っていることとの間にこうした共通点を見ることができるのも、ともに、子どもがどんな大人になってほしいのかという、遠い未来を見据える確かなまなざしをもっているからなのではないでしょうか。

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