2013年11月3日日曜日

『思考のレッスン』⑬



 レッスン5の続きです。

219 アイロニーの受け取り方は、西洋と日本ではちょっと違うけれども、大事なのは、そこにはあるポエトリー ~ 詩とユーモアがごちゃごちゃになったようなある感覚、おもしろさ、それがアナロジーには必ず付きまとうということなんですね。
  この詩情、詩的感覚が、ものを考えるときに大切だと僕は思う。えてして人は、「思考」というと、なんだかぎくしゃくして、堅苦しくて、大真面目で、窮屈なものだと思いがちです。論理学の教科書なんかを連想したりしてね。しかし、詩と論理とは不思議な形で一致する。というよりも、詩と論理が互いに排斥しあうものだというのは昔気質な思い込みで、新しい詩学では論理を尊ぶ。
  人間がものを考えるときには、詩が付きまとう。ユーモア、アイロニー、軽み、あるいはさらに極端に言えば、滑稽感さえ付きまとう。そういう風情を見落としてしまったとき、人間の考え方は堅苦しく重苦しくなって、運動神経の楽しさを失い、ぎごちなくなるんですね。
  つまり遊び心がなくちゃいけない。でも、これは当たり前ですよね。人間にとっての最高の遊びは、ものを考えることなんですから。

220 立てた仮説がもっと大きい枠組みの中で大丈夫かどうかを確かめることも大切です。細部も大事だけれど、大局観も大事なのね。
222 バロックは、歪んだ真珠。球形になれずに歪んだ、という意味。
    歌舞伎は動詞で「かぶく」の連用形による名詞形。この「かぶく」は傾く、常軌を逸する、人目に立つ異様ななりをする。どちらも生命力の過剰ですね。

  バロック演劇が、イエズス会演劇を通して、歌舞伎とつながっている、という仮説
223 歌舞伎をわりによく見るようになったころから、この演劇形式はどこからきたのか、不思議だなあと気にしていたもの。昭和41年ごろから。30何年前。
あれはつまり、日本とは何かという謎の一つのあらわれでしたね。そして、日本とは何かという謎は、結局のところ、自分とは何かという謎につながるんですよ。 ← 司馬さんも

 レッスン5は、ここまでです。 次回からは、最後のレッスン6です。

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