今回は、前回と前々回の記事への異なる視点からのフィードバックを書きます。
まずは前回の記事から。
記事の後半部分には訪問者二人の感想が紹介されており、その最後に「 これからどのように他者の視点を意識したり,社会のニーズに応える文章の書き方を獲得していくのか,そのプロセスについて,次はまたお話をうかがってみたいと感じています」と書かれています。
前者の「他者の視点」については、その後に実践者がフォローしていないことから分かるように、ライティング・ワークショップでは一切問題になっていないからです。というか、ライティング・ワークショップのアプローチほど、読み手を意識して書く練習をするものはありません。「書きたいことを書く」と同じレベルで大切にしているのが、「目的をもって書く」「設定した対象に届く文章を書く」だからです。相手に届かなければ/相手が面白がってくれなければ、届くまで/面白がってくれるまで書くようになります。それを実現するために、「作家の椅子」という仕掛けがあったり、読者からのフィードバックが大切にされています。書いている途中の仲間にアドバイスをもらうことも、頻繁に行われています。
このことによって、渡辺さんが授業参観の主な目的に設定していた「学びのなかで起こる子どもたちの内的変化」も、かなり起こっています。
それが読み取れる事例が、『増補版・作家の時間』で紹介されています。第11章の「1年間の子どもの成長~作文が大嫌いだった粕谷君」です。4月に粕谷君が書いた文章と年度末の3月にクラスの発表会で彼がみんなに紹介した文章(そして、その間に彼のなかで起こった変化が、明らかです。
いま教育界では、「活動」が重視されています。それも、教材研究を念入りにした教師が事前に考え抜いた「活動」が。それがあたかも、教師がすべきことと理解する風潮が濃くあります。全国の附属学校を含めて研究校での研究発表は、その線上で行われています。しかし、そうした取り組みが周辺の学校に普及することは、ほとんどありません。考え出した先生しかやれませんし、子どもたちにとっては、どんなに教師ががんばったところで、活動はやはり「やらされ感」の濃いものですから。生徒が自分から主体的に、自立的(「自律」ではありません!)に取り組む類のものではありません。
しかし、粕谷君の事例だけでなく、渡辺さんたちも見た今回のクラスの子どもたちも、授業中だけでなく、授業以外でも考え、書き続ける子どもたちが増えるのがライティング・ワークショップです。子どもたちは、自分が本当に表現したいことに出会えば、時間なんか関係なくなります。休み時間、昼食時、放課後、家に帰ってからも、考え、そして書き続けます。それが読み手に伝わることを念頭に入れて。これは、「活動」とはまったく次元の異なるものです。「自分事」のレベルもまったく違います。
こうしたプロセスにより、子どもたちは単に書くことが好きになるだけでなく、そこでのクラスメイトや読者とのやりとりを楽しむようになり、書くスキルを磨き、書く力をつけ、そして学校を卒業してからも書き続ける素地を身につけています。(これらのどれだけを作文教育は実現できているでしょうか?)
後者の「社会のニーズ」については、実践者自身がブログの最後で5行にわたって、とても誠実に考えています。しかし、このテーマに関しては、参観者と実践者の継続的な対話を期待したいところです。何しろ、この問いを投げかけた責任が参観者にはありますから。
私がこの点について紹介できるのは、http://wwletter.blogspot.com/2023/02/sel.html です。特に冒頭の部分を読まれて、あなたはどのような感想をもちましたか?
もう一つは、『イン・ザ・ミドル』の29~30ページに書いてあることです。これを含めて第1章「教えることを学ぶ」はぜひ読んでみてください。
子どもたちはみな、ストーリーをもっています! それも、価値あるストーリーを。
それを吐き出すチャンスを与えていないのは、教科書をカバーすることこそが大事に仕立て上げている、現行の教育制度です。あまりにも、「銀行型の教育」をやり続けることに忙しく(ちなみに、この「預金型教育」に対置する形でパウロ・フレイレが提唱しているのが「探究型教育」でした)! この転換が実現しない限り、無駄な努力と時間を浪費するだけの教員研修と授業が続くことが約束されています。
このような一人ひとりの生徒の書くことを含めた学びを大切にした実践がまとめられている本が、『一人ひとりを大切にする学校』デニス・リトキー著ですので、おすすめです。学校のあり方を根底の部分で考え直すための視点が網羅されています。その一つは、評価(エキシビション、ポートフォリオ、ナラティブ)です。テストや成績である限りは、授業も「探究型」ではなく「預金型」をすることを義務付けているわけですから。両者は、コインの裏表の関係にあります。
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前々回の記事では、八田幸恵・渡邉久暢著『高等学校 観点別評価入門』が『理解するってどういうこと?』との関連で紹介されていました。
引っかかったのは、その「観点別評価」=「知識・技能」「思考・判断・表現」「主体的に学習に取り組む態度」のことです。
多くのまじめな先生たちが、それを真に受ける形で苦労されているのを見てきました。それは、単元を計画したり、評価/成績をつける際に、それら三つに「無理やり」合わせようとすることによって起こり続けています。
教育の目標イコール評価は、扱う教科領域が何であれ、通常は知識・技能・態度で表されるものではないでしょうか。それら三つによって教師はカリキュラムを考えて教え、生徒たちは身につけるのが望ましいものとされています。
しかし、現在の学習指導要領で求めている「知識・技能」「思考・判断・表現」「主体的に学習に取り組む態度」という三つの観点は、それとのズレがあります。
このズレを、文科省はどのように考えているのでしょうか?
「思考・判断・表現」は、すべて技能に含まれます。そうなると、「知識・技能」の技能に含まれているものは、文科省は何と捉えていて、研究者や現場の先生たちは何と理解しているのでしょうか?
残るもう一つの「主体的に学習に取り組む態度」も、最初に登場した時から問題であり続けています。私が最初にそれを聞いた時に思ったのは、その9割がたは教師★の授業評価であって、生徒が示せる態度は「いいところ」1割ぐらいではないか、というものでした。通常、生徒たちは、自分が興味をもてそうにない教科書教材や、教師がよかれと思って用意した教科書以外の学習材ないし活動に参加させられる形で授業が展開するのですから。(そこに「自立」が入る余地はほとんどなく、教師は生徒の「自律」を願う程度です。)
このような大きなボタンの掛け違えがあるなかで、観点別評価にこだわり続ける意味はあるのでしょうか?
評価(および評定/成績と、その裏返しとして生徒たちが身につけるべきもの)ということでは、(ボタンを掛け違えている)日本産の評価本と、本物の評価を志向している海外の評価本の「比較読み」をおすすめします。
・『一人ひとりをいかす評価』キャロル・トムリンソン著
・『理解するってどういうこと』エリン・キーン著
・『成績をハックする』スター・サックシュタイン著
・『聞くことから始めよう!』マイロン・デューク著
・『成績だけが評価じゃない』スター・サックシュタイン著
・『テストだけでは測れない!』吉田新一郎著
・『イン・ザ・ミドル』(特に、第8章)ナンシー・アトウェル著
★教師に言わせると、9割がたは「それは、教科書の責任でしょう」となるかと思います。それほど、教科書というシロモノは大きな問題を抱えています。『教科書をハックする』を参照ください。
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