2013年9月27日金曜日

理解できない?(のが魅力な)絵本

 前回のRWWW便りを読みつつ、私も絵本について少し書きたくなりました。
 先日のRWWWの授業では Beware of the Frog という絵本の読み聞かせをしました。この本は、『かえるごようじん』(ウィリアム・ビー著、セーラー出版)という題で邦訳が出ています。

 同じような出来事の繰り返しが3回続きますから、2回目のあとに「次を予想する」のは簡単です。しかし、そこからの後の展開はかなり予想外です。

 同じ著者の Whatever という絵本も、時々、授業で使います。この本の邦訳は、『だから?』(ウィリアム・ビー著、セーラー出版)です。

 この本も、繰り返しが崩れたあとの展開は、見事に予想外です。 読み聞かせをする私の側も、あっと言う学習者の反応が楽しみに? 読んでいます。

 とはいえ、最後のページをめくったあと、あまりの予想外の展開が理解できなくて、単純に予想を裏切られたことを楽しめばよいのか、ちょっと考えてしまいます。

 印象に強く残る理由のひとつが、すとんと理解できないというか、ヘンに「これが正解です」というのが見えてこないところなのかなとも思います。

 ウィリアム・ビーの絵本は、おそらく好き嫌いが分かれるとは思いますが、理解できない? 魅力というのも、あるような気がします。

 「理解できない」といえば、私には、「これは、私がよく分からない本です。だから、読み終わったら教えてね」と言って、学習者に渡す本が何冊かあることに気づきました。本当に理解できないので、他の人の解釈が聞きたいのです。

 例えば、アンソニー・ブラウン★の Zoo. この本の邦訳は『どうぶつえん』(アンソニー・ブラウン著、平凡社)です。また、同じ著者の Voices in the Park もそうです。こちらも邦訳があって、『こうえんで・・・4つのお話』(アンソニー・ブラウン著、評論社)です。

 渡すと、だいたい、一生懸命読んで、教えてくれるので、少しずつ解釈も重層的になってきて、助かっています。自分的には、この2冊が理解できるまでには、あと一息かなと思っています。

 RWの教室では、理解できない?(のが魅力な)本も、しっかり、その居場所がある、そんな気がします。

*****

★ アンソニー・ブラウンは、毎年の学習者に、コンスタントに人気のある作家の一人です。邦訳もたくさん出ています。はずれの少ない作家で、私も大好きです。
 
ちなみにこの作家で私がベスト5を選ぶ(5冊に絞るのはかなり困難)とすると以下ですが、みなさんはいかがですか? 

Willy’s Pictures(『ウィリーの絵』)
Willy and Hugh (『ウィリーとともだち』)
My Mum (『うちのママってすてきなの』)
Little Beauty(『ゴリオとヒメちゃん』)
Gorilla(『すきですゴリラ』)





2013年9月20日金曜日

骨のある絵本

 タイトルは、『ネス湖のネッシー大あばれ』。
 書いた人は、テッド・ヒューズ。
 訳した人は、丸谷才一。

 骨のあるのは、描かれている絵やストーリーではなくて、訳者による作者の紹介と、表記の説明です。(その意味では、タイトルは間違っているかもしれません。)

 テッド・ヒューズは、有名な詩人であること、その代表作のいくつかを含めた作者について、訳者の丸谷さんが、延々と5ページも(字が小さいので、普通の本なら9ページに渡って)紹介されているのです。絵本についての解説は、残り9分の4ページです。

 普通に絵本を読んできて、この解説を見たときはビックリしました。
 訳者の思い入れが伝わってきたからです。
 (普通、作者および絵本の解説のページはあったとしても、1ページがいいところではないでしょうか?)

 そして、さらに「表記の説明」のページも2ページ(普通の本の分量だと3ページ分)あります。普通は、こんなページはありません!!

 以下のような文章で始まります。
 この絵本は表記はいまの日本の普通の絵本の表記と違ひます。真向から対立してゐる。その主な違ひは次の三点といふことになるでせう。
 
(1)    歴史的づかひを採用してゐる。(「假」を打ち出すのに苦労しました!)
(2)    漢字をちつとも遠慮しないで使ふ。
(3)    分ち書きをおこなはない。

 と、ここまで読んで、絵本を見返してみると、確かに漢字と「づかひ」だらけでした。
 大人の私が読んだときは、漢字に違和感はありませんでしたが(単に、鈍感なだけ!!)、確かに子どもたちが見たら、犬猿するかも、と思いました。ルビはついていますが、難しい漢字だらけなのですから。(でも、本当はどうなのでしょう? ぜひ小学校1年生や2年生にこの絵本を見せて、どういう反応をするか確かめて、教えてください。小学館も、もしそうならば、最初から出版していないと思うのですが・・・)

 そして、いまの日本の絵本はみな、上の逆のことをしている、と指摘しています。「絵本の文章はかう書くものと、みんなが思ひ込んでゐるやうです」と続きます。さらには、「絵本の表記を漠然としかしじつに強固に支配してゐる文部省の国語政策が悪いのだと考へてゐる」とまで。
 以下、上記の3点についての説明が、3分の2ページ続きます。

 最後に、以上は『猫と悪魔』につけたあとがきの再録です、と断ったうえで、一つ加えています。それは、日本語は横書きはおかしい、ということです。本書も、便宜的な処置としてしかたなく左横書を使ったが、それは「積極的にみとめてゐるわけでは決してない」と釘を刺してくれています。

 という意味で「骨のある」絵本と思った次第です。

 ウ~ン、絵本について考えさせられました。
 そして、表記の仕方(というか、文章の書き方)についても。

 こんな絵本に出会ったことは、はじめてでした。


追伸: あのアイルランドの有名な作家ジェイムズ・ジョイスの唯一(?)の絵本『猫と悪魔』は、丸谷才一訳(小学館)と、もう一冊、安藤元雄訳(文化出版局)があります。図書館で借りて読み比べてみて、どちらがいいと思ったか、ぜひ教えてください。

2013年9月13日金曜日

詩を拷問する

   <略>

        しかし読者がしたがるのは
       ロープでイスに詩を縛りつけて
        告白させようと拷問すること

        ホースで詩をたたき
        本当に意味しているものを見つけようとする

 上に引用したのは、ビリー・コリンズ(Billy Collins)という詩人が、「詩とは」という題名の詩で書いている、最後の5行です。★

 上のような読み方は、「詩は難しい」という概念を植え付けてしまう(その結果、詩嫌いを増やしてしまう?)ようにも思います。

 こんな詩を書くビリー・コリンズの詩は、拷問しなくても、すっと感じるものがある詩が多いです。

 英語ですが、彼がインターネット上で自分の詩を読みあげているのを見つけました。
 
http://www.poets.org/viewmedia.php/prmMID/19754

 題名がForgetfulness。題名どおり、どんどん忘れてしまうことがユーモアたっぷりに書かれています。ユーモアで引きつける中でも、考えさせてくれるポイントもあります。
(最初にこの詩の説明を少しして、そのあと詩自体を読み上げて、それら全部で3分弱です。)

 RWやWWに関わる前は、詩とも接点のなかった私なので、まだまだ読んでいる詩はわずかですが、それでも、気になる詩人、もっと読みたい詩人がでてきました。ビリー・コリンズもその一人です。

 もっと読んでみたいと思える詩人が見つかるのもRWに関われる幸せの一つかもしれません。

*****

★「詩とは」という詩全体は『ビリー・コリンズ詩選集 エミリー・ディキンスンの着衣を剥ぐ』(小泉純一訳、国文社、2005年)という本の42-43ページにあります。またこの詩の原題はIntroduction to Poetryで、その全文は以下でで読むことができます。

2013年9月6日金曜日

『詩ってなんだろう』

 執筆パートナーは、数年前から「詩・大好き人間」になっていますが、私のほうは英語でも、日本語でも詩はダメが続いています。俳句も半年ほど(ほぼ毎日)続けましたが、3.11で止まってしまいました(解放されました?)。

 上記のタイトルは、谷川俊太郎さんが、学校で教えられる詩の扱われ方に疑問を感じて編んだ本です。

 たくさんの種類の詩が紹介されています。

 難しいのは、ありません(と言い切れると思います)。

 これなら、理解でき、かつ自分にも書けそうかな、と思えるぐらい。

 たとえば、

     蛇  (←タイトル)

     長すぎる。 (←本文)

 これだけです。(ルナール/岸田国士訳)

 谷川さんは、わらべうたも、いろはうたも、いろはかるたも、ことわざも、なぞなぞも、しりとりも、つみあげうたも、詩と捉えています。

 まだ、詩を好きになれなかったり、うまく書けないと思っても、少しはおもしろい/楽しめるかも、と思える本です。

 そのためにも、解釈は絶対に押し付けない。
 詩は、受け取る者/読む者の自由、とどこかに書いてあった記憶があります。(でも、探しても見つかりませんでした。)

 教科書(どこの誰だかわからない人が「これがいい」と決めたもの。しかも、その短い詩に延々と5時間とか6時間をかけるの)ではなくて、この本を使って(プラス、教師が好きな詩や、年齢にあった他のたくさんの詩集から個々人が選べる形で)詩の授業をしてくれていたら、自分の人生の中に詩の入り込む余地がもっと多かった気がします。いまからでも遅くない?!

★ ぜひ、あなたの好きな詩や詩集を教えてください。下のコメント欄かpro.workshop@gmail.com宛でお願いします。

 私が最近発見した中で、この本に載っているのではありませんが、

わたしは亀よ、せむしじゃないわ、
わたしは亀よ、成金じゃないわ、
わたしは亀よ、ペシミストじゃないわ。
どう? じゃない? 
(ロベール・デスノス、二宮フサ訳、『私の好きな孤独』長田弘著、14ページ)

が気に入っています。詩集では、谷川さんと川崎洋さんが編訳した『木はえらい』です。

2013年8月30日金曜日

観察 → 時間+話し合い

 16日に観察について書いた後に、以下の文章を付け足しました。

 さらに言えば、モータリーゼーション等の社会のスピード化が物事を見えなくしている(=孤独な思索と観察をさせなくしている)原因にもなっているようです。これは、まずいですね。
 社会自体がおかしくなっていくのが、うなずけてしまいます。(うなずくだけでは、それこそまずいのですが!!)

 WWとRWには、時間をゆっくりにして考える効果が確実にあります。
 このブログの初回に書き込んだ「WWが成功する要因」を、もう一度読んでみてください。
 その意味では、WWやRWはいまの社会の動きに逆らうアプローチです。
 教科書単元をこなしたり、ブツギリの言語活動をやったりするアプローチと違って。そして、ほとんど何も明らかにすることのないテストと。これらは、社会の忙しさとセットになっていると思います。その準備をしているというか。

 いま翻訳している本(仮題『理解するってどういうこと?』)でも、その時間をかけないことが理解の妨げになっていることが指摘されています。
 ゆっくり時間をかけて、観察すること、聞くこと、思いふけること(書いていない/見えていない/聞こえていないことまで、自分の頭の中で考えること)が理解には欠かせないことが。

 時間をかけることと同じレベルで、通常の授業で欠落しているのが話し合うことです。教師が一人でがんばって話し続けているのですから、生徒同士が考えていること(書いたこと、読んだこと)を話し合うことを、奪い去っているだけです。どちらにより価値があるかといったら、確実に後者の生徒たちが話し合うほうです。

 その時間を確保するためには、時間が必要ですし、そのためには教師の話す時間を短縮するという関係にあります。教師が教えたこと(話したこと)イコール生徒たちが学ぶことではないことを思い出してください。
聞いたことは、10%しか残りません。それに対して、話し合ったことは40%です。教えあった時は、なんと90%残ります。(出典:『効果10倍の教える技術』PHP新書、27ページ)
 どうせ時間を費やすなら、残る量が多いほうをした方がいいことは明らかです。そのためには、教師は話さず、生徒たちにこそ話させた方が誰にとってもいいでしょう(もちろん、価値のあることを話し合わなければ意味はありませんが)。


    <メルマガからの続き>


 実際に、観察したり、書いたり、読んだり、考えたりする(=体験を通して学ぶ)ことで残るのは、80%と言われています。(出典:同上)
 それは、自分が理解するために、主体的な努力をしているからです。
 聞かされたり(10%)や見せられたり(15%)のレベルではなく。

 とてもきれいなパワーポイント・プレゼンテーションが残らないのも、この数字で明らかだと思います。その時は、「すばらしいプレゼン」と思っても、残らない体験をお持ちではありませんか?(効果的なプレゼンに関心のある方は、ぜひ『最高のプレゼンテーション』をご覧ください。ちなみに、授業はプレゼンテーションです。)

 一般的に、教師が話した方が(教えてしまった方が)効果的という間違った捉え方がずっとされているので ~ これは、いったいどこではじまったのでしょうか? 大学の講義? ~ 習慣として、教師のみががんばる一斉授業が延々と続いています。

 話したくなったときは、ぜひ、聞かせたときは10%しか残らず、子どもたちに話させたときは40%残り、体験したときは80%、教えさせたときは90%残ることを思い出して、自分の話す時間を最小限にとどめてください。そうすることによってしか、子どもたちの学びや理解を促進することができませんから。

2013年8月23日金曜日

RW と WWを説明するには?

  RWとWWが、短時間で、うまく説明できなくて困っています。

  特に、RWにもWWにも特に興味がなく、しかも実践しやすい環境にいるとは思えない人に対して、RWは説明がしにくいです。

  皆さんでしたら、どう説明されますか? 接点のまったくない中で、「書く題材、読む題材の選択が大切です」と言っても、「はあ?」だと思います。特にRWは、本もそろっていない中でそんなことを言われても、しらけてしまうと思います。

「ミニ・レッスン → ひたすら読む(書く)時間 →共有の時間」という1時間の流れの枠組みも従来の時間の使い方と大きく違うし、「教師の役割」、「カンファランス」、「評価」なども、先生によっては、180度考え方を変える必要のある異次元の世界かもしれません。

  どこから何をどう説明すれば、もしかすると接点を見出してもらえるものがあるのだろうか? とも考えます。

  なかなかうまくいかない中で、自分なりに現時点で整理できてきたことは、次の三つです。

 1)私たちが、本当に読むとき、本当に書くときに行っているプロセスをしっかり自覚して、それが授業でできるようにする。そのために、モデルを示したり、段階を追ってできるようにしたりする。

→ そのプロセスをできるだけ体験してもらう。

 2)RWやWWは、子どもたちが、上のようなプロセスを行えるような環境のなかで、その行っている過程で関わって教えることでもある。

 3)教師が選択したものの中での選択。

→ これは注意しないと、RWやWWの力を損なってしまう可能性もあります。自分で選んだ(読む・書く)題材だから、時間もエネルギーもかけたいと思えます。また、いろいろな可能性をもっている子どもたちを、教師の枠だけに押し込めるのは、子どもに失礼かもしれません。

  しかし、特に、最初の段階は、教師が厳選したものの中から、子どもたちが選ぶことにも価値があると思います。

  いつも教師が選択したものの中からだと、自転車を補助輪つきで乗っているようなものですから、もちろん、補助輪を外していくことを意識することは極めて大切です。

  みなさんでしたら、RWやWWは、どのように説明されますか? 興味のない先生には、どのあたりに接点になるかもしれない点、興味を持ってもらえるかもしれない点があると思われますか?

2013年8月16日金曜日

観察

 WWとRWの教師は、観察をとても大切にしています。
 書き手にも、観察は不可欠です。 読み手にとっては?

 その観察がらみで、2冊のおもしろい本を読んだので紹介します。

 1冊目は、『ピーター・ラビットの野帳(フィールドノート)』
 本は、ピーター・ラビットの作者のビアトリクス・ポターが残したフィールドノートを紹介した本です。(彼女は、時代が違えば、生物学者=植物学者になっていてもおかしくない人でした! というか、下でわかるように普通の郵便配達夫が植物学者だった時代に彼女は生きていたのかもしれません。)

「訳者まえがき」には、「細密で、美しく、描くことの才能に満ちた作品群であった。美しい細密画は、正しくすぐれた観察眼なくして成立し得ない。観察眼は見るだけの力ではない、解釈し、理解する力を伴わなければならない」と書いてありました。

 そして、「解説」には、「彼女に限らず、実際に自然を観察するナチュラリストたちは、じっくり時間をかけ、観察することで、疑問を抱き、その解答を得ようと観察を続ける。不思議は不思議を生むのである。そして観察は、小さいけれども答えをほのめかしてくれる。これは実際に観察を行い、実験を繰り返したものでなければわからない喜びであろう。そこには専門家とか、身分とか、男女だとか、貧富の差だとかは関係がない。あるのは観察する力、不思議を抱く好奇心、じっくり結果を考える時間、結果からさらに新たな方向を推察する力、そして自然の歩みのゆっくりさに耐えられる忍耐力を持っていることである」とあります。まさに、探究のサイクルを回し続けている、といえないでしょうか。

 さらに、ポターは日記をつけていたのですが、その中には以下のような一節が書かれていたそうです。ちなみに、郵便配達夫のチャールズ・マッキントッシュが、彼女のキノコ観察の先生でした。「(チャールズの)後任の郵便配達夫は三輪車を持っていたので(チャールズのように歩き続け)足を痛くすることはなかったかもしれないが、近代生活や便利な機械というものは、個性とか自然誌研究には縁のないものだ。スコットランドの田舎の郵便配達夫といえば、ほとんど例外なく何らかの学問に優れている。たぶん、それは長時間にわたる孤独な思索と観察がもたらした結果なのだろう」(本書、196ページ)

 物事を見る力があることが伝わってきますね!
 さらに言えば、モータリーゼーション等の社会のスピード化が物事を見えなくしている(=孤独な思索と観察をさせなくしている)原因にもなっているようです。これは、まずいですね。
 社会自体がおかしくなっていくのが、うなずけてしまいます。(うなずくだけでは、それこそまずいのですが!!)

 もう一冊は、イタリア人のデザイナー、ブルーノ・ムナーリの『木をかこう』です。こちらは、図工・美術の方により適しているかもしれませんが、見方によっては、観察の大切さも教えてくれる本です。同じシリーズで『太陽をかこう』もあります。
 「たかが木(太陽)ですが、されど木(太陽)」です。
 そして、これが他のいろいろなものに適応できることに気づけたら・・・


大切なおまけ
     「見ること」と「観察すること」の違いは?
     観察する時にしていることをリストアップしてみてください。
     書く時、描く時、考える時には、観察することは欠かせないと思います。それら以外で観察することが欠かせない時は?
     少なくとも、教える時は必ず使いますね。でも、従来の作文指導や読解指導の時に使う「観察」と、WWやRWの時に使う「観察」とは質と量の両面で大分違います。その結果がもたらすものは?