『理解するってどういうこと?』の第5章には「読み・書きを学ぶ際の主要な構成要素」として「さまざまな認識方法」が掲げられています(『理解するってどういうこと?』167ページ)。読み手が流ちょうに読むのを助ける一連のスキルと方法は「表面の認識方法」ですが、読み手が自分の理解を拡張して応用するための理解を助ける一連のスキルと方法は「深い認識方法」と呼ばれています。このうち「深い認識方法」には「意味づけの領域」「関連づけの領域」「優れた読み手・書き手になる領域」の三つの領域があるとされています。
本を読んでいて新しい知識にめぐりあった時には嬉しいものです。しかしその新しい知識を「深くわかった」と実感する時に私たちのなかでは何が起こっているのでしょうか? それは、新しく学んだことが自分の既に知っていることと関連づけられた時ではないかと思います。そのようなことが起これば、自分の既に知っていることはかたちを変えざるを得ません。自分が既に知っていたことが間違っていたと思える場合すらあります。そのように揺さぶられるからこそ、新しい知識を「深くわかった」と実感するのではないでしょうか。
私は、そういう意味で、『理解するってどういうこと?』に記されている理解の仕方の中心になるのは、「深い認識方法」の「関連づけの領域」ではないかと考えています。エリンさんは次のように言っています。
「関連づけの領域とは、説得力を持って書かれた文章を読むあいだ、活性化された私たちの頭のなかで働いている認識過程のことです。子どもの頃から読んできたいろいろな本についての消えない記憶を残してくれて、表面の意味以上の書かれていないメッセージ(ある本や文章を書くときに作家が考えていたであろうさまざまなアイディア)をじっくり考えた初めてのときのことを、思い出させてくれる領域です。(中略)関連づけの領域は、私たち一人ひとりの解釈をつくり出し、読む意欲をかき立てる、エンジンのようなものなのです。また、新たに学んだり発見したりしたさまざまなアイディアを取り入れることで、自分が既にもっていた知識や、もともと持っていた考え方や、感情や意見を作り直してくれます。」(『理解するってどういうこと?』178ページ)
では、「関連づけの領域」を発動させるにはどうしたらいいのでしょうか。そんなに簡単なことでないように思われます。どうすれば新しく学んだことを既知のことに関連づけることができるのでしょうか。
以前取り上げた『記憶のデザイン』(筑摩書房)の著者山本貴光さんに『マルジナリアでつかまえて 書かずば読めぬの巻』(本の雑誌社、2020年)という著書にはそのためのヒントたくさんあります。「マルジナリア」とは、山本さんによれば、本の余白(マージン)に書き込まれたもの、のことです。いわゆる「書き込み」ですね。『マルジナリアでつかまえて』はこの「マルジナリア」の諸相を多彩に知らせてくれる本です(『本の雑誌』に連載された記事がもとになっています)。
「文章とは、書く側からいうと、読者の脳と記憶に探りを入れて、そこにあるものを意識にのぼらせてしまう一種のハッキングの技法みたいなものだ。これを読む側から見れば、誰かが書いた言葉の組み合わせを目から脳に文字通り体に入れて、なにが生じてしまうかを自分の体で実験しているようなものである。なにそれコワイ!コワイが楽しい!!
念のためにいえば、そのつどの読書は一度しか生じない。同じ川に二度入れないのと同様である。マルジナリアとは、そうした出来事の観察記録でもあるのだ。」(『マルジナリアでつかまえて』57ページ)
読者自身の頭のなかで行われる「関連づけ」を具体的に自分が「観察」できるようにしてくれるのが「マルジナリア」であるというわけです。「そのつど」の読んで気づいたことが言葉や記号や絵図として残されるのです。そしてその「マルジナリア」を私たちは再読することもできます。
そんなことは読書ノートやジャーナルに書けばいいではないかと思われるかもしれません。実際私もそうすることは少なくないですが、時間をとっていささか構えて書くことになります。それに対して、「マルジナリア」は読んでいる本自体をノートやジャーナルにしてしまうものでもあります。
『マルジナリアでつかまえて』には、古今東西の、自分の読んでいる本をノートやジャーナルにしてしまった人々のことが、その人々の実践のありようを示す写真とともに、柔軟でわかりやすい文体で紹介されています。漢文訓読すらも「マルジナリア」だと言われると、漢文学習が少し違ったものに見えてきて、これも中国文に対する深い理解のための「関連づけの領域」だったのだと思えてくるから不思議です。多彩な「マルジナリア」の姿については是非本書を手に取ってご覧下さい。
『マルジナリアでつかまえて』の最後のあたりに「マルジナリアことはじめ」という章があります。山本さんの経験をもとに「マルジナリア」をどのようにつくるのかということがわかりやすくまとめられています。「書き込み」については次のように述べられています。
「書き込みにもいろいろありますが、線を引くのはその一つ。中学や高校の教科書などで重要な箇所に選を引いたりした経験があるかもしれません。ページにたくさんの文字が並ぶなかで、「ここは重要」という箇所を浮かび上がらせるためのマーキングですね。
「重要」な箇所ばかりでなくてもよいと思います。私の場合、「気になるところ」ぐあいの意味で線を引くことが多いです。ここは気になる、あとでもう一度戻ってきたい、なんだろうこれは?といった具合です。基本的には、「あ、ここ線を引きたい」と感じたら気持ちの赴くままに引けばよいわけです。もちろんなんらかのルールを設定して運用するのもありです。」(『マルジナリアでつかまえて』255ページ)
では読んでいる本の余白にどのようなメモを山本さんはしているか。
・換言:込み入った内容を自分なりにパラフレーズ
・意見:読んで思い浮かんだこと、アイデアなども
・疑問:書かれていることへの疑問
・調査:他の文献やネットなどで調べたこと
・原文:翻訳書などで原文の表現がどうなっているか」(『マルジナリアでつかまえて』257ページ)
こうなると、かなり詳しく読んでいる自分の思考や記憶をその本の内容と関連づけて言葉にすることになります。「要約」も「換言」も「意見」も「疑問」も、既知のことと関連づけるからこそうまれ、意味をもつことになります。山本さん述べるところの「マルジナリア」が「関連づけの領域」を発動させ、活性化させると私が考えるのもこのためです。こういう営みが理解の「エンジン」となることは言うまでもありません。そして、山本さんはこんなことも言っています。
「こうしたマルジナリアを眺めていると、ものを読むとはいったいどういう営みなのだろう、といまさらながら不思議な気分にもなってくる。もう少し言えば、私たちは一冊の本を読み終えたりできるのだろうか。開くつど新たな発見や疑問が湧いてくる本があるとしたら、その本を読み終わる日は来るのだろうか。
ボルヘスに、開くたび違うページが現れる「砂の本」という短篇があったのを思い出す。実は、どんな本も「砂の本」なのかもしれない。それにほら、余白に書き込みをすると、そのつど違うページになるのだしね。」(『マルジナリアでつかまえて』179ページ)
菅啓次郎さんの『本は読めないものだから心配するな』(ちくま文庫)を想起させる言葉です。「そのつど違うページになる」からこそ、「マルジナリア」が記された本や文章は、その読者にとってかけがえのない宝物であると言うこともできるでしょう。読み終えることができないからこそ、その本について、世界について、自分について深く知るためのプラットフォームになるのだと思います。
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